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(回答先: 「家族」もまた国家に利用されてきたのでは? 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 15 日 08:24:34)
律さん、どうもです。
>気になることを三点。
>第一に、「家族」がそれこそ「国家」の下部組織として組み込まれ、利用されてきた
>という過去の事実です。それらの歴史的な事情を見るとき、家族もまた「リアルで生
>の存在様態である」だけではいられないものであろうと考えるからです。家族国家観
>などメタファーとしての「家族」が「実体」であるかのようになるうえに、「実体」
>としての家族がメタファーとしての「家族」にとらわれていくというような関係の中
>に取り込まれるのではないかということです。支配層の問題もありますが、それだけ
>ではなく、人間が社会的動物であるがゆえに、象徴を利用して物事を把握する生き物
>であるがゆえに。
家族に限らず、個人や企業も、「国家」の下部組織として組み込まれ、利用されてきたし、利用されています。
私は、現存の家族様態をそのまま維持すべきだと言っているわけではありません。
濃密な他者関係性を基礎とした生活基体である「家族」が、国家に代表される「支配−被支配関係構造」を解消する主体(他者関係的活動体)の基礎になると説明しています。
「家族」が社会の基礎的実体としてふさわしくないと言われるなら、「家族」に代わって変革の主体となり得るものを提示してください。
>第二に、「個人」であれ、「家族」であれ、語られた時点でそれは「客体化」される
>ものではないのでしょうか。言語を用いた認識、表現はそれそのものをかっきりと写
>し取ることはできないと思っています。
私(自分)を含めて考えるときは客体化せざるを得ませんが、それを客体的に語るか主体として語るかではまったく違ったものになります。
支配者や学者・知識人は、高みに立って現実(人々の関係的諸活動)を「客体化」する思考習慣があるから「カス」なのです。
>第三に、個人の主体性の基盤は家族だけでしょうか?個人が他者との関係性の中で作
>られているというのは同意します。しかし、だからこそ、「家族」だけが主体性の基
>盤であるというのもまた、「家族」を過度に評価することになり「危険」ではないで
>しょうか。家族関係性は確かに大事ですが、それは「家族」という概念を用いるより
>も、身体的接触性、身体的関係性というような、実際的に触れ合う人々との関係性と
>いう風に捉えたほうがより「リアル」に近づくのではないでしょうか。「家族」とい
>う概念の中には、さまざまな規範や制度やシステム、象徴、理想が入り込んでいます
>し、入り込みやすいものです。また、仮に家族だけが基盤ということになれば、バラ
>バラに「アトム化」された個人の状態とさして変わらないことにもなりかねません。
「家族」は、他者関係的活動体ですから、静態的なものではなく動態的なものです。
「実際的に触れ合う人々との関係性という風に捉えたほうがより「リアル」に近づく」については、近づかなくても、濃密な他者関係性である家族は他者関係性を理解する“生きた場”だと言っているのです。
家族関係性にある「規範や制度やシステム、象徴、理想」を保守しろと言っているわけではなく、家族形成者同士がそれらに感じる抑圧感や嫌悪感をまずは解決しろ、そして、それが家族では解決できないことであれば、その原因を探し出し、それを解決しろと言っているのです。
それが、幼児虐待などで説明した家族の主たる形成者である「親の覚悟」だという意味です。
>「単独家族」というのを「家族」にしてしまうというところが、ちょっと危うさを感
>じています。であれば、「家族」という言葉を使う意味はどこにあるのかと?
家族は、生活基体(形成者の生活の場)だから、複数であろうが個人であろうが「家族」だと思っています。
そういう意味で「単独家族」という言葉が使う意味があると考えています。
>「個人」が家族をはじめとする身の回りにある身近な、経験的に接する「他者」に
>よって構成されているという観点は、個人から直接的に世界につながるという意識と
>はちょっと違うと思っています。抽象的論理でなく、何を食っているか、何を着てい
>るか、どこに住んでいるのかというような直接的なものからのつながりの意識です。
>それは別に「家族」という概念を通さなくても語れるのではないかと。
世界とのつながりを遮断しても、「家族」があれば、生きていけるのだと認識をまず持つ必要があります。(個人では、人は生きていけないのです。ある年頃は生きていけるとしても...)
“彼ら”が、自分たちの利益のために、諸個人を世界に結び付けようとしてきた(している)だけなのです。
(それは、人々を足場のない世界に放り込み、“彼ら”の奴隷にしてしまい道です。アトム化した個人が、“彼ら”が世界化した制度や論理に抵抗できると思いますか?)
「家族」を基礎的実体にすることで、“彼ら”に取り込まれるかたちの世界化ではなく、諸個人が必要としたり望むかたちでの世界とのつながりが構築できるのです。
国家も、世界も、インターナショナリズムも、それ自体として良いものではないのです。
あなたがもし無思慮に個人は世界につながっていることが良いことだと考えているのなら、それだけで“彼ら”の無自覚ながらのエージェントなのです。