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あっしらさん、いつも丁寧なレスをありがとうございます。
勝手に新しいスレッドに移行しました。
あっしらさん:「しかし、支配層の世界観/価値観は、感性レベルと違って、私(庶民層)のそれとは驚くほど断絶したものであろうと思っています。
先に何があるかよくわからないが生きるために生きていくという庶民層のそれと、自分達の絶対的優位性を維持するために先を用意しようとする(用意できる)支配層のそれは、根底的に違うはずです。
庶民層は自分を手段として自分の目的を達成しようとするものですが、支配層は他者を手段として自分の目的を達成しようとするものです。このような思考様式の違いが恒常的であるなら、自ずと、見える世界や物事の価値性も違ってきます。」
おっしゃている意味はよくわります。おそらく「先に何があるかよくわからないが生きるために生きていく」とあっしらさんが書かれるとき、その裏で「庶民は実はちゃんと先がどうなるか感じているが、現在の生存様式がそれを許さない」とおっしゃっているように思われます。
私は庶民いのちの人なので、その庶民の直覚を社会へ還元するしくみを作れないものかと考えています。もはや(支配層がおこぼれとして与えてくれる)自由主義や民主主義では「間に合わない」と感じるからです。今回、非力をかえりみず投稿したのも、そうしたことを話せないかなと考えたからでした。
あっしらさん:「支配層の恐怖は、他者を手段として自分の目的を達成できる位置から引きずりおろされることで
す。そのために、庶民層を自分達の感性に引き寄せ、手段化された庶民層がそうは受け取らずに自由意志で目的的に生きているという“錯誤”で喜々として手段化される道を歩む仕掛けを施しています。」
あっしらさんのおっしゃる「庶民層を自分達の感性に引き寄せ、手段化された庶民層がそうは受け取らずに自由意志で目的的に生きているという“錯誤”で喜々として手段化される道を歩む仕掛け」は、現代日本で、ものの見事に機能しています。
たとえば、ユーミンの「イチゴ白書」です。二時代ほど前「明日の世界は」と考えた若い庶民たちが体制の前に挫折して、大手商社、メディア、広告代理店などに矛を納め、いまはその幹部として、圧倒的物量で子供たちの閉塞感を作り出している状況を見るだけでも、支配層の巧妙な支配の徹底ぶりは目を見張るものがあります。往時のインテリ(庶民の一形態)が考えていた「全体」は「双頭戦略の片割れ」に過ぎないのでした。
行き場を失った理想は、自由意志で合目的な生き方という近代個人主義のプロパガンダと野合しました。今ではプロパガンダであることすら忘れ去られ、その浸透度は、団塊世代の子供たちのレベルで、援交などというニヒリズムで表現されるレベルにまで深化しています。この強力な「欲望解放」主義の前には、時の勢いを借りた「右」よりの戦術も無効です。欲望を抑圧する風にしか響かないからです。
このような事態を考えると、あっしらさんの「開かれた共同体」構想が大事になってきます。庶民(学者は基本的にダメ、監修役で十分)で知恵を出し合って、この構想に「いのち」(私の言う意味でのエロス)を吹き込んでやらないといけないなと思います。
あっしらさん:「ポスト産業資本制は「明るく自由な社会主義」だと庶民層に受け止められる世界だと思っていますので、既存の感性を放棄せざるを得ないような奴隷的な状態になるとは思っていません。(中略)所得格差もあるし、性風俗を含め憂さ晴らしもできるし、民主的政治制度も存続しているはずですから、「庶民が籠絡され、スポイルされる(つんぼ桟敷で嬉々としてご奉仕する)というイメージ」とは程遠いと思っています。」
ここはちょっと誤解があります。私の「庶民が籠絡され、スポイルされる(つんぼ桟敷で嬉々としてご奉仕する)」とは、前段あっしらさんの言われる「手段化された庶民層がそうは受け取らずに自由意志で目的的に生きているという“錯誤”で喜々として手段化される道を歩む仕掛け」に気づかず生きている、という意味です。つまり、このまま進んでいった場合の「ポスト産業資本制」の世界イメージは共通しています。
あっしらさん:「米国の庶民層と日本の支配層&庶民層は同じ立場ですから、その間に愛人関係を取り結ぶのは困難です。“彼ら”は「分断と対立」が身を保全するための鉄則だと思っていますから、日米のそのような関係を許容しません。日本が一方的に愛人関係を求めることになる相手は米国の支配層です。
「ここまで躍起になって日本を囲い込もうとしているか?」は、日本にしかない力が必要であり、日本はその要請に抗うことをしない(できない)と思っているからではないでしょうか。」
「分断と対立」戦略は、既に病膏肓というか、殆どの人に自覚症状がないくらいに深化され、一人ひとりの内部に定着しています。ただ、「日本が一方的に愛人関係を求めることになる相手は米国の支配層」だという認識に違和感を感じます。それは建前上そうなのであって、「愛人関係」は日本が求めているのではなく、米国の支配層が必要としていると私は考えています。
20世紀の歴史を振り返れば、日本はいざとなると非常に怖い国だと思っているはずです(つまり、日本は強いんです)。侵略時代このかた奴隷化すべき対象としてバカにしていた非西洋の国が、曲がりなりにもロシアに勝ち、世界大戦の敗戦においても、結果的にではあれ植民地の解放につながる抵抗を示した。恐れた"彼ら"は戦後、日本を徹底的に叩きのめし、精神的に去勢した。ところが捌け口を経済活動に限定したところ、ご本尊を脅かすまでに成長してしまった。必要に迫られてプラザ合意を強制し、バブル(資産インフレ)、資産の不良債権化、自由化(規制緩和)プロパガンダと続く長期低迷を強いたが、またぞろ復活してきている。
このいくら打ちのめして死なない、この奇妙な非西洋国家を敵に回そうとは誰も考えないはずです。で、本来正妻に迎えてもいいくらいのところを、立場上有利な(プライドや人種偏見もあって)妾にしてある、というのが実相ではないでしょうか?
