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(回答先: あっしらさん,お答えします:中近東諸国で、宗教選択の自由は非常に限られています。 投稿者 文化的視点から 日時 2003 年 4 月 10 日 18:56:51)
「文化的視点から」さん、こんにちわ。
貴重な情報を提供していただきありがとうございます。
まず、自分のイスラムなどに対する見方を示します。
セム系の啓示(超越神)宗教であるユダヤ教(・キリスト教)・イスラムは、どれも商人の生活意識から生み出された宗教であると受けとめています。
自分の価値観に照らせば、そのなかではイスラムがもっともまともな宗教です。
(ただし、現在のイスラム諸国で現実化されているイスラムではあります)
(神の絶対性と)人の能力的限界性を認め、家族を基礎とした共同体性を尊重するとともにムスリム同士の普遍的同胞性をうたい、富裕層が富の蓄財に走ることを諌め、利息の取得を禁止していることが、イスラムを高く評価している理由です。
ユダヤ教もそうですが、価値観と法や秩序が一体となったものこそが、宗教だと考えています。
イスラムを心の問題に封じ込め、政治や経済を民主主義や自由主義を基礎とする制度に置き換えようとしている米英支配層は、イスラムに対する戦いを仕掛けているのです。
イスラムを支配の道具にしている湾岸諸国の支配層も、同じ所業を行なっていることになります。
ちなみに、神の実在性ついては、わからないという立場です。
湾岸諸国ついては、旧宗主国である英国の“飼い犬”が支配者になり、イスラムを支配の道具に使っていると認識しています。
※ 参照書き込み
『【国際情勢を考える手掛かり】 {(近代産業主義 Vs. 近代金融主義) Vs. (イスラム近代派 Vs. イスラム利権派)}という対立図式 − 日本が立っている歴史的岐路 −』
( http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/632.html )
>湾岸系アラブ諸国は生まれる子供は100%法的に自動的にムスリムとなる。宗教選
>択の自由は100%封じられているという。
湾岸諸国の法実態は知りませんが、ご指摘のような法が施行されているとしたら、イスラムに対する背信です。
コーランを読めばわかりますが、信仰告白こそがイスラム信仰の基礎であり、それなしでムスリムとするような法はイスラムに反する所業です。
>ムスリム文化圏では、ムスリム男性は回教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の女性とし
>か結婚はゆるされない。
コーランではイスラム信仰者はイスラム信仰者と結婚すべしとなっていますから、キリスト教徒やユダヤ教徒と結婚するのは、イスラムに反するものです。
現実にも、多くのムスリムは、結婚したい相手がイスラム教徒ではないときは改宗を待って結婚しています。
>それは不可能である。われわれのようなキリスト教徒が、イスラムに改宗する事は可
>能だが、逆は不可能だ。一度ムスリムとして生まれ、あるいは、ムスリムになってし
>まったら、一生ムスリムということになっている。
イスラム信仰を喪失した人が形式的にムスリムであり続けることを認めることは、イスラムに反するものです。
>では、途中でムスリムの教えがいやになった。受容できないところがでてきた。それ
>を人前で、とりわけ大きな人の集まりの前で公表したらどうなるか。例えば、モハ
>メッドその人について、批判・非難・中傷したらどうなるか。
>これは「カダフの罪」と呼ばれ、イスラム法での刑罰は死罪である。ただし、反省し
>謝れば許される。89年、ノーベル文学賞サルマン=ラシュディー(インド人ムスリ
>ム)はこれが理由で、イランのホメイニ師から、イスラム教シーア派の法学者アヤト
>ラの立場から、かれを地獄へ送れとのファトア(法判断)を下した。処刑命令だ。こ
>れはジハードの命令だった.つまり彼を殺したものは、現世来世の報賞が、また、失
>敗しても天国行き権利が与えられた。彼は結局謝ったが、ホメイニは「彼が改悛して
>敬虔な回教徒に立ち返っても許さない。」とまで宣明したものであったため、謝った
>あとも強硬派ゆるさず、一般ムスリムの中にも遺恨が相当に残ったため、英国政府な
>どによりラシュディーの身辺警護はその後も徹底していた。
ムスリムであることがいやになった人は、ムスリムではなくなったことを表明し、回りの人たちは非ムスリムとしてその人を遇すればいいことです。
(ムスリムであるか非ムスリムであるかで社会生活が異なるので、家族がいればいろいろと問題は起きます)
ムスリムでありながら、コーランやモハメッドその人について、批判・非難・中傷したら死罪に相当するというのは、コーランの全体の脈絡から理解できる範囲のものです。
「反省し謝れば許される」というのは、コーランが神の寛大さと慈愛を繰り返し語り、悔い改めれば許されると説いていることからイスラムに即したものです。
サルマン=ラシュディー氏は、ムスリムであると公言しながらムハンマドを冒涜した小説を公刊したのですから、死罪を宣告されても当然だと思います。
私のようにムスリムでもないものがコーランやムハンマドを非難しても、死罪の宣告を受けないはずです。
サルマン=ラシュディー氏は謝ったといっても、小説を絶版にしたわけでもないので、ムスリムとしては口先だけの不十分な謝りかたです。
「彼が改悛して敬虔な回教徒に立ち返っても許さない。」というホメイニ氏の主張は、行き過ぎた怒りの発露であり、イスラムに対する背信であり冒涜です。
>これが「カダフの罪」の根拠となっているコーランの一節ですが、コーランをお読み
>になっているあっしらさん、もちろん御存知ですよね?
