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(回答先: なぜ、昭和天皇の戦争責任はないか。 投稿者 Ddog 日時 2003 年 6 月 17 日 00:14:14)
「立憲政治の常道として、輔弼にあたる、臣が全員一致した上奏には、いかに反対でも、反対できない」を検証しましょう。「つづきは明日以降」とのことなので、表題の件だけにします。これは、旧憲法下で主張されていた政治論(内閣の連帯責任論あるいは閣議の全員一致主義)に似ていますが、これを加工して換骨奪胎した論です。
現実にも「輔弼者の(正式の)上奏は必ず裁可される」は明治期以来の慣行です。Ddog氏が「制式(正式)の」あるいは「臣が全員一致した」と限定しておられるように、それ以前の段階で「内奏」が繰り返され、天皇の内諾がない限り意思決定に至らないシステムとして運用されています。
「一致した上奏」云々は、「宸襟を悩ませない」ことを理想とし、天皇の意思に副う決定ができない場合は内閣が辞任しなければならないとする文脈で、閣内の統一を求める政治論が本来です(「立憲政治の常道」とは無関係で明治期から主張されています)。統帥事項の場合は、統帥部の単独上奏で、この場合は、当然ながら、「一致した上奏」云々は語られることがありませんが、同じ原則です。(正式の)上奏は天皇まで根回しが終わった後の形式です。正式上奏の段階に至って天皇が裁可を拒絶した例がないことをもって、「(天皇が)反対できない」とするのは論理の転倒(というより明白な虚偽)です。なお、ポツダム宣言受諾もこの例に漏れず、天皇の意思で受諾の実質決定の後、内閣が一致して(閣議全員一致の決定に基づいて)受諾文書を上奏しているはずです(この点は閣議の秘密主義のため史料がありません)。
憲法論でも似た結論が主張されることがあります。しかし、憲法論における議論は、統帥(憲11、同12)などの事項に国務大臣の輔弼が及ばないとされていた昭和期の政治的現実に対抗し、これを内閣に統制させるべき主張で、似て非なるものです(最高戦争指導会議の形成などで一定の部分が政治的にも実現しています)。
なお、「憲法上いかなる決定といえど輔弼する者の責任がある」は、旧憲法の解釈論としてはそのとおりです。旧憲法上、天皇の処罰その他の法的な責任追及はあり得ません。もちろん、これは政治的な責任あるいは国際的な戦争責任の追求とは無関係です。旧憲法規定を根拠にする天皇免責論は、公訴時効が成立して処罰不能だから刑法上の責任を問えないという論拠で、政治的な責任がないなどと帰結する論と同様で、論理の濫用です。意思決定への直接の関与のほか、「輔弼する者」を選任すべき権限などを通じて、「責任」を論じることができます。