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(回答先: 半角カナでフォフォフォを後につけるともっといいです。(本文当然なし) 投稿者 深窓の令嬢 日時 2004 年 7 月 21 日 17:27:29)
バルタンさん、はじめまして。
鶴見俊輔が日本へ帰国した理由は、バルタンさんがお考えのこととは、ちょっと違うようにおもいましたんで。
何冊か、本をひっくり返しては、これでもない。網野善彦との対談集「歴史の話」に出とったんちゃうかと、全ページ探したけど、のってませんでした。でも確かに、米国に亡命せず、日本に帰国した理由を話していたような。
で、ありました。つい最近読んでいた、浅羽通明さんの「アナーキズム」(ちくま新書)でした。記憶力が悪いんで、ほんま苦労しますわ。
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日米戦争が勃発した1941年、19歳の鶴見俊輔は、ハーバード大学でプラグマティズム哲学を学ぶ留学生としてアメリカにいた。
開戦の翌年、在米日本人と在日米人とが中立国スウェーデンの船で相互送還されるにいたったとき、鶴見はこの交換船で帰国するか、アメリカに居残るかという二者択一の選択を迫られる。
結局、鶴見は経済学者都留重人らと共に帰国を選ぶ。ちなみにこの時、心理学者南博は在留を選んだ。絵本作家八島太郎(岩松淳)夫妻のように在留したのみならず、戦後もアメリカに定住する生き方を選択した人々もいた(宇佐美承「さよなら日本」晶文社、1981年、参照)
インタビュー形式の自伝『期待と回想』(晶文社、1997年)で鶴見は、この時とどまっていれば、今頃はアメリカの大学教授になっていたんじゃないかと語っている。
若き鶴見俊輔は、なぜ帰国を選択したか。その背景はかなり特異であり興味深い。
自身の回想に従えば、鶴見は当時、日本の敗北を確信していた。戦争目的についても、アメリカの方がより正義だと考えていた。それでは、帰国という選択は、要するに日本への何らかの祖国愛だろうと当然考えられる。
だが、どうやらそうではないらしいのだ。
(第八章 さよなら日本、さよなら世間―コスモポリタンより)
『期待と回想』によれば、若き鶴見にとって、母国日本も、正義においてやや勝るアメリカも、いずれも帝国主義戦争の当事者に他ならず、加担したくない悪しきものだった。
そして、その悪しき二者からどちらかを選べと迫られた時、日本を選んだ心情を
「アメリカが日本をさんざん蹴散らして、その後、英語をしゃべって、のこのこ日本に帰って自分が耐えれられないんだ。」
と鶴見は語る。それは「同胞に対する一種の負い目、裏切り」の意識か?とのインタビューアーの突っ込みに対して、鶴見ははっきり違うと答えている。
ともに悪しき国家である日米をまえにして、より弱そうな方、負けそうな方を選んだ・・・。どうやらそういう判断だったらしい。