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(回答先: Re: 人間の身の丈にあった社会の仕組みに、どこから近づいてゆけばいいのですか。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 1 月 31 日 12:18:43)
あっしらさん、今晩は。返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
この度は、本当に心のこもったご返事ありがとうございます。
考えていたことを100%理解して頂いて、そのうえに、あれほどにふくらませてご返事頂いたことに、本当に感謝いたします。
「開かれた地域共同体」という未来像の提示をいただき、昨日、さまざまな文章をじっくりと読ませて頂きました。
もう一つだけ、質問させて頂いてよろしいですか。
じつは昨年末、今の時代についての自分なりの思いをまとめてみた文章があるのですが、それをまず載せますので、はじめに目を通して頂ければと思います。
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.■この広い庄内の大地とそれを作り上げる労働
話のはじめとして、まず、山形県庄内の広い大地についてとりあげたい。
山形県庄内地方は、日本海に面し、最上川等が作りあげた広大な沖積平野の上に広がる日本有数の水稲単作地帯である。この庄内平野には40,000ha弱もの広大な水田が広がっている。圃場整備率80%強の30a区画で整然と整備された水田に、視界の広がる限り一面に稲穂がひろがる秋の風景は、風物詩としてグラビアなどに紹介される機会も多く、はじめて庄内に飛行機で降り立った人々は、みな異口同音に、視線の限りに広がる水田と稲穂に心を打たれるという。空の大きさに驚く。そしてこの一面まで耕作されつくした水田の中に点在する集落の美しさに感銘を受ける。
この空間は、人間の手によって作られた空間である。自然に放っておいては、このような景観は決して存在しない。
たとえば、2000年の春には、この庄内平野で28,700haの水田で水稲の作付けが行われた。統計をひもとくと、山形県で水田10aあたりにかけられている手間数は、2000年現在で、平均すると、およそ29時間になるという。だから、単純にかけ算をしてみると、この広大な景観を誇る庄内の水田には、減反での縮小分を除いても、1年間に実に830万時間余の手間がかけられ維持されている計算になる。
830万時間。これがどれほどの時間の長さか、容易に想像することはできない。
しかし、これだけの労働がなければ、『この空間』は存在し得ないことは確かである。
ここで想像を巡らせて、前近代の時代に思いを馳せて見てほしい。その時代に、これだけの面積に一面に植えられている穂並みは、驚き、感嘆とともに迎えられたに違いない。そしてこの空間の意味、そこに費やされた労働の意味について、我々はその意味を十二分に感じ取れたはずである。
私たちの目の前に広がるもので、人間の手の掛かっていないものはほとんどない。人間は労働を通してこの空間を作り上げてゆく。労働の成果としてこの世が成り立っている。このことは、歴史貫通的な事実である。
しかし、どうしたことだろう。現代に生きる我々には、共同してこの地域と空間を作り上げているという、その思いが共有できない。みんなバラバラ。また個々の労働が生み出している成果についても、その意味のすべてをトータルに理解する感性もなくなってしまっている。
これはいったい何故なのだろうか?社会と空間を作り上げているこの具体的な労働の意味は何処に行ってしまっているのだろうか?
このことをしっかりと考えぬき、言葉に直して自覚すること。これが、現代の農業問題を考える、まずはじめの一歩でなければならないに違いない。
.■きらめくばかりの近代化とそのもとでの労働の疎外
労働の意味を感じられなくなっていった過程は、実は近代化という時代と重なる。
きらめくばかりの近代化の時代。今までの労苦がいとも簡単に解決される。何でも実現できるように感じた時代。ところが同時に、その裏で、この近代化の過程のもとで、年々仕事がおもしろくなくなってゆく過程を、われわれはこれまでいやと言うほど感じてきたのではないだろうか。
近代化とはいったい何なのだろうか。
近代とは、例えば、これまで隣村の鍛冶屋から購入していた農機具を、金で買うことのできる、もっと安くて効率のいい農機具へと切り替えてきた過程であろう。より安くより効率のいいお金の使い方を考える。そういう選択基準のもとに、従来の人間関係を市場での関係へと置き換えていった過程である。
新しいものがつぎつぎと発売される。何でも出来上がっている。できあがりすぎている。そしてそれらのものは、お金さえ出しさえすれば何でも手に入る。消費者は神様です、といわれる。そして、その果てに、消費の次元で我々は実に多くのものを手に入れた。分業によって与えられる効率性を、我々は消費者の立場から、当たり前のように手に入れることに慣れ親しんできた。
しかし、その眼を消費の部面からはずし、生産の部面へと向けてみる。するとそこには、カネにならない物は意味がないという、失意と厳しいまなざしに出会うことになる。
