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第2章 ストレッカーとの出会い
1986年の春ごろまで、私の好奇心は、エイズの唯一の発生源が ゲイのコミュニティーにあるということに向けられていた。だがそのころにな って、ますます多くの友人や知人、患者が、この病気で命を落とすのを目の当 たりに見るにつれ、好奇心はしだいに怒りへと変わっていた。信じがたいこと だが、彼らを救う手だては何もなく、みな手をこまねいているほかなかった。 医学界も科学界も、この新しいウィルスの襲撃に対してまったく無力であっ た。 ゲイ・コミュニティーの崩壊の兆しは、なぜか私に、ナチスの恐怖支配下に おけるユダヤ人殺戮を思い起こさせた。エイズにおける敵は人間ではなかった が、それは相手を選んで殺す能力をもっているようだった。ナチス支配下の ヨーロッパでユダヤ人であることは、死を意味した。そしていま、ニューヨー クやサンフランシスコやロサンゼルスでゲイであることは、数年のうちにエイ ズで死亡する確立が五分五分である(あるいはもっと高い)こ とを意味する。 とどまることを知らぬエイズの蔓延に、多くのゲイは未来への希望もなく、 恐怖と絶望と失意のうちに生きている。ナチス支配下のヨーロッパにおけるユ ダヤ人社会がそうであったように、アメリカのゲイのコミュニティーはゆっく りと消滅しつつある。 ある晩、私と友人のグレッグは、エイズで亡くなった大勢の知人のことを語 らいながら嘆きあっていた。しばらく話しているうちに、グレッグがたいそう 興奮してきた。そして、それまで聞いたこともないような話をして私を驚かせ た。テーブルをこぶしで軽くたたき、怒りに声をふるわせてこう言ったのであ る。 「このエイズってやつは集団殺戮なのさ。気をつけたほうがいい、彼らはぼ くらを皆殺しにしようとしているんだから。ぼくらが何人死のうが、やつらは 意に介しやしない。だって考えてもみろよ、ぼくらを強制収容所へ入れて死な せてしまいたがっているやつが、ごまんといるんだぜ。」 本気でしゃべっているとはとても思えなかった。彼はさらにCIAがとうの とか、ゲイの男たちはモルモットとして使われたのだとか、エイズウィルスが ゲイに与えられたのだという話をした。 とうとう私は黙って聞いていられなくなり、さえぎって言った。「ウィルス を誰かに与えるなんてことはできない相談だよ。エイズウィルスのよ うなものは注射しなければだめなんだ。いったいどこの誰が、ゲイたちにエイ ズウィルスを注射して回ったって言うんだい。そもそもエイズウィルスっての は、病気が始まって五年もたってから発見されたんだからね。」 さすがにグレッグも、どうやればそんなことが可能なのか説明できなかっ た。だが、彼はちょっと考えてから言った。「そうさな、ゲイ専門の性病診療 所があるだろ。そこで誰かが注射薬のなかにウィルスを混ぜたってことも考え られるさ。ありえない話じゃないだろう?」 医者である私にとって、グレッグの考えは荒唐無稽もいいところだった。非 常識もはなはだしかった。エイズがそのようなかたちで生じたなど、絶対にあ るはずがなかった。私もグレッグも、話の展開に動転し、話題を変えた。もっ とも、私はグレッグの奇妙な考えを聞いて面食らいはしたが、その一方で、似 たような考えを抱いている者が彼のほかにもいることを承知してもいた。彼ら は、ゲイ社会に蔓延しているエイズという疫病には、何らかのかたちで不正行 為が関与していると信じていたのである。 話は数ヶ月前にさかのぼるが、私のところへ匿名である原稿が送られてき た。原稿には「エイズの陰謀──集団殺人」という不気味な題がついており、 筆者名はなくて、ただ「西暦1986年」と日付だけがあった。 原稿の中身は私を多いに不安にさせた。そこにはこう書いてあった。「エイ ズが故意にアメリカへ持ち込まれたのは確実である。エイズは人工の病気なの だ。自然に発生・進化したのではない。人々のあいだへ持ち込むのが目的で、 科学技術により開発製造された、細菌兵器の一種なのである。ゲイ、売春婦、 麻薬中毒者が最初の犠牲者に選ばれた。彼らは、陰謀者たちが病気をばらまい て目的を達成するための格好の材料だった。」 原稿はショッキングであると同時に挑発的であった。