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(回答先: 大まかには同意だが、経済問題は情緒的過ぎて本質を見失っている 投稿者 あっしら 日時 2003 年 10 月 14 日 19:32:42)
あっしら様
いつもお世話になります。的確なご指摘さすがだと思います。つまりおっしゃりたいことは、文化的(精神的)な模索だどうこう
よりも、下部構造のほうが上部構造より大事なんじゃないの?ということですね。つまり、それは、文化の問題なんかよりも、
銭の問題や銭の不平等を引き起こす構造のほうが切実ではないのかということですね。なんだかんだいっても大事なのは、文化や
精神性より稼ぐ銭だろということはよくわかります。マルキスト的「文化主義批判」というのでしょうか。私はまったく読んだこ
とはないのですが、テリー・イーグルトンが「イデオロギーとは何か」という本の中であっしらさんと同じようなことを言って
いるようです。
この"守銭奴と倒錯者"対市井の市民のレジスタンスについては、おもしろいやりとりがあります。現代日本版の「構造の罠」と
いうのでしょうか。若い学者の卵の書簡のやりとりなのですが、結構興味深いです。ここに引用(勝手にですが)してみますので、
ぜひ読んでいただければと思います。
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■〔テクノクラシーの構造変動〕
酒井隆史さんは、どっかの雑誌の対談での小泉批判の文脈の中で、体制(という曖昧な表現を使っていたと思う)はある時点で
経世会路線の土建屋的統治システムを諦めて放棄し、グローバルに流動する資本と結びつくことで延命してゆくことを選択したの
ではないか、というようなことを言っていました。
この「体制」がストレートに「政府・自民党」を指すのだとしたらあまり首肯できませんが、もう少し分節化してみたら、どうで
しょうか。
もう一つ補助線を投げると、国際政治学者の遠藤誠治さんは、グローバライゼーションの時代において、国家の役割は後退したので
はなくて、本質的に変貌したのだと論じています。ケインズ的なマクロ政策と福祉国家観のもとに、資本の流動とマーケットを規制
しつつGDPの最適配分を計る国家から、グローバル資本を呼び込むために、資本の自由な流動を保証する制度の担保者としての国家
へと変わってきているのだ、と。
これは、激化する「グローバル・メガ・コンペティション」の中で、国家というのは自由な資本を呼び込むための地ならし役・ハウス
キーパー役になる、ということです。新たな時代の王様は、「グローバル企業」と「資本」であり、国家は新たな王様の要請に答え、
彼らが快適にいられるような場を提供するために、新たな国家間競争を繰り広げる、そうすることでのみ国家のプレゼンスというものが
延命できる、というような感じです。ナショナリストのmasa-nさんから見ると、なかなか暗いビジョンでしょ?
しかし、現在のこの国に溢れる規制緩和路線、「グローバル・スタンダード」万歳路線を見るにつけ、遠藤さんの言っていることには
同意せざるを得ません。危機の言説を振りまきながら、日本が「世界」から取り残されないように、「痛み」に耐えろ、と言う。ま、
これは小泉改革そのままだからわかりやすいんだけど、これを支えているのは誰か。つまり、規制や許認可や公共事業といった「既得権」
を諦めて、新たな生き残りの道を模索している「体制」とは何か。酒井さんが示唆するような「政府・自民党」だとは俄かには信じら
れませんよね。自民党の中もいろいろあるでしょうが、経世会的な体質を切る度胸までは身につけておらず、総体的に見れば永田町は
まあ、「抵抗勢力」なわけです。
では、霞ヶ関、いや言い換えましょう、テクノクラシーはどうか。彼らも「抵抗勢力」と呼ばれてはいますし、実際に「抵抗」もして
いるのでしょうけれども、案外若手を中心に、テクノクラシーの新たな役割というものを意識し始めているんじゃないか。永田町に比
べると霞ヶ関の方が遥かに賢くて目先が利くことは間違いないですし、票田というものが存在しない分意外にフットワークも軽いところがありますから。政治家のほうは、新たにグローバル資本と結びつくように鞍替えするとしたら、一度先生方の総とっかえをしなきゃいけないわけですけれども、官僚のほうは違います。許認可や公共事業にまつわる法体系というのも恐ろしいほど煩雑で、それを操るのはある種の職人芸であったわけですが、グローバル資本の要請に応えるためのシステム整備というのは、間違いなく前世紀の職人芸を越える専門知を要請することでしょう。言うまでもなく、テクノクラシーの権力というのは、操る知識、占有する情報の専門性に依存しています。より専門性の高い知識を占有できることになれば、それだけテクノクラシーの権力は増大するわけであって、くっ付く相手がどこであろうと、それはテクノクラシーの本質的な関心ではないのです。
さて。最初にロングシュートを宣言しておきながら、随分ボールをこねくり回しすぎました。
一番イヤ〜な話はこっからです。
先日朝日新聞のコラムにもあったとおり、ここ数年霞ヶ関の若手が政治に打って出る時は、自民党からではなく民主党から出るのです。霞ヶ関の若手官僚は、むしろ民主党の方が問題意識が近いからだそうです。
僕は行きがかり上、民主党の若手1年生議員たちの政策とか理念とか経歴を、HP(そうゆうヒトのは大抵これが充実している)などで見る機会が多いのですが、大抵はえらく頭のよい「純粋まっすぐ君」が、自民党や霞ヶ関の腐敗ぶりには怒りながら、「アメリカ」やグローバル資本には妙に諸手を挙げちゃっている姿に突き当たります。(もちろん、「小泉改革」とは親和性が高いです)
>現在の政治的な概況をいえば、「理想主義かつ空想主義者」のサヨクを、「現実主義かつ
>場当たり主義」なウヨクが追い込んでいるのだろうと思います。
>ただ残念ながら、どちらの政治勢力も急速に高度化しつつあるテクノクラシーに対抗する術は
>ありません。前者を代表する民主党(共産党、社民党はもはや有効勢力足り得ない)が提出
>する政策理論は、霞ヶ関の頭脳が持っている現今の高度な情報からすればまるでアマチュア
>の代物です。
ですから、このmasa-nさんの見解は、さらに悲観的な方向で修正が必要かと。
今や民主党の新しい主流をなす若手官僚出身者の書く政策は青臭いものでもなんでもなく、逆に玄人くさいテクノクラシー臭が強いからこそ僕はいやなのです。民主党という「スマート」を売りにする政党が、泥臭い旧来の「利権誘導型政治」「許認可政治」を否定することで、逆に新たなテクノクラシーのあり方の代弁者となってゆくことこそが、現在最も怖いのではないかと思っているのです。
さらに言えば、自民党は総体としては経世会的な古臭い体質を切れないとは言いましたが、若手などでは新たな胎動が始まっていると思います。加藤の乱以降、もう一本の自民の柱であった保守本流=宏池会系は雲散霧消しています。この勢力が民主党の若手とくっ付いたら、どうでしょうか。
さあ、ここで、この書簡の出発点に戻ってしまいました。例の暴動に関する6・1の日記に書いたように、「対抗勢力」がテクノクラシーと結びついてゆくこと、専門知を得ないと対抗勢力にもなれないことで、僕らを窒息させる閉塞感は完成するのです。
民主党が、社会党→社民党という反面教師を他山の石としながら、責任を果たす野党になりたい、というのはわかります。また、55年体制化の社会党のような政党を、現在の時代情勢は必要としていないでしょう。
しかし、しかしです。与党がズブズブと腐敗に塗れて動きの鈍い巨象で、第一野党がスマートな新世代のテクノクラシーの価値観と同化してしまったとしたら、民草の出口はどこにあるのでしょう? 少なくとも民主党は、シアトルやジェノヴァで起こったことの意味というのを、もう一度真剣に考え直し、どこに軸足を据えていくのかをしっかり見定める義務があると思います。
はぁ。自民党のことを考えると怒ることもできるが、民主党のことを考えるとやるせなく虚ろな気分になる。だから、この件についてはできるだけ語りたくなかったのですが...
