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(回答先: Re:寺山修司の短歌 投稿者 愚民党 日時 2003 年 4 月 29 日 23:36:23)
短歌はいわゆる「縄文日本人」のこころ、韻律ではないですね。
古代歌謡まででしょう、縄文日本人のうたは。
短歌の三十一文字は近畿の気圏に腰をすえた朝鮮半島出身の支配者、百済系帰化人が原日本人に強制させたものです。
(参考文献『飛鳥の断崖』草薙焔太)
ああいう歌、韻律はあきらかに大陸や半島のものです。
もと日本人のうたは沖縄や青森などの辺境に名残をとどめていますが、素朴な「つぶやき」でした。
ですから、韻律を踏みません。とぎれます。
それが和歌や短歌のような韻律になると、ことばは流れていきます。時代にも流され、感情にも流されます。
寺山修司なんかの短歌をわたしが好きなのは、おそらく近畿の気圏に発生した「日本」国の文化に相対立する風土に育ちながら短歌をうたい、しかもそれを逆手にとった斬新な「旧日本人」的な〈反逆〉の歌を詠んだことでしょうか。
それはどのような詩人の範疇に入ることをも拒否するやはり東北の生んだ奇才、宮沢賢治に通じるところがあります。
石川啄木もそうですが、わたしは反「日本」国的なこのひとたちの独り取り残されたような直立した詩歌が好きです。
いやいや、短歌論なんてよくわからないくせに、勝手なことを申し上げました。
単なる、直感です。