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ハンセン病の隔離政策は明らかに厚生省側の間違いなのですが
一方で、「偏見」ってなかなか解消しないな、という意味で…。
これが一番厄介なんですが…。
HIVの事でもそうですが、本来施策を決定してきた側に問題があるにも関わらず
責任問題として追求するべき対象の矛先が明らかに違うという印象を持っています。
元ハンセン病宿泊拒否“和解”の裏側
元患者に非難・中傷の追い打ち
「宿泊拒否はホテル業として当然の判断」。ハンセン病元患者の宿泊を拒否し、熊本県から旅館業法違反容疑で告発を受けている同県・黒川温泉の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」側は、なおも言い放った。それでも元患者側は、一度は拒否したホテル側からの謝罪文を受け取った。納得したわけではなく、手紙や電話などでの“攻撃”にさらされ、疲弊の末というのが実情だ。 (早川由紀美)
■入所者高齢… 『決着選んだ』
「謝罪文は、今回の事件の証明として受け取った。まあとにかく、入所者は高齢で、問題を墓場まで持っていくのはしのびない。心労をかけているので、早く決着したい」
国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志町)入所者自治会長の太田明さん(60)は話す。
潮谷義子同県知事が記者会見で宿泊拒否問題を明らかにした前日の先月十七日、太田さんらはホテルを訪れ、前田篤子総支配人と話をした。元患者から感染しないことや、国が隔離政策の過ちを認めていることなどを説明したが「それは、あなたたちと国との関係。国民は関係ない」と突っぱねられたという。
■謝罪拒否に電話100本殺到
知事の会見から二日後、前田総支配人は園を訪れたが「個人の謝罪」として、本社の責任を明確にしなかった。
入所者側は謝罪文の受け取りを拒否。この場面がテレビのニュースで放映されると、その後三日間にわたり全国から百本以上の電話がかかってきた。
「ほとんどが批判、中傷でした。『ごう慢だ』『裁判に勝ったって社会は受け入れてない』などで、年配の人が多かった」
電話が一段落すると、手紙が届くようになった。こちらも中傷の方が多い。
「これはひどかった」と太田さんがいう、はがきの中央に、変形した顔の写真をはり付けたはがきがあった。「人々に嫌悪され、国が差別していたのを謝罪したのをたてにとりいい気になっているが、中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」
■『あらためて社会の本音聞かされた』
その他の手紙にも、入所者らの気持ちを刺すような言葉が並ぶ。「調子に乗らないの」「謝罪されたら、おとなしくひっこめ」「私たちは温泉に行く暇もなくお金もありません。国の税金で生活してきたあなたたちが、権利だけ主張しないでください」―。差出人は名前が書いてあるものもあるが、「善良な一国民」「女性代表」など、匿名も目立つ。
「(宿泊拒否より)そちらの方がこたえました。今は治療薬もあり、普通の病気です。でも医学的に治癒しても、社会的に治癒していない。それが乗り越えられない病気なんですよ」。八歳のときから、恵楓園に暮らす太田さんはぎゅっと目をつぶったまま、続けた。「大正十五年に自治会ができてから、こんなに手紙がきたのは初めてです。あらためて社会の本音を聞かされた。相手を徹底的に懲らしめる。それが今の社会だ」
ハンセン病国家賠償請求訴訟の原告あてにも、同様の手紙が送られているという。「こういうことは、これ以上耐え難い」(太田さん)
■ホテル名公表 県に非難矛先
黒川温泉観光旅館協同組合にも抗議とともに、ホテルの姿勢を支持する電話がかかっている。下城祐一事務局長は「『ハンセン病の人が泊まる旅館を教えてください。そこには泊まらない』などの声もあった。電話では『本当の気持ちを言いますよ』と前置きする人が多い。元患者の方たちが、つらい生き方をしてきているのは事実。ただ、ここに電話をしてきている人がどれぐらい理解しているのか…」と慎重に言葉を選ぶ。同組合は二日、ホテルを組合から除名した。
熊本県にも「ホテルに対するいじめだ」「なぜホテル名を公表したのか」などのメールが「多いときで一日数十件」(健康づくり推進課)届いたという。「何も悪いことをしていない患者らに抗議がいくのは残念だし、心苦しい」とする。
恵楓園のある合志町出身の映画監督中山節夫さん(66)=埼玉県入間市=は「人は人を差別しんと生きていけない本能持ってるんですかね。あの人より自分はまだいいと思って元気になるんですかね」と首をひねる。中山さんが高校生だった一九五三年、ハンセン病患者の子どもであるという理由で未感染児童が通学を拒否される「黒髪校事件」が起きた。「事件が起きているときにも、医者は(未感染児童から)うつらないと言っていたが、父母たちは聞こうとしなかった。教師だった母親は『頭では理解できるが、皮膚感覚や感情では嫌だ』と言っていた」
当時、小学生だった合志町の男性(58)は「患者の子どもと同じ学校に通わせたくないと、反対派が用意した寺子屋みたいな所で勉強した記憶はある。厚生省はうつらんと発表しとったようだが、地元の人は知らなかった。反対の先頭に立っていたPTAの会長も医者だった。今の時代に宿泊拒否が出るのは意外だ。うつらんとにね…」と話す。
中山さんは十六年後、この事件をもとに映画「あつい壁」を製作する。「映画を撮るときには病気が治ることも、患者の子どもが健康なことも当時よりもっと分かっていた。それでも当時の反対派、賛成派に話を聞くと『今同じ問題が起きても反対します』と言っていた。人は知りたくないことは知ろうとしない。知っても、科学や法律は感情や本能に負けてしまう。今度のことを見ると全く同じことが続いている」
■嫌がらせ背景 組織的見方も
強制隔離政策などを研究している富山国際大学の藤野豊助教授は「差別がいくら厳しいといっても、嫌がらせの手紙や電話までというのは考えられない。何か組織的なものではないか」としたうえで、「税金で温泉に行くなという手紙の論調は、国が裁判で示した論理や、裁判を起こす原告らに園長が言っていた話と共通する。『国にやっかいになっていながら何だ』『裁判する元気があるなら出てけ』という論理です。国がばらまいた論理の延長が、手紙などの形で入所者らにはねかえっている」。
母親が恵楓園に勤めていたという、西合志町の四十代の会社員は「子どものころは母親を迎えに行くときとか、正直怖かった。母親はいつも『差別的なことは言っちゃいけない』と言っていた。でも(差別的なことを)言っちゃいけないという表のところで止まっているからだめなんでしょうね。もっと奥の部分で理解しないと」
■ハンセン病 一八七三年、ノルウェーのハンセン博士が菌によって起きる慢性の感染症であることを確認した。末しょう神経や皮膚が侵されるが感染力は極めて弱い。一九四一年に治療薬「プロミン」ができ、治る病気になった。元患者は、後遺症が残っていても菌を持っておらず、感染することはない。強制隔離を基本とした「らい予防法」は九六年に廃止。九八年、患者や元患者が熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を提訴、二〇〇一年、原告が勝訴。政府は控訴せず隔離政策の誤りを認め謝罪した。