(念のため一応付け加えておきますが、僕は構造改革というものが行政機構やシステムの効率性を高めるものであるのならば、それが不必要だ言い切っているわけではありません。ただ、それが何のためになされるのか、誰を利してしまうのか、誰を疎外してしまうのか、どういう権力の構造転換をもたらすのか、ということをよくよく考えなければならない、ということです。荒っぽく簡単に言えば、少ない資源を有効に分配するためということが本義ならそれでよいのですが、「日本の格付けを戻す」ためだけに構造改革されるんじゃたまらない、ってこと。もちろん「格付けが上がる」=グローバルなマーケットに高く評価されることがもたらすクルーシャルな意味も、ある程度はわかっているつもりですけど。)
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■「魔の山の麓にて」
返事が遅くなりました。すいません。こちらも、テクノクラシーと商売しつつ働いているもので。
しかし、前信はロングシュートでしたねえ。こちらのサイトの読者からはいろんな意味で驚愕の声が上がっていましたよ。そして最も重要で反響も大きかったことは、現在の政情をめぐる議論、対立の軸が混乱しているということが、はっきり見えたことでしょう。
余談にはなりますが、せっかくだからちょっと民主党に触れておきましょう。民主党の曖昧さを示す問いのひとつは、「なぜ労働組合が民主党を支援しているのか?」です。前信にあったように、民主党の政策がプロレタリアートの生活を資することにおそらくつながらないだろうことははっきりしています。それなのに、なぜ組合(「連合」)は、民主党を支持しているのか。
簡単に考えれば、共産・社民両党の力がないから、民主に託さざるを得ない、ということでしょうね。そして民主党が、世論の支持を最も多く受けている野党である、という現実は否定しようがない。
そしてそれゆえに、「連合」は民主支持の世論に「乗っかった」のです。ここは重要です。かつての「総評」は、労働者の給料を上げる、雇用を守るという共通の目的を社会党と持っていたわけです。でも、連合と民主党の関係はそうではない。
経時的な関係を見れば、民主党に集まった支持に連合が「乗っかった」というべきなのです。それは、自民党と一緒になる気はないから自民党と闘う相手だったらどこでもいい、といわんばかりの投げ遣りな選択といってもいいぐらいです。同時に、世論の支持に乗っかることで、組合活動を崩壊させないための手段でもあるでしょう。いずれにしても、組合にとって有効な目的はありません。
ついでですので、民主党そのものに一貫した明確な政策目的がないことを、駄目押しながら付言しておきましょうか。鳩山・菅・横路の民主党ビッグ3の考えが一致していないことは言うまでもないですね。鳩山氏は中曽根康弘元首相を師と仰いで大統領的に権限を集中させたスタイルの首相を目指しているようです。菅氏はかの薬害エイズの一件以来市民派と目されているけれども、10年程前に小沢一郎さんが憲法前文を踏み台にして国連軍への自衛隊参加を可能にしようとしたときに、「いや、国連軍は参加する必要も助けてもらう必要もありません。安保に基づいて米軍と自衛隊が敵を撃退すればそれでいいんです」と言ってのけた、実は小沢以上のウルトラ・タカ派です。横路氏はそれでも、自分こそが反安保・平和中立の旧社会党の理念を受け継ぐ正統だ、と心のどこかで今でも思っていることでしょう。
だから、彼らは小泉内閣の政策への見解を求められたりすると妙に意見が対立してしまう。今度の党首選挙が見ものといえば見ものですが。野党第一党についてこう書いているだけで、暗澹たる気分になりますね。
さて、その最大野党の売りは「若さ」と「知性」です。時代劇に出てくる老悪代官みたいな人たちがずらりと顔を並べる自民党守旧派と違い、若くて頭がよくて、脳味噌が柔軟で、きっと東大か慶応かなんか出ていて、うまくいけばアメリカにちょっと留学してMBAかなんかとっちゃったりなんかして、でもそんな金もないドメスティックな奴も松下政経塾かなんかの出身だったりして…、とまあ、そんなイメージでしょうか。
僕が問題にしたいのは、そのうちの「知性」ですね。頭のいいことは結構なことですが、しかし問題は、その「知性」があまりにも限定されたものだからです。古代のギリシア人がいった「フィロゾーフ」でもなく、中国人がいった「智慧」でもなく、近代ヨーロッパ人が言った「理性」でもない。
その「知性」とは何かといえば、限定された前提に基づく合理的思考、すなわち、ものごとを数値化して『コスト(費用とか手間)&ベネフィット(利益とか役に立つこと)』の計算式に置き換える考え方です。
しかも、この考え方には正解が二つしかありません。個人や企業、それに国家などの単一の行動主体についての問題では、その利益を「最大化」するという正解(これがいわゆるミクロ経済学)。国際社会や日本経済など、複数の行動主体についての問題では、その利益配分が「最適化」されるということです(これがいわゆるマクロ経済学)。
いいですね。世の中わかりやすいということは。僕も、『コスト&ベネフィット』の考え方そのものを否定するわけではありません。資源は常に限定されているのだか、その配分の問題は常に付きまとう。
ただ、僕が問題だと思っているのは、その「知性」を振りかざす人々が、それを万能だと思っていることです。いや、もう少し正確に言いましょう。この「知性」なるものは、20世紀後半のアメリカ政治ならびにアメリカ資本主義が圧倒的に優勢になったという、あるひとつの歴史的状況の中で支配的になった考え方である、ということを、彼らが知らないし、また、誰も言わないということです。
この「知性」とか「合理性」の問題は、より理論的に考える必要がありますが、それには今の僕はあまりにも準備不足です。込み入った議論はここで打ち止めにしますが、われわれに降りかかっている抑圧、あるいは閉塞を突破するためには政界・経済界・社会の言説のなかで「知性」「合理性」という思考が占めている位置を的確にとらえる必要があると僕は思っています。それはまた、次の課題にしましょう。
いずれにしても、この「知性」というものが、いま、支配的な立場にあることだけは確かです。
ところで、前信で、
激化する「グローバル・メガ・コンペティション」の中で、国家というのは自由な資本を呼び込むための地ならし役・ハウスキーパー役になる、ということです。新たな時代の王様は、「グローバル企業」と「資本」であり、国家は新たな王様の要請に答え、彼らが快適にいられるような場を提供するために、新たな国家間競争を繰り広げる、そうすることでのみ国家のプレゼンスというものが延命できる、というような感じです。ナショナリストのmasa-nさんから見ると、なかなか暗いビジョンでしょ?
という一節がありました。いや、もちろん暗いビジョンだとは思っていますが、何もいまさら絶望するほどのことでもないかな、と思います。むろん、「ダヴォス会議」を思ってのことです。
ダヴォス会議は、正式名称「世界経済フォーラム」。毎年、スイスの保養地であるダヴォスで開かれます。ここに、世界の有力企業のトップが集まって経済のことを話し合うわけですが、ここ10年ほど、各国首脳が集うようになりました。ある意味では、サミット以上に大きな意味を持つ会合になってきています。
今年の世界経済フォーラムは、昨年の9・11を受けてダヴォスを離れ、ニューヨークで開かれました。日本のメディアは、世界がいかに協調してテロと向き合い、戦いをなくすかという話し合いだ、などと能天気なことを言っていましたが、実態は決してそんなものではない。ここに集まる世界のトップは、みな、自国がいかに魅力的な投資先かを経済界に訴えるためにやってきています。
しかも、訴える先は、アメリカがその大半を占める世界的な多国籍企業と、金融界に大きな影響力をもつ投資会社です。「あなた方にとってわが国はこんなに魅力的な投資先です。投資してくれれば、これだけのリターンが期待できます。税制についても、あなた方に損はさせません。だから投資して、お願い」と各国の首脳が(事実上)頭を下げる。もちろん、98年のタイ、韓国、南米、ロシアと続き、アメリカでもLTCMの破綻を招いた金融危機以来あまりに極端な例は減ったとはいえ、その基本的な構図は変わっていません。
ですから、今年のフォーラムでも、最大の話題はテロ後の世界をいかに運営するかというような政治的なものではなく、アフガニスタンでのタリバン消滅後、中央アジアの天然資源利権を誰がいかに活用し、分配するかというテーマであったはずです。
その利益の分配に預かるべく、各国政府は経済界に頭を下げます。そうしなければ、国家としてのプレゼンスを維持できない、という指摘は正しいでしょう。その国家の弱味から、「コスト&ベネフィット」の考え方が世界中の国々に普及していきます。そしてそれは、多くの庶民の暮らしからいろんなものを奪っていくことでしょう。富める者を富ましめ、貧するものを追い込む。ダヴォスは、トーマス・マンの『魔の山』にも出てきますが、まさに現代の「魔の山」の入り口と化しています。
このことを、もう少し理屈っぽく俯瞰してみましょう。
国家にとって、プレゼンスを維持するための経済との付き合い方は常に難題でした。古代・中世の国家は、商業経済、特に国境を越える商業経済を抑制することで国家としての一体感を維持しました。
それがやがて、絶対王制国家と植民地資本が結びつく過程を経て、革命を経た近代国家は産業資本主義と結託し、ハード・ソフト両面のインフラを整備することで国家と資本がともに長期的に発展する道を選びます。われわれに馴染みの深い国家がこれです。
ハード面のインフラ整備というのは、たとえば鉄道を走らせる、道路を引く、電気を作る、電線を引く、ガスを配る、といったことです。ソフト面のインフラ整備というのは、教育をする、社会福祉を整備する、といったことです。総体として公共投資と言っていいかもしれませんが、この国家による投資は、その後、さらに大きな回収をするための仕組みです。
むろんこの仕組みだけを考えれば、かつてジョージ・オーウェルが『1984』で書いたように、人間を労働力としてのみ生産する、いわば奴隷化するひどい社会です。人々は、その「労働力再生産」の仕組みのなかで、参政権を筆頭として生存権やら信教の自由やら思想・表現の自由やらといったものを獲得し、どうにかこうにか人間らしい生活を営むことができるところまでもってきました(むろんそれは先進国に限定された話かもしれませんが)。
ところがいま、国家は、国内の産業資本と結んでいた手を切り、国際的な金融資本と手を結んで国家としての存続を図ろうとしています。ために、近代産業資本と国家の結合の中で培ってきた国民のためのさまざまな施策が、効率化、自由化の名のものとに切り捨てられようとしています。極端な言い方ですが、より巧妙な奴隷化が、始まろうとしています。
