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(回答先: 「左右」のグローバリズムとフェミニズムの根底的誤り 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 12 日 16:40:21)
あっしら様、ありがとうございます。
すみません。阿呆に付き合っていただいて。
ところで、私はもともと「左翼」「右翼」という概念について、いろんな立場からいろいろな言い方がなされているため、よくわからなかったのですが、今回、あっしら様のご回答を受けてますますよくわからなくなりました。
それで、辞書やらネット検索やらでいろいろ検討してみましたが、やっぱり混乱しております。
まず見かけるのは、
「右翼・・・黒い街宣車で大きな音楽を流しながら意味もなく走り回っている人たち。暴力団とつながっている場合が多い。
左翼・・・暴力によって共産主義を実現しようとする集団(戦前の共産党、中核派、赤軍派等)
でありどちらも反社会的集団(テロリスト)」
というような認識です。ちなみに、右翼も左翼もテロリストみたいな認識は手元にあった社会学事典の「右翼」の項目にもありますので、一応学術的な定義なのか?
あとは
「右翼=〔フランス革命における国民公会で議長席から見て右側に保守派のジロンド派が座ったことから〕保守的・国粋主義的な思想傾向。また、その立場に立つ人や団体。
左翼=〔フランス革命時、国民公会で急進派のジャコバン派が議長席から見て左側に座ったことから〕急進的・革命的な政治勢力や人物。ことに、社会主義的または共産主義的傾向の人や団体。」
保守と革新という対立ですね。
「右翼=人間の本質を悪だと考える(プラトン)
左翼=人間の本質を善だと考える(民衆の発想)」
「右翼=自由主義(リバータリアン)で国家から独立自尊主義
左翼=福祉国家で国家依存主義」
また、日本の右翼の人の少なからぬ人が元日本共産党ということで、右翼と左翼は「真理の独占者を気取り、「独善」、「高慢」がやたら鼻につくその精神構造が極似している」「極右と極左は案外と紙一重のお隣さん」
という意見もあり、ますますわけがわかりません。
もっともあっしら様の意見に近いのかと思われたのは、
「もともと、世界の流れの一方には,ユダヤ的な均一化,インターナショナル思想があります.それに対して,白人主義などの民族主義が出てきました.だから,片一方にインターナショナルがあり,それを踏まえた上での民族主義,それが本来の右翼というものだと思うんですよ」http://www.nsjap.com/kiji07.html
という意見なのですが、どうでしょうか?
あるいは「右翼=国粋主義者、左翼=世界市民」とか。
あっしら様の「右翼」「左翼」定義は
右翼=国家主義、民族主義(国家や民族の“利益”追求)
左翼=マルクス主義、心情的国際主義者、世界市民
という感じですよね。
あっしら様******************
問題にしているのは、動きそのものではなく、それを“右翼的動き”と評価することです。
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この点は了解しておりました。が、その背景には先の「右翼も左翼もテロリスト」のような発想(あっしら様がおっしゃっている「危険」とはまた違った意味での危険視)というのがあるかもしれず、
あっしら様***************
日本の政治的動きやブッシュ政権を“右翼”的というのは褒め過ぎであり、現在の世界史的動きに対抗する一つの軸になり得る「右翼思想」(国民経済主義)を一緒にゴミ箱に捨ててしまうことにもつながりかねないものです。
それが錯誤や抽象的な価値意識を実体化したものであるとしても、国民国家や民族の“利益”を基礎に置いた「右翼思想」は、昨今の“右翼的動き”とは別物であるという理解が重要だと考えています。
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という「右翼思想」理解とは、危険視されている「右翼」の中身が違うのかも知れないとも思います。同じ言葉を使っていても、ぜんぜん違った意味で使ってしまっている場合が多いという意味では「右翼」「左翼」という概念区分自体が怪しげなもののように思えます。
あっしら様****************
国民国家や民族の“利益”と称して打ち出された政策が政治的経済的支配層の“利益”でしかないとしても、そこには、個々人が抽象された歴史的で総和的存在としての国家や民族があり、他の国家や民族にとんでもない災厄をもたらす政策も多々あったとはいえ、現実にも諸個人の利益につながるものでした。
そのような論理が有効な置かれていた条件や存在の与件だったわけです。
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この点はちょっと良くわかりません。現在とは違うということなので、過去の話をされているのだろうと思いますが、どの国のどの時代のことを指しておられるのでしょうか。支配層の“利益“としてだされたのなら、やっぱりそれは支配層の”利益“であるのでは?どのような条件があれば、諸個人の”利益“にもつながっていくのでしょう。経済システムの問題でしょうか?