筆者(あるいは 筆者たち)は、エイズを故意にアメリカへ持ち込んだ張本人として、 大手国際企業と「それら協力関係にある米政府内部の者、メジャーオイル、大 手銀行、大手科学企業と製薬会社、医科歯科の権威機構、それに情報産業界」 を槍玉にあげていた。 こういった肝をつぶすようなことが鏤々書きつらねてあったが、「エイズ陰 謀」などという考えは、私には現実離れとしか映らなかった。個人にしろ集団 にしろ、エイズという疫病を発生させようと考えるほど狂気の者がいるなど、 とても信じられなかった。 もちろん、私は偏見にとらわれていたのである。私自身のそれまでの研究か ら、エイズは癌であり、それ以外の何ものでないと信じこんでいた。なるほど エイズウィルスが現実のものであるのは疑いなかった。それは白血球をねらい 撃ちにし、最終的に免疫系を破壊した。しかし私は、癌細菌が人々をエイズで 殺すのだと確信していたのだ。私の頭の中では、エイズは「新しい」病気では なかった。それは、癌という「古い」病気であった。ただ違うのは、今度のそ れがきわめて攻撃的な性質をもち、セックスによってうつるということであっ た。 1986年の夏ごろには私は、エイズに没頭するあまり過熱気味になってい る頭を少し冷やそうと言う気持ちになっていた。1981年以来、私の余暇 は、エイズの研究とそれに関する本を書くのにほとんど費やされてきたのだっ た。エイズの原因に関して大いに貢献できることはわかっていたが、私の見解 に関心を示す人はほとんどいないようだった。 エイズの専門家たちによって、すべて解決済みになっていたのである。彼ら は、自分たちの理論に疑問を投じるような反対意見が現れるのを望んではいな かった。それにエイズの科学はすでに、医学の政治に浸された一大事業になっ ていた。そして私はといえば、医学の政治というものが吐き気を催すほど嫌い だった。 そこで、ぼつぼつエイズと離れて、何かほかのことを始めようと心に決め た。しかしどうやら、事はそう運ぶように定められてはいなかったらしい。ま もなく私はストレッカーと出会い、それまで考えてもみなかった方面からエイ ズを考えることになるのである。 私は、ヴァージニア・リヴィングストン=ウィーラー博士から電話があった あの1986年8月の早朝のことを、いまでもはっきり思いだす。そのときか らすべてが始まったのだった。79歳になるヴァージニアは、人間発電機と呼 ぶのがふさわしい精力的な女性で、サンディエゴに設立した診療所でいまでも 一日中忙しく働きながら、(耳を貸してくれる人にはだれかれ構わず) 癌の原因は「癌微生物」だと話していた。 彼女は40年もの長きにわたって癌細菌の研究を続けてきたのである。そし て、癌患者の血液中や癌腫瘍のすべてに、癌細菌の存在を示してみせた。さら に彼女とその仲間たちは、実験室で癌細菌を増殖させ、それを動物に注射して 癌をつくりだした。彼女は40年以上にわたって数十編もの医学論文を、それ も一流雑誌に発表してきたが、それらがまともに取り上げられたことはこれま で一度としてない。 毎度おなじみの展開だった。「公式」の許可もなくコネもない研究者が、癌 の原因や効果的な治療法に到達しそうになると、きまって医学の権威機構から 無視されるか検閲を受けるのである。必要とあらば、連邦当局による投獄もあ りうる。ヴァージニアも癌研究に携わった結果として、(投獄はされな かったものの)ありとあらゆる嫌がらせを受けてきた。にもかかわら ず、彼女は相変わらず「癌微生物」説を唱道してやまない。しして、癌の予防 と治療のプログラムを考案し、実地に成功させてもきた。これについては、彼 女自身の著書『癌の征服』("The Conquest of Cancer",1984) に概説がなされている。ヴァージニアはまさにガッツあふれる女性なのだ。 彼女は非常に尊敬すべき医学の経歴の持ち主であるが、多くの医師から (そしてアメリカ癌学会から)「山師」とみなされている。という のは、彼女が癌「細菌」の存在を信じているのと、彼女の癌治療法(食 餌療法、ビタミン大量投与、免疫増強ワクチン)が「非正統的」だか らである。 私からみると、ヴァージニア博士はないがしろにされている科学の天才であ る。癌微生物学に関するその輝かしい業績は、いつかは癌とエイズ治療への道 を開くことになるだろう。