その奴隷化のための道具は「知性」です。万能であるかのように言われながら、きわめて限定的な意味での「知性」。「知性」のない人間は奴隷化されていくのです。
具体的な例として、ペイ=オフをめぐるスマートな議論を挙げてもいいでしょう。僕はペイ=オフそのものに反対ではないですが、しかし、「預金者の自己責任」という言葉に常に疑問を感じます。銀行がつぶれて預金が帰ってこなかったら、それは、そういう銀行に預けた預金者にも責任がある。
それはそのとおりかもしれない。しかしその前提は?預金者は常に、金融市場の動向に注意を払い、すべての情報を収集し、的確な判断を下して自己の預金を最大化する戦略を選ば「なければ」ならない。もしもその結果として預金を失ったとしても、それは預金者の「知性」の不足であって、彼/彼女の責任である。
尤もな議論です。しかし、二十四時間コンピューターのモニターと向かい合って株や為替の売買のタイミングを見計らっている金融トレーダーならいざ知らず、農作業をしたり、バスを運転したり、土方工事をしたり、スーパーでパートをやったりしている圧倒的多数の姿勢の人々が、どうやったら「すべての情報を収集し、的確な判断」を下すことができるのでしょう?それができないことが「知性」の不足、と非難される謂れはどこにあるのでしょう?魔の山の麓にて聞こえてくる言葉は冷徹で非常です。
最後に現状に話を戻しましょう。まず民主党。霞ヶ関から永田町に鞍替えした多くの官僚出身の議員は、「知性」の持ち主です。おそらく菅直人さんは、その「知性」派の最右翼でタカ派の政治家でしょう。彼だったら、何気ない顔で社会保障の切り捨てをやってしまう可能性があります。
それにとどまらず、守旧派の老先達に抵抗しようとする自民党議員たちもそうでしょう。小泉首相は、彼自身に「知性」があるかどうかは別として、「知性」が求めるスタイルを具現化しています(竹中さんの抜擢はその証左です)。ゆえに、民主党が時折彼の支持に回ってみたりする。
してみれば、今後「老害」を振りまく自民党政治家がいなくなったとき、霞ヶ関も永田町も、保守も革新も、攻める側も守る側も「知性」を武器にしなければ戦えない。だが、「知性」から疎外された人たちはどのようにして生きていけばよいのか。
もはや選挙における代議制すら有効な発言方法ではないときに、その逼塞感を表明する方法としては「暴動」しかないのかもしれません。それは言葉です。発言です。しかしながら、「知性」が圧倒的に支配的な言説となった現在、「暴動」によって表明されるはずの言葉は言葉として認知されないのです。
そのことを官僚も市民活動家も認識できずに「知性」の言説空間の中で言葉を弄ぶ結果になっています。(以前、僕が、民主党の政策を「児戯」と評したのは、権力を持たない側が権力側と同じ言葉を使用することの虚しさ、と理解していただけると幸いです。)そして、言葉として表明するには「知性」を用いるしかない、というジレンマがわれわれを縛っています。
さらに厄介なことに、「知性」が支配的な言説となった裏に誰か特定の人物の意志が働いているわけでもなさそうです。暗黒界の支配者がいて、すべてはその陰謀であると解釈するのは簡単なことです。しかし、もっとも支配者に近いと思われるアメリカの企業ロビイストたちですら、その言説空間が用意したその席にたまたま座っているにすぎないでしょう。実体でありながら実体でないというアンチノミーがこの「知性」の正体です。
とはいえ、この「知性」の解体こそが、疎外からの回復の条件になるだろうと思います(うおおおおおおお、アルチュセール派のマルキストみたい!)。むろんそれは、ニュー・アカ的な解体ではなく、「知性」が発生し、支配的な言説となった歴史的な諸条件を明らかにすることで、それが普遍的なものではなくある特殊なものである、ということを示すことになるでしょう。ヨーロッパではすでにその動きが戦略的に始まっています。日本でもいずれ、それが必要になるのではないかと思っています。
しかしながら、悠長なことを言っている場合でもないようです。「魔の山」からの響きは、どうやらすぐそこまで、しかも大音声で聞こえてきているのですから。
付記として
事態を把握するために火急必要な認識のひとつとして、「知性」の宣教的な役割を背負っている「構造改革の改革派」の正体を見極められるようにならなければならない、ということがあるでしょう。僕の見解では、同じ公共事業見直しを唱えていても、たとえば猪瀬直樹氏とたとえば竹中平蔵氏は全然考えていることが違う。竹中氏は圧倒的な「知性」派であるのに対し、猪瀬氏はより穏健です。にも関わらず、両者は同じ改革派として攻撃を受け、学者肌だと罵られています。守旧派に言いたいのは、ここで猪瀬さんがいなかったら、とめどなくなるだろうということです。
竹中氏と猪瀬氏の違いは、かつてあなたと話したこともある、経済成長に関する「プラス・サム」と「ゼロ・サム」の考え方に対比できるように思います。「知性」の特徴は圧倒的なプラス・サム思考にありますから。このあたりから、すこし展開を図りたいところです。僕はテクノクラシーの波にもまれつつ「知性」について考えたいのですが、そのためには20世紀の社会学を渉猟することと、19世紀の新古典派経済学の効用理論について考えなければいけないでしょうね。道は遠い。
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■「「知」と<智>のあいだの深淵」
ええ、遠目からのシュートを打ったら、止められた上に鮮やかなカウンターを喰らってしまったようで(笑。 今日は少しスローダウンして、ややセンチメンタルに書きましょうか。masa-nさんのカウンターが決まってても何とか防ぎきれてても、こういうときはとりあえずGKは前線にボールをフィードせずに、ディフェンダーに球を回させて試合を落ち着かせるものです。
ダヴォスのことは詳しくないし、民主党のことをこれ以上話しても生産的でないし。ケインジアンと結びついた「福祉国家」観の落日という問題もありますが、ちょっとまたの機会にということで、とりあえず今回は、masa-nさんが挙げたキーワード、「知性」の問題を少し考えてみることにしましょう。
とはいえ、あなたも指摘したように、この問題を語るのに必要な19世紀プラグマティズムの系譜や、倫理学とまだ分化していなかったころの「古典派経済学」などに関しては、まるでズブの素人なので、大したことも言えやしませんが。
僕のサイトにも載っけましたとおり、イギリスの、いや、ヨーロッパあるいは欧米圏(世界、といいたくない部分はありますが・・笑)の批判勢力のひとつの牙城であったバーミンガム大のカルチュラル・スタディーズ学部が、いま風前のともし火になっております。パーソナルな文脈でも、CS内部の文脈ででもいくらでも語ることはあるのですが、まずは何としても、この事態をグローバライゼーションの時代に世界中のアカデミズムが直面している問題の象徴として捉える必要があります。
大学(経営)の私有化と自由競争、各大学の研究業績や「社会貢献寄与度」の算出と評価、トップ30校への重点的な予算配分と下位校/学部の統廃合… バーミンガムのCSをここまで追い詰めたのは、間違いなくこのようなグローバル化時代のネオ・リベラルな政策の直接的なアカデミズムへの(外在的)介入/(内発的)浸透です。
言うまでもなく、「独立行政法人化」に揺れる日本のアカデミズムも、無縁どころかそのまんまの状況に取り巻かれています。そもそもイギリス型の「大学業界の構造改革」をモデルにしているのですから当たり前といえば当たり前ですが、国公立/私立を問わず、どこの大学でも経営の建て直しと、大学院を中心とした理系(応用部門に限る)・ビジネス系学科の強化と、人文系学科への皺寄せが進行しています。
そして、masa-nさんの言うところの「知性」、限定された前提に基づく合理的思考に基づく「知性」は、この全世界的な大学再編の中で間違いなく強化されるほうの学科や学部に属し、むしろバーミンガムのCSに代表されるような形の人文系学科を、「コスト&ベネフィット」から「切る」側にあります。
しかし、そうした「コスト&ベネフィット」の「知性」の必要性を認めた上でなお、間違いなく「切られる」側に属する僕はあえて、切られる側のあり方を<智>とやや気恥ずかしいほどの言葉であらわしておきたいと思う。
そして、現在世界的に進行しつつある、大学における<智>の圧殺傾向に、やはりしっかりと意義を唱えておかなければならないと思います。
僕の最も好きなイギリス映画のひとつに、「マイ・ビューティフル・ランドレット」というのがあります。極右のはびこるサウス・ロンドンの下町で、幼馴染だったパキスタン系青年オマールとの再会を経て、ダニエル・デイ・ルイス演じるイングリッシュのジョニーが葛藤し、成長してゆくお話です(ただし、最終的に、オマールとジョニーの男同士の恋愛という要素を持ち込んで、ファンタジックに(見せ掛けの)解決を図ってしまうところが頂けない映画なのですが)
オマールの父というのは、挫折を経てアルコールに溺れる元社会運動の闘士でインテリという設定の老エイジアンなのですが、彼が、「小さいころ勉強を見ていた」ジョニーが極右青年に変貌しているのを見て、ジョニーをとくとくと諭す場面が僕は好きです。
「いいか、大学に行け、大学に行けば、誰が、誰に、何をしているのか、わかるようになる...」
もちろん、こんな風にナイーブに現在の大学という制度を見ることは僕もしませんが、少なくともこの言葉は大学(の人文・社会系学部)が果たすべき<智>の再生産のあり方の理想的な形のひとつを、的確にあらわしているような気がします。
僕は智というものを、ある集団が占有するある一つの知的形式とは考えていません。その意味で、「エリート」層の占有物である合理的思考という「知性」の対極をなすものです。「智」とは、市井のすべての人々が生き抜くための智恵、エスノメソドロジーで言うところの「エスノメソッド」です。あるいは、ロシアの民話をひいたアイザイア・バーリン言うところの「ハリネズミの智」です。社会が、さまざまな集団により、さまざまなリアリティから構成されている以上、そのそれぞれの小さな「智」のあり方は相互に異なるものです。そこには、「最大化」と「最適化」だけが解などということはなく、無数の正しさがあります。
そして、大学人が提供し、大学という制度的な場で再生産すべき「智」のあり方というのは、そうしたさまざまな「智」の中に分け入りながらも、さまざまな「智」の配置を俯瞰して見取り図を描くような形の<智>。オマールの父さんのいうところの<智>であり、バーリンの言う<キツネの智>なのではないでしょうか。
ちょっと抽象的な表現に過ぎるでしょうか?
