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宗教選択の自由が空論に思える理由
http://www.asyura.com/0304/dispute9/msg/862.html
投稿者 アラブ妻 日時 2003 年 4 月 11 日 23:58:58:

(回答先: あっしらさん,お答えします:中近東諸国で、宗教選択の自由は非常に限られています。 投稿者 文化的視点から 日時 2003 年 4 月 10 日 18:56:51)

こんばんは。
「宗教」という言葉の定義は、アラブと日本とではまったく異なります。
京都大学の小杉先生は、「イスラームとは世界を認識する技術体系、社会を運営する一種のテクノロジーだ」とおっしゃいましたが、日本人の考える宗教というのは、ただ心の内側の非常に個人的なもの・・・ではないでしょうか。

私は個人的に、イスラームというものを宗教と言うから誤解を招くんだと思っています。
ひとつのシステムとか、社会主義、民主主義などに並ぶ、イスラーム主義ぐらい大きなものと考えていただければ、傀儡政権に弾圧されるというのが、なんとなく想像つくかもしれません。

宗教の選択の自由がなぜ空論に思えてしまうか、なんですけれど。

私たち日本人がなぜ日本人なのかとか、どうして日本に生まれたかということを論じることがありますでしょうか?
おそらく、「宿命」とか「運命」とか、そんなように感じませんか?
とくに疑問をもちませんよね。
アラブ・ムスリムも、アッラーによってアラブに生まれ、ムスリムとして生まれたと考えます。
全てはアッラーのご意志、つまり「運命」です。
そこに疑問をもつ人は、たぶん、ほとんどいないといえます。

というのを前提にして・・・。

>「アラブ人には宗教の選択権がない。」

エジプトでは、そうですね、選択権はないといえます。
親がムスリムであれば、子供はムスリムと言うのは現地では自然なことです。
日本のように個人が決める問題ということにはなりません。

出産のときに、コーランを読んでくれる人を呼んできて、赤ちゃんが生まれるのを待ち、生まれたすぐあとに信仰告白を唱えてもらうのです。
これで赤ちゃんはムスリムとなります。

3歳ぐらいから、預言者ムハンマドについて学んだり、コーランを覚え、礼拝を覚えて小学校に上がり、学校でも宗教の授業があり、そのときは宗教別に宗教教育を受けます。

日ごろから、1日に何度も信仰告白をし(礼拝以外にも、例えば、電話を切るとき、友人と会っていて別れるとき、でかけるとき、家に呼んだお客が帰る時など、数十回と信仰告白をしています)、幼い子供でさえ、ゲームなどで勝てば「アルハムドリッラー(アッラーに感謝します)」と大声で喜びます。
ほんの、3、4歳でこんなかんじです。
ラマダンのときには、5歳の甥が半日断食したり、コーランの暗誦を家族の前で発表したりします。
(本当は子供に断食義務はありませんが、自分の意志で始めてしまうのです)
親が強制せずとも周りを見て、自然に学んでいくのです。

日々の生活は、濃厚な人間関係の元にお互い助け合いながら成り立っています。
この助け合いとか、人間関係がそもそもイスラムをベースにしていると思うので、イスラムに疑問をさしはさむ余地が起こり得ないように感じます。

またクリスチャンのシリア人の方のお話をされていましたが、
多数派の中で、少数派というのは、非常に暮らしにくいとか、
弾圧されているとか、抑圧されているということを口にしがちかなと思います。
特に外国人に対しては、気安くそういった話をする傾向にあるかもしれません。
私も結婚前はよくキリスト教徒の人たちから抑圧されてると聞かされたものでした。

少数派の人たちは、子どもの頃からあまりいい思いをしなかったのだろうなと想像しています。
小学校からの宗教教育の時間は、少数派の子達はどんな気持ちですごしていたのでしょう。
(エジプトの学校では宗教別に宗教の授業を受けますが、キリスト教のクラスは、クリスチャンの先生がいなくて自習になるということもよくあります)
イスラムでは同胞の連帯意識を高める教えがたくさんあります。
宗教儀礼でも金曜礼拝だとか、断食だとか、同胞意識が非常に高まります。
子供たちは、3歳ぐらいからコーランを覚えはじめて、学習具合を友達同士競い合います。
幼い頃から、異教徒の子は、さびしく、除け者にされた気がしていたんじゃないかと思います。(ムスリムにそういう意図がなくても)

実際には、エジプトのムスリムはあまり気にせずつきあっているようにみえます。
(エジプトでは服装など法的に強制されていないため、あまり見た目で区別がつかない)
この「気にせず」というのが、良くも悪くも微妙で、クリスチャンだと気付かず、イスラムの行事に誘ったり(断食明けの食事とか)することもあります。

これって誘われた方はどう思うんだろうと。
「ムスリムばかりじゃないんだから、少しは気を使え」と思うかもしれませんよね。

クリスチャンのシリア人のご友人が被害妄想だと言っているのではなくて、シリアのムスリムのお話もきけるといいんですけれど・・・。

>「ムスリム文化圏では、ムスリム男性は回教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の女性としか結婚はゆるされない。
シリア人の解説によると妻がキリスト教徒、ユダヤ教徒の場合、子供は自動的にムスリムになるように制度化されているという。」

