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(回答先: 抽象論は地に足着かぬ”空論”。されど”蘇る”可能性を秘めている。、、では伝統は? 投稿者 オニオン 日時 2004 年 7 月 07 日 04:04:34)
オニオンさん、どうもです。
>ただフランス革命及びそれに付随した民主主義に関して言うと、前近代(自然秩序)
>に対する近代(啓蒙思想)の勝利という見方がありますよね。それは確かにその通り
>だと思うのですが、それに参加もしくは支持をした大勢の一般庶民には「自らの暮ら
>しを守るために圧政者(注)を倒す!」という現実認識があったのだと思います(そ
>の認識の正否は置くとしてですが)。
啓蒙思想が“生の自然”を捨象し抽象的な観念世界に人々を取り込もうとするものであったとしても、前近代が自然秩序だったとは思っていません。
(啓蒙思想は、生きる活動を通じて感じ知った内容(観念)を蒙昧だとし、自然や人といった世界はこのように理解すべきだと打ち出されたものです)
前近代も、そして将来の「ポスト・近代」も、人為的な(支配)秩序と世界観のなかで人は生きていくものだと思っています。(だからこそ、人は、物理的に“無”(欲求や構想)を有として実現する能力を持っています)
「大勢の一般庶民には「自らの暮らしを守るために圧政者(注)を倒す!」という現実認識があった」ことは、庶民は労働成果を貴族や王に吸い上げられぎりぎりで生活していたのですから、王政を倒せば生活が良くなるぞ!と説明されれば、そう認識しても不思議ではありませんからそうだろと推測しています。
脇におかれた「認識の正否」は、革命政府やナポレオン帝政が、貴族や王に代わる新しい「吸い上げ者」とわかり、それどこか国家機構の維持や軍事活動のためにより多く吸い上げることがわかった時点で「否」に大きく傾いたはずです。
(何より、国民皆兵によって、犠牲を厭わない“戦士”になることを強制されたことには激しく憤ったと思います。民主政における多数の専制の象徴です。貴族は、いざというときに身を犠牲にしてでも庶民を防衛する(自分たちのためですが)から吸い上げも認めていたのに..(笑))
その後の海外植民地拡張政策と産業発展が人々の暮らしを向上させ、再び革命の「正」認識に傾かせていったという構図です。
このような経緯で、フランス革命は素晴らしいという「神話」が今なお受け入れられているのだと思っています。
庶民は“生の自然”を尊重するリアリストですから、空虚な価値観や世界観は聞き置くとしても安易に信じ込むことはなく、自分が“生の自然”がよくなったかどうかで、空虚な価値観や世界観を受け容れを決します。
(だから、啓示宗教は、“生の自然”に関する脅迫を持ち出して、人々を信仰させようとします。そうではなく、人々がキリスト教の価値観や世界観を信仰していたのなら、世界はまったく違っていたはずです(笑))
>この他にも古代ローマやギリシャ等で起こった民主制(共和性)も含めて民主主義も
>始めは空論ではなく確かな現実、他者との関係性の上で起こったものだと思います
>(この他の自由、平等などの抽象論も始めは確かに存在する他者関係性があったので
>しょう。始めはアプリオリではなかったと)。
民主政に共通する面白さは、被支配的庶民を戦争に動員しなければならないときに確立されるということです。
(古代アテネの民主政も、庶民を戦争に動員したことを直接の契機として導入されています。古代ローマも、自営農民が軍の主力であったときに民主政が花開き、傭兵が主力になるにつれ帝政に移行しています。戦前の日本も、戦争の歴史とともに選挙権の拡大がはかられています)
庶民に命をも犠牲にすることを厭わない戦争に動員するためには、それなりの政治的関与も認めなければならないという支配層の判断です。
「自由」や「平等」は、“生の自然”である人が自然に求める状態を概念化したものです。
ということは、ある支配秩序に人々を引き込むためには、「自由」や「平等」をうまく活用したほうがスムーズだと判断するのは支配層にとっても合理的であり、人々の感情を無視した空虚な価値観は受け容れられにくいということでもあります。
