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オニオンさんの「抽象的な概念というのは?」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/578.html )へのレスです。
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オニオンさん、どうもです。
>抽象的な概念(民主主義・自由・人道・正義・平等・国家)が大地に根ざした(自然
>的、歴史的な)共同体に悪影響を与えるとお考えなのですか?また与えるとしたらど
>のような形になるのか、以前の「主ー客構造」(の虚構性)の話に絡めつつ教えてい
>ただけたら幸いです。
ここ阿修羅でも“悪影響”を如実に窺い知ることができます。
民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といった抽象的な概念が、それ自体として価値があるように崇められたり、国家や社会といったものがあたかも実体であるかのように取り扱われています。
それは、たとえば、アプリオリに「民主主義はすばらしい」と判断するような精神性です。
民主政は「近代」において相対的に望ましい政治体制だと思っていますが、それは、社会と国家が分離している現状の政治的統合形態として、また、我欲に囚われた支配層の横暴を微力でも抑制できる制度だからです。
「民主主義はすばらしい」と言えるのなら、「独裁政はすばらしい」とも言えます。
それこそ、哲人王が政治的統合の在り方を最終的に決定するほうが、政治的支配欲を持っていない多くの人々にとって格段に暮らしやすい社会になるということも推測できます。
哲人王が、人々から広く意見や政策提言を聞き、他者を害さないということを主要な基準として、ひとり一人ができるだけ自由に活動し楽しく平和に生きていける政策を選択(決定)し、その履行を公権力を使って保証するというものです。
(独裁政は決定権限の独裁であり、拘束力や強制力がない自由な意見表明や政策提言を認めるかどうかは別の話です)
民主主義は、人々が自分の利益になる政策を主張していると判断する政党に政策決定権を与えようとする動き(選挙)の結果として政権を取った政党が、政策を決定し、その履行を公権力を使って保証するというものです。
民主主義はこのようなものですから、自分と類似的な利害意識を持つ者たちが、違う利害意識を持つ者たちを害するかたちで利益を追求したり実現しても「悪」ではありません。
自分の利益になるという判断も刹那ないし短期の話であり、中長期では、自分に利になると思った政策が自分を害する政策になることもあります。
多数派を形成できるかどうかが問題であり、他者を害さないという前提はないわけですから、国策は、原理的に内実的な合理性は問われないことになります。
民主主義は、多数派が選択したということに価値や意義を見るもので、その代償として誤った政策が遂行されても仕方がないと割り切るものです。
(多数派は合理的判断をし少数派は不合理な判断をするという考えは、思い込みや願望を超えるものではありません)
民主主義一つをとってみても、常識化しているような「普遍的善」でもなければ「すばらしいもの」とも言えないことがわかります。
この種の捉え返しや“反省”をしないまま、民主主義・自由・人道・正義・平等といった概念(観念)を世界支配層の尻馬に乗って称揚する態度を「カス」だと思っています。
民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といった抽象的な概念が人々の意識に充満するのも、「近代」が基礎とする生存様式の在り方に照らせば当然と言えます。
前近代に生きた多くの人たちは、家族・共同体という目に見え言葉を交わす人たちとの関係性のなかで暮らし、歩いていける範囲の自然に働き掛けることで生存を維持していました。
このような生活形態では、民主主義・自由・人道・正義・平等は概念としてではなく、「オマエが勝手に共同農作業のスケジュールを決めるなよ」とか「オレんちの晩飯のメニューに口出しするなよ」とか「病気や怪我そして災害は誰にも襲ってくるものだから、それらで困っている人は助けたほうがいい(自分もそういうときは助けて欲しい)」とか「治水工事はみんなが恩恵を受けるのだから、田んぼの広さに応じて各家は働き手を出すべきだ」といった具体的な主張や判断であったはずです。
「近代」が確立し都市が拡大していくと、隣り合って生活しているひと同士でさえ生活手段を得る方法が違っているという状況も生まれます。密接な関係を持つ相手は、家族とお金を稼ぐために遠くからバラバラに寄り合う職場という“二重構造”が拡大します。
地理的に隣接しているけれど、その人と手を携えて何かをすることで生活がよくなるということが限定的なものになり、それさえも、お互いが話し合ってどうこうするというより、税金を納めて公的機関にやってもらったほうが合理的だと判断するようになります。
(ここから、国家(機構)がいろいろなことを為すべきだという意識は一直線です)
誰が造ったものなかを知らない財を数多く消費したり、誰が買うかも知らない財を生産して生きているのですから、遠く離れて生活している人たちとも関わりがあることやそのような人たちとある部分では共通利益があり別の部分では利害対立があることもなんとなくわかります。
このような貨幣を媒介とした他者関係性の抽象化と公的学校教育やメディアが、人々に、抽象的な概念(観念)による世界理解を要請(醸成)していることは確かです。
知らない人も多いけれど利害基盤が共通していると思われる人たちを、同じ“日本人”として意識するようになります。(そこから、国家や民族という抽象的存在に価値を見出すようになるのはほんのわずかな歩みです)
交易や往来が増加すれば、世界中の人たちを同じ“人間”として意識するようにもなります。(そこから、「世界は一家、人類皆兄弟」という観念やコスモポリタニズムまでもさほど距離はありません)
自然的歴史的な共同体は、このようにして、抽象的な関係性の総和としての「国家社会」や「世界」になっていきます。
それをリアルに支えているのが、何でも買える何でもできるお金という存在です。
抽象的な存在であるお金が人々の生の具体的な生活を維持する手段になっているのですから、人々が抽象的な観念に吸い寄せられるのは不思議なことではありません。
このような変化が、共同体(「国家社会」・「世界」)に関わる物事の判断から、具体的なものをボロボロと捨象させてしまうようになります。
そして、あまり内実を考えたこともない民主主義・自由・人道・正義・平等・国家といった概念(言葉)に、何か崇高な価値があったり問題解決の鍵があるかのような錯誤にも陥ります。
具体的でリアルな関係は家族や友人そして職場に限られ、学校や職場の関係性も利害対立的なもので、消費共同体となった家族においてもお金の配分をめぐる利害対立が忍び込んでいます。
(利害対立的関係性は「主−客構造」的認識につながるものです)
※ オニオンさんが提示された疑義からは少しズレていますが、やり取りを通じて収斂させていきたいと思っています。