言いたいことをまとめると、以下のような感じです。
@社会は異質な他者から構成され、それぞれがそれぞれのリアリティを持って生き抜いている以上、社
会にはさまざまな「智」があり、さまざまな正解があるということ。
A異なる形式の「智」を俯瞰し、相互の「智」の関係を見取るためには、(少なくともこれまでは)アカデミ
ズムという制度が提供してきた訓練を積んで、ある形式の<智>を獲得することが有効であること。
Bアカデミズムにおいて<キツネの智>=俯瞰的な<智>を得るためには、地を這うような小さな「智」
に目を向けることこともまた必須要件。
C言葉の真の意味で「他者」の存在を理解すること=異なるリアリティと「智」に基づいて生きている
「他者」がいることを理解することを通してのみ、俯瞰的な<智>を獲得することができる。
あ〜、うまく頭ん中がまとまってないから、ますますわけわかんない度が増しましたね。なんとなくでも伝わります?
もっとも荒っぽくいうと、社会はさまざまなリアリティから構成されていることを知ること、それを理解しようと努力したうえで訓練により得られた俯瞰的な視点で何ができるか考えること、それが僕の考えるアカデミアの<智>の理想型であります。
手前味噌ではありますが、バーミンガムに由来するCSのもっとも良質の部分は、そうした<智>を求める修練の場でありました。少なくとも、そういう意識がありました。
そこでは、上記のような<智>に至るために、やはりマルクス主義という契機が重要な一助となっていました。
masa-nさんが前回語っていたような、現在の世界を覆いつつあるような「知性」は、基本的に社会をひとつの統一体と捉えるコンセンサス・セオリーに依拠しています。社会のすべての構成員は、「合理的」に一つの価値を最大化しようと思っているに違いない、という想定をかけるわけです。そうでなければ、あれほど安易に「最大化」と「最適化」などという、たった2つの解を振り回したりすることはできません。
マルクスの基本的な視座のうちで、もっとも重要なことのひとつは、社会はコンフリクトで成り立っていると捉えたことです。マルクスは、社会は利害の異なるさまざまな集団(つまり、古典的なマルキシズムでは「階級」です)で成り立っていると考え、結果として社会は常に本質的に対立を内包していると考えた。
この立場を、階級というひとつの変数だけに閉じ込めないで拡張すれば、上記のような<智>を獲得する有効な視座の出発点になり、傲慢な「知性」を相対化し解体する一助となりえます。それは、「他者」の存在をセンシティブに認めてゆき、彼らの持つリアリティと「智」に謙虚に耳を傾けてゆく道筋でもあります。
他者のリアリティと「智」がさまざまであるならば、彼らの求めるもの、必要とするものもまたさまざまであるはずだ。ならば、他者の声に耳を貸さずに、極端な条件の捨象と単純化の上に成り立ったモデルで導き出された、「社会全体」の「最大化」や「最適化」など、ひとつの参考点でしかない・・・
しかし、そういう<智>を得るべく鍛練する場こそが、もっともコスト的に成り立たなくなりつつあるので、「知性」の側によって、いま世界中で次々に潰されていこうとしているわけですよ。ですので、現在の形での「大学再編」に対しては、何重の意味ででも危険性があるわけです。
いやー、今日は自分で読んでも結構ぐちゃぐちゃですな。ビーチを往復する間に取り組むには、困難すぎるテーマだったか。マルキシズムが現在のグローバル化した世界において果たすべき(限定的な、しかし重要な)役割というのも、もっと話すべきだったのかもしれませんが、とてもじゃないけど纏まりきれませんので、またの機会に。
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■「カルチュラル・スタディーズの財産」
また返事が遅くなりました。往復書簡を一月近くもほったらかしているようではいけませんね。
本当なら、資料となるべき本を読んでそれから書きたかったのですが、さすがにそこまでの余裕はありませんでした。そういうわけで、今回は情緒的な返事になろうかと思います。
まず、読者の皆さんに。われわれがいま問題としているのは、イギリス・バーミンガム大学のカルチュラル・スタディーズ学部が閉鎖されようとしていることです。カルチュラル・スタディーズとは何かということをごく大雑把に言うと、わたしたちが生きている社会にあるさまざまな文化、たとえば漫画、歌謡曲、文学、スポーツ、ファッション、その他諸々のことが、実は大変政治的なものであって、たとえば社会の支配−従属関係に影響を及ぼしているのではないか、という批判を行う学問です。
われわれがこれまで話し合ってきた文脈に即して言えば、多国籍企業や国際金融資本が活動する場所を広げるための「自由競争はよいことだ、社会保障を切り捨てよ、効率性を高めよ、弾力性を高めよ…」といった価値観が、(誰の意図というのではないけれども)われわれが暮らす社会の文化の中に浸透させられているのです。
その「支配的」な価値観に囲まれた中で、市井で暮らす人々はどのように生きていくのか。どのように「支配的な文化」を解釈し、利用しようするのか。それを研究するのが「カルチュラル・スタディーズ」です。そして、80年代にその研究の中心地となったのがイギリスのバーミンガムなのです。
さて、バーミンガム、そしてカルチュラル・スタディーズと言えば、僕が愛蔵して手放さない一冊の本を挙げないわけにはいきません。いまや古典と呼ばれるウィリスの『ハマータウンの野郎ども』。これはほんとに傑作です。研究書として書かれてはいますが、内容はむしろドキュメンタリーというべきです。リサーチ現場のドラマをふんだんに盛り込み、それ自体で舞台演劇の原作たりうるほどの圧倒的な面白さに満ちています。
(社会学的な研究書は現場でのリサーチが重要なので、興味深いルポルタージュ風になる例があります。他には、ブルデューの『世界の悲惨』や、ちょっと古いところで見田宗介『まなざしの地獄』などがあるでしょう。)
舞台は、バーミンガム近郊の労働者が住む街・ハマータウン。その街の中学校に通う男子生徒たちは、大きく二つのグループに分かれます。かたや、体制的な教師が口やかましく説教する、既存の社会規範に従って勉強し、危ないことには手を出さない品行方正な生徒たち。もう片方は、そうした規範に逆らい、パブに出入りしタバコをふかし、街角でイカした女を口説く不良少年たちのグループです。不良たちは自分たちのことを「野郎ども」と自称し、体制派の「耳穴っ子」とは違うのだ、と粋がってみせます。
この、どこにでもありそうな新興住宅街の中学校を舞台に、ウィリスは少年たちを仔細に観察することで、以下のことを発見していきます。酒・タバコ・女という「野郎ども」の嗜好は彼らにとって、「耳穴っ子」から自分たちを区別し、社会的にも優越性を示すための社会的な記号として使われている、という事実です。重要なのは、体制的な「大人」の社会では商業的な記号としての意味合いが強い「酒・タバコ・女」を、彼らがある程度自律的に、自己表現のために再解釈して使っていることにウィリスは注目します。
のみならず、「野郎ども」の社会観や時間概念を調べることで、彼らが学校体制をはみ出し授業にも出ないのは、「将来の仕事や社会的地位のために今を犠牲にして勉強せよ」という体制(教師)の時間の使い方についての考え方を「相対化」、つまり茶化すためであることを明らかにしていきます。
しかしながら、彼らにはハッピーエンドは待っていない、という悲劇までをもウィリスはきちんと描いています。体制を茶化し、はみ出すという彼らの能動的な行為は、しかしそれゆえに、彼ら自身を(彼らの親がそうであるところの)労働者階級に結びつけ、「西欧資本制社会の下積みとなる運命に、自らの手で自らを貶めて」いくのです。こうして、ウィリスは社会的かつ文化的な再生産を微細に描くのです。
むろん、現代のカルチュラル・スタディーズ研究が『ハマータウンの野郎ども』を無批判に受け入れているわけでないことは承知しています。対象領域との文化人類学的な距離の取り方、エスニシティやジェンダーといった社会的問題に無関心なこと、などなど。
しかしながら、僕が今もこの本を愛してやまないのは、ウィリスの以下の言葉です。誤り承知で意訳してみます。
社会を作っているメンバーである個人個人は、支配階級や上層階級がメディアを通して広めているエリート的な価値観やものの考え方を黙って受け入れているだけではない。よしんば、結果として、親の世代と同じような社会階級の構造が子どもの時代にも再現されてしまい、傍から見れば下層階級は身動きが取れないようでも、個人個人はあくまで、体制側の考え方に逆らったり、戦ったり、よく吟味をしたり、ときにはその考え方を変えてしまったりする存在なのである。
「資本主義社会」というのは往々にして、上層階級が下層階級を目に見えないように、暴力を使っていないかのように巧みに支配することにおいては完璧だと考えられている。けれども、事実はそんなものではない。自由と民主主義を合言葉とする現代の資本制社会は、実のところ、支配階級の個人個人と、被支配階級の個人個人とが毎日毎日絶えることなく文化をめぐっても闘いを続けている社会なのである。(下線引用者)
社会的には従属的な立場に立たざるをえないプロレタリアート(あえてこのマルキストな素振りの言葉を使っておきましょう)は、決して、支配階級によっていいようにコントロールされている存在ではなく、自律的に解釈し、行動し、戦う「主体」である。毎日は決定論的な、答えがあらかじめ定まった世界ではなく、答えの見えないせめぎ合いの繰り返しである、という彼のマニフェストは、社会関係についてなにがしかの考察をしようとする人間にとって、共通の勇気となりうると思います。
