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(回答先: 宗教選択の自由が空論に思える理由 投稿者 アラブ妻 日時 2003 年 4 月 11 日 23:58:58)
アラブ妻氏のコメントにある現象について、ムスリム社会のことではなく、日本の例で説明します。日本でも、信教の自由が問題になることはあっても、「宗教選択の自由」は問題にされていません。
最初に、親が子に宗教教育を施すことについては、日本の感覚でも「(親の)信教の自由」の問題とされています。信教の自由は、内心の信仰に限らず布教活動の自由も含みます。もちろん、信教の自由の他にも、親の教育権、子の人身の自由など、考慮すべきファクターはあります。幼児を仏壇の前に座らせて読経を聞かせ、あるいは、神社で礼拝させるなどがありますが、いずれも信教の自由と教育権の問題(正当な行使あるいは濫用)として処理されます。子の「宗教選択の自由」を害したという観点はありません。なお、現実にも、(オウムほど極端な例でないとしても、)カルト的宗教を信仰する親と、その宗教の集会などに出席させられる子の関で、緊張関係が生じています。子を救済すべしとの価値判断がありますが、未成年の子に関しては、人身の自由の極端な制限にわたらない救済は現実に困難です。
次に学校教育の例ですが、日本では公立学校における宗教教育は禁じられています。アラブ妻氏にご紹介いただいたような各宗教の信者に個別に(宗教間で対等)でも、行うことができません。その反面、私立学校では制限がありません。公立学校における世俗的教育が特定の宗教の信仰を害する場合は、信教の自由と教育の目的(たとえば武道が体育教育に不可欠か)などを衡量して判断すべきとされています。私立学校生徒の宗教教育拒否(たとえばキリスト教系学校での仏教徒生徒の礼拝拒否)については、まだ公的判断がありません。学校設置者の信教の自由、親の教育権などで処理できますが(礼拝拒否者を排除できるとの結論に傾く)、私立学校も公教育の体制に組み入れられていることを考えると、別の結論(礼拝拒否による退学などを違法とする方向に傾く)もあり得ます。ここでも、「宗教選択の自由」という視点はありません。
婚姻の問題ですが、宗教儀礼のレベルでは各宗教とも両当事者が信徒であることを前提としているでしょう。もっとも、婚姻で宗教儀礼が行われるようになったのは、日本ではごく近い過去(神道式の結婚式が大正末年頃、仏教式が戦後)で、それ以前は婚姻はまったく世俗的な行為です。現代の当事者の意識としても、婚姻の宗教儀礼が入信等の儀式を含んでいるなどは考えていない(知らない人が多い)でしょう。換言すれば、宗教儀礼の普及にかかわらず現代でも世俗性を失っていないと考えるべきです。もちろん世俗法のレベルでは宗教性はありません。
これに対し、政教分離については、ムスリム社会、欧米、日本と対比して、議論すべきことが多いでしょう。世俗化をすすめる「社会主義」を自称するアラブ諸国と、政教分離を唱えつつもキリスト教を国教化しながら諸国などの対比が面白そうです。もちろん、政教分離原則を正面から否定する例は、アラブ諸国のほかにキリスト教や仏教国のいずれにもあります。もっとも、政教分離は、政府による宗教への干渉(奨励も圧迫も)を許さないことを実質とします。宗教者あるいは宗教教団の政治への関与を問題とするものではありません。日本でも、職業的宗教者の公職就任が排除されていません。(国立戒壇は許されませんが、公明党員や僧侶の国務大臣就任は可能です。)
世俗的な法律関係を規律する「イスラム法」は、これとは別の問題です。コーランやハディースという民主的な原理で生まれたものでない古典が、現代の諸問題を規律すべき法源となっていることについて、西欧(といってもフランス革命以降ですが)の価値観との緊張関係は避けられないと思います。もっとも、英米法でも民主的な原理と無関係な判例法や慣習法を法源としています。西欧近代の価値観を盛り込んで解釈するか、あるいは、西欧近代を否定することに積極的な意義を見出すか、いずれにしてもムスリム社会が決めるべき問題です。(あっしら氏は利息の否定を教唆!)
「宗教選択の自由」の本籍地は、信教の自由のうち、内心の信仰の自由と思います。「信仰の自由」は、歴史的にはキリスト教信仰の自由ですから、おそらくムスリム社会にとって違和感はあっても、「内心」の問題とするなら、普遍性を失わないと信じております(これも欧米崇拝か?)。しかし、信仰の自由のある部分を取り出して「宗教選択の自由」と称しても、これによって日本のホットな問題、たとえば「靖国神社」を解決できる概念ではありません。「靖国神社」は、各宗教団体からは、政教分離原則違反と並んで、(内心の)信仰の自由への侵害として問題視されています。しかし、「宗教選択の自由」とは関係ありません。
「Re: 「宗教選択の自由」という概念のもつ巧妙な詐術(http://www.asyura.com/0304/dispute9/msg/853.html)」でも申し上げましたが、この言葉は初見です。この言葉を使われた方は、宗教あるいは宗教教団が支配的な力を持たない社会、標語的に申し上げると「社会の世俗性」という意味で、使っておられたのではなかろうかと憶測します。そして、日本社会の世俗性は世界でも特異です。これを積極的に評価されるのは賛成です(私もその世俗性をアリガタイと思っております)。しかし、これの貫徹と「親米政権を受容」は無関係ではなかろうかと思います。