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「米国政権−フセイン政権合作戦争劇」が、イラク攻撃の直前だとか数年前に謀議されたと判断することには無理があると考えている。
なぜなら、フセイン政権のイラクが仕掛ける戦争であれば、1年ほどの準備で踏みきることができるが、“民主国家”であり覇権国家でもある米国が仕掛ける戦争は、それが必要なことであり正当でもある(やむをえないことだ)という世論の醸成が国内的にも国際的にも必要だからである。
かつて「フセイン政権はブッシュ政権の“お仲間”だと思っており(「イラン−イラク戦争」はともかく「湾岸戦争」当時から)、主戦場(サウジアラビアやイラン)への導入者の役割を担う存在だと考えています。(フセイン大統領が今後アメリカの攻撃により政権から離れる可能性もありますが、そうであっても、シナリオの一部が演じられただけです)」( http://www.asyura.com/sora/war9/msg/457.html )と書いたように、「湾岸戦争」(クウェート侵攻)以前から今回の「イラク侵略戦争」に至るシナリオが謀議されていたと思っている。
■ 「湾岸戦争」後の12年間
何度も書いてきたことだが、クウェート侵攻からの12年間は、「フセインの悪魔視醸成」・「中東での米軍基地強化」・「イラク国民の反フセインないし悪政意識醸成」・「イラク問題とイスラム“過激派”をリンクする策動期間」という助走期間だったと考えている。
この助走期間は、親父ブッシュ政権がなぜ「湾岸戦争」でフセイン政権崩壊まで戦争を継続しなかったのかという当時論議を呼んだ問題の回答でもある。
● フセインの悪魔視
「フセインはとんでもない悪だ」という意識の国際的醸成は、大量破壊兵器の保有を大義名分としたイラク攻撃を「イラク国民の解放」に絡めることができる絶好のネタである。
米国政権中枢の口から、それまでは放置されてきたフセイン政権の悪がことさらのように声高に叫ばれ始めたのはクウェート侵攻からである。
なにせ、イラン−イラク戦争のあいだは正真正銘の同盟関係にあったのが、米国とイラクである。
駐イラク大使が黙認したとされるクウェート侵攻を契機に、この12年間のイラク敵対視が始まったのである。
(それまでの関係から、それ以外は変わっていないフセイン政権をクウェート侵攻なしにあれほどの敵対視する言動ができたかは微妙である。もっと時間を要する“作業”にはなったはずだ)
● 大量破壊兵器保有問題
大量破壊兵器問題も、「湾岸戦争」があったからこそ強硬な措置を講じることができた。
安保理常任理事国やイスラエルまでもが大量破壊兵器を保有しているのだから、条約にも加盟していないイラクの大量破壊兵器だけを単独で取り上げて攻撃のみならず占領支配を正当化することは困難だった。
イラク攻撃を大量破壊兵器保有と絡めたことで、気に入らない他の国に対する“攻撃権”の正当性を留保できたことにもなる。
● 経済制裁
さらに、大量破壊兵器を秘密裏に持ち続けているという主張を続けなければ、対イラク経済制裁も解除せざるを得ない。
(敗戦後の日本も、米国とあれだけの激戦を交わしていながら、6年ほどで独立を果たしたのに、イラク国民はなんと12年間も経済制裁を受け続けたのである)
経済制裁の解除は、同時にイラクが安保理管理から外れるということであり、イラク国民の生活が向上することを意味する。(大量破壊兵器問題は条約上の査察に移行する)
“貧すれば鈍する”ではないが、経済制裁下のイラク国民は、米英がしつこく要求する経済制裁に怒りを持ち、フセイン政権の愚かさや無能を嘆いても、フセイン政権打倒の運動にはなかなか進まない。家族の生活を維持することに否応なく忙殺されてしまうからである。
