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ネオコン世界戦争計画は全世界の生活を破壊することである。人々を不安定にすることである。そして感情を不均衡衝動へと陥れる。911の罠によって世界のバランス感覚は喪失した。バランスを特権的に私有化するロンドンとワシントンの大富豪世界政治屋たち。もとより人間は社会的動物であり、政治的人間である。政治とは場所の占有であり競合相手を低いところへ規定する落とし穴を掘ることである。古代から感情動物としての人間を研究してきたユダヤ法哲学は国家形成への哲学ではなく世界形成への哲学である。その世界とは戦争の日常化である。イスラエルの日常こそ21世紀世界のモデルとなる。政治的動物による隣人どおしの弱肉強食、これがネオコンがめざす新しい世界像である。ゆえにイスラエルは実験場として、レポートとノウハウを世界権力に日々提出している。鬼畜米英軍がイラク「侵略戦争」に適用した戦術はこれまでイスラエル軍がパレスチナ壊滅のために行使した戦術であった。ネオコンの役割は世界政府誕生への過程として、全世界を不均衡衝動の無政府状態に落としこめることである。ラムズフェルドが語る「創造的破壊」とは彼がアナーキスト富豪革命家の役割を自覚しているからであろう。これまで革命とは貧乏人のための言葉であったが、21世紀は逆転した。富豪による無政府主義世界革命が進行している。バグダッドはその実験場となる。無政府主義の擁立、これがイラク戦争の理由である。
中東は今後もイスラエルの要望にそって、現政府は壊滅されていくのだが、世界権力の戦略としては、戦争日常としてのイスラエル・システムを中東全域に波及させながら、ここを無政府状態へと創造的破壊させることにある。同時に東アジアにおいてはSARS外部注入戦略により、中国共産党のイデオロギーと国家統制力を挑発しながら解析している。鬼畜米英国にある世界権力のシンクタンクは現在、中国を無政府状態に出来るのか、出来ないのか、分析起動システムは全面的展開をしているはずである。さらにはインドとパキスタンの緊張を挑発するはずである。パキスタン情報部はCIAと同期化している。
富豪による世界革命とは近代国民国家を無政府状態にすることである。戦争はインフラを破壊し、行政官僚機構を壊滅した後に再編成する。ウィルスは近代国民国家経済を破壊する軍隊なき戦争である。21世紀前半における鬼畜米英軍の敵は中国である。ウィルス起動による世界大戦はすでに勃発している。「言ったことはやる」これがアングロサクソン+ユダヤの世界戦争計画である。
「劇場国会」「劇場国家」「劇場国連安保理」「自作自演」こうした日本語は政治批評の衰退をしめしている。政治とは古代から陰謀と謀略である。別に芝居用語に落としこめる必要はない。芝居用語に置換するのは、明治近代移行の教育制度から除外されてきた芝居芸能への蔑視である。日本的な近代言語批評における特徴であろう。「小説国会」「小説国家」「作文安保理」「作文自演」と言わないのは、批評言語もまた文学という近代教育制度の属性だからであろう。また近代政治批評は「漫画だ」という蔑視の言葉も使用する。サブ・カルチャーからの批評として登場してきた若手評論家はオウム事件でマス・メディアから除外された。今度は弁護士が政治批評をTVで語ることになった。政治批評はこうして愚劣を深め、その愚劣から登場したのが不良債権ビジネス小泉改革の愚劣さだった。そして日本は世界権力ビジネスの天国となった。批評とは河原から政治的動物世界をみる観点である。21世紀の批評が日本中世古典よりも劣化しているのは確実であろう。
いまもって日本の舞台屋は河原乞食である。しかしこれは世界権力の罠から想像力を防衛できる。舞台屋は反経済の分野で圧倒的多数が生存している。つまり世間様から蔑視されようが、好きなことをやっている道楽者なのだ。日本のアニメーション(映画とTV)は世界商品である。それは70年代から30年間にわたり生存してきた圧倒的多数の漫画家志望・アニメーター志望の道楽者が生存したからである。この分野の想像力も世界権力の罠から防衛している。なぜか? 近代教育制度とは無関係だったからである。大学に文学部はあるが漫画部はない。圧倒的多数の舞台屋・漫画家・アニメーターは反経済に生き貧乏のどん底で好きなことをやっている。ゆえに世界権力を対象化する想像力はこの分野にまだ有している。
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4月がおわり5月が到来しています。5月は寺山修司の季節です。いつも5月4日には八王子にある寺山修司の墓参りに行っていたのですが、今年は行きません。自分は劇団をやめたからです。
自転車で自分がアルバイトをしていた松竹大船撮影所にいきました。そこには立派なハイパーモダン建築が巨艦のごとくそびえています。「鎌倉女子大学」。松竹は鎌倉シネマパークに失敗し、数々の日本映画名作を生んだ撮影所を売ったのです。 複雑な心境に廃墟の風がふきます。映画人たちが手をあわせた神社はもうありません。自分は「コンチクショウ」とつぶやきました。
世界権力のために設定した小泉・竹中の不良債権ビジネス。世界の舞台市場に受け入れられた土方巽暗黒舞踏の拠点アスベスト館が壊滅します。不良債権を買った外国資本によって売りに出され買われてしまいました。日本国も東京都も無視しました。これが文化立国の淋しい現状です。アスベスト館はこの5月に立ち退くのです。追われ行く明日こそ独自的な文化の未来なのでしょうか・・・
歌舞伎座を経営している松竹もやがて不良債権ビジネスの餌食になるのでしょうか?
