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(回答先: Re: 参考にさせていただきます。 投稿者 乃依 日時 2003 年 10 月 18 日 16:06:14)
リンドン・ラルーシュについて
【まずラルーシュの生い立ち】
リンドン・ハーマイル・ラルーシュ・ジュニアは、ニューハンプシャー州のクエーカ教徒(17世紀英国で起こったプロテスタント一派。絶対平和主義の立場)の息子として人生を始めた。
家族は、ラルーシュ・ジュニアが10歳の時、人種的に豊かな産業都市へ引っ越した。第二次世界大戦が勃発した時点では、一家の宗教が教える通りの良心的兵役忌避者だった。
しかし、ラルーシュは突然考えを変え陸軍に入隊した。在任期間中、ラルーシュはインド、ビルマで医学班の一員として働いた。
ラルーシュが実際はOSS(戦略サービス局)の情報機関のエージェントだっという憶測もある。
しかし、ラルーシュがマルクス主義者でもあったことを考慮すれば奇妙な仮説である。(マルクス主義だったというのはラルーシュ自身の主張)ある時点でラルーシュは強烈な反スターリン主義者になり、トロツキー主義の方に傾いた。
1960年代終わりに、ラルーシュの攻撃的スタイルの左翼思想は少数の過激派の学者を引き付けた。
しかし、1973年に伝統的な左派のメンバーたちを野球のバットで攻撃するという「掃討作戦」に出た時、大部分の支持者が嫌気がさした。
ラルーシュの取り巻き達は、アメリカ共産党や社会主義労働党など、各グループの集会を70回以上も襲撃する事件を起こした。(ラルーシュは1948年〜1963年まで社会主義労働党の正式のメンバーだったのだ)
左派はラルーシュが自分達の階層のどこにも属さないこと、そしてラルーシュが米国政府当局の放ったおとりか?あるいは筋金入りのファシストだということを公言する学者が数多く現れた。
1977年には、CIAと繋がりがある傭兵かつ「安全保障の専門家」であるミッチ・ワーベルと手を組み、ラルーシュ主義者のための準軍事的なトレーニングキャンプを運営させたこと、及びそれより後にKKKの大立役者ロイ・フランクハウザーとの関係を深めたことは「左派から右派への転向」を意味していた。
しかし、ラルーシュ主義は、概存の極右の大半よりはるかに進化した特徴を持っている
ラルーシュはレーガン政権が推し進めたビーム兵器、SDI(戦略防衛構想スターウォーズ計画)などは、自分の発案であると自慢している。
そして原子力、特に未だに完璧とはいかない核融合への支援を取り入れたりしている。
1988年の大統領選(四回目の選挙)出馬の際には、火星を植民地にしようという計画を説明するために、ネットワーク局のゴールデンアワーを半日間買い取ってしまった。
この番組の中でラルーシュは火星移住計画を「マーズ・ドライバー・プロジェクト」と呼び、国民を結束させ、技術革新を加速し技術を回復し、そして惑星を救う唯一の考えられる方法だ!と発言している。
ラルーシュは、自分で考案した複雑な対抗的陰謀を武器に、陰謀と戦っている(自作自演か?)1989年1月27日、彼は米連邦税のごまかし及び信用詐欺の罪で懲役15年の判決を受け、刑に服し始めた。刑務所に出頭したときは66歳だった。
ラルーシュの弁護団は、ラルーシュが問われた信用詐欺と脱税の罪は政府のインチキの結果だったことを示そうと務めた。
米国政府は、スパイをラルーシュの組織の奥深くに潜入させたのだと考えたラルーシュはその主張の根拠を示すためにラルーシュ一派が誇る情報網で多数の文書を明るみにした。
また、ラルーシュ一派の情報網は恐ろしく広く1982年に行われたイスラエルの対レバノン侵攻の背後にある本当の理由を調査することによってもヘンリー・キッシンジャーを激怒させている。(殺し屋シャロンが国防相大臣だった頃に行った大量虐殺)
イスラエル側にGOサインを与えたのはレーガン政権時の国務長官アレグザンダー・ヘイグだったとラルーシュは推測した。
しかし、ヘイグはキッシンジャーの弟子である。
ラルーシュはまた、メキシコとインドの首脳会談にも出席(どういう手段を使ってかインディラ・ガンジーとの会見にも成功している)
ラルーシュが何故、このような巨大な情報網を構築できるまでになったかというと米国家安全保障会議(NSC)との深い繋がりやロックフェラー一族との関係度などを見る限り、リンドン・ラルーシュという人物は、「真実の中に嘘を混ぜ、本当の真実から遠ざける役割」を担う、米国政府のエージェントではないかと睨んでいます。(←私の推測です)