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(回答先: 「善悪の此岸」(笑):“援助交際”は「悪」か? 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 14 日 19:55:44)
こんばんわ。
なんだか懐かしい単語が出てきたのでも思わず・・・
宮台真司さんが『終わりなき日常を生きろ』(でしたっけ?)
を書いたのはもう一昔前ですね。
で、あれの援助交際についての部分を読んで
「いや、そりゃ、理屈はいくらも付けられるかもしんないけどさー
「それ(援助交際)って美しくないよなぁ
という実にシンプルな感想を持ったのを思いだしました。
あっしらさんの問いである「善と悪」に対して
「美と醜」を持ち出すのは反則かなあとも思いますが
哲学の基本的なテーマは「真・善・美」だそうですから、
それもありではないかとも思います。
もちろん、ここでの醜というのは
「セックスをお金に替えることは汚い」という意味ではありません。
生き方としての美・醜というニュアンスです。
少々誤解を招くかもしれませんが、たとえば・・・
A・親が資産家なので仕事なんかしないでもブランドに囲まれて暮らせるお嬢様
B・家が貧乏で仕方なく身を売って必死に生活費を得ているフーゾク嬢
(例があまりに陳腐で赤面しますが:笑)
「どっちを選ぶか」と言われたらBを選ぶというような
ニュアンスというか価値観です。
「どちらがより悪か」ではなく「どちらがより醜か」と考えるわけです。
で、なぜ美・醜という話を持ち出したかというと
「美・醜」は<客観性>において「善・悪」に劣るからです。
・・・・これじゃ何のことだかわかりませんが(笑)。
善は信じる(思考停止する)対象になってしまいますが、
美は信じる対象にはなりません。
どうするかっていうと、仕方がないので、自分の感覚に頼る他はない。
そういう意味で客観性に欠ける、と。
思考停止することなく考え続けたい・選択し続けたいのであれば
「善・悪」ではなく「美・醜」を軸にしたほうがいいのではないかなぁと。
援助交際を善悪で考えちゃうといろいろ詭弁を弄さなくてはいけなくなります。
(いや、みなさんが詭弁を弄していると言ってるわけではなくて、彼女たちが、です)
で、詭弁を弄していると、言葉が力を失っていくので、
頭の中がグチャグチャになっていって、
最終的に何をどうしていいのか、考える基盤さえ失ってしまいます。
……わはは、どっかにそういう政治家がいましたね(あ、まだ居るのか)。
あと「善・悪」は宗教(というよりは教団・宗教組織)が利用しやすい
という別の問題もあります。
「信じろ」というのは「思考停止しろ」というのと実は同義です。
だいたい「思考停止しろ」なんてお釈迦さまは一言も言ってませんね。
(考えても答えの出ないことに答えを求めるなとは言ってますが)
つまり「信じろ」というのは少なくともお釈迦さまの教えではありません。
……そういえば、そういう宗教政治団体もありましたね(あ、まだあるのか)。
つーわけで、個人的には「善・悪」で行こうとすると
そういうところに足下をすくわれやすいので避けたいと思っているのです。
善悪はやっぱ彼岸であって此岸は美醜ではないとまずいんじゃないでしょうか。
(蛇足:宮台真司さんを「さん」づけで表記したのは
(単に他人だからであって尊敬しているとか評価しているからではありません。
(正確には評価できるところとできないところが混在してます。誰でも同じですが。
(なので、どんな人でも「さん」付けで呼ぶほうがいいと個人的に思います。
(たとえそれがレイプ疑惑を指摘されても名誉毀損で訴えないような人であってもね
(呼び捨てにしたくなっちゃう気持ちはよくわかるし、そうすることもありますが(爆)
でわでわ。