国民生活が向上すれば、フセイン政権の悪政に批判の目が集中することになる。そのようななかで政権を維持しようとすれば、一族や一派の経済利権を削るかたちで少しずつでも善政に切り換えなければならない。
(一部左翼が思念する「窮乏化革命論」はこのような意味でマンガなのである)
長期経済制裁のもう一つの目的は、イラクを占領支配をできるだけスムーズにすることである。
食糧も医薬品もままならない状況が12年間も続けば、それが解消された状況の出現をたいへんありがたいものと感じるはずだ。
米国主導の占領支配は、押しつけてきた経済制裁を解除することで、労せずしてそのような状況を作り出すことができる。
イラクの占領支配が中東全域の「近代化」を進める拠点だとしても、イラク国民が総がかりで占領支配に反対する動きは抑え込まなければならない。
端的には、生活条件を改善することで、素直に隷属する人と理念的に異を唱える人を識別することができる。
● 中東での米軍基地強化
米軍がイスラム諸国で基地を強化することも、イラクによるクウェート侵攻がなければ無理なテーマである。
秘密基地は設定できても大掛りな基地は、フセイン政権によるクウェート侵攻という暴挙がなければ実現できなかったはずだ。
今回の戦争では結局本格的には使用できなかったようだが、イスラム聖地の守護者を自認するサウド王室が異教徒である米国に巨大な軍事基地を提供することができたのは、クウェート侵攻のおかげである。
今回の「イラク侵略戦争」で陸上部隊の出撃拠点であり物資供給拠点になったクウェートも、クウェート侵攻がなければその役割を果たすことは困難だったはずだ。
空軍及び中央司令部が置かれたカタールも、昨年半ばまでは基地の存在を秘密にしていたくらいだから、クウェート侵攻がなければその役割を果たすことは無理だっただろう。
サウド王室やクウェート・カタール・バーレンなどの首長一族が、たんなる利権派なのかフセイン政権と同じ同盟者(エージェント)なのかはわからないが、クウェート侵攻がなければ、虐殺と破壊が目的ではなく占領支配を目的とした今回の「イラク侵略戦争」は不可能だったのである。
● イラク問題とイスラム“過激派”をリンクする策動期間
これも以前書いたことだが、米国政権のイスラムを標的とした策動は、82年のベイルート連続爆弾テロ事件から始まったと考えている。
中東絡みのそれまでのテロといえば、パレスチナ解放機構に属する近代主義勢力であったものが、イスラム過激派(原理主義)の犯行とされるものに変わっていった。
米国本土でも、93年にはWTCでイスラム過激派の犯行とされる爆弾テロが起こり、98年にはケニアとタンザニアの米国大使館を標的とした同時テロが起きた。
その集大成とも言えるものが、9・11同時空爆テロである。
それまでは国外で起きたテロ事件ということで、深刻な思いにまでは至らなかった米国民の多数派も目が覚めた。
そして、イスラム過激派(言葉にはしないがイスラム教徒)はとんでもない連中で危険極まりない存在という認識が広く共有されるようになった。
なぜ、イスラム過激派のテロ事件を通じたイスラム過激派(潜在的にイスラム教徒)悪魔視が必要かと言えば、今回の「イラク侵略戦争」の直前になって米国政権自体が公言し始めた中東全域の「近代化」のためには、イスラムの価値観が邪魔だからである。
イスラムの価値観のなかでも利息取得の禁止は、「近代経済システム」の根幹に関わる問題である。
利率の制限はあるとしても、利息取得を法的に認めさせなければ、「近代化」は達成できないのである。
各種テロ事件はアルカイダによる犯行とされているが、それがアルカイダによる犯行なのか、アルカイダに潜伏しているエージェントによる犯行なのか、それとも、アルカイダにただ罪を着せているだけかはわからない。
しかし、イスラム過激派の犯行とされる数多くのテロ事件を通じて、非イスラム世界に「イスラムは危険な宗教だ」という意識が醸成され続けたことは間違いない。