相撲協会は大丈夫でしょうか?
この明るい真昼間、そのような妄想が拡張します。
SARSは97年アジア金融市場を創造的破壊した世界権力による新たな仕掛けなのでしょうか?
明日はいつもお世話になっている市民質屋に今月分の利子を納めにいきます。利子を納めないと電話の所有権がとられ、インターネットもできなくなってしまいます。
そして自分の部屋は廃墟です。
昨年11月、自分は遊行寺公演のためアパート代が支払えず、アパートを管理する宅建会社に土下座をついて謝りました。廃墟の部屋から追い出されないためです。ここは自分の拠点です。土下座をしても河原乞食は生存してきました。それが日本芸能の伝統的力です。
土方巽記念アスベスト館存続に努力してまいりました、土方巽夫人である元藤火華子さんはアスベスト館がなくなっても日本全国で踊りづづけると宣言しております。
アスベスト館
http://www.hijikata-tatsumi.com/
暗黒舞踏家は世界の闇とおのれの闇の音を踏みます。独自的な文化の拠点を壊滅させた後にハリウッド映画とニューヨーク・ミュージカル舞台そしてイスラエル・ダンス。21世紀文化は世界権力が認知した芸能へと同期化していくのは、日本のTV番組が米国TV番組の二の舞を踏んでいる現状をみればあきらかです。
世界権力による文化と文明意識がバグダッド占領によって具現されました。
アングロサクソン+ユダヤ文化と文明以外は壊滅させるという21世紀戦略です。
過去に書いた舞踏公演感想がありましたので掲載させていただきます。
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池田ユリヤ舞踏公演『結露』感想
2000年5月20日/初演
1、
闇である。天上の言語を支配する者は地上を支配する。あかりが天から垂直に落ち
るとき、舞台の奈落が同時的に対象化される。それが舞踏家の現在への回答であろう。
観客は舞台が幕を切って落とされた一瞬において規定される、白い布が落ち、月より
永遠の今、かぐや姫が降臨する。ここは神の国だ。
頭書としての背骨にある近未来としての赤と緑のサインライト、あれは音であろう。
外では雨の音、さらり−まんたちの歓声、都市の騒音消して、天使は夜の雨空へと上
昇するのか? しかし舞踏家は奈落へと絶望を背負い沈んでいくのである。その対話
は、かつてあった故郷の土に交信しているかのように。ときおり背の赤と緑の点あか
りが、われわれ観客に向かって膨張する。あれは象徴としての羽であろう。そして舞
踏家の呼吸であろう。
やがて言葉を生成させる、わたしの立場は消滅する、それが池田ユリヤの時間だ。
「人間には羽がはえていたのだ」ゆっくりと同意する詩人、和栗由紀夫氏の言葉に置
換すれば堕天使であり、失楽園以後の時間を表象したのかもしれない。しかしおそら
く「天の衣」であろう、唐時代、洞窟に描かれた仏教絵である。池田ユリヤの起源は
韓半島からイベリヤ半島へと疾走する大陸にあると直感する。
われわれ観客は舞踏家の時間と接続し、神と対話する。そこにちいさな密教の場所
が誕生する、それが35人もはいれば満員になる小劇場の特権的肉体であろう。池田
ユリヤと曽我傑のコラボレ−ションによって生成した空間とは生き神である。そこに
表象と時間の現在的原点をわたしは確認する。俳優は人間としてのメディアではある
が舞踏家はさらに覚悟の総量において、生き神と人間の回路を接続するメディアかも
しれない。舞踏家は「現」なるものを飛翔することによって、表現とは云わない、そ
れは源態としての「像」なのである。ゆえに生き美術なのであろう。
天使と神の絶望こそが第一部であった。タルコフスキ−が映画「ストカ−」で表明
したごとく、絶望する人間こそが神と対話できる。われわれは表層皮膚を突き破るも
のは愚劣なエイリアンである、H・R・ギ−ガ−に80年代から90年代と規定され
