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(回答先: どうせくだらん抑制になるに決まっている善などクソ食らえ、です(笑) 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 13 日 01:09:18)
善をミソクソに言っている背景には、悪を善と言い募るために、“善”の言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明がはびこり、それが悪の行為を支えているという思いがあります。
民主主義・自由・人道(支援)・改革・真実・誠意・平和などの言葉が現在ほど空虚なものになったことはないはずなのに、相変わらず支配者はそれは使い続け、それなりに被支配者を納得させています。(第二次世界大戦にはまだ空虚を埋める要素があった)
政治的反対者も、真の民主主義・真の自由・真の人道・真の改革・真の平和といったなんとなくもっともらしいが実は空虚でしかない言葉を使って非難しているだけで、こうするのが善であるという説明も不十分なら、支配者の行為が善でないという論証も不十分であるように思えます。
だからこそ、“戦争の終結”や“主権移譲”と進むにつれ、民主主義・自由・人道(支援)・改革・真実・誠意・平和などの言葉がなんとなくリアルなものになり、支配者の言い分に吸い寄せられていくことになります。
(アフガニスタンの推移はその例証です。イラクも、善を回復しようとする人たちが悪人になる危険性が待ち構えていると思っています)
“善”のラベルが貼られた言葉を使って語れば、善を語っているどころか、最後には善を為していることになってしまうというすさまじい錯誤が横溢しているのが現在だと思っています。
善が禅問答になり、善なる言葉が人々の判断力を呪縛しています。
善の言葉による主張の恐さは、善ならいいじゃないかという感じで、人を思考停止に追い込むことです。(善だとされていることにケチを付けるのは気が引ける)
人はやりたいことを悪だと言われたら、なんで?どうして?どこが?と問うのに、善だと思い込んでいる言葉を羅列されて説明されると、それなら仕方ないとなってしまう危険性です。(最後には“善なる行為”に身を投じない我が身を恥じるまでになる)
善をクソ食らえと叫び、悪にこだわる説明をしているのは、このような気持ちがあるからです。
善を受け容れるのではなく、悪ではないのか、悪になる危険性はないのかという視点で物事の理非を問い続けることが重要です。
9・11以降の世界がとんでもない犠牲を伴いながら、善なる言葉を口にする空虚さと醜悪さを極め付きのリアルさで示しているからこそ、それをこの身でしっかり受け止めたいと思っています。
今そして今後おそらく10年ほどは、奴隷=被支配者である身から脱する術を考える好機が続きます。
その好機を逃すと、奴隷であることさえ感じない“天国”に入ってしまうかもしれません。