なおかつ、その無意識な抵抗、行動を「言葉」で表現しようという試みは、さらに勇気と努力を必要とします。そのために、学問への扉、知識への扉が複数、大きく開かれていることは重要なことです。あなたが前信に書いた、
「いいか、大学に行け、大学に行けば、誰が、誰に、何をしているのか、わかるようになる...」
という言葉は、大変示唆的です。いろんな学問と研究が渦巻くアカデミズムの世界は、多用な社会解釈の方法を可能にします。ふだんは目に見えない社会の構造を言葉によって捉え、意識化し、支配的な価値観に抵抗するための手段を与えるのです。
その、絶え間ない日常の闘争を言葉にする努力を払ってきたバーミンガム大学のカルチュラル・スタディーズ学部が閉鎖される。しかも合理性、効率性の名のもとに。そしてそれはイギリスだけの出来事ではありません。Igarashi氏が指摘しているように、わが国でも大学の独立行政法人化、あるいは「トップ30」への重点的予算配分などにより、効率的でない学部の切り捨てが行われようとしています。
ここで「効率的でない」とは、市場的な価値がない、というふうに捉えていいでしょう。極端な言い方をすれば「商売にならない」ということです。文化論やカルチュラル・スタディーズが商売にならないことは言うまでもありません。いやむしろ、文化論やカルチュラル・スタディーズは「商売になるとはどういうことか?」「なぜこの文化の中でこの商売は成立するのか?」を問うべき学問ですから、単に価値がないばかりか、市場的な価値観にとって厄介な存在でもあるのです。
今にして思えば、1990年代の半ばにしてすでに、われわれが在籍した駒場キャンパスがそうであったように思います。往年の旧制一高の流れを汲む、という建学当初の教養主義的なプライドはむしろ嘲られ、アメリカ留学経験を持ち、数理モデルを使って合理的な解答を導き出すことに長けた教官たちが主力となっていました。そのなかで、われわれが出会った場所が、1960年代の古き良きハーヴァードに文化人類学を学んだ先生のゼミであったことには、多少の必然性があったように思います。
長くなりましたので、僕個人の検討課題を二つ。
ひとつは、僕自身の卒論の再検討をすべきだろうということです。僕の卒論は、「異文化交流における一般数理モデル」を作る、ということでした。「一般」というのは、地域交流の研究の重点がどうしても姉妹都市のようなシャンシャン交流の方向に向けられ、異文化間の相克とは別の問題として扱われていました。それを打破するために、地域交流のような狭義の交流のみならず、自己犠牲を払いながらの合理的には理解不能な交流や、強制的な搾取までを視野に捉えた一般モデルを作れないか、と考えたものです。
そのために、2つの重ならないXY軸上に簡単な微積分と対数を使ったグラフを描いて数理モデルを構築しました。指導教官は、関心の持ち方について「面白い」と賛同してくれたものの、「数学を使うことはないのではないか」という注意もくれました。的確な指摘だったでしょう。
しかしそれでも数理モデルにこだわったのは、逆説的ながら、僕の関心領域が数理的な手法で捉えきれるわけもないということを重々承知していたからにほかなりません。数理モデルを構築し、それによって表現される合理的な考え方、つまり、文化における価値観の違いを選好の違いに置換してしまおうという考え方の限界を明らかにしたいという、シニカルでスノビッシュな関心の表れではなかったかと、今から振り返れば思います。この点を、もう少しきちんと詰めていきたい。
もうひとつは、あなたが日記にぼそっと書いた一文です。すなわち、バーミンガム大学カルチュラル・スタディーズ学部が効率性の名のもとに閉鎖されるという事態が、なぜサッチャー政権下ではなく、ブレア政権下で起こったのか、という問いです。この問いは現状に対してものすごく重要な問いです。
周知のように、サッチャー保守党政権は、それまでの社会全体に公益をもたらすような政策をやめ、自由競争によって効率性を高める政策をとりました。一方、ブレア労働党政権は新自由主義の流布に対抗するための新しい社会民主主義的政策を標榜しています。
とすれば、サッチャー政権で役に立たない学部が潰され、ブレア政権でその学部が残る、というのは妥当な結論のように思います。でも実際は、ブレア政権で潰されようとしているのです。このパラドキシカルな状況がなぜ発生したのか?
繰り返しですがこれは本当に重大な問題です。そしてこの問題は、貴君や、賢明な読者の方にはお分かりのように、この二つの政権の思想的支柱となったふたつの本の対立でもあるわけですね。ひとつは、1970年代までの社会主義的政策を木っ端微塵にする原動力となった、サッチャリズムのバイブルである『隷従への道』(F.v.ハイエク)。もうひとつは、そのサッチャリズムと社会主義の双方を超克するとうたい、ブレア首相が賛辞を献呈した『第三の道』(A.ギデンス)です。
この2冊を検証すれば、なぜ1980年代の新保守主義よりも1990年代のニュー・レフトのほうが自由主義に基づいた、閉塞感に満ち満ちた社会を作ってしまっているのかという問いへのヒントとなるでしょう。書簡のみでは限界があるので、記事ともあわせて展開していければいいなと思っております。
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■創造的な抵抗か、構造的な罠か
何というか、えらい直球で来られてしまいましたね。そう言えば、P.ウィリスは、ご一緒した駒場のゼミで出会ったのが、僕にとっても最初かもしれません。
現実の社会と格闘しながらモノグラフィを紡ぐという、ややドンキホーテ的な営みを未だ続ける諦めの悪い社会学徒にとって、ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』は、ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサイエティ』と並んで、永遠のバイブルです。もちろん、僕もその一人ですので、この話題を振られて素通りはできません。自分の問題関心をまとめておく必要もあり、前半はやや「学問的」な議論とならざるをえませんが、できるだけ分かりやすく論じるように心がけたうえで、『野郎ども』を導き手として話をすすめてみます。(それにしても、"Learning to Labour"という原題も、『野郎ども』も、どちらもそれぞれ味のあるタイトルですよね!)
ご賢察のとおり、著者自身がアンビバレンスに陥っているようにさえ見える『野郎ども』には、2つのまったく異なる読み方が可能であり、読者は大抵、そのどちらかに力点をおいて、この本を閉じることになります。
一つは、masa-nさんがそうであるように、野郎どもの対抗文化を、支配的学校文化への創造的な抵抗と積極的に捉えて評価してゆくことに力点をおく立場。もう一つは、そうやって学校文化へ反抗してゆくことの結果こそが、彼らを労働者階級から抜け出すことのできない存在として再生産してゆくのだ、という皮肉な構造に力点をおく立場。
前者をとるmasa-nさんの読み方は、ウィリスを引き継いだ「バーミンガム学派」のCSの影響下にある人々の間では、スタンダードなものです。日本でもCSの影響下にある研究者は、大体これをそう読みます。たとえば、『エスノメソドロジーの想像力』という本に招かれて、CSとエスノメソドロジーの接点を論じた(このテーマを論じるのには、まさにこのウィリスを導き手とするしかありえないでしょう)吉見俊哉さんは、2つの読み方の可能性を提示した上で、はっきりと、野郎どもの抵抗と価値の転倒にこそ焦点が当てられていると述べています。(これ以降やや専門的な議論なので、関心のない方は、5つ下ぐらいのパラグラフに飛んでください)
ただ、この読み方は、60年代から70年代初頭にイギリスのワーキングクラスにおける日常的な「文化の闘争」に焦点を当てたウィリスやホガートが活躍したあとを、「ブラック」であるかのS.ホールが引き継いで、CSの伝統の中に人種という軸を埋め込んだその後のバーミンガム学派にとっては、必然的なものと、僕は考えています。
ウィリスの知見のこのポジティブな側面、つまり、支配的文化の文脈をズラすことによる奪用と、それに基づく生き生きとしたプライドの発露、という営みは、ウィリス自身のようにミドルクラス−ワーキングクラス間の文化の問題を扱ったとき以上に、差異の強度がより大きく、また差異に基づく不平等もずっと大きな「(白い)イングランド人」−「(「黒い」)移民」という図式の中でこそ、より決定的な意味と大きな希望をもたらすものだからです。
まったく文脈は違いますが、CSの影響を受けて発展したポストコロニアル・スタディーズの中にも、響きあうような概念を見ることができます。たとえば、H.バーバの「ミミクリ」という概念−−簡単に言えば、植民地時代の「現地人」は、派遣されてくる白人たちの「文明的」なスタイルを、その本来の姿と精神を少しズラしながら不完全に模倣=ミミクリすることによって、白人たちにとっての存在論的な脅威となっていった、というようなお話−−。
ほかの例に目を向けても、エスニック・マイノリティの文化実践やアイデンティティの問題を考えたときにこそ、ウィリスのいう創造的な文化的抵抗が行われていることを、われわれはすぐに思いつくことができると思います。
ちょっと専門的に過ぎましたが、話を続けます。
しかし僕はといえば、どうしてももう1つの悲観的な方の読み方で、ウィリスは刻み付けられています。それが言い過ぎというならば、せいぜいこの2つの読み方のバランスをとりながら、過度にポジティブにウィリスを読まないように、自戒しながら読んでいます。これは、CSの人たちよりは、教育社会学などの関心からウィリスを読む人に近い読み方です。(たとえば、これなどが、よい例です) 誤解を恐れずに言えば、よりブルデュー的な読み方といってもいいでしょうか?
