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(回答先: たこ氏のような推測が流布されている背景。 投稿者 Ddog 日時 2003 年 6 月 19 日 02:25:02)
来週にしようとも思ったのですが、歴史事実とその評価に関する問題のみ、簡単にコメントしておきます。
1.昭和期の諮詢機関
Ddog氏は、「開戦直前明治の枢密院(明治維新の功臣で構成)は西園寺公望だけであった」とされています。文意が明瞭ではありませんが、「諮詢機関が多数ありは、正確ではない」は明確に事実に反します。
「枢密院」は憲法上の機関で、開戦直前に限らず、敗戦後も新憲法施行まで機能しています。職掌は国務におよび、内閣の輔弼事項とオーバーラップします。一方、「元老(当時の言葉)」は正式の機関ではなく、明治の元勲への礼遇ですが、元老が首相候補を推薦すべき慣行もあり、天皇の諮詢機関として大きな実権を有した。西園寺(1940年死去)が単独で元老として実権を有したらしい時期もあります(昭和初期)。その後、「重臣(前首相礼遇者)」を元老にかわる事実上の諮詢機関とした。他に、参謀本部、軍令部と職掌が重なる元帥府や軍事参議官などもあります。
2. 大権
「大権」は、天皇の憲法上の権能に関する当時の呼称です。国務大臣を含む官吏の任免など、すべてこの大権によりますから、極めて頻繁に発動されています。もっとも、これは事実上の決定権を意味しませんから、その所在は検証を要します。そして、私見は「天皇が政策決定に関わることがないと、推測されるたこ説」ではなく、天皇は主体的に政策決定に関与しているとしております。
3. 田中義一内閣の総辞職
児島襄の文を読むと、「責任ヲ明確ニ取ルニアラザレバ許シ難キ」との発言によって内閣を総辞職に追い込んでいますから、Ddog氏の帰結とは逆に、天皇の主体的な政策決定(この場合は人事)の例となります。また、田中首相の「天皇の信任を失った」も、天皇との意見対立は辞任につながるとの当時の通念に整合します。もっとも、天皇が叱責するなら陸軍であろうから、私はこれを不可解としております(前コメント)。「...と奈良武官長に言った」から先の経過は、なぜ陸軍は天皇発言に反応せず、首相のみが天皇発言に反応したのか、児島襄の苦渋のゴマカシが疑われます。
4. 裕仁の「戦争反対」
「戦争に反対する立場を採ったのは、宣伝でなく事実である」とされます。「戦争」が特定の戦争の特定の段階を指称するなら、これにあえて異を唱えません。たとえば、「何戦争のどの段階で裕仁は開戦または戦争拡大に反対した」です。このような発言の断片のみが伝えられ、裕仁が平和主義者であるというイメージが形成されていますが、同時に、多数の場面で、戦争を推進する発言を行っていると推測すべきです。
5. 「教育係乃木将軍」
この影響を否定しません。前のコメントで、私が言及したのは、戦後において、「合理的思考(西欧的価値観)を持った人物像」のイメージが形成されたこと(形成した者とその動機)に興味があったからに過ぎません。
6. 戦争の政策決定への積極的関与の「信憑性がある証拠の提出」
天皇が主体的に政策に関与していることは、伝えられる裕仁発言の断片からも明白です。もちろん、伝えられる発言は、裕仁が平和主義者であったことをアピールし、軍部を抑えようとしたものに限られます。これと現実の歴史の推移を照らし合わせると、裕仁は、戦争の抑制のみならず、その積極的な推進にも、政策を決定すべき権力者のひとりとして関与していることは明白です。
余談
「天皇の意思決定と、オウムを比較するのは、不敬極まる」はわかりません。特殊な環境に身を置いたとき、自由な意思決定ができないとする免責論として同質でしょう。完全に意思を抑圧されていたとも思えないので、免責は無理と思いますが、責任非難を軽減すべき事由とはなり得ると考えています。