生産の目的は、そこに美意識を体現することではなく、ただただにお金を獲得することである。というよりも、お金にならなければいっさいの労働は意味がない。お金になってはじめてその上に、美意識云々旱ぬんが主張できる。お金にならなければ何一ついえない。カネになるために、カネを手に入れるために、カネにならない物、カネにならない世界を捨ててゆく。捨てざるを得ない。そういう世界が生産の部面には広がっている。
農業基本法における選択的拡大という言葉があった。売れないものは生産を縮小して、売れるものをもっとたくさん作ればよい。いまでは当たり前に聞こえるけれども、それを当たり前と感じなかった時代があったわけである。
カネのみで評価すると、自給という行為の意味が見えなくなってゆく。自給するよりも買った方が安いという事態に直面する。そういう過程を一つ一つ重ねながら、労働の意味が貨幣へと一元化されてゆき、生産における経済の尺度で見た効率化が進んでいった。
しかし…この生産と消費との著しい非対称は、いったい何故もたらされるのだろうか。
なぜそういう疑問をもつかと言えば、本来はそうではなかったはずだからである。
生産と消費は本来は密接に結びつきあった過程である。そもそも生産がなければ消費は出来ない。逆に、どの様に消費されるか、具体的にイメージもできないままに生産するなどと言うことは、本来的にはあり得ない。なぜなら、ある特定の消費という目的を実現するために、その目的に即して、人間はものを生産するからである。生産と消費は、本質的にも、歴史的にも、本源的に不可分のものである。
.■三つの空間への分裂
近代化の過程は、これまで歴史と共同体の中に埋め込まれていた、生産と消費の意味の上での一体性の解体を意味する。
近代という時代。それはひとことで言い表すならば、この密接に結びついていた生産と消費の関係を一度切り離して、ゼロにして、あいだにお金という媒介関係を挟む。そして、もう一度お金の力で両者の関係を作り直していった時代である。あらゆるものがお金と交換可能になる時代、あらゆるものがまずお金と交換される時代。
そして、この過程のなかで、本来的には人間の主体的な営みであったもの、人間の行為における完結性、それが解体されていった。一仕事という形での達成感が見出せなくなっていった。意味が分裂していった。
しかし、一方で、このようにして生産と消費とのあいだに歴史的に作られてきた密接な関係を解体することによって、逆にこれまでは手に入れられなかった高い効率性と生産力水準、そして消費の次元での自由・より豊かな消費者余剰を手に入れてもいったわけである。
この過程は、これまでの生産から消費までの意味の一貫性において完結していた営みを三つの全く異なる次元の空間へと分裂させた。
第一は、所得を上げることのみにその意味が一元化してゆく黙々たる労働の次元。
第二は、生産力を表す、莫大な量の匿名の商品の群。
そして第三は、消費者は神様です、ともてはやされる消費の次元。
我々は、今日のこの社会的分業の仕組みの中で、自らの生産の意味を相手に伝えたいと考える生産者である。しかし同時に、生産の過程から切り離され、それを知るすべもない消費者でもある。つまり、同じ人格の中に、この分裂した二つの顔が同居している。
現代の社会的分業の仕組みのなかでは、生の意味はつぎつぎと、消費の部門へ移っていってしまうという構造的な因果連関のなかに置かれている。消費の立場でのみ我々は総合性を獲得できると言い換えてもよい。つまり、近代の過程の中で、われわれは生産の次元での空しさを、消費によってはらすことで、自分のなかのマイナスをプラスで補うことを強いられている。だからこそ、生活の質は、消費水準、所得の大きさで決まるといわれ、消費の次元のみに特化してゆくライフスタイルが生み出されてゆくことになった。
しかし、驚くべき矛盾ではあるが、消費部面での自らの生を拡充しようと試みれば試みるほど、多様な消費財を入手する根元的な手段としてのカネの重要性というものが増してゆき、それは我々一人一人に、カネの獲得へと労働の意味が一元化してゆくことを強いるのである。そして、その結果として、3つの空間はその総体においてそれぞれに完結してゆくことになる。そして生身の人間の生の全体性は、この3つの世界の中に引き裂かれてゆくことになる。
.■矛盾を隠蔽してきたたががはずれてゆく時代の中で
これだけ厳しい、そして矛盾した体系を曲がりなりにも世界が今日まで続けてきた理由はなんだろうか。日本のそれを振り返ったとき、次の3点が指摘できると思う。
1つはきらめくばかりの未来像であり、1つは政府の行政政策の全面的発動であり、1つは前近代の社会から受け継いだ共同体の遺産である。
しかし、世紀末以降の日本では、これまで矛盾を隠蔽してきたこれらの「たが」が、いま一斉にはずれ始めているように思われる。
いま我々の目の前で進んでいるイエや農業・農村の崩壊は、社会的分業の総体の中で、伝統的な生存の基盤に踏みとどまろうとする人々がいなくなってゆくということを意味するに違いない。生存の基盤に踏みとどまろうとする契機が失われるとき、自分(家族)や仲間だけでは何一つ造り出せないという終末的状況が普遍化し、地域経済を地域経済たらしめていた総合性の本源的な契機は失われ、冷酷な近代化の歯車を押しとどめるものは無くなってしまう。そして、お金がなければ生きることさえできない条件が普遍化すればするほど、「カネの力」が極限にまで高まってゆくことになる。
このような過程を、これからもわれわれは続けてゆくことがはたして出来るのだろうか?