元々、「右手に剣、左手にコーラン」だとか、「一夫多妻制やハーレム」という側面だけをいびつに面白おかしく取り上げたイスラム観がはびこっていた。
イスラム諸国を「近代化」するためには、イスラムの価値観を政治や経済の制度から駆逐しなければならないのだから、イスラムは良くないものだと意識が広まる必要がある。
そして、イスラムを国家や共同体の基礎とすべきだと主張し、それを奪われることに武力をもってしてでも対抗しようとする勢力が、危険で狂信的な「テロリスト」や「イスラム過激派(原理主義者)」だと認識される必要がある。
イラク占領支配は、中東全域の「近代化」の端緒だから、イラク攻撃を始める前にそのような意識醸成を行なう必要があったのである。
● イラクにとってのクウェート侵攻
8年にも及ぶ「イラン−イラク戦争」が終わって2年足らずでクウェート侵攻を行なった。
いくらフセイン政権が強権体制であっても、戦争疲れしているイラク国民を戦争に駆り立てるのは容易ではない。
「イラン−イラク戦争」を超える大義名分がなければ、クウェート侵攻に踏み切ることはできなかったはずだが、クウェート侵攻には国民を一致団結させるだけの大義名分があった。
クウェートは、元々イラク領で、1930年代に英国が分割支配した地域である。
イラクは、完全独立を達成するときにクウェートの完全な放棄を強いられたが、英国と地域族長が結託してクウェート地域を奪われたという意識は根強く残っていた。
それに追い打ちをかけるように、クウェート政権も支援した「イラン−イラク戦争」が終わると、クウェート政権は債務の返済を迫るとともに原油の増産に励み価格低落をもたらした。(フセイン政権は、クウェートがイラク原油を盗掘しているとまで非難した)
少し考えれば、クウェート侵攻は、英国系石油メジャーの経済権益を脅かすものであり、武力による国境変更を求める国際法違反行為だから、「湾岸戦争」に至らないとしても、撤退を強いられるものであることはわかったはずである。
ご存知のように、クウェート侵攻後にクウェートからの撤退を求める決議が採択され、それが行なわれなければ武力行使でそれが達成されることになった。
完全撤退の期限とされた91年1月23日までに撤退を終えるよう、当時のソ連が必死の仲介工作を行なった。
そして、フセイン政権が期限までに撤退することに合意し撤退を開始した。
「湾岸戦争」は、奇妙なことにイラクが安保理に決議を履行しようとしたときに勃発したものである。
「湾岸戦争」が今回のような「南部シーア派虐殺戦争」という意図をメインにしたものかどうかわからないが、「湾岸戦争」がないままクウェート侵攻が終結していても、安保理がその後12年間現実の歴史過程と同じ対イラク政策が採れたかははなはだ疑問である。
■ 「イラン−イラク戦争」
イスラム革命の波及を抑止するという大義名分を仕掛けられた「イラン−イラク戦争」まで遡り、フセイン政権の“立場”や米国政権との“同盟関係”を検討する必要があると思っている。
しかし、ここでは簡単に触れることにとどめさせていただく。
「イラン−イラク戦争」は、フセイン以前の政権まで親ソ派であったイラクが米国と同盟(かたちは支援)関係を結ぶという画期的な変化をもたらした。
イランで起きた「イスラム革命」と大使館占拠事件で、米国とイランの関係はとてつもなく悪化した。
そのような背景があったので、イランに戦争を仕掛けたイラクに米国が肩入れするのは自然である。
● 「シーア派イスラム革命」の波及を抑止するというフセイン政権の大義名分
まず、ホメイニ氏(イラン・イスラム革命評議会)がどういう“立場”だったのかを評価し切れていない。
(ことさらの過激主義やイラン・コントラ事件などを考えると、ホメイニ氏がフセインと同じポジションにあったと言えないこともないが、それが事実かどうかわかるのは、今後の推移状況だと思っている)
