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リーマンさんが提起された「南朝・北朝論」に触発されて雑談を....
明治維新後の天皇の血脈が南朝なのか北朝なのかは、呪縛を解き放つということ以外にそれほど意味がないのではと考えています。
それは、明治維新までの天皇(朝廷)も、血統の連続性に疑義があったり、危うい権力バランスのなかで維持されてきたと見ているので、「近代天皇制」ではなおのこと血統問題を取り上げる必要はないと思っているからです。
いわゆる天皇制が確立した(7世紀末)以降の日本政治史を考えるときのポイントは「東西対立構造」だと考えています。
(朝廷と武家の対立も「東西対立」と見るほうがスッキリします。朝廷自体が強力な武装集団だったのです(笑)朝廷が権力&権威機構から権威機構に縮小した原因は、武力で他に劣っていたからに他なりません)
※ 参照書き込み
『北朝から、南朝になったのか「“自称”南朝」になったのかはわかりませんが(笑)』
( http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/783.html )
源氏だ平氏だと首領が天皇の末裔であることを謳い、勤皇だ尊皇だと天皇崇拝を口にするのも、生身の存在としての天皇を措定しているわけではなく、権威の名称としての天皇観念に寄りかかったイデオロギーです。(それは三島由紀夫の天皇観に如実に現れています)
ですから、天皇の権威に必要なのは、生身の天皇ではなく、その権威の由来に関する説明であり、権威を発揮するための制度の確立なのです。
それらが存在し、周りが天皇であることを認めるのなら、誰でもいいのです。
逆に言えば、周りが想定した権威的存在性を超える振る舞いをする天皇のほうが危険であり不都合なのです。
日本の政治構造の変遷では、「東西対立」の次にポイントになるのが「藤原氏」だと思っています。(だいぶ前ですが、フジワラの陰謀を盛んに投稿していた人もいましたね(笑))
藤原氏の始祖とされる中臣鎌足は、白村江の敗北以後に渡来した百済の高級貴族(の祖先の可能性も)で、政治的実権及び律令制に関する知識で抜きん出ていたファミリーの主だったろうと見ています。
それ以前は不明ですが、藤原氏は桓武天皇の即位をもって日本でも政治的実権を握るようになり、血縁的にも天皇家に深く入り込んでいき、藤原氏が政治(権力)の表舞台から消えた後も、鷹司・近衛・九条・一条・二条・三条・冷泉・京極・西園寺などと別名で公家社会を牛耳ってきました。
朝廷が政治権力を失い権威装置になっていくなかで、公家は、利益集団としての性格をより強めていったはずです。(寄生性を強めたとも言えます)
政治権力を持たない利益集団が利益を維持するためには、政治権力保有者ないし政治権力の源泉である強固な武力を持つ集団に依存しなければなりません。
(このあたりからも、国際金融家など建前は政治権力を持っていない人と同じ思考・行動様式につながるものがあります。策略と言葉が何よりの武器になります)
「南朝・北朝」も「東西対立」の影響のなかで生じた対立構造であり、後醍醐天皇の“親政志向”が契機だとされています。
先ほど書いた、「周りが想定した権威的存在性を超える振る舞いをする天皇は危険であり不都合」という存在になったのが後醍醐天皇だったはずです。
そのような天皇を眺めて焦るのは、権力機構を握っている集団だけではなく、天皇に直属する公家もです。
天皇が自分たちの差配に従う存在でなければ自分たちの存在意義もなければ利益の拡大も図れないし、天皇に虎の尾を踏むような振る舞いをされたら、天皇がどうなろうとかまわないとしても、自分たちまでが路頭に迷うことになるからです。
ですから、政治権力の主が別の天皇を擁立しようとしたら、一部の忠義の持ち主や政治思想で共鳴する勢力を別にすれば、保身のために平気で旧主を裏切ります。しかし、彼らは、天皇(朝廷)は制度だとちゃんと弁えていますから、裏切りとは考えません。制度が大事であり、制度の表徴でしかない天皇は取替え可能な存在だと認識しています。
明治維新でも、このような思いをベースに「天皇のすり替え」が行われたと思っています。
「南朝正統論」を南朝への移行説の根拠に上げる人もいますが、これは、直接的な根拠にはならないと思っています。
明治維新を起こし近代国家日本をつくろうとした政治・軍事勢力は、天皇(朝廷)制度を権力&権威機構として据えようとしました。(明治国家が日本で初めて成立した律令制だと言うこともできます)
そうであるのなら、明治政府が「天皇親政」を志向した後醍醐天皇(南朝)を正統と考えるのは理に適っています。さらには、そのような南朝のために身を捧げた楠木正成などを忠臣として持ち上げるのも、権力の安定のために役に立つイデオロギーです。
政治家として利口な人がいたなら、北朝がそのまま明治以降も続いているとしても、「南朝正統論」を唱えたはずです。北朝は、政治権力機構に支えられたひ弱な権威機構でしかなかったのですから...南朝は、その理念が悪かった(誤りだった)わけではなく、できないことをやろうとして公家階層を含む朝廷の瓦解につながるようなことをしたのが悪(誤り)だったのです。
「南朝・北朝移行説」に沿って言うのなら、明治・大正そして昭和20年の敗戦までが「南朝」で、敗戦から現在に至る朝廷が「北朝」だということになるのでしょう(笑)
もちろん、「南朝」時代も天皇親政というわけではありません。天皇親政であるという制度がつくられそうであるという観念が流布されたに過ぎません。
7世紀後半に確立したと考えている天皇制は、生まれたときから“象徴天皇制”だったと思っています。
(天皇の“力”に波動的変化はあったと思っていますが、天皇を支える“真の力”を超えることはなかったと...)