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(回答先: 抽象論は地に足着かぬ”空論”。されど”蘇る”可能性を秘めている。、、では伝統は? 投稿者 オニオン 日時 2004 年 7 月 07 日 04:04:34)
オニオンさんさん はじめまして バルタンです。
あっしらさんへの別スレのレスを書いていたのですが、こちらにレスします。
>>「民主主義はすばらしい」と言えるのなら、「独裁政はすばらしい」とも言えます。
> どぎつい皮肉ですね(笑)。でも確かに「民主主義はすばらしい」も「独裁政はすばらしい」
>もそれをアプリオリに言うなら空論であり、単なるスローガン(それも恐らくは他人の受け売りの)
>でしかないという点に置いては同じことですね。
皮肉ではなく民主主義と独裁制はなんら矛盾しません。ナチスは銃で脅かして政権を奪取
したわけではありません。ワイマール共和国憲法という先進的な民主主義のもとでの選挙によって
選ばれたことを想起してください。私は選挙で「上御一人」を選ぶ北朝鮮も十分に「民主主義的」で
あると思っています。「形式的だ、茶番だ」と批判してもダメなのです。では日本の選挙がそんなに
立派なものかということになります。日本では「自由民主党」などというケッタイな政党がある
せいか誤解されていますが独裁制に対抗できるのは「自由主義」です。
『戦う石橋湛山』 昭和史に異彩を放つ屈服なき言論
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_ishibashi.html
民主主義は「唯一者=この私」を認めないわけです。たぶんこう書くと「お前は何様だ、そんなに偉いのか」
と思われるかもしれません。「この私」は偉くもなければ、ありふれた、なさけない人間です。しかし
「私」がアプリオリに存在すると考えるのが「民主主義」だとすれば、このかけがえのない「この私」は
「他」との差異としてしかありえないと考えるのが「自由主義」ではないかと思います。
他との差異を認めることはある種の「断念」でもあります。だれでもカルキ臭い水道水や清涼飲料水には
あきあきして「たまには山の岩清水を飲んでみたい」と思います。しかし岩清水を飲むにはそこに行かなく
てはならない。山に登るには「五体満足」な体躯とそれなりの体力を要します。
「自分はもう老いたし、足腰が弱って水を飲む為にあえてそこまではできない。」と断念します。
(もちろんそのためにリハビリや訓練することは尊いことだと思います。)
しかしこの断念は誰かから強制されたわけでもない「明るい悩み、健康的な苦しみ」でもあります。
民主主義は「それは不公平だ」というわけです。山に道を切り開き(最近はエスカレーターまでついて
いる所があります)、ロープウェイを設置して「さぁ、これでだれでも差別なく行けるようになった」
そう、金(貨幣)さえあればね。「健康的な苦しみ」であったものが貨幣に媒介され「欲望」になります。
水を飲みたいというのは「欲求」ですが「欲望」は貨幣に媒介されたものです。
それどころか岩清水をペットボトルに詰めて「なんとかのおいしい水」と称してあまねく行き渡らせます。
民主主義=資本の論理は「この私」が断念することを許さないわけです。「ほっといてくれ」と言っても
「迷える1匹の羊」を地の果てまでも追跡して救済せずにはおかない(笑)
「この私」は「清貧の思想」でありたいと思う。それは他から強制されたものではなく「清貧であれ」
というカント的な定言命令に従うことで、強いられたものをあたかも自ら選び取ったとするところ
に自由がある(超越論的統覚)わけです。カントの言う自由は善悪の彼岸を超えたものでハイエク
よりもっと過激です。ですから中野孝次みたいに「清貧の思想」を人に説教を垂れて「布教」しよう
などという輩はとことん許せない民主主義的ファシストだと思っています。
まぁ「この私」は弱っちいので「たまには焼肉でも食いたい」とか「南の島でバカンスしてみたい」と
思ったりするのですが「ババンババンバンバン、金貸すぞ、ババンババンバンバン、いくら欲しいんだ」
とか言われると「うるさい、俺には断念する権利があるんだ」と強がってみたりしているわけです。
そろそろ出かけなくてはならないので尻切れレスで申し訳ありません。続きは別の機会で