あっしら様***************
このような現実をきちんと考慮しないまま、国家をことさら言うのは恥ずかしいことだとか、民族なんていうのは気持ち悪いという価値観(美意識)がメインストリームであることは、“彼ら”の思想に取り込まれた異様なものだと思っています。
私が、家族や諸個人が実体であるとか、家族内の問題はそこで柱になっている人が覚悟をもって責任をとれというのは、そのようなことがきちんと踏まえられないまま国家主義的価値観が浮上すると、国家や民族にこそ価値実体があるといった忌むべき国家主義や民族主義に絡めとられると危惧しているからです。
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あほなので、わかるようでわかりません。いきなり「世界の利益」ということを個人個人が現実的に考えることは困難であり、そのようなことをいきなり考える思想に浸かってしまうと、「支配層」に利用されやすいので、「利益」の範囲を限定していく必要があるというのは、直感的にわかるような気がしますが、ご指摘のとおり「国家」「民族」にも同様な危険性はあるわけで、程度問題のようにも思えます。どんどんレベルを落としていくと、「家族」とか「個人」に落ちていくという。ラッキョウの皮むきみたいなものですか。
いや、もちろん、生きている生身の人間というのはいるので、最終的な核は残るのでしょうが、「家族」「個人」についても注意しないと、もしかして「あるべき家族」「あるべき人間」という思想に絡め取られて、結局「支配層」の都合の良い「人間」「家族」が作り上げられるということにもなりかねないのでは、というようなことをぼんやりと思ったもので。いかなる「覚悟」を「よし」とするか、というのもまた思想的な背景がありますよね。
あっしら様***************
グローバリズムが誰の利益のためなのかは別として、「民主主義・人権・平等・自由」+国際主義という左翼的価値観との“親和性”は高いのです。
左翼は、せいぜいのところ勤労者や弱者を重視した政策を採るべきと言うところに違いがあるだけで、経済システムは「近代」の存続を可とする者が多数派を占めています。
経済システムは「近代」の存続を可とする限り、勤労者や弱者を重視した政策の“合理性”は「近代」の経済論理に規定されたものです。
“彼ら”だって支配の安定性は考慮しますから、身銭は切らないとしても、勤労者や弱者を重視した政策を採らないわけではありません。それが“彼ら”以外の「相互扶助」で実現されるのなら痛くも痒くもないわけで、国家の福祉政策としてそれを現実化するはずです。
このような「左右」の“親和性”が、「左右」のグローバリズムであり、左翼を“彼ら”の無自覚な補完勢力と呼ぶ所以です。
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ここでの議論では、グローバリズム=右、なのですか?
つまり、「アメリカニズム」=国家主義ってことですか?
でも、それだと「アメリカの国家理念」がたまたま「民主主義・人権・平等・自由」だったわけで、これらの「左翼的」価値観をもっていることが「右翼」であるという変な理屈になりませんでしょうか?間違っていたらごめんなさい。
左翼のことは理解しましたが、右翼のことがよくわからなかったもので。
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あっしら様***************
フェミニズムの根底的な誤りは、その担い手の主力(大半)が生物的に男性であることから、「近代」や先行する歴史的社会を「男社会原理」だと捉えていることだと思っています。
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わたしも「男社会原理」という用語を使いましたが、これは一種のメタファーであり、生物学的なものを根拠としたものではないと考えています。ただし、誤解を与えるので、こういう用語は使わないほうがよいのではないかとも思います。「ジェンダー」を語るんであれば、できうる限り説明のための用語に「性」を前提とした概念は使うべきでないと思います。
先にも述べたように、生物学的性の配置が問題なのではなく、その権力構造の仕組み自体を焦点にするという観点が明らかにならなければならないということです。
しかし、「生身の人の力に依存する割合が高い軍事力や強制力が支配の究極的支えであれば、その担い手の主力が男性になることはある意味で“自然”です」という言明にはちょっと異議もあります。主力が男性になることは「自然」であっても、主力になる以上のさまざまな「意味づけ」「秩序」が男女の間に作り上げられているからです。それは「自然」とはいえない。
その点を問題視して、性差によっても作られている権力構造を明示化するために、「男社会」といったような概念を用いる必要もあったのかなとは思います。それが配置換えだけで社会が変わると思うようになってしまうのは、確かに楽観的なものの見方です(女性議員の増加というような数値は、とりあえずの努力目標としてはわかりやすくもあるのですが)。
理屈としては「性差超越性」が生きている社会であっても、「支配−被支配関係構造」のなかの配分・配置原理に「性差」による配分・配置原理が密接に関連していれば、結果としては不均衡な状態が生まれでるということです。家事・育児を女性のみがやらなきゃいけないという論理は、結果的に女性を学者や官僚にしにくくさせます。もちろん、その役割を女性が放棄(あるいは他者に委託)すれば、学者にでも官僚にでもなれるでしょうけれども(余計な罪悪感のおまけつきだったり)。
