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ここ阿修羅の投稿でも主観(的)・客観(的)という言葉が時として飛び交う。
率直に言わせてもらえば、それらの言葉が無反省に形容句的に使われている文章を読むとおぞましく感じる。
なぜなら、それは、おうおうにして、主観=思い込み・客観=真実、言い換えれば、主観=×・客観=○という価値判断を伴って使われているからである。
主観・客観という言葉をそのようなかたちで使われる方々に問いたい。
「純粋な主観」や「純粋な客観」というものを考えた上でなお、そのような用語法を続けるのかと...
カントの理性批判はともかく、近代科学哲学の祖とされるデカルトの「我思うが故に我あり」という言葉はよく知られている。
しかし、デカルトはその表現から誘導されがち(利用されがち)な主観主義者ではない。そうであれば近代科学哲学の祖にはならなかったはずだ。デカルトは、超越神を信じ、それが有する“特性”が人にも及んでいることをもって人の認識の客観性(真理性)は保証されると考えていたからである。
「我思うが故に我あり」は泥沼の懐疑論を避ける思惟主体の確実性の言明であり、「超越神の特性分与」が論証に付きまとう無限後退(それも主観でしかない!...の無限指摘)を回避させるという確信によるものだったと思っている。
神に支えられた思惟主体が行う認識の確実性を表明したのが「我思うが故に我あり」なのである。
(間違って理解されていることに「実験的検証」の問題がある。実験的検証は、錯誤されているように、理論の客観性を何ら保証するものではない。それは、検証が主観によってしか行われ得ないことを考えればすぐにわかる。実験的検証は認識対象の事象を再現することでしかなく、認識対象の事象を認識するのは常に主観なのである)
少し考えればわかるが、懐疑論を進めれば、私の存在や私の思考もあてにならないもの(厳密な意味で)になる。
科学者や哲学者が自分の思考はあてにならないものと判断したら、科学や哲学をすること自体が不安で不安定なものになるだろう。
デカルトのコギトは、「考察の対象である自然の奥には確かな法則があると信じ、人である自分は頑張ればそれをこの身で理解する(掴む)ことができると考えている科学者」の身構えを現してもいるのである。
唯物主義者であれば、「我あるが故に我思う」という立論でデカルトのコギトを論駁できると考えるかもしれないが、<認識論としては>まったく意味のない批判である。
デカルトにしても、「我あるが故に我思う」ことを知りながら、「我思う」ことの確実性を模索することを通じて「我思うが故に我あり」に到達したと推測できるからである。
「我あるが故に我思う」という唯物主義的言説は、逆に、デカルトの言説を補強するものである。
「我ある」ことが確実(真理)ならば、そうである「我」が考えたことで「我の存在」を確認したのなら、「我が思う」ことも確実(真理)であるはずだ。「我が思う」ことが確実でないのなら、「我ある」ことも確実ではなくなってしまう。
デカルトのコギトを唯物主義的に否定することは、詰まるところ、「我の存在性」も「我の思惟」もあてにならないとする懐疑主義に陥る道である。
もちろん、唯物論者が、観念論者の言説を利用して自分の言説を補強することもできる。(その典型が、ヘーゲルの観念論体系をひっくり返して唯物論的歴史決定論につなげたマルクスである)
「主―客二元論」の枠内にある唯物論と観念論は表裏一体だから、お互いが、相手の言説を利用できるのは当然である。
(パンティをたんなる物として裏から見るのか表から見るのかの違いでしかない。私ならエロスの対象(愛すべき女性が身に付けるもの)としてパンティを眺める)
「主―客二元論」の枠内ならば、思惟主体に積極的な意味を認める観念論のほうが唯物論よりも一歩先んじていると判断する。(唯物論は観念論の手前でごちゃごちゃ言っているだけである)
話がだいぶずれてしまったが、主観や客観といった概念の実在性を信じている人は、「純粋主観」や「純粋客観」といったものを思念して欲しい。