私見では、野郎どもによる文化の読み替え・奪用・転倒という抵抗の戦略を、手放しに評価する読み方には、重要な2つの批判がありうると思っています。1つは、先ほどの話とつながることです。先ほど、文化的闘争/抵抗というコンセプトは、エスニシティなどに話を拡張したときに、より重要な意味を持つと書きました。しかしその一方で、この文化的闘争/抵抗のコンセプトは、イギリスでも日本でも、CSの中で無制限に拡大解釈されるきらいがありました。オタクの文化闘争、OLの抵抗、クラバーの、主婦の、コギャルの、、、というように。だとすれば、それはそっくりそのまま、こういう批判がありうるわけです。
「抵抗抵抗って、何でも抵抗かい。本来、抵抗って言うのは、どうしようもなく追い詰められ閉塞している集団がするものだ。抑圧の中で自尊心を取り戻す最後のささやかな反乱として、文化の奪用を起こすのだ。ニカラグアの民衆の文化シンボルの読み替えと、コギャルのそれを一緒にされたんじゃたまらない…」
こういった批判はまあ、1)醜い「非抑圧自慢」による「抵抗の正当性の主張」に陥りがちでありますし、2)そもそもウィリスの野郎どもだってそこまで追い詰められた集団ではありませんが、そこにおいてあのような文化の転倒を生き生きと描き出したことにCSの原初的な価値があったわけで、話半分に聞くべきだとは思います。
しかし、何にでも抵抗抵抗、と妙に明るいカオで言われてしまったとき、このような苛立ちを感じる向きがあるのも十分理解はできます。
それに、masa-nさんもおっしゃっているように、そもそも野郎どもによる文化の転倒自体が、「パキ」や女の子たちを排除あるいは(消費)対象化する、white-masculineな文脈の上でのみ成り立っているものなわけですから。言い換えれば、野郎どもの抵抗をあまり持ち上げることは、コギャルの抵抗を過剰に持ち上げるのと同様、単なる「何でもありでいいんじゃなーい」と主張するだけのものになってしまい、現状の抑圧構造を温存した上での単なる現状肯定にしか向かわない惧れをはらんでいます。(個人的には、「何でもありでいいんじゃなーい」と思わなくもないが、少なくともその問題点−−ある集団の文化的抵抗は、誰を、何を排除することで成り立っているのかという問題−−は自覚しておくべき)
しかし、僕がより重要と思っているのは、よりシンプルな第2の批判の可能性です。それは主に、やや古典的なマルクス主義者からのものです。
一言でいっちゃえば、文化的な闘争だどうこう言っても、下部構造のほうが上部構造より大事なんじゃないの?ってことです。つまり、学校的文化への抵抗を通して、いくらワーキングクラスのカルチャーを育んでそれにプライドを持ちえたとしても、結局ワーキングクラスとしてしか生きられない=低賃金の「搾取状態」(笑)の中から抜け出せないということであるならば、それは、文化の問題なんかよりも、銭の問題や銭の不平等を引き起こす構造のほうが切実なんじゃないのぉ、ってことです。思いっきり誤読している可能性もありますが、古きよきマルキストであるテリー・イーグルトンが「イデオロギーとは何か」の中で展開している「文化主義批判」も、煎じ詰めれば、こうゆうことを言ってるんだと思います。
もちろん、ウィリスは、古典的なマルクス主義のことなんて完全に自らの血肉とした上で、このフィールドワークを行っているわけですから、今更ながらにこんな事を言われても、というところかもしれません。しかし、このマルクスもろくに読み込んでいない、いい加減なカルスタ寄り研究者のYAS-IGARASHIですら、上記のような古典派のシンプルな憤りは、看過できないものがあるのです。何のかんの言って大事なのは、文化やアイデンティティより稼ぐ銭だろ、と思ってしまうワタシもどこかにいるわけです。
そんなわけで、僕はウィリスを読むときに、いつも「自分で自分をワーキングクラスに押し込めてしまう」という皮肉な罠のほうに力点をおいて読んでしまうのです。
さて、えらい長々と書きました。ここまでは「学問的」な小理屈が続きましたが、前振りみたいなもんです。小理屈に興味のない読者の方は、この辺で復帰してください。
僕がウィリスをやや悲観的に読むたびに、いつも思い出すのは、虚ろな「フリーター」たちの顔です。
かいつまんで言えば、ウィリスの言う構造的制約の罠−−ワーキングクラスの野郎どもは、自発的に自らの可能性を限定し、結果として低賃金のブルーカラー労働者になってゆく−−を、労働がフレキシブル化するポスト産業社会の日本において、より巧妙に展開するマジックの役割を果たしたのが、「フリーター」という言葉だということです。
もう少し詳しく書きます。
現在の日本は、いわゆる後期資本制社会に突入しており、産業の空洞化などに見られるような脱産業化が進行していると言われています。そういった社会では、1)脱産業化とIT化/OA化によりブルーカラー労働力(特に熟練労働力)に対する需要が減る、2)変わってサービス産業が肥大する、3)残された工業分野でも、情報化と市場の成熟によって変化の早くなった市場に対応するために、生産ラインと労務管理のフレキシブル化が要請される、といったようなことが起こります。
こうした社会で(主にサービス)企業に必要とされる「労働者」は、『野郎ども』に描かれたような産業都市に根付いている古典的な労働者ではなく、フレキシブルで移動性に富むパートタイム・ワーカーなのですね。忙しいときだけ雇われ、仕事の波が去ったら解雇されても文句を言わない、組合未加入な低賃金未熟練労働力。さらに、サービス産業においては、労働力は若ければ若いほどいい。仮に勤続年数がかさむことが合っても、給料がほとんど上がらなければ、なおよい。
この大量の労働力需要を満たしているのが、まさにフリーターに他ならないわけです。
よくブラウン管の中には、「フリーターの増加」が話題になると、「若者の働く意欲が減退して、堪え性もなくなり困ったものですね」と眉間に皺を寄せてみせるニュースキャスターや保守系のコメンテーターがいますが、問題の本質はそんなところにはないのですね。
ポスト産業化時代において、フリーターという労働力の形態を要請し、必要としているのは、他ならぬ日本の企業社会なのです。
しかし、ややっこしい問題はそのあと。「フリーター」の中には、1)就職失敗組、2)夢追い組、3)モラトリアム組、と大きく3つの類型があるとされていますが、「フリー」という言葉が付きまとってしまっている以上、世間からは「自分の意思でこういう不安定な生活をしている」という風に見られることが大半です。本来は、フリーターという労働の仕方を「選ばされている」かもしれないのに。だからこそ、「今の若者は意欲がなくて困る」なんてズレた発言が多々出てくるのですね。
さらに皮肉なのは、こうした周囲からの視線の中、就職/再就職までの腰掛でアルバイト生活をする一部の就職失敗組はともかくとしても、それ以外の大半の「フリーター」が、この「自由」な生活と労働形態は自分の趣向に合っており、自分は「自由な」意思でこの生活をエンジョイしている、なんて思っちゃったりしていることです。中には、「型にハマったサラリーマンにならない俺ってイケテない?」ぐらいに思っているイケテない勘違い諸君もたくさんいらっしゃいます。
まさに、「自由」という、時代を象徴する多義語を媒介にした、現代日本版の「構造の罠」としか言いようがないでしょう?
もしかしたら、職業柄、masa-nさんはすでにご覧になっているかもしれないけど、NHKで、フリーターに関するこんなインターネット・ディベートがありました。保守からラディカル、公共経済学や労働経済学から社会学や文学、学者から現場の「底辺校」の教師、頭のキレルひとからおバカな人まで、かなりたくさんの「識者」が意見を寄せています。
すべての意見をじっくり読み込んだわけではありませんが、上記のような構造を理解せず相変わらず「会社は自分を発見する場だ」とかフイている作家もいれば、切迫感あふれる現場の教師の声もある。森永卓郎さんや山田昌弘さんたちはそれぞれの立場からまっとうにフリーターを憂える一方で、「知性」あふれるシンクタンクの分析屋さんは「フリーターが増えると年金行政が・・・」と「そんなこと言われても困るだろ」的な危惧をしてたりとか、まあ、この「社会問題」に関するスタンスが一通り出揃っている秀逸な企画のように思います。
その中で面白いのが、潟潟Nルート関係者のコメント。
そもそもフリーターという言葉は、87年に当時の『フロム・エー』の編集長が名づけたものとされています。このマジカルな言葉の発明がなければ、嬉々として「フレキシブルな低賃金労働者」になる若者が、これほどには多くはなかっただろうと予想されるわけで、そういった意味では、フリーターを便利使いしている多くの日本企業は彼に足を向けては寝られんでしょう。
その当の道下元編集長は、「エグゼクティブ・フリーター」なんて自らのことを名乗っちゃって、相も変わらず「自分らしく生き、自分の「夢」や「思い」を実現させて欲しい」なんてノタマッテいる。いまさら誰を騙そうとしてんの?って感じです。
笑えるのが、リクルート・ワークス研究所所長の大久保さんという人で、この人は、「フリーターという低賃金のサービス労働なしでは、現在の日本経済は成り立たない」と、はっきりと企業側/資本側の論理を明確にした上で、だからフリーターは必要なんだと主張しています。そんな風にはっきり言われてもねぇ。
さて、もう一つ看過できない主張が寄せられています。それは、「だめ連」の神長さんです。だめ連についての詳細は割愛しますが、だめ連とは自堕落な生活を送る「だめ界隈の人々」が「だめをこじらせないために交流していこう」と訴える、自称「史上もっともしょぼい革命運動」です。もう少し言えば、人脈的にはかなり新左翼系の残党も流れ込んでおり、少なくないCSやネグリ派の若手論客とも密接な関係があります。
その神長さんは、このNHKの企画で、フリーターという「構造の罠」を自覚し、「希望と不安は半々だ」と告白した上でなお、「イケテルやつから就職しない世の中だ」「まあ、こうなったらせいぜいラジカルにいこうぜ!」と煽りまくっています。
ここで彼は明らかに、「フリーターになることは資本の思う壺って言うのはわかってるけど、敢えてそれに乗っかってやろう。そんで、おいしいとこだけ頂いて人生楽しんでやろう。みんながそうすりゃあ、現代の資本制にも風穴が開くぜ」と確信犯的に主張しているのだと思います。
結構危うい隘路のような気がしますが、この戦略こそ、ウィリスの『野郎ども』をポジティブに読もうとするCS寄りの論者がたどりつく、エピキュリアン(快楽主義者)な革命思想なのだと思います。
たとえば、上野俊哉さんと飲んでいるときにフリーターの話になったことがありました。そのとき、僕は上に書いたような「構造の罠」を指摘し、ウィリスの悲観的な方の読み方を重ねて話したら、上野さんは、いや、そうじゃない、と、ほとんど神長さんと同じような趣旨のことを言ったのを思い出します。資本に便利使いされるのはわかってるけど、そんなのわかった上で、「半チク」な道を選択してドロップアウトする若者だらけになって欲しいんだ、と。そこで彼は、そうした快楽主義的な、真の意味での確信犯的[フリー]ターを、ネグリの言うアウトノミアの概念と重ねていました。
言うまでもなく、こうしたCS系の論者による日本のフリーターへのポジティブな態度表明は、彼らがウィリスの『野郎ども』を、創造的な抵抗の方に焦点を当てて読むことと、直接的につながっています。
ファスト・トラック(ビジネス・エリート層)においてますます過熱化する「勝ち組」への競争から早々に撤退し、確信犯的なフリーターとして人生を楽しむことこそが必要で、そこにこそ新たなライフスタイルが生まれる可能性があるのだ、ということです。そうした新しいライフスタイルの創造をこそ、彼らは情況への「創造的な抵抗」と呼んで最大限に評価し、そうした確信犯がどんどん増えてゆけば、高度な資本の支配にも風穴が空く、と考えているようです。
さあ、どうでしょう。
創造的な抵抗か、構造的な罠か。そのどちらに焦点を当ててゆくのか。
生来の悲観主義者の僕は、どうしても罠のほうに目が行って、楽観主義的なCSのエピキュリアンたちの話は半分に聞いてしまいますが、masa-nさんは、いかがでしょう?
