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(回答先: 「近代人になった女性」の危険性と次世代再生産(あっしら様へ) 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 12 日 11:48:51)
律さん、レスありがとうございます。
「引きとめ工作」のかいがあったと喜んでいます。
“力不足はお互いさま”です。(自分に力があると錯誤でも思っていれば、こういう書き込み活動ではなく、思いを現実化する活動に一人で取り組みます(笑))
【律さん】
「本当にこれらの「右翼的」動きには、「危険」はないのでしょうか?
擬似的な(?)右翼的動向が、「世界支配層」の強化、一般のひとびとのますますの奴隷化を促進するために行われているものだとすれば、理念主義者である「左翼」の働きと変わらないとも言えるのではないですか?」
最初に答えてしまうと、属国という現実を受け容れそれに利があると考えている支配層の動きは、どんな形容句が用いられていようとも、国家主義や民族主義の表現である「右翼思想」はなく、心情的国際主義者である「左翼」ともども、“彼ら”の世界支配強化を側面から支える極めて危険なものです。
問題にしているのは、動きそのものではなく、それを“右翼的動き”と評価することです。
現在の“右翼的動き”は、政治的支配の強化や軍事的活動の活発化を見てのものだと推測しますが、そのような動きだけを取り上げて、右翼や左翼といった思想に結び付けることができないのは自明です。それなのに安易に右翼だファシズムだと言う“思考怠惰”を問題にしています。(政治的支配の強化や軍事的活動の活発化を問題と受け止め危惧しているからこそ、その動きの本質的な思想を見出さなければならないと思っています)
下世話に言ってしまえば、日本の政治的経済的支配層が、米国政権に象徴される世界支配層の利益よりも日本(国民総体)の利益を優先することはあり得ず、せいぜいが、世界支配層の利益のおこぼれをどれだけ自分たちが手にするかということしか頭にないということです。
日本の政治的動きやブッシュ政権を“右翼”的というのは褒め過ぎであり、現在の世界史的動きに対抗する一つの軸になり得る「右翼思想」(国民経済主義)を一緒にゴミ箱に捨ててしまうことにもつながりかねないものです。
それが錯誤や抽象的な価値意識を実体化したものであるとしても、国民国家や民族の“利益”を基礎に置いた「右翼思想」は、昨今の“右翼的動き”とは別物であるという理解が重要だと考えています。
国民国家や民族の“利益”と称して打ち出された政策が政治的経済的支配層の“利益”でしかないとしても、そこには、個々人が抽象された歴史的で総和的存在としての国家や民族があり、他の国家や民族にとんでもない災厄をもたらす政策も多々あったとはいえ、現実にも諸個人の利益につながるものでした。
そのような論理が有効な置かれていた条件や存在の与件だったわけです。
現在の“右翼的動き”は、国家主義や民族主義が形容句的言辞としては使われるとしても、ストレートに経済的支配層や政治的支配層を追求したもので、国家や民族の構成者である諸個人は吹っ飛んでしまっています。
国家主義や民族主義に親近感を抱く人たちさえ、形容句的言辞に騙されて、自分たちの価値観が実現される方向に向かっているのではないかと錯誤しています。そのようなレベルの右翼を右翼として認めることはできません。
個人的には国家や民族をなにがしの価値がある実体と考える“思想”を忌み嫌っていますが、諸個人が国家の枠内で生きている現実を考えれば、現実的な政治力(統合力や対外防衛力)を持っているのは国家の他にありません。
いやそうじゃなくて「世界の人々が力を合わせて」という論は、理想論とも言えない、“彼ら”に支配権限を譲り渡す犯罪的論なのです。
このような現実をきちんと考慮しないまま、国家をことさら言うのは恥ずかしいことだとか、民族なんていうのは気持ち悪いという価値観(美意識)がメインストリームであることは、“彼ら”の思想に取り込まれた異様なものだと思っています。
私が、家族や諸個人が実体であるとか、家族内の問題はそこで柱になっている人が覚悟をもって責任をとれというのは、そのようなことがきちんと踏まえられないまま国家主義的価値観が浮上すると、国家や民族にこそ価値実体があるといった忌むべき国家主義や民族主義に絡めとられると危惧しているからです。