「純粋主観」とは、自己の身体をも含む外的存在者にまったく影響を受けない認識であり、「純粋客観」とは、認識主体が知ることなく認識対象としてある存在者である。
この世界に投げ入れられた存在者である私には、そのどちらもないとしか言いようがない。
「純粋主観」については、自己の身体は“主観の容器”として主観側だと認定するとしても、外的存在者がまったくないのであれば、認識内容は無ないし無明ないし“無意味”である。
「純粋客観」については、主観としてそのような存在者を思念(観念)することはできるが、そのようなものは、私のみならず将来を含むあらゆる人にとって無関係ないし無ないし“無意味”である。
(唯物主義者は「純粋客観」の実在性を信じているようだが、それは、唯物主義者の自滅的観念である。なぜなら、認識する物が不在で認識対象が実在するという認識論における“超観念論”を擁護することになるからである。さらに言えば、そのような“超観念論”は、認識することの目的性(意味)や人の主体性を無化してしまう危険性を秘めている)
「純粋主観」と「純粋客観」が存在しない(意味がない)のなら、いわゆる「主観」と「客観」という二元論や対立構造も存在しない(意味がない)のである。
このようなことを書いたからといって、主―客の弁別(分節化)に“意味”がないと言いたいわけではない。
人が他者関係的活動を通じて生きていることが実存として確かなものであるなら、活動(認識を含む)主体と活動対象である客体を弁別することはきわめて重要である。
主観的と言うのなら、思考不備や思考怠慢による説明不全(論証性に欠ける)と言ったり、他者による批判過程を踏んでいないものと言い換えるべきであろう。
客観的というのは、議論を尽くして間主観的な合意を得たとか、実験的検証を繰り返して間主観的な確認を得たということの“錯誤表現”でしかない。
私は「純粋感覚」も存在しないと考えている。
人(実存)は、感覚さえも個的なものなのである。感覚は、主体の意識状況(心・精神)によって変わる。
(実存的な感覚(見え方、聞え方)は人によって違うという考えである。興味の対象は“自然”にすぐ目に飛び込んでくるし、雑音はカットされ意味のある音をできるだけ掴もうとする。そそられる異性に遭遇すると瞬く間に心ときめく)
人が他者関係的な活動を通じてしか生きていけない存在であるのなら、人によって感覚さえ違い理性的判断も違うという事実を踏まえ、自分の感覚や認識内容を言葉でできるだけわかりやすくひとに伝え理解を求めなければならず、相手の言葉もそのような背景から発せられたものとして理解に務めなければならないはずだ。
(自戒に務めているつもりですが、そうでないことも多々あるとは思っています(笑))
「主―客二元論」に囚われている限り、「梵我一如」(宇宙原理と自己の同一性)や「道」(タオ:宇宙原理に委ねて生きる)は、寝言や夢物語よくて理想郷としてしか受け入れられないだろう。
「梵我一如」や「道」は、格別難しいものではなく、主―客が不分離であることを理解すればその意味がわかってくるものである。
(「支配―被支配の関係構造」は、主―客の“分離”意識を醸成するものであり、老子が言うところの「大道すたれて仁義あり」の現実を必要とする。「道」に生きることが不能になったからこそ、必要悪として、「仁義」や「善悪」を言い募る小賢しい理屈が跋扈し大嘘がはびこるのである)
日本人は「近代思想」を理解していないとか「近代的自我」がないとか言われているが、それは残念がったり恥じることではなく、日本人が「梵我一如」や「道」に近いところにいるということである。
日本人がそのような己を自覚的に反省することで、「近代」を血肉化しなくとも、「近代」の“文明”的条件を基礎にしながら「支配―被支配の関係構造」を解消した現実を創り出すことができると信じている。
★ 参考書き込み
『「身心一如」というなんとも難しいテーマを...う〜ん...』
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/921.html