そういうものである「自由」は、命を脅かされないことが究極の「自由」なのだから、政府が盗聴することも、あやしい人を令状なしで拘束することも、外国に出かけていって戦争することも、「自由」のためだと説明できる重宝な概念になり得ます。
ですから、言葉がもつある種のイメージをそのまま受け容れてそれ以上の思考をしないという態度を改めないと、とんでもない災厄に引きずり込まれていきます。
>この空論の蘇生、或いは抽象論の血肉化の話は理念だけではなく宗教、特にキリスト
>教やイスラム教等の一神教などにも当てはめられる思います。一神教は教義的にそれ
>をアプリオリとして受け止めなくてはならないのかも知れませんが、教義への盲目的
>追従よりも教義と現実との間にて悩みを抱えながらもそれを解け合わせ自己の世界を
>構築していく様の方が好感を覚えます。
啓示宗教のすごさは、「人を殺すな」とか「姦淫するな」といった禁止行為を、なぜ「悪」なのかを説明しないまま、とにかく神の指示なんだからそうすべきだと割り切ることにあると思っています。そうしないと、共同体に神の怒りが落ちるとか、最後の審判で地獄に落ちるといった脅迫が最後の支えになっています(笑)
(啓示宗教は、そのような意味で、アプリオリとして受け止めなくてはならないものであり、信仰する限り盲目的に追従しなければなりません)
そうはいっても、神はあらゆることに関してどうすべきかを預言者に啓示しているわけではないので、現実の問題に対して人が判断しなければならなくなります。
そのような意味では、教義と現実との間にて悩みを抱えながらもそれを解け合わせ自己の世界を構築しています。
なぜ禁止行為をしてはいけないのかを論議し始めると“神学論争”に陥って収拾がつかなくなるという判断にも一理ありますから、啓示宗教的割り切りも一概に悪いとは言えません。
(また、禁止行為がそのように打ち出された背景には、そのような行為がはびこり、それが共同体に悪影響を与えている現実もあったと思っています。宗教的禁止行為は、裏返すと、現実にそのような行為がはびこっているということです(笑))
>さて今まで抽象論に対して「伝統」とは何か。実はこれが僕にはまだ分からないので
>す。伝統がただの形式であり、他者(人以外も含む)との関係性の在り様を規定した
>ルール(マナー等もこの表現に収まるでしょう)であるなら上の抽象論と同じように
>各人が身心両面から血肉化すればよい、という話になります。これなら単に抽象論に
>具体的な行動様式を付加しただけの話ですからね。
>ただこれは先に上げた関係性を現在的なものに限定した場合です。ですが「伝統」と
>言うとどうしてもその歴史性を意識せずにはいられません。自分とご先祖様たちとの
>関わり、自分と子孫達との関わり等です。この辺がまだ整理がつきません。
オニオンさんが書かれているように、「伝統」は、語られたり書かれたりしたものではなく、各人が濃密な他者関係性や他者関係的活動を通じて身心両面において血肉化しているものです。
(違う考えをどう説明されても、腑に落ちない、同意できないものが「伝統意識」とも言えます)
ですから、「伝統」を知るために、ことさら、歴史性を意識をしたり、ご先祖様たちとの関わりに思いを馳せなければならないわけではありません。
自分の素直な心情を自分で考察してみればいいものです。
(親や祖父母になんらかの思いを抱くのも「伝統意識」です)
各人に血肉化しているものが「伝統」ですから、その内容を言葉で表現すれば、抽象論になりやすいものです。
そこからさらに進み、生の諸個人を捨象して「日本の伝統」という実体があるかのように思い込み始めるとより抽象的になります。
(日本(人)の多くが血肉化している「伝統」とは?といった抑制をもった言説であれば抽象性は低い)
そして、実体化した「日本の伝統」のなかのある内容に強い価値を見出し、その遵守を称揚しその実践を迫るものになると危険性がさらに増大します。
また、支配者層は、「伝統」ではないことを「伝統」だと言い募る手法も利用します。
そのような「伝統」は、そう信じさせるために学校教育やメディアを通じた「意識化」作業が必要になります。
(伝統を重視する心性を持っている人が多いときには有効な手法です。明治維新後の「国家神道」や「天皇」はそのようなものです)