国家はそこに属する人々の関係的活動を統合するための“機能”であると理解した上での国家主義でなければ、生身の諸個人は、国家という抽象的な価値への奉仕人の立場に堕してしまうことになります。
【律さん】
「また、「左右」のグローバリズムというのがいまいちわかりません。
グローバリズムという概念については、アメリカに代表されるような「資本市場を中心にした金融システムとそれに適合的な文化・生活スタイル をよしとする思考様式を浸透させようとする動き」という理解の仕方をしておりましたが、「左右」というのはどのような部分をさしておられるのでしょう?」
「近代経済システム」は、外部からの貨幣的富の流入拡大が国民経済の成長要因という意味で、根源的にグローバリズムを基礎としたものです。
しかし、第二次世界大戦までは、自国の経済権益と政治的支配の拡大を追求するもので、せいぜい、そのような動きを正当化するための言い訳として「文明を世界に広める」程度の言及でしかありませんでした。
戦後の米国覇権世界構造が、「近代経済システム」が明確に打ち出したグローバリズムの始まりだと考えています。
それに較べれば、左翼(マルクス主義)のほうが、国家の枠を超えた国際主義やコスモポリタニズムといった表現でのグローバリズムで先行していたと言えます。
グローバリズムが声高に語られ始めたのはソ連圏の崩壊以後であり、「世界の体制的対立」という“虚構”が消え「世界の統一性」が視野に入ってからです。
あまりにもバカバカしい空虚な説明だと思っている人も多いと思いますが、ブッシュ政権が口にしている「民主主義・人権・平等・自由」と言った価値観は、左翼の特徴的な価値観表明でもあります。
そして、左翼は伝統的に国際主義的価値観を持っています。
グローバリズムが誰の利益のためなのかは別として、「民主主義・人権・平等・自由」+国際主義という左翼的価値観との“親和性”は高いのです。
左翼は、せいぜいのところ勤労者や弱者を重視した政策を採るべきと言うところに違いがあるだけで、経済システムは「近代」の存続を可とする者が多数派を占めています。
経済システムは「近代」の存続を可とする限り、勤労者や弱者を重視した政策の“合理性”は「近代」の経済論理に規定されたものです。
“彼ら”だって支配の安定性は考慮しますから、身銭は切らないとしても、勤労者や弱者を重視した政策を採らないわけではありません。それが“彼ら”以外の「相互扶助」で実現されるのなら痛くも痒くもないわけで、国家の福祉政策としてそれを現実化するはずです。
このような「左右」の“親和性”が、「左右」のグローバリズムであり、左翼を“彼ら”の無自覚な補完勢力と呼ぶ所以です。
ブッシュ政権によるアフガニスタン侵攻やイラク侵攻も、左翼は、建前として語られている正当化理由に反対しているわけではなく、その実現手段である戦争を忌避したものと言えます。
(タリバン的支配やフセイン的支配は嫌悪すべきものであり、打倒されるべきものと考えていることではブッシュ政権と変わらない価値観を持っているのです)
ブッシュ政権ないしその後の米国政権が戦争志向であり続けるというのは、膨大な連邦政府債務を積み上げた米国を考えたとき、注視はしなければならないとしても現実的な判断だとは言えません。
「民主主義・人権・平等・自由」やグローバリズムを受け容れない国に対する軍事攻撃はあると考えていますが、そうでなければ、日本がその費用を負担してくれでもしない限り“公共事業”的意味合いでの戦争を選択しない方向にあると見ています。
戦争を必要としなくなった(経済的要因からできにくくなった)グローバリズム世界が現実化し、“彼ら”が“彼ら”以外の「相互扶助」で弱者救済を政策として実行したとき、現在のような価値観や世界観を基礎とする左翼がいかほどの存在意義を持ち続けることができる強い疑念を持っています。
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【律さん】
「それはまともなフェミニストであれば、誰でも気がついていることであり、すでに警告として発せされているはずです。本来、フェミニズムとは、常に自分を疑い続けなければ成り立たない立場であると思います。なので、フェミニズム思想を受け止めた結果の「女性の社会進出(この言葉自体が変だと思っているが)」であれば、「体制内の理念主義者」にはならないはずなのです(もし、そうなっている女性が多いのであれば、現代の「女性の社会進出」という状況はフェミニズム思想の成果じゃないのでしょう。フェミニズム思想・運動の影響があり、利用されたことは認めますが)。