引用されたコーランの一節は知っていますが、それは、「イスラム法での刑罰は死罪である」を正当化するものではありません。
「信者となったのに神様を信じなくなってしまった者がいる.心が信仰心で満ちあふれていながら、(敵に)強制されて神様を信じないと告白した者にもちろん罪はない.けれど信じないと心のうちを明かした者たちには神様はお怒りになる.そして、厳しい懲罰があるのだ。」(『コーラン』蜜蜂の章106節)
これは、イスラムへの帰依を表明していながら不信心になったことを神に対する裏切りだと説明しているものであり、「厳しい懲罰」は“最後の審判”でゲヘナに落とされるというものです。
>教えの批判的吟味は広い意味で宗教選択の自由(教えの構成要素の取捨選択)に含ま
>れるだろう。
コーランに書かれていることは、ムスリムであれば絶対のもので、批判的吟味は許されません。それが、ムスリムであることです。
コーランで啓示されている内容を信じられなくなったら、ムスリムであることをやめるしかありません。
しかし、コーランで規定されていない事柄は数限りなくあるので、イスラムの神学者や法学者がイスラムの理念を基礎に論議を行ない、シャーリア(イスラム法)を補充したり、ファトワ(宗教令)のかたちで対応しています。
この過程では、激しい相互批判や論証が行なわれます。
シャーリアやファトワは絶対ではないので、それを批判したり吟味することは、イスラムに反するものではありません。
それを国家支配者やイスラム指導者が認めていないとしたら、彼らこそがイスラムに背いていることになります。
>回教徒圏特にアラブ諸国宗教選択の自由が厳しい制限を受けている、という認識は、
>あっしらさん、間違っていますか?
現在「宗教選択の自由」をもっとも厳しく制限している国家は、米国だと思っています。
民主主義や自由主義経済という価値観も“宗教”です。
それを軍事力を行使してまで他国に押し付けようとしている米国こそ、「宗教選択の自由」をもっとも厳しく制限している国家です。
民主主義や自由主義といった価値観を“宗教”ではないと思っているのは、「近代人」の大きな錯誤です。
どういう国家(共同体)の在り方がいいのか、どういう家族関係が好ましいのか、個人はそれらにおいてどのように位置付けられるのか、そして、経済取引はどのようなものでなければならないのかという諸問題は、宗教(=価値観体系)にとって極めて重要なものです。
アラブ諸国という一括りではなく、湾岸諸国が書かれているような法を施行しているのであれば、「宗教選択の自由」の制限ではなく、イスラムに反していると思っています。
現状のイスラム世界は、イスラムに即したものではないどころか、イスラムに背くもので満ちていると思っています。
ムハンマド自身が、イスラム世界が拡大の後に堕落・弱体化し、異教徒の諸民族によって征服・分割・支配されることを見越していたようです。
「イスラムを知る者はいなくなり、人々は無知な者たちを頭に仰ぐようになり、これらの無知な指導者たちは問われるままにイスラムの知識もなく教義判断を下し、自ら迷妄に陥ると同時に人々をも惑わす。」(アフマド・ブン・ハンバルの伝える預言者ムハンマドの言葉)
「そこである者が尋ねた。「アラーの使徒よ、その弱さとは何でしょうか。」彼は答えた。「現世への愛と死への嫌悪である。」(アフマド・ブン・ハンバルの伝える預言者ムハンマドの言葉)
ムスリムに対しては、イスラムが「暴虐の近代」を否定する価値観や秩序を含有していることを捉え直し、当世風のイスラム復古運動をやって欲しいと思っています。
あり得ないことですが、イスラムが心のなかだけに封じ込まれてしまったら、「暴虐の近代」が終焉を迎える時期が先延ばしになるでしょう。