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(回答先: やっぱりお詳しいですね 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 4 月 29 日 12:50:41)
なにやら、あっしら氏というのは、実はスーパーコンピュータのような気もしてきたぞ。この人、本当に実在するのかしらね。まあ、A=Bというと、「投稿禁止」「削除」と条件反射的にいわなくなっただけでも長足の進歩だろうね。(こちとらは、この程度の”教育”をするのに、これだけ、手間がかかったので少しうんざりだが)。
さて本論。珍しく、旅先(パリ)にブックPCを持参してきたこともあり、オペラ座近くの「ネッカ」から走稿します。パリはロンドンに比べ、ネッカはずっと少ないようで、やはりフランス人の「デジタル嫌い」がうかがえます。絵画、音楽と仏が世界に誇る文化はいずれも「アナログ」だもんね。しかも、バリのネッカの3分の1は日本人経営。だから日本語対応のPCばかりで、客も家族にメッセージを送るツアー客、次の訪問先のデータを調べているバックパッカー。ビジネスマン(欧米の駐在員には、ゴールデンウィークは関係ないからね)と半分以上が日本人。
おっとまた、蛇足が長くなった。
前回、紹介した本のタイトルは「群衆の悪魔」でした。
まず、質問へのお弁じ。シモーヌ・ヴェイユは、サルトルも感心した「生真面目勉強好き少女」でしたが、エゾテリックな体質は十二分にあったようです。ただし、「カミが存在しないと考えながら祈ること」という有名なセリフには、むしろニヒリズムがかんじられます。「カニマーゾフ」の大審問官や、キリストの最後の言葉「主よ、主よ、などてわれを見捨てたもう」のような感じです。若死にしたヴェイユですが、グノーシスやカタリ派の本はかなり読んでいます。
さて今回の本題は「ヘーゲル主義」の超克について。「観念の自己運動」による、「他者喪失」(つまり、相対化の契機不在)という欠陥を克服するための努力としては、ひとつはポストモダン派、特にデリダらによる「ずらし手法」があります。専門的には「脱構築」と呼ばれるこの手法は、壮大ではあるが、「ひとりよがり」の体系(「精神現象学」など)が構築されないような叙述をしよう、というものです。デリダらのわかりにくく、やたら、ワンセンテンスが長い文体は、この考えに沿った意図的なものですが、一読してなにがいいたいのか分りません。それを狙っているのですから、当然ですが。前東大総長の蓮実重彦氏の文体もそうです。これで、ヘーゲルを超えられたのかどうか、は分りませんが。結論を出さないように文章を書くというのは、強烈な逆説ですから。仏教のように、むしろ「無」とか「無為」を強調した方がいいのかも知れません。なにも考えなければ、「観念の自己運動」はおきないわけですから。
もうひとつは、グノーシス主義にも通ずる「生成」という概念の重視です。グノーシスはデミウルゴスから、あふれ出したものが「この世界」と考えます。つまり、観念と実体の「二元論」の否定です。エマニュエル・レヴィナスや、日本では「自称現象学者」の竹田青し氏がこういう考えです。笠井氏は竹田氏と一時、親しかったので、影響を受けていると思いますが、この「生成」という考えは、採用していません。竹田氏はニーチェの著作もこの「生成」の視点でよみなおしています。結論より「過程(プロセス)」重視の考え方ですが、こういう考え方でヘーゲル主義が超えられるのかどうか、も良く分りません。
ものを考える、ということが、なんらかの「結論」を得る、ことを目指すのは、ある意味、自然で、陰謀論でもそうです。結論のない陰謀論はそもそも陰謀論にもなりませんが、あっしら氏批判でも言っているように、演繹法では「ひとりよがり」を相対化、客体化することはできません。「アクロバティックなロジックの展開能力」さえあれば、どんな結論、いわゆる「とんでも論」も導けます。ここは、非常に難しい「思想のアポリア」でしょう。以下は次回に。