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■「創造的抵抗」を「批判」として語る
前信をいただいてからほぼ一ヶ月が経ちました。そしてこの一ヶ月、この国で語られるトピックのほとんどが、北朝鮮による拉致問題で占められていました。
むろん、ナショナリストとして、僕は北朝鮮に対して激烈な憤りを覚えます。しかしむしろ、日本という国が、「国家」の薄皮に小針を突き立てられただけで、かようにも醜態をさらすことしかできないのか、という現状に嘆きを覚えることのほうが大きい。左は思考停止、右はヒステリックな反応をすることしかできない「脆弱」さ。さらに悪いことには、この無残な状態への反省よりは言葉のみが先走ってしまっている。、われわれのHPでも名前が登場する野中弘務氏、宮崎学氏、佐々淳行氏らの言葉が、結局のところ旧来の「右」と「左」の文脈の中でしか解釈されないもどかしさ。
いずれにせよ、この問題についてはどこかで改めて書かなければならないでしょう。なにせ僕はナショナリストですから。しかし、ここは躊躇ってこの往復書簡を一歩進めることとします。
ほぼ一ヶ月前の前信、最後の問いはこのようなものでした。
>さあ、どうでしょう。創造的な抵抗か、構造的な罠か。そのどちらに焦点を当ててゆくのか。
まずありきたりな答えをしておきましょう。「その双方に」というのがその答えです。それがSnobistとしてのわたしの基本的な姿勢でもあります。構造的な罠を承知しつつ、創造的に抵抗すること。
しかしいまの時代に僕はあえて、「創造的な抵抗」のほうに軸足を置いて動いていきたい。特に、「抵抗」に。
なぜならば、「構造的な罠」を打破することによっては「創造性」を獲得することはできない、という絶望と、「抵抗」を失ったときにはまったく自由のない社会が訪れるであろう、という絶望。この二つの絶望の間にわずかに残るものが「創造的な抵抗」であるだろうと思うからです。このことを今回は確認しておきたいと思います。
そのための材料として、貴君もかつて一度口にしていた、ハイエクとギデンスの本に遡ってみましょう。貴君の言及は、バーミンガム大学カルチュラル・スタディーズ学部の危機が、なぜ自由経済を推奨した80年代の保守党サッチャー政権下ではなく、人間の顔をした資本主義を唱える00年代の労働党ブレア政権下で招来されたのか、という重要な問いを投げかけています。
そしてこの問いは、ハイエクの『隷従への道』とギデンスの『第三の道』という二冊の本に集約された考え方に置き換えられます。サッチャーはハイエクの信奉者でしたし、ブレアは『第三の道』の帯に賛辞を送ったのですから。
まずギデンスの『第三の道』。第三の道とは何か。それは、
旧式の社会民主主義と新自由主義という二つの道を超克する道、という意味での第三の道
であるとギデンスは言います。そしてそれが、新自由主義の到来という時代に対応した新しい政治思想であることを縷々書き連ねていきます。
古典的社会民主主義は、経済的安全保障と富の再分配に主たる関心を注ぎ、富の創出を二の次にまわしてきた。他方、新自由主義は競争力の強化と富の創出に最大の力点をおく。第三の道の政治もまた、これら二つを大いに重視する。(p.168)
新しい混合経済は、公共の利益に配慮しつつ、市場のダイナミックな力をうまく活用し、公的部門と私的部門を結合し、相乗効果を発揮させる。(p.169)
ふつうにこれを読んでしまうと、自由主義あるいは資本主義の社会経済が生み出すさまざまな矛盾を、社会主義的な政策を部分的に導入することによって解決しようとした福祉国家政策=社会民主主義と同じにしか見えません。しかし「第三の道」は、二つの思想を「折衷」するのではなく、「超克」するものなのです。そのための基本的な政治理念は、
第三の道の政治は、平等を包含(inclusion)し不平等を排除(exclusion)する政治と定義される(p.173)
つまり、社会の下層の「落ちこぼれ」と社会の上層の「浮きこぼれ」(=エリート階層の自発的な中産階級からの非排除)をなくし、「『市民的自由主義』の再生」(p.181)を図るというのです。
しかし、やはりこれをどう読んでも、新自由主義と社会民主主義の折衷以上のものが生まれてくるようには思えない。超克されたものの姿が描かれているわけではない。(たとえば、「活用」し、「相乗効果を発揮」させるのは誰?という問いにギデンスは答えていません。)もし逆の側面から捉えて、自由競争を活性化させるための基盤整備をするのだ、というだけであれば、それはハイエクの議論の域を一歩も出るものではありません。
そして、「市民的自由主義」を唱えてはいるものの、それは目新しいことなのか?たとえば、あらゆる人間に機会の平等を保障する理念を掲げる自由の国アメリカと何が違うというのか。そこには階層間の文化的な相克に対する考察も、あるいは伝統・歴史への無関心といったことに対する考察もすっぽり抜け落ち、左翼的な無味乾燥な「市民」像があるだけです。
その新たなる「市民的自由主義」のなかでの家族、社会、企業、国家といったものの組織内、そして組織間の関係についての重要な考察はまったくない。この問いに対してはギデンスは、「個人の自由をベースとして、これから建設していく」というのみです。「民主化された家族」を最小単位とし、「政府と市民社会はお互いに助け合い、監視しあうという意味での協力関係」を築き、最終的に「アクティヴな市民社会を再生」する…。
空疎な言葉の山は、どこかの国の首相のようです。トニー・ブレアもまた、「建設途上」ということを何度も口にしました。そしてその結末は、理念的にはもちろんプラグマティカルにも改善の兆しが見えない社会情勢です。(同じような首相を抱えている以上、わが国にも早晩同じような事態がやってくることが危惧されます。)
冷戦後の理想の政治のあり方を示すものとしてわが国でも「市民活動家」らに歓迎された『第三の道』は、十年経ってみればほとんど現実に対して有効に機能しえない悲劇的な様相を呈しています。なぜか?それを、ギデンスが『第三の道』で超克したと言っているサッチャリズム、そしてその思想的バックボーンであるところのハイエクの『隷従への道』に遡って考えてみましょう。
ハイエクの『隷従への道』は1943年に書かれています。今となっては、ヒトラー支配下のナチスドイツとスターリン支配下のソ連を全体主義の典型として扱うことに誰も異論を唱えませんが、まだイギリスがソ連と同盟し、敵国ドイツを追い詰めていく途中の1943年にあって、ナチスとソ連共産党の同質性を見抜いたことは慧眼と呼んで差し支えないでしょう。
ハイエクは、イギリス社会の知識層に広がる計画化された社会への傾倒に対して警鐘を鳴らすためにこの本を書きました。ハイエクは次のように言います。
われわれが取り扱わなくてはならぬ闘争は、実際、まったく根本的なものであって、それは二つの相容れない型の社会組織、すなわちその各々が示す最も著しい特徴から、効率的社会と軍隊的社会とよく言われている、二種の社会組織の間の闘争である。…われわれは真に二つのうちのどちらを選ぶべきかということに直面しており、第三の可能なものはない。
ハイエクは、折衷案はない、「第三の道」はない。資本の矛盾を国の政策によって克服するなど不可能である、自由主義経済、資本主義社会で行くべきだ、と徹底して主張しています。
なぜか?ハイエクの議論の根本は、結局、以下のことにつきます。個人が、社会全体が向かうべき目的を正確に把握することなどできない。まして、その目的に即して社会的資源(人や金や技術)を正確に分配することなどできはしない。人間の力はそんなにたいしたものではない。それよりも、競争の結果として選択された行動のほうがはるかにましである。
そしてハイエクは、人間の理性が一つの目的を把握し、その目的に向かって社会を手段として動員し始めたとき、奴隷化が始まると考えています。
われわれがここに考察しなければならない全体主義的宣伝の道徳的結果は、…すべての道徳を破壊するものである。というのは、それがすべての道徳の基礎の一つ、すなわち、真理を理解する心、真理への畏敬を失うからである。
それらは単なる偶然の副産物ではなくて、「全体性という単一概念」によって、総てのことを指導しようとする同じ欲求の直接の結果であり、人々が絶えず犠牲を提供することを求められる奉仕に関する見解を、あらゆる犠牲を払って維持する必要の直接の結果であり、また人々の知識や信念は単一目的のために利用されるべき手段であるという、一般的な考え方の直接の結果である。「真理」という言葉はその馴染み深い意味を失うに至る。(p.207)
