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(回答先: “彼ら”の制度的ゴールであり真の意味での世界支配の始まりである「新世界通貨」 投稿者 あしら 日時 2004 年 3 月 27 日 21:45:59)
あっしらさん、こんばんは。
対話のテーマが重く大きいだけにレスが長くなりがちです。そこで勝手ですが、レスを何回かに分割させてもらうことにしました(続きは追ってレスします)。初回は基本スタンスのお話です。
■まっくすの基本スタンス
世界はものもお金も余っている。”彼ら”の意識(行動原理、思い込み)を変えていけば、新しい通貨は”彼ら”の思惑や利害に対立せず、したがって世界支配も、そのツールとしての「分断対立」政策や「競争・自由化至上主義」も不要になるのではないか?
■基本ターム
インフレ指向
あっしらさん:「話は拡散することになると思っていますが、『日米の「愛人関係」の正常化』と『江戸時代の鎖国(限定的開国)体制の見直し』に「選択と集中」を心がけることに異存はありません。 」
ありがとうございます。根底にある問題意識は共有していると思うので、トピックが拡散して、自然とここらへ収斂してくると思います。
まっくす:「日本は隅々に米軍基地が置かれ、国際法を純粋に解釈すれば、いまだにアメリカ(連合国)の占領下にあります。自主憲法を言い出す前に、まずやるべきことは貨幣改革だと思います。 」
あっしらさん:「自主憲法は、“精神”的意義以上のものはそれほどないと思っています。その意味では、現憲法の追認国民投票でもいいと思っているくらいです。
貨幣改革は、“彼ら”の最重点ウォッチ対象であるはずですから、それをかいくぐってやれる改革は限られていると思っています。(虎の尾を踏む改革はできません) 」
「貨幣改革」については、私の言い方がまずかったと思います。私が言いたかったのは次のようなことです。
日本が「独立」を果たそうとするなら、精神論(憲法)より先に、現実論(経済)を片付けないと意味がない。精神(憲法)は現実(経済)に深く影響されるからだ。今日の経済問題は、従来の政策では一時的解決にしかならず、貨幣そのものの働きを見直さないとならないレベルまでシステム(構造)化している。このような環境下では、まず人々の「貨幣に対する意識の改革」が出発点となると思われる。
・・・というわけなので、当然「虎の尾を踏む改革」を考えているつもりはないんです。ここで基本的スタンスとして強調しておきたいのですが、新しい貨幣を軸とした「共同体」的経済方策は、決して“彼ら”の利害と対立するものではないと私は思っています。
むろん一般的な文脈で、こうした構想が“彼ら”の権益に敵対し、彼らの地位を脅かそうとする不穏な動きと受け取られる危険は察知しています。でも、私がテーブルについたとしたら、“彼ら”に話したいのは、「実はそうではない」ということです。敵対しているように思われるとしたら、それは彼我の歴史的、風土的前提の違いから来る誤解(あるいは認識不足)なのです。
風土的違いとは、前回も述べた砂漠と森の違いです。これを基礎条件として、あっしらさんも指摘されているような歴史的な相違を付け加えてもいいのですが、いずれにせよ“彼ら”の発想や行動は、つねに「足らない」(マイナス)ということをベースにしている、と感じるんです。たとえば、今の資本制社会には「足らないから増やす」「いつ足らなくなるとわからないから一度得たものは独占する」という思考回路がいたるところに張り巡らされて、だからノホホンとしている日本人の私なんかには息苦しい感じがします。
こうした「欠乏」(=wantの語源)を基調とすると、カラダはつねにプラスの方向へ誘導され、その結果「独占」「支配」「欲望解放」といった志向性になります。このような志向の民族や集団がいま繁栄を謳歌しているわけですが、地球上ではむしろ、こうした「マイナス族」は例外の範疇に属するのではないでしょうか?
