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寺山修司へ―77年世代とは何か(3)
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投稿者 愚民党 日時 2003 年 4 月 28 日 20:08:37:

(回答先: 寺山修司へ―77年世代とは何か(2) 投稿者 愚民党 日時 2003 年 4 月 28 日 19:24:34)

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77年世代とは1977年・78年・79年に誕生した。

21世紀への演劇・舞踏界の新人
であり、それは音楽・文学・映像・美術界においても同時革命として、進出し
ている。01年においては現象となるであろう動派を、わたしは77年世代と
呼ぶ。

表現の場所をめぐっては、若き音楽者たちが先行している。路上演奏である。そ
こでは劇場にこだわる制度的観念において、演劇人は遅れているのかもしれない。
77年世代が孤独に耐える力において、路上に飛び出していくのはいつだろうか?
おそらく音楽を表現メディアとする若者が、前を疾走していることは間違いない。
かつて「連
帯を求めて孤立を恐れず」という68年パリ5月革命の言葉があった。33年ぶり
に復活したのである。若き路上音楽演奏者はすでに01年の荒玉をつかんでいる。

 J・A・シ−ザ−その至福とは、寺山修司のごとく新人との出会いを設定する。
パルテノン多摩1997年演劇実験室・万有引力公演とは、今から思うと巨大な運
動であった。そこでオ−ディションに参加してきた77年世代は、自分たちの世代
に出会った至福をわがものにするのである。淋しい「弧」に過ぎなかった自分が、
熱き同世代の「連」と出会う、これこそ彼/女にとって生涯の舞台であった。そこ
に77年世代の命がけの飛躍があり、続いて「野外劇から寺院劇場へ」を合い言葉
に遊行寺「小栗判官と照手姫」公演に参加した彼/女は、はじめて伝統と歴史的現
在の芸能の起源を体験するのである。これこそが愛の奇蹟である。しかし体験と言
語レベルでの確認は位相が違う。彼/女が問題意識の情熱をもって、言語の思考へ
と回路を切り開かない限り、体験として去っていくだろう。

 シ−ザ−は何故、演劇人よりも方向感覚が先行しているのか? それはシ−ザ−
が演出家としの寺山修司継承者であると同時に音楽家であるからだ。先ほど云った
ように日本においては視覚よりも聴覚が先行している。77年世代はそこで世界と
アジアの同時革命演劇をダイナミックな現在として体験する。そこから白石征の方
向感覚とは魂と場所をめぐる日本内在の情感である。つまり四国における遍路修行
者が彼の源であろう。遊行舎に参加した77年世代は、いまだ言語レベルでは自覚
化されぬまま、彼/女の系譜遺伝子が「遊行かぶき」を立ち上げてきた。何故に?

 それは日本の基層に古代から中世の呼び声が反復しているからである。つまり身
体論の最終段階としては、精神史へと移行するように、わたしのこの身体とは民衆
の記録されなかった歴史的内在に居る。存在から居在、それが現在の「連」として
定性されていく。77年世代はやはり魂が帰還する精神を模索している。77年世
代とは、やはり30年に一度しか誕生しない歴史継承者としての申し子なのだ。

 50歳代前半のリストラ内戦と、その子供たちである17歳が現在、日本社会へ
の復讐者として転化しているにあたり、そこで表出している魂とは、20世紀の崩
壊である。政治・経済・社会は「死刑宣告」され淋しさの極限にある。そこにおい
て演劇人の任務とは、祝祭を組織し舞台を立ち上げ、人々に元気になってもらうこ
とである。これまで政治・経済は滅びても芸能は滅びなかった。ゆえに第二次世界
大戦の敗戦後、日本映画は世界映画として現出したのである。演劇人がいたからで
ある。彼/女は国体愛国の小市民軍団による侮蔑と冷たいまなざしにも負けなかっ
た、演劇人の動物直感としての良質な方向感覚は国体の崩壊を予測し、敗戦後へと
準備していた。それがただでは起きぬ役者根性である。こうした古代からの日本芸
能史の不滅の根性を学ぶとき、77年世代は自己表現における自己批評をわがもの
とするはずである。自己批評とは言語によって記述された歴史と対話しないかぎり
誕生しない。書を捨て街に出よ、そして書に帰る、これが言葉を表現手段とする演
劇人である。

 77年世代に問われているのは、果たして自分の言葉がもてるのか? それとも
舞台体験に終わり、刺激に反応するアメ−バ−としての情報細胞へと退行するのか
どちらかである。表現者とは唯ひとり、地球に立つ、その地点が世界の中心軸であ
ることを自覚している者である。孤独のなかで自分を見据える者である。淋しさの
総量を引き受け自己と対話できない者は、観客と対話できない。観客は何故、芝居
が進行している舞台空間に向けて言葉を発しないのであろうか? 観客は静かに舞
台に居る自己と対話しているからである。舞台の俳優に観客はとけ込む、そしてこ
ころの起動によって自己人間像を立ち上がらせる、対話が始まる、しかし良質な俳
優は観客の自己同化を裏切り、もっとも遠い人間像へと観客を誘う。そこに感動が
生まれる。良質な俳優の本を読むとき、言葉への豊かな感受と、人間と社会を奈落
の底まで観察する力に驚嘆する。そして芸能者とは芸術を総量において愛している
者である。その感動の記憶装置である情感の豊饒の海こそが、舞台に立っただけで
観客を遠い世界に誘導してくれるのである。77年世代に決定的に欠けているのは
理論対象能力としての思想である。思想は世界を発見する、言葉が誕生する喜びを
いまだ彼/女はしらない。無感知のまま真面目さを武器に演劇市場を疾走している。
それは77年世代がいまだ体系への畏怖を感じていないことに理由がある。

 厳しい演劇市場の体系へ接近し、スタッフとして現出してきたのが、80年世代
である。彼/女は照明者/音響者/音楽者/制作者として、舞台に立つ77年世代
を見据え、演劇界に登場してきた。それは彼/女たちが77年世代よりも覚醒期が
90年代後半として厳しい社会環境に育ったからであろう。彼/女は演劇市場が俳
優のみで立ち上がらないことを自覚している。それは世界にも表と裏があることを
身体において納得しているかのようだ。まさに裏方のあたらしい世代の登場である。
77年世代は、もはやあらたなる世代に越えられようとしている。革命期のいまと
は、この1年が10年の胎動になる誕生の季節である。そこでは「終わった内容形
態」と「始まった内容形態」が明確になる。市場に身を置く先端企業のトップは自
覚している。革命におびえる77年世代は無感知な世代とともに淘汰されてしまう
であろう。革命を経験し生き残った全共闘世代−団塊の世代は、企業・行政・政治
経済・社会の指導者となった。彼らは最終の革命を、いま仕掛けている。IT革命
とは、情報技術のみの言葉ではない。演劇市場をふくむ市場総体としての革命なの
である。そこに68年世界同時革命の反復が潜んでいる。

2000年06月09日 10時23分01秒

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