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(回答先: 「この私」という言葉の意味を教えていただければ幸いです。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 7 月 08 日 17:40:29)
オニオンさん レスありがとうございます。 バルタンです。
>まず始めに民主制と独裁制の話についてですが、民主主義が独裁制に化けるということは聞きかじった
>程度の知識ですが一応存じております。
>この話で僕が一番興味深いのは、独裁制になったからと言って決して庶民の生活が苦しくなるわけでは
>ないことです。バルタンさんが出されたヒトラーの例でも、彼のおかげでどん底にあったドイツ人の生活
>が精神的にも経済的にも救われたのは事実だと思います。
民主主義が独裁制に化けるというより「矛盾しない」ということです。カール・シュミットという
ナチス左派の理論家の言ですが宮台信司氏もよく引用というか依拠しているシュミットの「現代議会主義の
精神史的位置」(みすず書房)は政治学の古典とも言うべきものです。要は欺瞞的な代議制(投票)より
大衆の喝采が民主主義の本懐であるということです。
戦後リベラルな人、宗教者、左翼は「ナチスという野蛮人が崇高なものを踏みにじった」という物語
を作って民主主義の「聖性」を守ったわけです。あっしらさんとのやりとりでも書きましたが
「まず、言説の闘いにおいて敗れたという押さえが重要」と思っています。
民主主義は本質的に植民地や戦争には反対できません、分配の問題ですから。戦前の日本で言えば
「朝鮮、中国はいずれ欧米列強の食い物にされるのだから、同じアジア人(日鮮同祖論)であり
兄のような日本が保護、教化したほうがよい、する義務がある」という大義名分がありました。
(石原慎太郎はいまでも同じことを言ってますが)遅れた国々に文明をもたらしたのだから、当然
それによって生じだ利益は日本がもらう権利があるが、それは国民に公平に分配すべきだ、また
日本が独占するのはよくないから朝鮮、中国の人々に「ある程度」分け与えるべきだ、というのが
いわゆる良心的な人々や左翼の主張であったわけです。
>ところで、バルタンさんの文にあった「唯一者=この私」とはどういったものなのでしょうか。
>もし教えていただけたら幸いです。
狭義の「唯一者」とはマックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」から来ています。
スティルネル名義の岩波文庫版もあるようですが、手元にあるのは現代思潮社版(1987)です。
いずれも入手は難しいかもしれません。シュティルナーはマルクスと同時代の人で、重大な影響
を与えたと思っています。
「この私」については
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/295.html
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1034.html
ですこし書きました。
空耳板の方を少し補足すると「主−客」と言ったとき「主」はある種の要約、平均、代表といったもの
を暗黙のうちに前提にしているわけです。カント的な「懐疑的方法」でいけば議論の中身に入る前に、
その概念自体が正しく定立しているか吟味しようとする、「それってどういうこと」と疑う、あるいは
疑うことを強いるのが「この私」です。「この私」は「私」という概念には回収できない、他との差異
においてしかありえない、差異を見出して行く中で、見出されるものです。
他人を理解するといういうことは「この私」との差異を見出していくことに他ならないわけです。
それは「この私」自身を理解することでもあると思います。
他人と「私」の共通項を発見して満足するのは「理解」することではありません。無根拠に信じている
だけです。
戦前の日本人は「顔が似ている、同じアジア人」という共通項に満足して、無根拠に同質性を信じた
わけです。中国にはいまだ孔子の子孫が現存しているし、韓国では最近まで同じ姓の家柄では結婚も
できなかったと聞いています。「上御一人」を除けば 三代遡ればどこの馬の骨だかわからない日本人
とはメンタリティ(アイデンティティに対する拘り)が違うわけです。それが欧米の植民地支配と同列に
語れない「ねじれ」を今に至るまで引きずっている要因ともなった訳ですが。
>余計な世話を焼きたがる連中は民主主義「教」の崇拝者が半分。もう半分は拝金主義者だと思いますよ。
拝金主義者にとって「民主主義」が便利なものだとも考えられますね。