そもそも「女性の社会進出」って言葉自体がおかしいんですよね。女性だって子どもだってずっとながらく「社会」の一員だったわけですからね。もし、この世の生業が雇用労働を中心とするものになっていってしまったのなら、食い扶持を稼ぐために女性だって職業労働をしなければならないはずです(養い手を持たない女性はそうするしかないわけで)。食べていくための仕組みが変わったんだったら、どのような人でもある程度問題なく食べていけるような社会の仕組みが作られてもいいのにそうじゃなかったというのは、おかしいことだったと思います。そういう意味では、フェミニズムの主張は的を射たことだったと思っています(ただし、「男性」が敵になってしまったのは間違い)。
「次世代再生産」を含めた「再生産」機能を誰が担うか、という配分の問題にはやっぱり「性差」についての考慮ははずせないとは思っているのですけどね。
あっしら様*************
半分は冗談ですが、家族(家庭)を守ることは女性の社会的役割であると叫び、それが十全にできるだけの稼ぎを夫に支払え、そのような役割を好ましいと思わない女性は「社会進出」してもいいという運動のほうが、“彼ら”に大きな打撃を与えたと思っています。
(フェミニズムは意図とは別に、“彼ら”に利用され、女性が「近代」と「支配―被支配関係構造」の論理に取り込まれる後押しをしたという理解です)
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「家庭を守ることは女性の役割」と明言して運動するようなのは一種のフェミニズムだと思います。母性主義フェミニズム、差異派フェミニズムなどと呼ばれる立場もありますが、女性と男性は違うもんだということを極大化していくのもフェミニズム。同時に、女性と男性は基本的には同じなんだということを推し進めようとするのもフェミニズム。どちらにしても、結果として男性と女性は分離していくという結果に陥りやすい点では、「支配層」に利用されやすいものなのかもしれませんが。
括弧内の理解は、当たっているところがあるなと思います。でも、フェミニズムがなんだかんだいわなくても、きっともともと女性も取り込まれているものなんだと思いますがね。促進したということはいえるかもしれませんが。たとえば、市民運動の担い手として女性が活躍した説明として、「家庭にいる女性は企業に取り込まれておらず、何も失うものがないから自由な立場で発言できた」とか「女性の命をはぐくむという立場」などが強調されたりすることがありますが、結構「嘘」があるかなと思っています。家庭にいる女性のだれもがそんな風になれるわけではない。むしろ、「企業」に働く夫の稼ぎで生活している妻だって「企業」に取り込まれていると見たほうがわかりやすい。石牟礼道子が『苦海浄土』で、漁民の暴動の様子を描くときに、チッソの社員の妻が「やめてくれ、父ちゃんのボーナス減る」と叫んでいたというような記述をしていますが、そういう認識のほうが強いのではないでしょうか。市民運動の担い手とかそういうのを説明するときに単に「女性だから」とかいっちゃだめだろうと思っているんですけども。
あっしら様*************
家族が「近代的経済システム」や「支配―被支配関係構造」に取り込まれたもの、それどころか、どのような国家社会であれ家族が基礎的実体ですから、家族の再生産にそれらが濃厚に浸透しています。
(支配層も家族の在り方や子どもの育ち方を重視し、家族のほうも自分たちやかわいい我が子が少しでもいい生活ができるためにはどうすればいいかを考えるという相互浸透により、家族の在り様が「国別の近代性」に規定されたものになる)
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だとしたら、やはり、「家族」を実体として捉える視点もやはり危ういものということになりますよね。「近代経済システム」「支配−被支配関係構造」を知った上でないと「家族」もただの再生産装置でしかないわけだから。
あっしら様************
そして、それは、男性も子育てに参画することによって突破できるような問題ではありません。(子育てを通じて様々なことを感じたり知る意味は大きいと思っていますが、それが、現実規定性からの「自由」にはつながらない。下手をすると、それがストレスや経済的デメリットにつながる)
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私も、男性が家事やら子育てやらすればそれで済むとは思っていません。ただ、家事はやらないよりやったほうがいいと思います。子育てはやらなくても個人としては生きていけるけど、家事はある程度やらないと本来は生きていけない類の仕事のはずなので。
子育ても本来ならやったほうがいいでしょうが、現在においては特に男性にとっては個人の嗜好の問題になりつつあるようで。
それはともかくとして、私が問題にしたかったのは、なぜに「近代人になった女性」と、ことさらに「女性」を危険視するかです。現体制の思想への疑義をこれっぽっちも持っていないで「正義」としているのは、「よっぽどの上昇志向男性」でも同じなわけであり、あっしら様が問題にしているキャリア的に成功している女性はおそらく「よっぽどの上昇志向男性」なのです(成功している女性がそういう人ばっかりではないが)。これらの人の「危険性」は、無邪気に「正義」を言い募れるというところでは同じはずであり、特に「女性」を危険視する理由はどこにあるのか、ということを考えたときに、「次世代再生産」?とか思ったわけでしたが、そうでもなかったのでしょうか。
例によって阿呆全開ですが、お許しください。それではまた!