彼女は四半世紀近くも私の友人であり師であった。 癌とエイズに関する私自身の研究も、彼女の「癌微生物」の発見から必然的 に生まれたものであった。彼女の科学における業績を私は心から尊敬してい る。だから彼女が口を開くときには、注意深く耳を傾けずにはいられない。 電話をかけてきたヴァージニアは、簡単にあいさつを述べると、さっそく本 題に入った。 「アラン、わたしたったいま、とても恐ろしいことを聞いたのよ。さっきま でロサンゼルスの医者と電話で話してたんだけど、彼ったら、エイズウィルス は故意に仕組まれた人工物だっていうの。」 彼女は早口で、エイズの陰謀だとか隠蔽工作について長々とまくしたてた。 私の頭は彼女の話についていこうと懸命に回転したが、空転するばかりだっ た。いったいぜんたい、彼女は何のことを話しているのだろう?こんなばかげ た話に彼女が引っかかるなど、信じられやしない。まるで友人のグレッグと同 じようなことを言っている。 とうとう耐えきれなくなって、私は口をはさんだ。「ヴァージニア、なんだ かものすごく突拍子のない話に聞こえるよ。本当にそんなことがありうると思 うのかい?ぼくも以前にそういう話を耳にしたことがあるけれど、気にもとめ なかった。」 私の反駁にかまわず、彼女は続けた。 「今度の週末にサンディエゴまで来て、その医者に会ってほしいのよ。名前 をロバート・ストレッカーっていうんだけど。ほかにも何人か医者が見えるこ とになってるわ。ぜひ来てちょうだいね。」 ヴァージニアと言い争ったところではじまらない。 「わかった、行くことにするよ。」 受話器を置きながら、私はいぶかった。いったい何が起こっているのだろ う。ヴァージニアがそんなに愚かなはずがない。聡明な女性である。 この陰謀とやらの話が、なぜたびたび私の行く手に顔を現すのだろう。もし かして、本当にそこには何かあるのだろうか? 白状すると、陰謀説が私にとってある種の魅力をもっていたことも確かだっ た。だがそれをいうなら、ジェームズ・ボンドもシャーロック・ホームズも、 あるいはハーディ・ボーイズだって同じである。ただ、彼らが空想上の人物な のに対し、エイズは現実のものだった。 おそらく今度ばかりは私も口を固く閉ざして、聞く側に徹するほうがいいだ ろう。それにヴァージニアの話では、ストレッカーは医者だということであ る。医者のくせにエイズは「仕組まれた」ものだと信じている人間を、私は一 人も知らなかった。それがまたいささか奇妙な興奮を誘った。要するに正直な ところ、私は、ロサンゼルスからやってくるこの医学博士がエイズについてど んな話をするのか、興味津々だったのである。 親友のフランクとサンディエゴへ向かう道すがら、その日がどんな一日にな るだろうかと考えた。目的地が近づくにつれて神経が高ぶり、そわそわと落ち 着きがなくなった。それを横でみていたフランクが、とうとう口を開いた。 「リラックスしたまえ!ヴァージニアとはもう何年も顔を合わせていないね。 きっと楽しい会合になるよ。それにつねづねきみは、このエイズの陰謀とやら をもっと知りたがっていただろう。ちょうどいい機会じゃないか。」 ヴァージニアとオーウェン夫妻の家は、海を見晴らす眺めのいい丘の上にあ った。夫妻の居間に迎え入れられて、愉快な人々と談笑するうちに、私の緊張 もしだいにほぐれてきた。あとは例の謎の客の到着を待つばかりである。とこ ろがヴァージニアは、ストレッカー博士からいましがた電話があって、少し遅 れるそうです、と言った。それを聞くとかえって私の心ははやった。それにま た、エイズ陰謀について語るこの会合が、何やら非現実のものに思われもし た。 ロバート・ストレッカーがついに到着した。大きなダンボールを二つも抱え ている。中にはエイズや癌ウィルスや遺伝子工学に関する大量の科学論文が入 っていた。彼はがっしりした体格で、彼が発散するエネルギーは部屋中を満た した。きびきびと動いて一人ひとりと力強い握手を交わし、温かい笑顔をふり まいた。どこか少年を思わせるところがある。もっとも歳のほうは、見たとこ ろ40を少し越えたあたりだろう。 彼はおもしろい経歴の持ち主であった。ヴァンダービルト大学医学部で医学 と薬理学の両方の博士号を取得し、1974年に卒業している。