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(回答先: 認識における「主―客二元論」の超克:「純粋主観」・「純粋客観」そして「純粋感覚」の不在 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 15 日 18:49:34)
あっしらさんこんにちわ。本来なら(「身心一如」というなんとも難しいテーマを...う〜ん...http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/921.html)に対してレスを付けるべきなのでしょうが、この「主―客二元論」の超克のご投稿が前回の身心一如のご投稿のある意味延長線上にあると感じましたので、こちらの方にレスを付けさせて頂きました。
さてまずは身心一如に入る前に(僕が)話を理解するために少し整理させてください。
あっしらさんの論をまとめると多分、もし人が完全に独りなら言葉さえない中では何も認識する対象が無いので主観もなにも存在しない。そして仮に完全な客観がいたとしても、その客観を認識するには自分というフィルターを通すしかなく、これもまた存在し得ない。
どんな主観も他の存在に影響を受け、どんな客観もそれは主観を通してしか認識されない。という事になるのでしょうか?
これは一体どういうことか。上手くは言えないのですがこれをまとめると、人間の意識も身体も自己と他との関係性の中にこそ存在しているのではないか。
(うーん、まとめようとしてもなかなか難しいですね、、笑)
まあでもそれを踏まえて、感覚(身体感覚から状況認識、果ては善悪観や美醜までも含むかな?)とは何か。感覚は紛れも無く個人に宿るものでしょう。(少しおっさんくさい例えですが、笑)目の前にいる(ちょっと大人びた)女子校生を色っぽいととるか、或いは変に老けててなんかヤダととるかは完全に見る人の自由です。
しかし、ここでいう「見る人」は世界、又は他人の影響から独立していると言えるか。これは上の上の段落より否といえるでしょう。
つまり、物事を認識する「瞬間」はその人の自由だが、認識する感覚を持つ「その人」は他者の影響下にあるし、且つその下で形成されてきたと。
(余談ですが、上の論は最近阿修羅でよく見かける善悪論(或いは美醜観)問題への一助と、少なくとも切り口の一つにはなると思います。)
さてこうして取り合えず「人は心身ともに他者との関係の中に生きている」(命題1)と、そこから派生して「感覚は個人に属し且つそれぞれ微妙に違うものである」(命題2)が得れました。
(ここで命題2の補足を少し、人はそれぞれ属する世界が微妙に違う。ゆえに個人個人は微妙に違う。故に感覚も微妙に異なる。微妙という意味は違うところもあれば同じところもあるからです。)
我が身を振り返ると命題1は経験的にすぐに納得できます。身に限ってもまず両親がいなきゃ生まれることすら出来ませんし、食い物も独りでは手に入りません。心のほうでも付き合う人間や普段の経験によってだいぶ変わります。
そしておそらくこの事に関連して
あっしらさんの「人が他者関係的な活動を通じてしか生きていけない存在であるのなら、人によって感覚さえ違い理性的判断も違うという事実を踏まえ、自分の感覚や認識内容を言葉でできるだけわかりやすくひとに伝え理解を求めなければならず、相手の言葉もそのような背景から発せられたものとして理解に務めなければならないはずだ。」
という結論が導かれるのでしょう。あっしらさんが昔から投稿態度や話し合いこだわり続ける背景にはあっしらさんのこの哲学(信念)があるからだと推察しています。
ほんの軽い気持ちで身心一如というテーマを出したのですが、、、下準備だけでもとんでも無いですね(笑)。しかもよく考えるとまだ下準備も(僕のほうが)終わってないみたいです。
と言うわけで、身心一如に入る前にもう一つ質問。
あっしらさん(「支配―被支配の関係構造」は、主―客の“分離”意識を醸成するものであり、老子が言うところの「大道すたれて仁義あり」の現実を必要とする。「道」に生きることが不能になったからこそ、必要悪として、「仁義」や「善悪」を言い募る小賢しい理屈が跋扈し大嘘がはびこるのである)
とは一体どおいうことでしょうか。