てきた。人間的内容の解剖であり、人間のような物への廃虚への敗北の過程である。
それはやがて茶色の最強の昆虫と人間の合体まで退行する。映像と表層、最後の人間。
自己に絶望するものは世界に絶望する、そこにおいて救済とは対話能力であろう。
思想もそうであるが、神との対話とは個人による営為であり、神とは時間と空間そ
の宇宙であり、ソロ舞踏は、個人による個人のための個人への対話能力を観客に喚起
させる。こうしてソロ舞踏は美術のように、きわめて思想領域へと回路を開き純化さ
せるのであろう。こうして池田ユリヤは第一部において、背骨からアメリカUSA的
世界市場の絶望映像を打倒し、みごとな羽と天の衣を空間に像形したのである。舞踏
の生成が現代史における至福として、西洋人に受け入れられた要素がここにある。彼
らは神としての時間と対話したのだ。
東欧・ソ連邦スタ−リン全体主義体制を解体させた89年革命とは、東西陣営に配
置された核弾頭に対する、巨万の民衆の個人としての危機意識であり、生産システム
その工場制度が起こす自然環境破壊への個人としての危機意識である。89年革命の
根底の精神史がここにあった。ヨ−ロッパ人は舞踏に失楽園以前の時間を感知したの
である。失楽園以前の時間を感知できなかった、フランス・ポストモダン現代思想家
は絶望と孤独に病み死んでいった。
たまたま偶然ではあるが、わたしは池田ユリヤ舞踏公演に行く前、東京ビッグサイ
トへ立ち寄っている。パルテノン多摩・万有引力公演に出演した関係での知人がムシ
ムシコロコロシリ−ズを出展するので、あいさつがわりに行ったのだが、帰るとき、
アンドレ・ウエシュラ−と目が合い、あいさつをしたきっかけで、もう一度、彼女の
作品の前に戻った。骨である。自分のレントゲン写真のうえに自分の顔と身体の素描。
そのアクセスとしての表象は人間と自己とは何か? をめぐる内面思考であり、やは
り失楽園以後の時間帯ではあるが、対話が生成している。現在の女性表象者にとって
骨の内延と外延に生成している波動こそが、誕生である。
2、
糸である。紅い糸紐が舞踏者の手首にからむとき、つながれた袖幕には
あらかじめ分化された、わたしがいる。世界とは自我がわかれたとき、誕
生する。舞踏家は世界のかなたにいる、もうひとりの自分と出会っている。
観客は、舞踏家が生成した鏡としての瞳と脳波が出力した「対自己」の空
間に出会う。舞台とはわれわれにとって遠い、それが表象へのあこがれを
内包する夢となり、その回路こそが舞踏家の身体である。
人間としての個人にとって、何故、世界はここにあるのだろうか? わ
たしは池田ユリヤの舞踏によって、その糸口がみえてきた。この世界とは
わたしのもうひとつの巨大な自我であり、意識であり、自己の身体をおの
れが所有できないように、この巨大な世界も所有できない。「神の国」だ
からである。その奇蹟、ひとは自己の器としての容量にみあった世界を生
成させている。人とは空間である。その空間は人のこころが集合した網の
細胞であろう。舞踏は空間の遺伝子なるものを呼び出すのである。
第二部、池田ユリヤが紅い糸紐を、袖幕から伸ばしたとき、わたしには
すぐさまジァンジァン最終公演としての、万有引力『記憶の地下想像力』
に張られた紅い蜘蛛の糸がかさなり、陳腐だと感じた。しかし世界を再生
させるにおいて、その方法は必要だったのである。絶望した天使と神を呼
び出すために。
紅い糸紐に池田ユリヤの身体がからまる。そこに空間のエ
クスタシ−が集中する。いい表情だと思う。いい腰だと思う。わたしは青
年時に始めて女性を抱いたとき、背から腰に流れる曲線の美しさに息を呑
んだ記憶がある。えくすたし−とは美しい季節である、その夜の匂い。
その至福こそが、世界への愛情として、再生するのであろう。世界とは、
もうひとりの分化された自分である。舞台とはやはり最後まで自己への信