その後ミズー リ大学で四年間内科学を学び、さらに南カリフォルニア大学で胃腸病学の訓練 を二年間受け、病理学のレジデントとして三年間を過ごした。要するに彼は立 派な教育を受け、優れた訓練を積んだ医師なのである。とても奇人で片づけら れる人物ではなかった。 ひとわたり紹介がすんで、いっとき歓談したあと、ストレッカーはすぐに本 題に取りかかった。彼の話の内容はおおよそ次のようであった。彼は二年前に エイズの調査を開始した。兄弟のテッドと二人で健康管理機関(HMO)の団体 保険を始めたいと思い、その可能性を探ることにしたのがきっかけである。弁 護士のテッドが法的な方面を調べ、ロバートが加入者一人あたりの健康保険コ ストを算定することにした。 ところがすぐに二人は、エイズとエイズ関連症は非常に難しい問題をはらん でおり、健康管理コストを算定したりして事前に計画を立てるなど、とても不 可能だということがわかった。そのため結局、健康保険の事業計画を断念せざ るを得なくなった。 しかしこの調査の過程で、兄弟は、エイズウィルスもエイズという疫病も自 然の偶発事故などでは絶対にない、と確信するに至ったのである。それどころ か、図書館でいろいろな資料にあたったところ、エイズウィルスは何ら疑いを 抱いていない国民に対する「生物兵器攻撃」として、故意にばらまかれたとい う結論に達するほかなかったという。 私は唖然とした。どう考えたらいいのか皆目見当もつかなかった。このよう な奇怪な考えが医者の口から語られるのを、耳にしたことなど一度もなかっ た。 室内にみなぎる不信の念を感じとったのだろう、ストレッカーは「生物兵器 攻撃情報」と題するレポートのコピーを配りはじめた。それには1986年3 月28の日付と、ストレッカー兄弟の署名があった。レポートには二人の理論 に関する詳細な情報が盛られており、エイズは生物戦であることを立証するた めの証拠書類が列挙してあった。 ストレッカー兄弟は数ヶ月前に「警報」レポートのコピーを100人以上の 政府高官に郵送して、この生物兵器実験の危険性を警告したそうである。二人 はコピーを50州すべての州知事、大統領と副大統領、閣僚全員、それにCI A長官とFBI長官のもとへ送付した。ストレッカーによれば、レポートを受 け取ったあと返事があったのは三人の州知事だけで、その三人は顧問に見せよ うと約束してくれたとのことである。ストレッカーはわれわれに向かって、ひ まなときにそのレポートを読んでおいてくれたまえ、と言った。 次に彼は、エイズウィルスの独特な分子構造について慎重な説明を行った。 とくにこのウィルスが、「ビスナウィルス」と呼ばれるヒツジのウィルスに酷 似している点を強調した。 それに加えてエイズウィルスは、「ウシ白血病ウィルス」として知られるウ シレトロウィルスの特性も兼ね備えているとも言った。ストレッカーが図書館 で調べたところによると、エイズウィルスはこれまで知られているいかなるウ ィルスとも構造が違いすぎるので、「母なる自然」によってつくられたはずは 絶対にないのだそうである。 そして最後に彼は、エイズウィルスは「生物工学」によって製造された「人 工」の産物に違いないと結論づけた。この「新しい」エイズウィルスは、おそ らく二つの異なるウィルス(たとえばビスナウィルスとウシ白血病ウィ ルス)を掛け合わせるか、遺伝子接合によってつくられたのだろう。 そして人間の体内に入ったとき、このまったく新しい「組換え型」エイズウィ ルスは「新しい」病気を発現させたのである。 ストレッカーは何とかしてわれわれに理解させようと懸命に努めた。だが、 彼の話の内容は私の理解の範囲を越えていた。そもそもがウィルス学者や免疫 学者の使う高度に専門的な用語は、畑違いの者にとって理解できることのほう が珍しいのだ。その結果、彼らの結論の正しさを信じるためには、相当な「信 頼」が要求されることになる。 エイズウィルスの複雑さをストレッカーが説明するあいだ、私は彼の陰謀説 について質問する機会がくるのを辛抱強く待った。ゲイの人々に対する政府の 計略があったのなら、ぜひそれについて知っておかなければならない。 ついに質問をする機会がめぐってきた。あの宿命的な日にわざわざサンディ エゴまで出向いたのは、その質問をするためだったともいえた。 「どうやらきみは、エイズは生物兵器実験として故意に仕組まれたと信じて いるらしいが、それなら、どうしてゲイがエイズウィルスに感染したか教えて くれないか。」 