ハイエクは昨今の経済自由主義、市場主義の元凶として批判されています。彼の経済理論を批判することは容易です。しかし、『隷従への道』というタイトルを掲げた本がターゲットとしているのは、経済のあり方というよりは、かつてのドイツ、そしてソヴィエト、いまの北朝鮮のような、独裁国家によって人々が手段化されることなのです。そして、そうした国家が押しなべて社会主義であり、共産主義であるのは故ないことではないのです。
そのキーワードは、
「超克」(言い換えれば、「止揚」をともなう弁証法的プロセス)
であると僕は考えます。20世紀の最後にいたってなおかつ超克しようとしたギデンスと、超克という概念を否定したハイエクの違いであると言えるでしょう。
ギデンスが超克というとき、そこには当然、ヘーゲル的な考えが前提されています。AというテーゼとBというテーゼが衝突するときに、どちらかがどちらかを押さえ込むのではなく、A、B双方のテーマを否定してより高次の新しいテーマへと進化していく。これをヘーゲルは止揚(Aufheben)と呼びました。ヘーゲル的弁証法が折衷ではなく、「超克」であることは何度確認しておいてもよいテーマです。
19世紀初頭、ナポレオンが、社会体制の変革によって近代国民国家という新たなシステムの先鞭をつけたとき、ヘーゲルは国民国家こそ理性発展の最終形態であり、「人倫の最高形態」であると主張しました。個人がもつ「伝統的な文化基盤」と「自由な理性」、ある意味では相反するこの二つの要素を「止揚」するのは、文化的な共通性を基盤としてなおかつ商業活動等における行動の自由を保障する「国家」においてしかない、と。
さてこの「国家」理性は、さまざまな(未成熟な)理性の相克と超克の結果としてあります。だから、「国家」理性はそれより下の「社会」や「家族」や「個人」の「理性」を全面的に把握していることになります。つまり、理性の弁証法の究極段階である「国家」は、あらゆる側面において最も有効な「目的」を把握し、「手段」を行使しうる、という原則が生まれます。
では具体的には誰がその目的を把握し、手段を行使しうるのか?それは現実としてはたったひとりの最高権力者の手に握られざるをえないのです。
もちろん、人はこう問うでしょう。「もし、最高理性を体現する人間が過ちを犯したら?」筋金入りの弁証法論者であれば、こう答えるでしょう。「最高理性を体現する人間は過ちを犯さない。もし一見過ちに見えたとしても、それは、最終的には歴史の法則にのっとった目的へ到達するための方便、『理性の狡知』(ヘーゲル)である」と。
ここに、ヘーゲル的な考え方に基づいた過去の国家が強権的であった理由があります。ケルゼンによって概念を与えられたナチス・ドイツがヒトラーに全権を委任したのが典型例と言っていいでしょう。また、ヘーゲル弁証法の主人公を「精神」から「物質・経済」に交換した(=唯物論)マルクス主義においては、共産党のトップのみが理性を把握し、人民は彼が設定した目的を遂行するための手段としてしか扱われませんでした。スターリン、毛沢東、東欧の指導者たち…、そのことがどれほどの悲劇をもたらしたか、語る必要もないでしょう。
そしてそれは、「超克」するということにこだわるヘーゲル的弁証法が用いられる限りにおいて、社会が共産主義だろうが自由主義だろうが関係ないのです。
たとえば北朝鮮は、共産主義と民族主義がヘーゲル的弁証法によって形を与えられた例だと言えるでしょう。「最高の知性と類稀な手腕」を持つ「将軍さま」が、「人民一人一人に電気が行き渡っているか」や「軍人一人一人の服装」についてまで「細やかな心遣い」を示していることに「人民が感謝」していることは、単なる笑い話ではない。弁証法にのっとって国家像を作り上げた以上、その最高理性を与えられた人間は、そこまでのことを把握していなければならないのです。たとえそれが幻想だとしても。
ハイエクの自由主義的な経済思想にはもちろん問題点はあります。彼はマルクスの膨大な思想をまったく誤解しているし、自分の発言の中に既にマルクスが先取りしたものがあることすら知らない。
しかしハイエクは、みずから「思想的な本」という『隷従への道』の中で、国家や官僚が目的を独占的に把握すると、民衆はそのための手段に貶められるというヘーゲル弁証法的な考え方に対して徹底した攻撃を加えている、と読むことができます。ハイエクの思想に裏打ちされたサッチャー政権の政治が主として経済改革に終始したために『隷従への道』についても経済学の本としてのみ捉えられがちですが、思想的に言えば、弁証法が最終的には独裁/隷従への回路を開くことに対して批判を行っているのです。
それは最初に戻って言えば、構造的な罠を乗り越え(=超克)ようという態度、あるいは乗り越えたという錯覚に対する批判だといっていいと思います。罠を乗り越えることによって創造的な自由を獲得できるという幻想に対する批判。
その批判は根本的で簡単なものです。しかしそれはいまだに批判たりえています。なぜなら、われわれはいまだに罠からの脱出=超克という誘惑に弱いからです。
冷戦が終わったとき、自由主義と社会主義という最後の相克は克服されて、歴史のない世界がやってくると述べたフランシス・フクヤマは、ヘーゲルのよき解釈者であるコジェーヴの研究家です。この『歴史の終わり』説はあまりにヘーゲル的な議論であったのでその後猛烈な批判にさらされましたが、その批判者たちも罠から自由であったわけではありません。
そのひとり、ギデンスは、『第三の道』のなかで「超克」を前面に押し出したという点で、ヘーゲル弁証法の世界から自分がいまだに出ていないことを表明してしまいました。というよりも、ある意味ではマルキスト以上のヘーゲリアンだと言えるでしょう。彼が新しい時代に即応した家族像の模索、市民社会の復権、そして国家のあり方を説くとき、ヘーゲルが『法の哲学』のなかで人倫の発展形態を「家族→市民社会→国家」と規定したことを連想することは容易です。
しかも厄介なことに、この保守の色合いをした社会民主主義であるはずの『第三の道』は、それを採用した各国政権(アメリカ・クリントン政権、イギリス・ブレア政権、ドイツ・シュレーダー政権など。フランス・シラク政権を入れてもいいし、小泉政権もここに入るでしょう)の現実の政策の中では、ハイエク以上の自由主義的な思想を蔓延させてしまっています。なぜサッチャー政権下で生き残ったバーミンガム大CS学部が、ブレア政権下で危機に遭遇しているのか、という問いもこの議論上で行われるはずです。
理由はおそらく、最高理性を生身の人間の手に託す愚かさを悟った人間が、今度は最高理性を「合理性」という非人格に委ねたからです。その合理性とは、市場における価格形成システムに最も典型的に現れています。人間の手を離れた最高理性は「合理化」にその究極目的を定め、その達成のために手段化されている人の比率は増加する一方です。これまで手段化されていた第三世界の人々のみならず、先進国にもその比率は増加しています。
この状況に対してどう戦えばよいのでしょうか。ハイエクの『隷従への道』はそれでも経済学の本であり、経済学者の議論の用は満たしてもこれ以上理念的な議論に使える材料はありません。そして、弁証法に対する批判に即して言えば、何かを争っての戦いでは、たとえ勝ったところで罠のなかにあることに変わりはない。
どこかで柄谷行人氏が言っていましたが、われわれのすむ世界は映画『マトリックス』のようなものです。ある構造的なシステムに基づく表象によって構成された世界をわれわれは認識するしかない。しかし、ふと振り返ってみればわれわれ自身もシステム化された表象である可能性を否定できない。その抑圧された状況を、映画のヒーローはカンフーによって戦います。しかし現実世界ではカンフーで戦えそうにもない。
だから僕は、それでも創造的な抵抗の道を選びます。何かを勝ち取るのではなく、「抵抗」するのです。知的な顔をした最高理性に対しては、泥まみれの石を投げ続けましょう。グラムシみたいになってきましたが、陣地戦あるいはゲリラ戦をやりましょう。われわれがこの往復書簡で最初に言及した、組織化されない「暴動」もまた回答のひとつであるかもしれません。
もちろんこの抵抗はすぐれて実践的なものでなければならないでしょう。しかしながら、僕は言葉を棄てたくない。言葉のもつ力にまだ賭けている節があります。言葉を使って徹底した論理的陣地戦をはかりたい。もちろん負けるかもしれません。いやきっと負けるでしょう。この先長い人生、何かを守るために降伏することはあるかもしれません。ただ、抵抗のみが創造性につながる道であるならば、僕は進んで言葉による抵抗を続けていきたいと思います。
五十嵐泰正HPより
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