頼を問い、そして舞踏家の細胞は覚悟の総量において、空間へと、夜と夜
の夜、都市に摩滅した観客の細胞を再起動させるのである。
曽我傑の音は舞踏家の身体にとけ込み、それは音のみが主張することは
ない、ゆえに舞踏と道連れの音楽家なのだが、あかりは今でも記憶に残る。
昨年秋、同じ小屋での境野ひろみ舞踏公演でも、曽我傑のシンプルな世界
にうっとりとした。暗黒からあかりの源態が知感できる。そのあかりが縦
軸と横軸において、「永遠の今」を生成させるのである。ゆえに観客は至
福な特権を所有できる。それは思考する現代美術ではない、やはり身体表
象としての空間美術なのである。
ユリヤが紅い紐糸と、白い衣裳を捨てたとき、風がやむ。舞台の中央。
中心が観客に迫る。女とは自己と世界が分離してないんだよ、あんた。情
けない男たちよ、さようなら。わたしは彼女の暗黒子宮にからだごと飲み
込まれればよかったと思った。ユリヤの躯体が反り、ふんばる足が美しい
と思った。しかし、今だ、手の表情が弱かった。若さゆえのエネルギ−と
集中で疾走していた。しかし、あれは演劇以上の衝撃あるシ−ンだ。世界
を再生させる裸力としてのえろすである。
犬が野で疾走する夕方の美しい光景を、久しくわたしはみていない。近
くにあった鉄道沿いの大きな野原も、数年前、精神が宿る場所は全て壊滅
させる都市計画によって、モデルハウスが建つ場所へと変貌した。犬は繋
がれ、今や動物的本能を管理され、雄は犬小屋の横で自慰行為に走ってい
る。犬の内面が内向し、犬は諦観の淋しい街路を歩いている。池田ユリヤ
が云う「崩壊の借景」がここにある。えろすは再生を待っている。
3、
狂女である。エリザベ−ト、おまえの世界に雪が降る、そう詩人なら
うたうであろう。皇女の黒い衣裳、裏の裾には赤茶色染みがある。95
年以降の世界基調色である。自分が狂うとき、世界もまた同時的に移行
する。人間とは世界と自己が同時的時間と空間において成立している。
他人が介在したときに、始めて客体化された世界像がひらかれる。つま
り人間とは、世界を背負っているのである。それを世間とは云わない。
自己が個人として自分と対話をする回路が欠落している場合、世界は立
ち上がらない。制度としての世間であり、社会である。世界とは人のこ
ころが空間に拡張された通信としてある恋愛としての生成である。
「物質と物質の恋愛」と云う土方巽の言葉がある。今日に置換すれば
細胞と細胞の恋愛ということになる。恋愛こそが日本の神生成であり舞
台であろう。そこにちいさな宗教が誕生するとき、観客は特権的身体と
なろう。恋愛ができぬ物質は狂うほかはない。第一部から第二部として
のかぐや姫は、なさけない男たちにみきりをつけ、月に昇っていった。
中世のかぐや姫とは天使であり、それは両性でもある。ゆえに男たちは
そのえろすに魅了されたのだろう。月に昇っていったのは理由がある。
かぐや姫が人間の男と結ばれれば、堕天使へと落下するからである。
池田ユリヤは天海で「おにいさま」と叫ぶ、それが舞踏家のテ−マで
ある「水・記憶・夢」の根幹なのであろうか? わたしにはそうは思え
なかった。しかし男は舞台の特権的身体の波動に、「呼ばれている」と
至福な錯覚をするのである。そこにおいてはもはや阿佐ヶ谷アルスノ−
ヴァは世界劇場都市の皇居である。その二階から降りてくる狂った皇帝
の娘エリザベ−ト、おまえの世界に雪が降っている。ドイツ革命は失敗
した。第三部である。
その姿に旧ソ連映画、「戦争と平和」の窓のシ−ンが、わたしの記憶
装置に呼び出す。さらにタルコフスキ−「惑星ソラリス」における記憶
装置との交配とその廃虚、宇宙船は記憶に蝕まれていく。記憶とは鏡。
銅鏡なのだ。特権的な小劇場の舞踏空間とは、もはや宇宙船であろう。
暗黒舞踏は始源としてのあかりを照らし出す。そのあかりこそが観客に
