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(回答先: 「右翼」と「左翼」の違い 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 13 日 01:00:31)
律さん、どうもです。
まず、「家族」の問題についてその意図するところを説明させていただきます。
>だとしたら、やはり、「家族」を実体として捉える視点もやはり危ういものというこ
>にりますよね。「近代経済システム」「支配−被支配関係構造」を知った上でないと
>「家族」もただの再生産装置でしかないわけだから。
まず、「家族」を実体として捉える視点といっても、現在(近代)の「家族」の在り様を是認し強化しようと言っているわけでも、前近代の「家族」の在り様に回帰すべきと言っているわけではありません。
(政治家や官僚が家族云々を語るのは、まさに支配の安定化が目的であり、「家族」を支配の対象として客体視する考えから出ている口先だけのものです。律さんの「「家族」を実体として捉える視点」という表現にも、「家族」の客体視を感じています。「家族」というものは客体ではなく、諸個人の主体性の基盤であり、「家族」を形成するものとして個人は現実的な主体性があると考えています。)
近代的価値観の象徴でもある「個人主義」へのアンチ・テーゼとして、国家や社会といった抽象的概念的存在ではなく、リアルで生の生存様態である「家族」を打ち出していると解釈していただいたほうがご理解いただけるのではないかと思っています。
個人ではなく「家族」を社会の基礎実体と考えるのは、バラバラに“アトム化”された近代的個人ではなく、生まれながらの他者関係性という人の生存様態の根源に家族関係性を見出すことに大きな意味があると思っているからです。
「個人→国家社会→世界」の関係構造理解ではなく、「家族を形成する個人→国家社会→世界」という関係構造理解のなかに「近代」を突き崩す鍵があると考えています。
それは、個人のみならず経済主体(企業)までが貨幣経済の全面的開花のなかで、貨幣の力を崇拝する一方で拡大しつつ論理的に濃密になってきた他者関係性を“失念”しているからです。他者関係性理解の基礎は、個人の“非自立性”理解にあると思っています。
ある個人は、生物学的人としては自立的に存在するが、他者関係性なしにその人になることはないという絶対的事実です。
人の女性と男性から新しい人が生まれ、その両親から離れて養育されるとしても、人は他者から面倒をみてもらい働きかけを受けなければ、ある年頃まで生きていくこともできなければ、言語的思考(言語修得)もできません。
そして、ある期間は個人が「単独家族」を形成するとしても、再び異なる家族関係を取り結びます。(もちろん、「単独家族」のまま生涯を終えてもかまわないわけですが、それも「家族」です)
個人を基礎実体とする考えは、確かに、個々人には“魅力的”なものであっても、個人から他者関係性理解を希薄させる“危険な”ものだと思っています。
これまでの「近代」そして今後の近代世界は、国家がそれなりのショックアブソーバーの役割を果たすとは言え、「個人→世界」という関係(支配)構造に向かうと予測しています。
これは支配者論理としては至極当然なことで、確固たる他者関係性を意識している人々ではなく他者との絆を失った個人を、抽象的な価値観や論理で統御するほうが楽で安全だからです。
国家が存続するとしても、歴史的に醸成された帰属意識や連帯意識を過大に刺激して抵抗を生むといった無用な軋轢を避けるための手段として使われるはずです。(日本の政治的支配層の“愛国心”は、自己の支配を正当化する隠れ蓑であるとともに、このような世界化過程の緩衝材となっています。EUの統合過程も、この視点で見れば、世界化を既存の枠組を慎重に換骨奪胎しながら進めている“彼ら”が映し出されていることがわかります)
個人は、個人としては無力であり、他者関係性のなかで初めて力を発揮するという理解が重要です。そして、他者関係性も、見えやすく理解しやすい狭く濃密な関係性のほうが統御しやすくリアルな目的を実現する力もあります。
「個人→世界」という関係(支配)構造は、“彼ら”が提示する価値観や“彼ら”が制度的に作り出す論理に“アトム化”された諸個人を吸い寄せる“理想的”なかたちなのです。
個人主義とコスモポリタニズムが関係(支配)構造として現実化したとき、人々は、“彼ら”の奴隷になったことさえ無自覚であったり、たとえそれを自覚したとしても、“彼ら”に対抗する術や力をなかなか確立できなくなります。
(世界という“彼ら”の領域に対する防波堤になりうる国家が“彼ら”の差配で動くものあれば、防波堤を築くことさえ至難になります。そして、なんとかうまく防波堤を奪回したとしても、世界が敵になるという過酷な状況に置かれることになります)
見えやすく理解しやすい関係性の在り様を変えていくことの困難と、抽象的にしか理解できない関係性の在り様を変えていくことの困難は比較にならないのです。
そして、人々が濃密な関係性という基盤を失った個人を至高のものと錯誤したとき、「個人→世界」という関係(支配)構造に対抗する力も脆弱なものになります。
個人主義とコスモポリタニズムは、“彼ら”に支配力が生き延びている限り、極めて危険な価値観なのです。