「イスラム革命」がイラクに波及することを防ぐ手段は、イランを攻撃することではなく、偏にイラク国内でどういう政策をとるかにかかっていた。
イラクがイランを占領支配できるだけの能力を持っていれば別だが、それができる彼我の差ではなかったのだから、イランのイスラム革命を潰すことはできなかった。
戦争という災厄を通じて反イスラム革命を促すという策もあるが、ロシア革命後の干渉戦争を顧みればわかるように、革命直後に戦争を仕掛ければ、革命擁護を高揚させるため、逆に困難な戦争になる。
イスラム革命を潰すために戦争を仕掛けるとしたら、あのタイミングではなく、内部を揺さぶり、革命に飽きた頃でなければらない。
イラクの国内事情も、「イラク・イスラム革命評議会」がイラクのシーア派で多数派を形成できないだけではなく、反フセイン意識が強いシーア派全体を抑え込んできたのだから、イランの政体変更に対して戦争を仕掛けるほどの緊迫感はなかったはずである。
逆に、シーア派兵士が主体であるイラク国軍にシーア派政権のイラン攻撃を仕掛けさせれば、それが反乱の呼び水になる可能性が高いと判断するのが合理的である。
※ 昨日の書き込みでイラク軍の構成が不明だと書きたが、今週号の「ニューズウイーク日本版4・23」にちょうど関連情報が載っていた。
P.26の『サダムのために死ぬのは嫌だった』に「イラク軍の「下っ端」のほとんどが、シーア派イスラム教徒やクルド人など、反フセイン勢力から徴集されている。一方、士官クラスの大部分は、スンニ派アラブ人、とくにフセインの故郷ティクリート出身者が占めていた。「前線に配置されたシーア派は捨て石扱いだ」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチのエリック・ストーバーは言う。」
● 米国をはじめとする安保理常任理事国はなぜイラクに制裁を加えなかったのか
イスラム革命の波及を先制攻撃で防止することを大義名分とした「イラン−イラク戦争」は、イラク側にもそれなりの正当性があるクウェート侵攻よりも悪質な侵略戦争である。
しかし、安保理は、「イラン−イラク戦争」をやめるようにはと言っても、それ以上の強制力を持ってやめさせることはしなかった。
米国がイラク側に立ちソ連も一応イラク寄りであり、イスラム革命後のイランに肩入れする酔狂な常任理事国はなかった。
それどころか、「イラン−イラク戦争」を商売の好機として、大国がこぞってイラクに兵器や化学兵器工場などを売ったのである。
さらに、米国政権は、表立ってはイラクに肩入れする一方で、裏ではイランに武器を売却してサポートするというとんでもないことも行なっていた。
イライラ戦争とも呼ばれたように、国際社会は、商売に励むだけで、イスラム教徒多数派国家同士がだらだらと戦争を続けるのを放置した。
前述の「ニューズウイーク日本版4・23」の記事に拠れば、シーア派ムスリム同士が殺し合いを8年にもわたって行なったとも言える戦争である。
そして、「イラン−イラク戦争」は、米軍がイラン民間航空機を撃墜する事件を契機に終結に向かうことになった。
フセインは、最高実力者に就くやそれまでのバース党幹部を大々的に粛清した。
この過程で、「イラク軍の「下っ端」のほとんどが、シーア派イスラム教徒やクルド人など、反フセイン勢力から徴集されている。一方、士官クラスの大部分は、スンニ派アラブ人、とくにフセインの故郷ティクリート出身者が占めていた」という軍の状況も作り出されたと推測する。
そして、同じくバース党が政権を握っているシリアとの関係も悪化し犬猿の仲とも言えるものになった。(シリアはイラクと20年にわたって断交している)
このような歴史的推移を考えると、フセイン政権は、誕生以来今日まで米国歴代政権とシンクロしながらことを進めてきた同盟者だと推定できるのではないだろうか。