世界を再生させるのであろう。物質と物質の恋愛なき、切断された大量
物流の近代の終焉、わたしたちの前におわりが明確にあらわれる今、こ
の文明のレベルの低さを自覚する。えろすなき物流世界が崩壊している。
「近代の終焉をまえにして、人は淋しさの極限にある」この村上龍の
指摘は根幹をつかんでいる。人と巨大組織システムは淋しく発狂する。
これが現在の「神の国」である。90年代のわたしは狂っていたのだ、
それが池田ユリヤと曽我傑のコラボレ−ション舞踏から、わたし自身が
対象化され、学んだことである。詩人は、やがて全面展開する予感によ
って、打倒される。オウム・サリン工場に突入する宇宙服を身につけ、
自衛隊化学部隊が手に持った「カナリヤ」こそ、詩人の動物的本能であ
ろう。詩人はつねに、やがて台風のように襲うであろう暗黒怪物のそば
で、ふるえながら生きているのである。
わたしは狂っていたのだ、終焉をまえにして、明るい街を自転車で走
るとき、終焉を生きるためには、まずおのれが崩壊を遂げなければつぎ
なる世界がみえない。つぎなる価値観と思想は天使からのインスピレ−
ションの福音をまつ。この5月、曽我さんの音楽で、デイモン・ラニア
ン/原作、白石征/脚色・演出による「天使のウンイク」という芝居を
横浜で公演した。まず「天使のウインク」という題名に、わたしは嫌悪
感をおぼえた。「この地獄の世紀末に、天使のウインクとは、なにごと
か!!」、おそらく観客に拒否されるだろう。
しかし、だんだんとわたしは、部屋で酒を呑みながら同意していくの
である。「これまで、わけもわからず、白石さんのもとでやってきた、
おそらく、今回も何かしらあるのだろう、とにかく白石征という人は先
駆者みたいな人だから、時間が醸成すれば、わかるかもしれない」、わ
たしは魔除にアパ−トの北側の壁に質屋で買った、銅のちいさな彫刻牛
を置いた。
「天使のウインク」はみごとに観客動員は失敗した。しかしわたしに
それほどまでの敗北感は無かった。今回の公演の戦略を、偶然にも77
年生まれ世代が5人出演するので、77年世代による社会的出現に定め
ていたからである。明確にわずかな熱き支持者と圧倒的な拒否者とわか
らない不満者に観客は分離した。わたしのお客で60代の主婦からは、
もうみんな遊行舎の芝居は行かない、って云っているわよ、と優しくお
どかされるしまつである。
天使をめぐる思いを誘ってくれたのは、池田ユリヤ舞踏である。先に
書いたように、その肩胛骨から羽を感知できたのだ。さらに初演後の和
栗由紀夫氏の言葉「堕天使」であった。瞬時にわたしは盲目のイギリス
詩人ミルトン「失楽園」を回路に呼び出す。天使であれ堕天使であれ、
五月雨の宇宙船に結露したものは、自己の実践的領域における、なにも
のかの誕生であった。
わたしは崩壊し狂っていた、それが池田ユリヤ舞踏第三部へよせる、
わたしの回答である。この90年代とは淋しさの総量において70年代
に似ていた。70年代を生き延びられたのは奇蹟だったが、同時にこの
90年代を生き延びてこられたのも奇蹟だった。そう思うのである。生
涯性を賭けた表現者・表象者とは、表現行為をなぐりすてやめた時、神
によって殺されるであろうことを、よく自覚している。何故なら彼/女
は世界を誕生させるからである。いかなる場所においても。その最も良
質な原理をうながす営為として、池田ユリヤと曽我傑のコラボレ−ショ
ン舞踏は五月雨の世界に、対話を生成させたのである。
過度期世界は終焉した。転換期である。わたしはもう70年代からあ
のあかるさに満ちた80年代へ変貌した都市に回答はできるだろう。お
まえの世界に雪が降る。
舞台の奈落から堕天使は浮上する五月の誕生。
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さわがに(2)―廃墟からの報告 2003/4/28 愚民党