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あっしらさんから以下の言葉をいただきました。
「何を根拠に、イスラム諸国に宗教選択の自由がないという認識をもたれたのでしょうか?」
お答えします。
まず専門家の本の中から引用をしておきます(カタール大学イスラム法学・イスラム学部卒、東大博士課程単位取得、現在大学教員。)
「アラブ人には宗教の選択権がない。特に、アラビア半島に生まれたアラブ人は生まれながらにしてイスラム教徒になることが法で決められている。」
これは本の上での知識にすぎないのではないか。これは間違っていないか。私は知人のシリア出身の家族に尋ねた。彼らは全員キリスト教徒だ。シリアでは、75%程がムスリム、残りはキリスト教徒だそうだ。
彼らはこう説明してくれました。
上の事は正しい、事実である。たとえば、サウジアラビアでもアラブ首長国連邦でも、カタールでも、クェートでも湾岸系諸国は100%ムスリムだ。法制度上、非ムスリムは存在せず、生まれたら自動的にムスリムである(イラクは事情が違う)。
シリアでキリスト教徒というのは、法的に、あるいは、事実的に、ムスリム側政府側から攻撃されることはあるのか。こういう。
30年前まではあった。自分たちはクリスチャンとして、十字架をクビにかけていたりすると、政府からではないが、一般人から暴力を受けたものだ。しかし、アサドが国家元首になってから、それは完全に止んだ。かれがそれを止めた。現在は、クリスマスには一日、ムスリムも休み、われわれの家を尋ね、キリスト教を祝福してくれる。われわれもムスリムの祭日には仕ごとなど休み、彼らの家に祝福しに出かける。シリアで、キリスト教徒である事は、現在、全く安全である。わたしはヨルダン人にも尋ねたが、ヨルダンでもクリスチャンは安全であるが、シリア程安全ではない、とのことで、それはシリア人も認めていた。レバノンは、過半数をクリスチャンが占める。法的にも大統領はキリスト教徒、副大統領はムスリムである事が、法定されているとのこと。レバノンはアラブ諸国だが、キリスト教国と呼ばれる。
元に戻すと、湾岸系アラブ諸国は生まれる子供は100%法的に自動的にムスリムとなる。宗教選択の自由は100%封じられているという。
ムスリム文化圏では、ムスリム男性は回教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の女性としか結婚はゆるされない。シリア人の解説によると妻がキリスト教徒、ユダヤ教徒の場合、子供は自動的にムスリムになるように制度化されているという。夫の名前しか子供は取れない。では妻がムスリムで、夫がクリスチャンの場合生まれた子供はどうなるかといえば、地元自治体は誕生証明書を発行するが、政府レベルでは、夫がムスリムに転向するまで、子供が生まれたこと自体を認知しない、という説明だ。
で、改宗は可能なのかときいた。
それは不可能である。われわれのようなキリスト教徒が、イスラムに改宗する事は可能だが、逆は不可能だ。一度ムスリムとして生まれ、あるいは、ムスリムになってしまったら、一生ムスリムということになっている。
ムスリムになるのは手続きがある。だが非常に簡単だ。ところが、ムスリムをやめて,例えば他宗教に移る場合の手続きなど用意されていない。入り口はあっても出口はない。ムスリムとなったら、一生ムスリムだという。
では、途中でムスリムの教えがいやになった。受容できないところがでてきた。それを人前で、とりわけ大きな人の集まりの前で公表したらどうなるか。例えば、モハメッドその人について、批判・非難・中傷したらどうなるか。
これは「カダフの罪」と呼ばれ、イスラム法での刑罰は死罪である。ただし、反省し謝れば許される。89年、ノーベル文学賞サルマン=ラシュディー(インド人ムスリム)はこれが理由で、イランのホメイニ師から、イスラム教シーア派の法学者アヤトラの立場から、かれを地獄へ送れとのファトア(法判断)を下した。処刑命令だ。これはジハードの命令だった.つまり彼を殺したものは、現世来世の報賞が、また、失敗しても天国行き権利が与えられた。彼は結局謝ったが、ホメイニは「彼が改悛して敬虔な回教徒に立ち返っても許さない。」とまで宣明したものであったため、謝ったあとも強硬派ゆるさず、一般ムスリムの中にも遺恨が相当に残ったため、英国政府などによりラシュディーの身辺警護はその後も徹底していた。
湾岸系諸国に生まれたら、100%非ムスリムを選ぶ余地はない。一般にムスリムは他宗教・非宗教転向は制度的にできないことになっている。また一度ムスリムになった場合、教えは絶対的であり、イスラムへ深入りするための吟味は奨励されるが、批判は一切許されない.特にモハメッドその人への批判・誹謗・非難はカダフの罪として死罪に相当する。
教えの批判的吟味は広い意味で宗教選択の自由(教えの構成要素の取捨選択)に含まれるだろう。
回教徒圏特にアラブ諸国宗教選択の自由が厳しい制限を受けている、という認識は、あっしらさん、間違っていますか?
「信者となったのに神様を信じなくなってしまった者がいる.心が信仰心で満ちあふれていながら、(敵に)強制されて神様を信じないと告白した者にもちろん罪はない.けれど信じないと心のうちを明かした者たちには神様はお怒りになる.そして、厳しい懲罰があるのだ。」(『コーラン』蜜蜂の章106節)
これが「カダフの罪」の根拠となっているコーランの一節ですが、コーランをお読みになっているあっしらさん、もちろん御存知ですよね?
信仰していた人が、信仰を棄てる自由はないのです.つまり宗教選択の自由は非常に厳しい。