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(回答先: 訂正をお願いいたします。 投稿者 調和人 日時 2004 年 6 月 12 日 19:49:57)
調和人さん、レスありがとうございます。
(元のメインのHNに勝手に戻らせていただきます)
謙遜も躊躇も不要ですよ。
たぶんですが、悪や善を認識することについての見方の違いがあると思います。
人は悪を直観的に認識できるが善は思念的にしか認識できないものだと思っています。
(動物もそうであろうという思いがあります)
たとえば、善とされることも、悪を避けるということで説明が可能です。(困っている人を放置するのは悪であるとかの類で、動物でも行っていることです。調和人さんが考えられている善のほとんどは、こういう悪は避けるべきだということで説明できませんか?)
そして、人々はことさら善なる観念や基準を持ち出されたことで、直観では出てこない悪を為すようになったとも考えています。
(先制攻撃の戦争を善としてしまう論理もたやすく紡げるものです)
思考力(思念)が悪だと言いたいわけではありません。思考力によって将来悪につながるかもしれない愚行を回避することもできます。
思考力が悪用されているのが善なる観念であると考えています。
善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信によるものです。
ですから、私が生きているうちにそれが実現されて(まずムリ)、人が感じるままでは善を為さないことがわかれば、前言を翻して善なるものの必要性を主張します(笑)
「人は支配―被支配構造から抜け出せば感じるままで善を為す存在者である」という確信は、今現在揺るいでいません。
最後に、悪でないものが善であるといういい加減な規定の善であれば、善の必要性を受け容れます(笑)