ストレッカーは私の目をまともに見て、一瞬のためらいもなく言った。「非 常に単純なことです。ウィルスを注射したんですよ。」 私は自分の耳を疑った。 「どういう意味だい?注射しただって?どうやって?」 ストレッカーが続けた。「ニューヨーク市のB型肝炎ワクチン試験を覚えて おいででしょう。そのときにやったんでしょうね。」 私は1970年代に実施された実験用ワクチン試験のことをぼんや りと思いだした。あのときはたしか、ゲイの男性がボランティアとして使われ たはずである。また、いまから数年前、医師らも市販用B型肝炎ワク チンの接種を受けるよう勧告があったとき、私も働いている病院で申しこん で、三回のワクチン接種を受けた。 そのときのワクチンが絶対に危険のないものだったことには、一点の疑いも ない。もし危険だったら、接種など受けなかった。 私はストレッカーに反論した。「あのワクチンは安全だよ。私自身も受けた んだから。」 彼は答えた。「もちろん市販用肝炎ワクチンは安全です。たぶんエ イズウィルスは実験用ワクチンに混ぜて、ゲイのボランティアに注射 されたんでしょう。ウィルスを接種されたのはゲイだけです。まさか、一般市 民のために認可された市販用ワクチンに、ウィルスを混ぜることはし ないでしょうからね。」 「それはおかしいよ。」と私は言った。「肝炎ワクチン試験の際にエイズウ ィルスがゲイたちに注射されたとすれば、疫学専門家はそれをさかのぼって最 初の試験までたどりついたはずだ。どこかで読んだ記憶があるが、ワクチン接 種を受けたゲイのエイズ発症率は、ワクチンを受けなかったゲイと同じ だそうだよ。つまりプラシーボ(偽薬)を与えられた対照群の ことだがね。」 私の言葉にひるむようすもなく、ストレッカーは彼の考えた筋書きを話しつ づけた。「おわかりになっていないようですが、エイズウィルスは両方 のグループに与えられた可能性があります。ワクチンを接種されたグループ と、プラシーボを注射されたグループのね。もしそうだとすると、二つのグ ループの発症率の違いを見つけることはできないでしょう。」 この男は、どんな複雑な質問にもたちどころに応じられるよう、いくらでも 答えを用意してあるらしかった。 彼の自身たっぷりの態度に接しているうちに、私はだんだん腹が立ってき た。 「ストレッカー、いったい誰がそんな気違いじみたことをするんだね?それ になんの目的で?」 こちらの怒りを感じとったのか、彼は思案げに言った。「誰がやったのかは わかりません。しかし、故意にせよ偶然にせよ、誰かがゲイのワクチン試験を 妨害したのは確かだと思います。エイズウィルスをゲイ社会へ持ち込むのに、 きっとその方法が使われたに違いない。それ以外、論理的に説明がつかないの です。そしてそれこそがやつらのねらいだったのでしょうね。医学の文献にそ のことが述べられていますよ、それと私の生物兵器攻撃レポートにも。それを 読んで、この問題を少し考えていただきたい。」 室内にいる人々は、ストレッカーの知識の深さに魅了されて聞き入ってい た。明らかに下調べをたっぷりやってきたものとみえる。エイズという疫病は 意図的につくりだされたものだという彼の主張は、集まった人すべてを不安に おとしいれた。 それから数時間白熱した議論を戦わし、早めのディナーを済ませたころに は、みんなすっかり疲れ果てていた。ロサンゼルスへの帰路につく前に、近い うちにもう一度集まろうと約束を交わしあった。ストレッカーは今度来るとき に、彼の重要な論文をいくつかコピーしてくると言い、われわれもそれまでに できるだけ多くの資料を読んで、次の会合の準備をしてこようと誓いあった。 サンディエゴからの長い帰路のあいだじゅう、私の神経は高ぶりっぱなしだ った。ストレッカーのことがどうしても頭から離れなかった。彼は何かをつか んでいるのだろうか。それとも彼は、気がふれた偏執症者なのだろうか。これ まで実際に頭のいかれた医者に何人も会ってきたが、ストレッカーはそれらの 者たちとは明らかに違う。 フランクに彼をどう思うか尋ねてみた。フランクは怪しげなものをかぎわけ る鋭敏な嗅覚をもっている。その彼が、ストレッカーの話は完全に理屈に合っ ているという。私は混乱する一方だった。 