しかし、実際には、キャリア志向の女性ほど男社会原理を「無批判に」受け入れてしまう傾向があるのかもしれません。キャリアを重視するがゆえに、男社会の中ではフェミニズムに対してアンチ的態度を取らなければならないということがあるようです(たとえば、朝日新聞の記者だった松井やよりさんの自伝(遺稿)によると、「フェミニスト」の視点で記事を書こうとするとデスクから没にされる。後輩の女性記者たちは「松井のようにはなるな」と教育される、というようなことがあったと)。
男社会の中で女性が成功するには、男より男らしくならねばならないというわけですね。」
フェミニズムの根底的な誤りは、その担い手の主力(大半)が生物的に男性であることから、「近代」や先行する歴史的社会を「男社会原理」だと捉えていることだと思っています。
生身の人の力に依存する割合が高い軍事力や強制力が支配の究極的支えであれば、その担い手の主力が男性になることはある意味で“自然”です。
(軍事の「近代化」は、その性差依存性を減少させる過程でもあります)
「近代経済システム」の論理や「支配―被支配の関係構造」が持つ“性差超越性”を理解しなければ、どういう性を持つ人がどういうポジションにいるという見えやすい事柄に引きずられて物事を判断し、「男社会原理」だから女が社会の様々のポジションを持つことでそれを突き崩すことができるとつい思ってしまうと思っています。
経済論理や支配の術を知っている者であれば生物学的性差は無関係で、誰が経営者であれ、誰が政治家であれ、誰が学者であれ、誰が官僚であっても構わないものだという理解が重要なのです。
「近代経済システム」の論理や「支配―被支配関係構造」が持つ“性差超越性”が生きている社会である限り、そこでなにがしかのポジションを得るということは、そのような論理や関係構造に沿った活動をしている可能性が大(ほとんどがそう)なのです。
側面的であれ、意図しない内実であり、「女性の社会進出」に果たしたフェミニズムの力は大きなものがあります。
半分は冗談ですが、家族(家庭)を守ることは女性の社会的役割であると叫び、それが十全にできるだけの稼ぎを夫に支払え、そのような役割を好ましいと思わない女性は「社会進出」してもいいという運動のほうが、“彼ら”に大きな打撃を与えたと思っています。
(フェミニズムは意図とは別に、“彼ら”に利用され、女性が「近代」と「支配―被支配関係構造」の論理に取り込まれる後押しをしたという理解です)
【律さん】
「あと、ついでにいうと、「近代人になった女性」はキャリア的に成功した女性ばかりじゃないと思いますよ。主婦として成功されている女性のうちの少なからぬ割合の人はいわゆる「男社会」の論理になにも疑いを持っておらず、その価値観によって子女を教育しているものと思われます。キャリア志向の女性のなかにそれらの人も含まれているのなら、蛇足でしたが。また、それは80年代後半から始まったことではなくて、おそらくその林真理子を受け入れる世代を育てていた「お母さん」たちから始まっていたことのように思います。
現代のように、子育てが相変わらず女性中心に行われている状態であれば、「近代人になった女性」が「危険」というのは、同意です。子育てしない「男性」が一人で「近代人」になっていたからといって、一代限りで終わりですけれども、子育てする「女性」が「近代人」になると、つぎつぎと再生産されていくわけですね。」
家族が「近代的経済システム」や「支配―被支配関係構造」に取り込まれたもの、それどころか、どのような国家社会であれ家族が基礎的実体ですから、家族の再生産にそれらが濃厚に浸透しています。
(支配層も家族の在り方や子どもの育ち方を重視し、家族のほうも自分たちやかわいい我が子が少しでもいい生活ができるためにはどうすればいいかを考えるという相互浸透により、家族の在り様が「国別の近代性」に規定されたものになる)
そして、それは、男性も子育てに参画することによって突破できるような問題ではありません。(子育てを通じて様々なことを感じたり知る意味は大きいと思っていますが、それが、現実規定性からの「自由」にはつながらない。下手をすると、それがストレスや経済的デメリットにつながる)
だからこそ、庶民の家族の自分たちやかわいい我が子が少しでもいい生活ができるようにと願う人たちは、「近代的経済システム」や「支配―被支配関係構造」を知り、どうすればもっと楽に心地よい日々をおくれるようになるのかを考えなければならないわけです。