イスラム法ではそうです。

上のイスラム法は、日本の感覚で言えば、狭量に思えるかもしれませんが、イスラムは、欧米や昨今の日本とは違い、個人の尊重よりも、社会を尊重し、安定させることにより個がいきる・・と考えますので、上記の秩序は当然といえます。
申し上げましたように宗教の概念が違いますので(内面だけの問題ではない)宗教の違う夫婦は非常に不安定だと思います。
(ただし、お互い宗教を心の内側に閉じ込め、世俗化すればうまくやっていけるのかもしれません。それをイスラムと呼べるのかは不明ですが・・・。欧米では、そういったアラブ人のカップルもいるようですので)

コーランの精神で言えば、「あなたたちにはあなたたちの宗教が、私には私の宗教がある」という不干渉な考え方ですから、同じ宗教で結婚するのが一番いいのでしょう。
生活様式もそうですが、夫婦で真理と思っていることが違えば、子供の教育も大変ですし。

ムスリム男性が、異教徒の女性と結婚する場合、将来的に妻をイスラムにすることを頭において結婚すると思います。
エジプト人の話で恐縮ですが、彼らは自分が真理と思っていることを妻子に教えたいと思うのは、当然だと思っています。

>「妻がムスリムで、夫がクリスチャンの場合生まれた子供はどうなるかといえば、」

イスラム法の下では、ムスリム女性はムスリム男性としか結婚できません。
ムスリム女性が異教徒の男性と結婚するのは、宗教を無視していることになりますからなんらかの制約がついてしまうのは、当事者はわかっていると思います。

>ノーベル文学賞サルマン=ラシュディー(インド人ムスリム)はこれが理由で、イランのホメイニ師から、イスラム教シーア派の法学者アヤトラの立場から、かれを地獄へ送れとのファトア(法判断)を下した。

ホメイニ師は、シーア派の権威で、法学者でしたので、大変なことになりましたね。
スンナ派の私にはシーア派のことは正直よくわからないのですが、スンナ派では、イスラーム法学を勉強し、法学者となれば、誰でもファトワを出すことが出来ます。このファトワは全ムスリムを拘束することはないのです。
一宗教見解といったかんじです。

サルマン.ラシュディ氏は、あのような本を書けば、全世界のイスラム教徒の感情を損なうことを、ムスリムとして良く分かっていたはずです。
実際エジプトとパキスタンでは暴動が起こったと記憶しています。(死者も出たような気が・・・)

ホメイニ氏の感情ですが、サルマン・ラシュディ氏は、イランでホメイニ氏にお世話になっていたと聞きました。(イラン人談)
アフガニスタンのタリバーンと、オサマ・ビン・ラディンの関係みたいな。
タリバーンは、義理立てして命をかけてもオサマを米国には引き渡さないと言ったことを覚えていらっしゃるでしょうか。
イスラム社会では、ゲストを非常に厚遇するため、ホメイニ氏はサルマン.ラシュディ氏に裏切られたと感じたのかもしれません。

>特にモハメッドその人への批判・誹謗・非難はカダフの罪として死罪に相当する。

預言者ムハンマドについての批判は確かに受け入れられません。
日本人にとって見れば、ムハンマドという人は、ずいぶん昔に死んでしまったイスラムをはじめた教祖ぐらいの感覚でしょうけれども、アラブ人が預言者を語るとき、ついさきほどまで隣に座っていたかのような話し振りをします。その敬愛ぶりはすごいです。(アラブではムハンマドという名前だらけです)
ですから、彼らにとってただの歴史上の人物ではないわけです。
今でも心に「生きた」人なのです。
このような人物を中傷、そして冒涜(サルマン・ラシュディ氏のような)すれば、暴動がおき、社会が混乱しかねません。
社会を重んじるイスラムがこのような秩序を提案するのは、不思議なことではないように思えるんですが・・・。
どうでしょうか。

イスラム法の規則が厳しすぎるというご指摘かと思いますが、
う〜〜ん・・・私は、そうは思っていません。

イスラムは世界宗教であり、イスラムというシステムで国家の運営が出来るという本来はイスラム共同体の建設を目指す教えです。
当然、多民族ということは念頭に置かれています。
多くの民族を束ねるには、それなりの規則が必要です。
マレーシアではそれぞれ他宗教の批判は法的に許されていませんが、(そしてこれを暴力的と唱える日本人もいますが)
民族共生のためには、当然の措置といえるのではないかと思っています。

また私は、「自由」をやみくもに訴えることが好きではありません。
自由には必ず責任が伴います。
この責任を負わない自由が日本(欧米)には多すぎるように思っています。

同様に、民主主義が至上のシステムではないと思っています。
国情によっては、独裁政権でないと抑えきれない場合もあるわけです。
アメリカは移民がたくさんいて、人種・宗教の枠を超えて共存していると一般にいわれますけれども、私の10年ほど前の米国留学経験上は、そのようには思えませんでした。
居住区が、民族(人種)によって分けられていたり、教育の度合いも違います。
多民族の共生ということでいえば、マレーシアはとても成功しているように感じますが、
(ヒンズー地域にマレー人が住んでいたり)
マハティール首相は独裁者との指摘もあります。
日本人として独裁というのは、受け入れにくいのですが、あまり先入観をもたないようにと思っています。

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