★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 議論16 > 451.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
人間の身の丈にあった社会の仕組みに、どこから近づいてゆけばいいのですか。ご意見を伺わせて下さい。
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/451.html
投稿者 鳥の目と虫の目 日時 2004 年 1 月 31 日 09:54:20:C.KjJ27t0yxbg
 

(回答先: 森永説について 投稿者 あっしら 日時 2004 年 1 月 31 日 00:34:56)

あっしらさん、お早うございます。

-----------------------------------------------------
「ビル・トッテンさんの講演会に疑義を提示するほうが面白そうです(笑)
トッテンさんの思いには共感していますが、デフレ論やマイナス金利論には賛同できません」
-----------------------------------------------------

経済の素養もない者なのですが、ぜひ、もう少しつっこんで教えて頂けないでしょうか。

私がこの講演録を引用して投稿したときに、漠然と頭の中にあったのは、人間の社会的分業の編成に果たす『ストック』の意味と言うことでした。

生身の人間は、どれほど身体能力が違ったとしても、大局的に見れば、ほとんど似たり寄ったり、同じ存在です。毎日飯を食わなけりゃいけないし、背のたけだって2メートル程度まで。
考え得ることだって、しょせんは、生物としての人間という基盤からは離れられないはずです。

そんな人間ひとりひとりが壮大な社会的分業を組んで、いま、我々の目の前にあるこの社会的現実を作り上げています。

たしかに現代社会が成し遂げている結果は壮大なものです。

しかし、その社会的現実を作り上げている端緒をたどれば、根元的な駆動力は、一人一人の生身の人間の意志に裏付けられた活動力に違いないですよね。

もちろん、その社会的分業をくみ上げる上で、さまざまな物質的な媒介物がはさまったり、化石エネルギーで補完されたりしてはいます。しかし、間に挟まった媒介物は、みな意志を持たない、ただの物です。

だから、社会的分業を本源的に駆動させているのは、それぞれの場面で意志をもって現実に向き合っている、それぞれ、一人一人の生身の人間以外はありえないに違いない。そして、たとえその社会的分業の総体がどれほどに壮大であっても、それぞれの人間の意志は、生き物としての一人一人の身体の、その脳味噌の中にしかないものです。

上手く表現できないのですが、ようは、生き物としての人間なんて、みんなほとんど似たり寄ったりでしょ、という感覚と、その一方で、それぞれの人間の、その脳味噌の中につまった意志が、その意志の形を貫徹させて社会全体へ働きかけ得る程度において、天と地ほどに違う立場への分化している現実の人間社会の有様というものの、めまいを覚えるような格差の本源的な原因はどこにあるのか。そして、その落差を縮めてゆくための手がかりはどこに求めればよいのかということです。

どう考えても、現代の社会的分業の壮大さと、生き物としての人間のちっぽけさとの対比は、無理がありすぎるように思います。

しょせん、生きものとしての出自に構造づけられた人間の脳味噌の構造(たとえば喜怒哀楽とか、相手を疑ったり信用したりとか…)しか持たないはずなのに、想像も出来ないほど広範囲の社会的分業にたいして、その意志を届かせようとすれば、そこに関与してくる他人の命を命として関知でし得ないことに起因するさまざまな問題がふきだしてくるのは当然だと思うのです。
逆に、そうした動きへの対抗運動においても、それが逆方向での意志のかたちを、巨大な社会的分業のしくみ全体において実現しようとするものである限り、やはり同じように、人間の認知能力の限度を超えたことに起因するさまざまなゆがみが出てくるに違いない。
社会問題を、それぞれの人間が、意志を働かせて、互いの意志を重ねて十全に舵取りをするためには、やはり動物としての群れ構造を大幅に逸脱しない程度を前提にしなくてはならないのではありませんか。

ビル・トッテンさんのご講演の大切なメッセージとして受け止めたのは、そうした生き物としての身の丈をゆがめる夾雑物としての土地と貨幣という『ストック』に、生き物に擬制した寿命をあたえるという対案、すなわち例外を許さぬ土地課税とマイナス金利という提案でした。

だれもが、生き物としての身の丈の態度と、同じ寿命という枠の中で競い合って生きていれば、今目の前にあるほどのゆがみは発生しないのではないでしょうか。

内田義彦さんが、『資本論の世界』(岩波新書)のなかで
「私有財産制度とは、一般に−つまり資本主義であってもなくても−生きた他人の労働の成果がなんらかの形で私有財産の所有者の手にわたり、その一部が蓄積される。そして、その過去の他人の蓄積された労働が、私有財産として他人に対立し、ふたたびなんらかの形で現在の、生きた他人の労働を吸収する制度である。それだから財産によって生活できる。」(内田義彦1966年)
と書いています。
私有財産制度ということばで表現しようとすると、なんだか色が付きすぎていて、こなれないですが、生物としての個人の意志の『巨大な拡声器』の仕組み、人間の生きのびようとする意欲と実践struggleがもたらす同盟関係と敵対関係を身の丈を超えて促進する本質的な原因である『ストック』の意味について、ぜひ教えて頂ければとおもいました。

どうぞよろしくお願いいたします。

 次へ  前へ

議論16掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。