よく日米安保など見せ掛けの同盟に過ぎない、アメリカはその気になればいつでも破棄できるような言説を見かけますが、どうも私にはそうは思われません。
私がここで指摘したいのは、日本が"彼ら"とは異なる原理(といっても教典のように明文化されているわけではありません)で動いている国だという点です。それこそが我々の希望であり、非常に重要なポイントなのです。そのような国(無手勝流とはそういう意味です)が曲がりなりにも繁栄している以上、21世紀以降の世界を考えるとき「日本」こそ最大のオルタナティブだという点なのです。
先にあっしらさんが「先に何があるかよくわからないが生きるために生きていくという庶民層」という言い方をされていましたが、この「何だかわからないけど生きるために生きている」人間ほど、"彼ら"支配層にとって都合よく支配できそうでできない、その実、気持ちの悪い存在はないのです。
たとえば、第二次大戦の敗因として総合戦略の欠如、日本軍司令部の場当たり的対応が挙げられます。現場の兵隊レベルはよく戦い強いが、指揮系統に体系的戦略がないから、結局は負けたと。あるいは、孫子の兵法などを持ち出して、今日の経営戦略に応用するビジネス読み物もあります。
いずれの場合も通奏低音のように響いてくるのは、日本は戦略が欠如しているからダメだ、西洋的な(あるいは中国的な)戦略に学ばないと生き残れないとする、相も変らぬ自虐的な文明国コンプレックスです。しかし、事実は逆を指しているのではないでしょうか?
日本は戦う気がないから勝ってきた国なのです。だから戦略がいらないのです。挑まれれば戦うのですが、基本的には穏やかに「わびさび」の世界で充足することを知っています。大企業の重役でも、西洋外観の豪邸に坪庭や茶室を作ってしまう国民です。このキッチュな(優れて日本モダンな)混交状態こそ、未来を志向しているように私には思えるのです。
こうした国民性こそ尊重し、それを心地よく発揮できる環境をつくらない国家戦略は、絶対に受け入れられないと考えます。だからこそ庶民は「日本」そのものであり、「開かれた共同体」構想が重要なのです。わかっていただけますか?
それとは別に、先のG7で最も気になったのは、EUのどこかの財務相が「抜本的な通貨制度の改革を話し合う」云々(正確な文言は思い出せません)といっていた点です。その後どこを探してもフォロー記事はなく、よほど重大なトピックなんだろうと思います。あっしらさんもbakaさんのレスに書かれているとおり、そろそろ米のデフォルト執行=借金踏み倒しが近いのもかもしれません。このあたりはどうお考えですか?
あっしらさん:「ドイツやフランスも、どういう裏があったにせよ、イラク攻撃でノーの意思表示をしました。2002年から2003年にかけてのイラク問題での態度決定は日本にとって大きな転換点だったと思っています。まっくすさんも書かれているように、転換点で「日本は今やイギリスより重みのある経済大国」である条件を活かし切れなかったことを無念だと思っています。」
同意します。いくら戦略がいらない国だからといって、現実的にもう少し経済力という虎の子カードはうまく使ってもらいたかったです。この無念さは片時も忘れたことがありません。
あっしらさん:「この部分はうまく説明できるかどうかや長い説明になるかもなどと思っているので、別の書き込みにさせていただきます。」
あっしらさんの重労働を考えると気軽に楽しみにしていますとはいえませんが、やっぱり楽しみにしています。