例外的な「マイナス族」が、彼らの満たされない自意識(あるいは生存理由)を突き詰めていった先に、高度の抽象化・論理化(唯一神、絶対性、法体系、等々)が起こるのは当然でしょう。具体的な「もの」に満たされていない以上、抽象化された価値を上位に置きたがる心性は理解できないものではありません。
人類はこれまで、かような「マイナス族」が科学技術の爆発発展をもたらし、多数派である「足りている人々」(プラス族)から、資源や富を移動させ、しかもマイナス側のルールに従わせるというかたちの歴史的展開を見せてきました。さっくばらんに言って、そのような「マイナス族のプラス志向」が世界の優勢となった歴史段階を「近代」と総称できます。
私はそうした「マイナス族」の「成果」を大いに評価していますが、だからといってこのまま「歴史の終わり」だとも思っていません。「プラス族」にはプラス族の言い分や生き方が厳然と存在しているからです。
私には「マイナス族」の現状誤認(あるいは惰性的、無意識の錯誤)が世界を危うくしているように見えます。現状はどうでしょうか?世界は既にものが余っています(供給過剰)。金も余っています(デフレの常態化)。この環境下で「マイナス族」は何がもっと欲しいのでしょうか?現状の地位を失うことを恐れているのでしょうか?それとも復讐を恐れているのでしょうか?
私は、こうしたマイナスからプラスへという一方通行の行動原理を「インフレ指向」と呼んでいます。かような人々が世界を一手に取り仕切っているからこそ、今も経済社会は「インフレ指向」(資本を増やす、利益を増やす、金を貸し出せば利子によって増える、等々)のもとに運営されているとしか思えません。
私が”彼ら”と同じテーブルでお話できるとしたら、次のようなことを言ってみたいです。
「ものも金も余っている現実を見てください、それはあなた方の大いなる功績だ。でも戦争や過当競争は得ではありません。むしろ、あなた方と異なる背景や資質をもつ人々を、すべて同じ土俵で管理しようとするからうまくいかないのです。世界統一通貨、大いにけっこう。でも各国、各民族にはそれぞれ独自性があります。多様性は人類というシステムが、任意の条件下でいっせいにクラッシュしないための担保のようなものです。なるべく、そのまま残しておいたほうがお互いにとって得だと思います。それに、いくらお金を膨らましても、地球資源は有限です。担保は有限でお金だけ無限大というのは原理矛盾です。だから、クラッシュを回避する意味でも、あなた方の負担を軽くする意味でも、ローカル社会には独自のローカル通貨を運用する権限を委譲するのが合理的ではないでしょうか」
このように言うと、私が"彼ら"を批判しているように思われるかもしれませんが、批判は批判でも「理屈は通っている」はずです。
また、世界は「プラス」「マイナス」二項対立の単純な場所でもありません。たとえば、奇妙なことに、プラス族のなかにもマイナス族の成果を消化し、適応してしまった民族が存在します。わが日本です。
それがなぜなのか明確な回答を持ち合わせていません。しかし、ひとつだけ強く感じているのは、天皇の存在がキーだということです。おそらく日本は、出発点が空虚(ゼロ)なのです。経済タームで言い換えれば、「デフレ、インフレ中立的」とでも言いますか。
もちろん、どの民族、国家もプラス要素とマイナス要素を両方持っており、どちらの強度が強いかが各自の「主流への対応力」を決めると思いますが、基本的にプラス要素(資源に恵まれた国)は放っておいてもプラスなので、それなりに生きていけます。対して砂漠や荒地の国は、どこからか資源を調達してこないと生きられません。しかし、原則的に(技術的に、と言ってもいいでしょうか)現代の経済はこの問題を解決済みです。だからこそ供給過剰なわけです。
そのような時代に、日本の役割が重要だと思うのは、我々のベースがゼロ(ニュートラル)なので、どちらの立場もとれし、どちらの言い分にも可塑的に対応できる性質を有しているという点です。
以上を踏まえた上で、あっしらさんのおっしゃる「お仲間のふりをしながら、抽象思考と論理構築の力で気がつかれないかたちで“別の方向”に“彼ら”を誘導するという芸」、いわば「虎穴にいらずんば」作戦に賛成します。私のニュアンスでは「誘導する」というより、「根回し、実験、事後承諾」という感じですが。
そして、これが『日米の「愛人関係」の正常化』に深く関わるポイントだというご指摘も急所を突いていると思います。
また、同じ文脈で「現状の制度を利用した国民経済主義政策」が、“彼ら”の合意を取り付けやすく、もっとも実現可能性の高い政策であることにも同意します。
私の言っている案は、ドルや円を世界通貨に見立て、その下へ各国の独自通貨を入れ子にする方式(最上位が空虚)で、あっしらさんのおっしゃっているのは既存のドルや円の上に世界統一通貨(最上位が実在)がかぶさる方式ですが、結果(効果)はどちらでも同じだと思います。ミソは「入れ子」というところにあって、両者を合体して世界通貨→各国通貨→地方通貨(あるいは特定グループ通貨)という風にバリエーションはいかようにも考えられます。
以下次回。