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“関係性”・“私”・老子などについて
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/262.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 16 日 20:53:09:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 結局人間は個体として在るのではなく、他者(人、物、自然等)との関係の中に在る?? 投稿者 オニオン 日時 2004 年 6 月 16 日 17:56:30)


オニオンさん、どうもです。

【オニオンさん】
「 あっしらさんの論をまとめると多分、もし人が完全に独りなら言葉さえない中では何も認識する対象が無いので主観もなにも存在しない。そして仮に完全な客観がいたとしても、その客観を認識するには自分というフィルターを通すしかなく、これもまた存在し得ない。
 どんな主観も他の存在に影響を受け、どんな客観もそれは主観を通してしか認識されない。という事になるのでしょうか?」

そうです。
客観(外的存在:自然的風景をイメージしてください)は主観(人の認識)なしで存在するが、それは意味がないことというのが基本です。
人の認識とは何か?を説明するテーマで、主観(人の認識)なしで存在するものがあると言っても、外的存在がないのに主観(人の認識)があると言うのと同じで意味がないという主張です。


超観念的な思考対象ですが、「人が完全に独りなら」の部分は、「身心一如」というなんとも難しいテーマを...う〜ん...」( http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/921.html )で書いたような、ある人の身体(皮膚)を超えて存在するものがない状況を想定していただければと思っています。

言語修得能力など人の理性的能力(機能性)は生まれながらのもの(アプリオリ)だと考えていますから、生まれて落ちてすぐに一人ぼっちでも生き続けることができるのなら、外なる世界を感じ、それなりの判断を下すことができると思っているからです。


【オニオンさん】
「 これは一体どういうことか。上手くは言えないのですがこれをまとめると、人間の意識も身体も自己と他との関係性の中にこそ存在しているのではないか。」


そのように考えています。
(そのように言葉で考えるのではなく、そのように感(観)じてしまうことが「梵我一如」の入り口ではないかなと思っています)

“関係性”という概念を極めて重視しています。
「他者との関係性」・「自然(非人間的存在者)との関係性」、そして、「自己との関係性」です。

ちょっと解りにくいのは「自己との関係性」だと思います。
自己嫌悪や自尊心は、“私が私のことを考える”という「自己との関係性」の在り方を示す表現です。
「忘我」や「無私」は、「自己との関係性」を我(私)が意識しない状況、すなわち、「他者との関係性」や「自然との関係性」のなかに浸りきっている意識状況だと思っています。

「私」は、これほど確かな存在感を示すものでありながら、私にさえ到達できない存在です。
そう考えている「私」を考えることが思考の深化だと思っていますが、究極の「私」を考えることはできません。なぜなら、究極の「私」を考える私がいるのなら、対象の「私」は究極の「私」ではないからです。

「存在していると確信しているのに見えないもの」と言うと超越神に似ていますよね。
「私の実在確信とその認識不能」をわかることが、もう一つの「梵我一如」の入り口であり、“無”を知ることだと思っています。


人はある時点まで生き続けるものですから、静態的な“関係性”ではなく、動態的な“関係的活動”を物事を考える際のキーワードにしています。

労働は、“他者関係的対象活動”のコアだと思っています。

【オニオンさん】
「あっしらさん(「支配―被支配の関係構造」は、主―客の“分離”意識を醸成するものであり、老子が言うところの「大道すたれて仁義あり」の現実を必要とする。「道」に生きることが不能になったからこそ、必要悪として、「仁義」や「善悪」を言い募る小賢しい理屈が跋扈し大嘘がはびこるのである)
とは一体どおいうことでしょうか。」


老子には、「人は本来何らかの規定や強制がなくとも他者や自然と調和しながら生きていくもの」という考えがあると受け止めています。

そして、それは、国家(公的権力の存在)や支配する者と支配される者がいない状況であってのみ現実のものになるとも考えていたと思っています。

支配する者と支配される者という“分離対立関係”ができることで、その対立をできるだけ噴出させないために「仁義」なるものを考えだし履行させる必要が生じるという認識だと思っています。
(老子は、ユダヤ教・キリスト教・ミトラ教・イスラムも同じ由来だと評価するはずです)


「主―客の“分離”意識を醸成する」というのは、「他者関係性」であれば間主観的合意で済むが、「支配―被支配の関係性」においては、支配する者(主体)―支配される者(客体)という“存在性”を対象にした思考活動が要請されることを意味します。

(間主観的合意というのは、“他者関係的対象活動”をどうやってうまく(合理的に)進めるかを議論(対話)を通じて達成することとご理解ください)


※ 「あっしらさんの「人が他者関係的な活動を通じてしか生きていけない存在であるのなら、人によって感覚さえ違い理性的判断も違うという事実を踏まえ、自分の感覚や認識内容を言葉でできるだけわかりやすくひとに伝え理解を求めなければならず、相手の言葉もそのような背景から発せられたものとして理解に務めなければならないはずだ。」
という結論が導かれるのでしょう。あっしらさんが昔から投稿態度や話し合いこだわり続ける背景にはあっしらさんのこの哲学(信念)があるからだと推察しています」とご理解いただけたことをたいへんうれしく思っています。


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