認めたくはなかったが、ストレッカーの異端とも言える考えに真実らしい響 きが感じられたのも事実である。まだ多くの細かな点が欠落してはいるもの の、調査に値する何かを彼がつかんでいる、そう私は直感した。 どういったらいいか、要するにストレッカーの信念が、エイズの出現以来私 を悩ましてきた多くの疑問を再検討するよう、私を駆りたてたのだった。 エイズウィルスはどこからやってきたのだろう。それは、ストレッカーが言 うように人工の産物なのだろうか。 なぜエイズウィルスは、最初にゲイの男性だけを襲ったのだろう。ストレッ カーが言うように、彼らはウィルスを注射されたのだろうか。 中央アフリカとハイチの人々は、なぜエイズに対して「ハイリスク」だった のだろう。この疑問についても、ストレッカーは答えをもっていた。 なぜ専門家たちは、最初、エイズを「ゲイ」の病気だと主張したのだろう か。 なぜ彼らはああも素早く、エイズを癌と区別したのだろうか。 エイズ専門家とはどういう人たちなのか。どのようにして彼らはたちまちの うちに、たいていの医師がほとんどあるいはまったく知らない病気の専門家に なりおおせたのか。 家に帰りついたときには、へとへとに疲れきっていた。眠ろうとしたが、頭 をもろもろの考えが駆けめぐって目が冴えるばかりであった。 眠れぬまま時間が過ぎていく。それにつれて私の怒りも大きくなっていく。 理由はわかっていた。ストレッカーの恐るべき説など考えたくもなかった。思 い起こすだけで身の毛がよだった。好ましくない人間を国内から一掃するため の政府の計略だという考えを聞いて、戦慄しない人間などいはしまい。 私は繰り返し自らに問いかけた。エイズウィルスは、故意にアメリカのゲイ の男性に「持ち込まれた」のだろうか。 アフリカで不正行為が行われたのだろうか。ハイチではどうなのだろう。 友人のグレッグは正しかったのだろうか。エイズは一種の生物学的集団殺戮 なのだろうか。 ストレッカーが正しいと仮定して、その証拠は何だろう。 私は、ヴァージニアの家に集まった人々に彼が語った言葉を思いだした。 「すべて科学文献の中に述べられています。医学図書館へ行けば、私の話の内 容を証拠だてる資料がどっさり見つかりますよ。ただ時間をかけて調べてみれ ばいいんです。」 私は何としても真実を知る必要があった。だが、どこから始めたらいいのだ ろう。 たぶん、マンハッタンでゲイの男性に発見された、最初のエイズ症例から始 めるのがいいかもしれない。初期のエイズの文献をもう一度読んでみよう。も し不正行為があったのなら、必ず何らかの手掛かりが存在するはずである。 医学が集団虐殺などという極悪非道の実験を行っておきながら、なんのとが めもなく逃げおおせるなど、断じてあってはならない、いや、ありうるはずが ないのだ。 私はストレッカーが誤っていることを証明して、自分自身を納得させなけれ ばならなかった。 それにしても、ほかの誰も知らないことを、ストレッカーはどうやって知り えたのだろう。私は急に自分が愚か者になった気がした。自負心は粉々にうち 砕かれた。それまでは、エイズについてほとんど誰も知らないことを自分は知 っているとうぬぼれていた。そこへ突然ストレッカーが登場して、癌細菌につ いて一片の知識もないくせに、エイズは生物兵器だと私を説き伏せようとして いるのだ。 私がそれまでに行ってきた科学上の仕事はかなり膨大なものである。「癌細 菌」を発見したときには、エイズの謎を解明したとばかりに多いに満足したも のだった。それをいまになってストレッカーが、まったく異なる方法でエイズ の謎を解こうとしているのである。 突然私は、史上に例のない最悪の恐怖物語のただ中に放りこまれたのだっ た。エイズは人類に対する故意の生物兵器攻撃だというストレッカーの説が本 当なら、それはこの地球という惑星でかつて犯された、もっとも恐るべき非道 な所業である。 私が足を踏みいれたのは、複雑にもつれ合う科学の狂気の中であり、いった んそこに絡めとられたからには、逃れるすべのないことを、私は直感的に悟っ た。 真実を見つけだす以外に道はない。 そう決心がつくとようやく心も落ち着き、私は深い眠りにおちいった。疲労 のあまり夢も見なかった。そのときの私は、悪夢がはじまったばかりだという ことなど、知るよしもなかった。>>第3章 癌ウィルス学者とその使命