★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用7 > 862.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
「東西対立」の基軸は、西の中央集権志向・東の地域主義という国家統合の違いにあると考えています。
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/862.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 2 月 15 日 04:28:15:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: なぜ日本では東(農本)と西(商本)が争うと東が勝つのでしょうか?宜しければ教えてください。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 2 月 15 日 01:57:22)


オニオンさん、こんばんわ。


>なぜ日本では東(農本)と西(商本)が争うと東が勝つのでしょうか?


日本の東西を農本と商本と分ける考えもおもしろいと思います。

ただ、私自身は、前近代までの日本は東西ともに農本だったと見ています。
東西を農本と商本と分けるとしたら、明治維新後の日本がそう言えないこともないなと思っています。

私は、東西ともに農本で、西が中央集権志向・東が地域主義志向という共同体統合の在り方をめぐる対立だと考えています。
一般的概念で言えば、西が律令制をめざし、東が日本型“封建制”(地域盟主連合体)を尊重したという違いがあると思っています。

そして、そのような対立構造が生まれたのは、唐・新羅連合と戦って敗北し(白村江の戦い・百済滅亡)、百済から王族・貴族・官僚・軍人と大量の支配層民が日本に渡来した(亡命を受け入れた)ことで生じた日本列島の政治構造の大地殻変動が契機だと考えています。

おそらく、それまでの日本は、日本型“封建制”(地域盟主連合体)だったと思っています。(九州・吉備・出雲・播磨・大和などが相互交流をしながらも政治的な独立性を保っており、各地域のなかも地域共同体盟主が存在し、そのなかから地域盟主が立ったというイメージです。隋と交流していた“地域”は九州だったと推定しています。邪馬壱国も九州にあったと思っています)

唐・新羅連合に敗北するまでの日本は、百済・新羅や中国などとの交流で、仏教とともに儒教・律令制といった政治思想・統治制度の考えは入ってきていても、実際の制度にはなっていなかっただろうと見ています。これは、7世紀末まで“大和朝廷”が成立していなかったという主張でもあります。
(魏志倭人伝の記述では倭には馬がいないとなっていますから、騎馬戦術の導入も、百済との交流を通じてなされたと推測しています)

数万とも十数万とも言われる百済支配層の渡来が、日本列島に、政治的統合の動きをもたらし、政治的対立を激化させたと思っています。
(日本書紀に見られる、壬申の乱など天智・天武期の内戦、そして、時代は前にずらされていますが大化の改新などがその反映(公的説明)だという仮説です。神武天皇の東征物語そのものが、この過程を反映した記述だと思っています)

この政治的一大抗争は、平安京遷都をもって終わったと考えています。
(だからこそ、それまでの抗争の歴史に決着を付けるために「日本書紀」の編纂が急がれた。「古事記」は、下書きか、“偽書”(非公式)だと思っています。下書きだとすれば、「古事記」には、「日本書紀」よりも脚色や礼賛が少なく本音(事実性)により近いことが記述されているはずです。“偽書”ならば、支配層主流をこころよく思っていない支配層のある人たちが抵抗の意志で書いたと思っています)

この時点の“大和朝廷”の勢力範囲は、東はおそらくせいぜいが現在の伊勢か名古屋あたりまでだったろうと推測しています。
この勢力範囲で律令制国家の建設が志向されると同時に、勢力圏を東に拡大する動きが活発化したはずです。

当時の東は、日本型“封建制”(地域盟主連合体)を基礎に、軍事的には高句麗(騎馬系国家)からの渡来者で補強されていたと思っています。

天皇(朝廷)を頂く律令制国家を東に拡大する動きと日本型“封建制”(地域盟主連合体)を維持しようとした抵抗の動きが、律令国家支配層によって「まつろわぬ蝦夷とまつろわせるための征夷」として説明されたのでしょう。
逆に、日本型“封建制”(地域盟主連合体)をよしとする東国にとっては、天皇(朝廷)を頂く律令制国家が「西から侵略」ということになります。

その後ほどなく鎌倉幕府が政治権力を握ったことでわかるように、軍事的には東国優勢で決着が付きます。しかし、国家統合のもう一つの基礎である権威は朝廷にそのまま保持されました。そうなったのは、朝廷貴族の政治手腕や政治思想などの優位性、そして、むやみに戦いを激化させたり長期化させるのは愚だ考える智恵によるのだろうと推測しています。
(これは、当時の関東の盟主であった北条氏も、西国を含むかたちで政治権力を握るために源氏(清和天皇の子孫とされる)を担がざるを得なかったことからもわかります。鎌倉幕府は、端から北条氏のもので、源頼朝はたんなる神輿だったと思っています)

おそらく、鎌倉幕府が政治権力を握ったことで、西国もかつての日本型“封建制”(地域盟主連合体)に先祖返りし、朝廷(天皇)は、土地支配から切り離され幕府(政治権力)から養われる“純粋な権威装置”に変容したと思っています。

以降も、朝廷が政治権力を奪還しようとする動きも南北朝対立のようにあったが成功せず、徳川幕府の成立によって、権力機構と権威機構が分離した統治構造が安定的なものになったと考えています。
鎌倉幕府成立以降、東国を治めるものが政治権力を握るという“政治的慣習”ができたことから、東国が軍事的優位性を保っていたというか軍事的に重要な地域と考えられていたことがわかります。
(織田信長も豊臣秀吉も、征夷大将軍となり政治権力を一手に握れなかったのは、相対的優位性は持ちながらも東国を絶対的に治めることができなかったからです。非東国でそれができたのが徳川家康です。三河出身の徳川幕府の成立によって、「東西対立」は大きく緩和され統治の安定に大きく寄与したはずです)


明治維新は、日本型“封建制”(地域盟主連合体)国家を天皇(朝廷)を頂く律令制国家に建て替えようと“標榜”した革命です。
政治権力を失いながらも統治権威を維持してきた天皇(朝廷)をもう一度かついで、政治権力を奪取し平安時代には叶わなかった律令制国家を確立することが、革命運動の糾合スローガンだったと言えます。
(もちろん、天皇暗殺までやった勢力が明治維新の主流だったわけですから、スローガンと実態は別ものです。近代中央集権国家を築く正当性として、「律令制国家」観念が利用されたと言ったほうがいいでしょう)

権威装置であった朝廷が江戸に移ったことで、政治権力機構と権威装置が地理的にも統一されました。首都が京都ではなく江戸(東京)になったのは、東国が軍事的に重要な地域と考えられ、東国を治めるものが政治権力を握るという歴史的観念の現れだと思っています。

長々と書きましたが、「なぜ日本では東(農本)と西(商本)が争うと東が勝つのでしょうか?」の答えにはなっていませんね。

西は、統合された政治権力と統治権威を東に拡大しようとしたが果たせず、逆に政治権力を失ったが統治権威は維持した。
そして、東は、政治権力を手に入れたが統治権威を身に付けることはできなかった。

明治維新で西が勝利したかたちになっていますが、70年数年で敗北してしまったのですから、たいした勝利とは言えません。

どちらが勝ったとは判定しにくい歴史だったと思っています。

ただ思うのは、広く受け入れ政治的な強固の基礎になったのは東国の理念である地域主義であり、国家統合の安定性を支えたのは政治権力と統合権威の分離だったということです。


-----------------------------------------------------------------------------------------
★ 参照書き込み

『新羅の朝鮮半島統一と“九州王朝”の参戦が与えた日本史への影響』
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/497.html

『順序が逆で、稲作共同体(連合)の支配者たらんとするための祭祀』
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/484.html


 次へ  前へ

雑談専用7掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。