それは無理だろう。ほころびはあちこちに見いだされる。たとえば、我々の前には、人間が人間を殺戮することを正当化する映像と情報が充ち満ちてきている。そうしたものを飲み込まなければ、維持できない社会の仕組みを、承認するか否かという選択が、冷たく我々の目の前に突きつけられている。
では、この近代をどう越えてゆくのか。カネ=経済を唯一の尺度としない具体的な未来社会のイメージをどの様に構想してゆくのか。21世紀という時代をどう考えてゆくのか。
もっとも大切なのは、総合性の契機を欠いた社会的分業の追求は、人間の生の全体性の拡充に寄与しない、ということを強く知るということだろう。総合性の契機を欠いた社会的分業の追求は、これからの歴史の荒波のもとで容易に崩壊し、人間生活の終末的様相に結びつくに違いないということを強く自覚すべきだと言い換えてもよい。
だとするならば、たとえば、グローバリズム(新自由主義)派の指し示す基準のまえに、まず国民経済の拡充を強く心がけるべきだということになるし、また、その国民経済の拡充のまえに、まずは、地域経済の拡充を強く心がけるべきだということになる。そして、その地域経済の拡充のまえに、なによりも家族という絆でむすばれた関係性の拡充を強く心がけるべきだということになり、そして、家族という絆でむすばれた関係性の拡充を心がける前に、1人1人の人間が、ひとつの個としての生の全体性、総合性をしっかりと手に握っていることが重要だということになる。
一つ一つ、端緒に位置づけられる人間の生の場から、ボトムアップの過程を意識しながら、総合性の契機をしっかりと自覚し、人間の生の全体性の拡充を上向的に追求してゆくこと。このことによって、無色透明なカネという媒体によって結ばれたことで、逆に見えなくなってしまった、我々の生の全体性・総合性のその「序列的秩序」を、しっかりと自覚し直して、再構築してゆかなければならない。
この点の深い自覚こそが、新しい農村文化運動の在り方をめぐる問題の出発点になるに違いない。
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さて、読んで頂ければわかると思うのですが、自分なりに問題を考えていっても、一方での、現在はまりこんでいる悪循環の連鎖と、そしてもう一方での、将来に理念的に想起されるかもしれない未来像と、この二つの有様の間が、どのような、“現実的”“具体的”な筋道で結びついてゆきうるのかが、なかなか自分でも言葉になりません。
いまの農業・農村の現場には、実にたくさんの、誠実さとひたむきな努力が払われています。
しかし、一方で、「カネがすべてではない。しかし、カネがすべてを左右する」という現実を嫌と言うほど幾度も幾度も思い知らされてきたのも、現在の日本の農村です。
あちこちに矛盾があるのです。
とりわけ大きな矛盾だと思うのが、「個人」や「自由」という言葉です。
それらは現状の困難から抜け出そうとするときの、大きな一歩でもあり、同時に、我々を裸の存在へと追いやってゆく危険な言葉でもあります。
たとえば、現状のままではだめだと強く自覚した人が、「自己」を強調するとします。
するとそれは、じつは言葉にならないところで、ある種の共同性、従来存在していた総合性を、知らないうちに否定することにもつながってしまう。そして、『現実的』な対案が提出できなければ、その否定性の契機のみが一人歩きして、今の時代の歯車を回す事へと結びついていってしまうのです。
あるいは、たとえば、「自由」に商品を選べる買い物を、多くの人は楽しいと思いますよね。でも、その自由の行使というものは、同時に、その裏側で、その人に自由に選ばれてしまうことで、それ以前にありえていた関係性を否定し切断してゆく行為でもあるということになかなか思いが及ばない。あるいはそれに気がついたとしても、『現実的』に、それ以外の関係を選びきれるかというと心許ない。
そうしたことをすべて考えながら対処できるような生き方なんて、そうそうにできるものとも思えない。あらゆるものが容易に選べなくなってしまう。だからこそ、関係性を切断して自由を行使する側の自分と、相手方の自由の行使の前で切り捨てられてゆく立場の側の自分と、この二つの人格の矛盾を、誰しも飼い慣らしながら、黙々と歩いていくしかないようにも思えてしまいます。
そして、そうした僕らの日常をすべて飲み込んで、この地球を覆っている世界の覇権を自覚する人々は、今まさに、世の中の仕組みを動かしているメカニズムを、淡々とさらにいっそう推し進めてゆこうとしているのです。
マルクスが提起した、『二重の意味の自由』という概念規定をつくづくと思い知らされます。
すなわち、自由とはある種の関係性の切断のうえに成り立っており、人々が自由を高らかに掲げて、嬉々として自由を行使していった果てに、あらゆる既存の関係性から切り離された、自由を行使せんとする心情のみの裸にされてしまった人間が、自らの生存基盤も、濃密な人間関係をも失ってしまって、殺伐とした世界のなかに立っているという状況です。
この矛盾は、いったいどうしたらほどくことが出来るのでしょうか。
自分自身を顧みても、この矛盾の前で右往左往している姿しかなかなか思い描けません。