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http://www.asyura.com/2003/dispute5/msg/128.html
あっしらさんへ:騎馬民族征服説と天皇制の起源
投稿者 南青山 日時 2002 年 11 月 18 日 04:34:25:

せっかくあっしゅらさんにレスをいただいたのですが、本業が忙しかったのと、日本古代史の細かいところまでは不案内だったので、レスが遅くなりました。
親レスからの流れは、以下にURLを記しておくので、興味のある方は参照してください。

http://www.asyura.com/2002/dispute4/msg/129.html

さて、あっしらさんは、小生の「江上波夫氏(先日惜しくも物故されました)の“騎馬民族日本征服論”では、天皇家(制)の中心的祭儀が、騎馬民族ではなく、農耕文化を基盤としていることを説明できないのでは」とという問いかけに、以下のように応えられました。

(1)朝鮮半島の百済や高句麗が中国大陸を基盤とする遊牧騎馬民族系であったことから、ある時点で朝鮮半島の渡来人が日本の支配層に取って代わったと考えても、「騎馬民族日本征服論(あっしゅらさん的には遊牧騎馬民族征服説)」は成立する。その際、先住民の皆殺しは行われなかった。侵攻した地域に支配層として居座った。
(2)農耕先住民に遊牧騎馬系支配者が乗っかるかたちで新しい国家ができた。
(3)一般的に、農耕民族より騎馬民族の方が戦闘能力で勝っている。
(4)記紀には天津神と国津神の争いが描かれている。
(5)現在でも天皇家で行われている大嘗祭も、新たな支配層が既存の祭祀を取り入れた結果である。
(6)ただし、古墳時代以降の埋葬様式や墳墓は朝鮮半島支配層のものに近い。
(7)古代史を現在の国家的枠組みで見るのは誤りである。
(8)日本書紀の天武天皇と天智天皇の関係や、大海人皇子の反乱は、同一支配一族の確執ではなく、異なる勢力間の争いと考えたほうがすっきりする。

あっしらさんの論点をまとめると、古代日本で、朝鮮半島から進入してきた騎馬民族勢力と日本の農耕先住民との勢力争いがあり、最終的に騎馬民族勢力が支配層になったが、天皇家の祭祀は代々伝わるものを残した、それは、先住民の歴史(物語)を共有るすることで、地域間の衝突を最小限の争いで決着をつけるための方策だった、ということになります。
ここで、本家江上氏の騎馬民族日本征服論はどう述べているかを見ておきましょう。「改版騎馬民族国家」(中公新書)の162ページでこう述べています。

「現在のところ、…推論の域をでないが、東北アジア系の騎馬民族が、新鋭の武器と馬匹とをもって朝鮮半島を経由し、おそらく北九州か本州西端部に進入してきて、四半世紀末頃には畿内に進出し、そこに強大な勢力をもった大和朝廷を樹立して、日本統一国家の建設をいちおう成就したことは、現在においても、ほぼ暗示されているのである。そうして、大和朝廷の樹立は、応神・仁徳両陵に代表される、古墳時代後期の開幕に相応ずるものであろう。したがって、それ以前は、騎馬民族の西日本侵入のときまでさかのぼって、日本建国の創業の時期と認めるべきであろう。」

同書では、大嘗祭にも言及し、こう記しています(186ページ)。

「最近、護(もり)雅夫氏は、「遊牧騎馬民族国家」という題名の書物を著して、日本の神話、伝説、祭儀、儀礼の中に、北アジア、東北アジアなどの騎馬民族のそれらと密接な関係を持つものがかなりあり、とくに現御神としての天皇と、その即位儀礼たる大嘗祭が、大陸の遊牧騎馬民族国家の君主と、その即位儀礼に本質的一致していることを指摘した。」

小生の騎馬民族日本征服論に疑問を呈する根拠としている大嘗祭について、江波教授は全く逆の解釈を紹介し、教授の騎馬民族日本征服論を側面から支援する有力な物証と見なしています。
では、大嘗祭とはどのようなものなのでしょうか。吉本隆明氏は「天皇および天皇制について」(「信の構造Part 3 全天皇制・宗教論集成」春秋社所収、97ページ)でこう記しています。

「天皇位を世襲するときの祭儀は大嘗祭と呼ばれている。この祭儀を構成している主要部分は、所定の宗教的な方位に設けられた神田からの穀物(稲)、および供物を、祭儀用の式殿中で即位する天皇が喰べ、式殿に敷かれた寝具にくるまって横たわることから成っている。この祭儀にはさまざまな解釈が為されているが、わたしのかんがえではその本質はつぎのいくつかの点に集約されている。
 一つはこれが農耕祭儀の模写という意味をもっていることである。神田から抜穂された穀物を喰すという儀式は、穀物の豊饒をねがうという意味をもつとともに、穀物の生々する生命をわが身にふき込むという意味をもつ。そして重要なのは、このような濃紺儀礼を天皇位の世襲の式に行うことによって、たとえ現実的に何人もそれを認めないとしても、天皇は自らの祭儀の内部では、農耕民の支配者であるという意義を保持しつづけてきたということである。」

大嘗祭が吉本氏の記述の通りとすれば、江波教授の少なくとも大嘗祭の議論(天皇家あるいは天皇制は遊牧騎馬民族国家の伝統を基盤にしている)は前提から崩れることになります。
そして、天皇家(制)の儀式が農耕文化を基盤としているとすれば、古墳時代でなく、弥生、縄文までさかのぼる文化的・歴史的基盤を持つと考えていいでしょう。
(天皇家(制)成立の謎は、吉本氏の述べるように、宮廷内部の儀式の徹底的な公開、天皇陵の徹底的な発掘調査、琉球、沖縄の歴史学的、民族学的、考古学的研究のさらなる推進が必要でしょう。)
では、あっしらさんの述べるように、4世紀前後に、大きな支配勢力同士の戦乱があった後、天皇家(制)は支配の道具として、新たな支配勢力に利用されたのでしょうか。
ここまでたどってきて考えられることは、以下の通りです(何となく、あっしらさんの議論に押された格好ですが)。
(1)古代日本において、朝鮮半島から渡来した勢力と先住民勢力による戦乱があり、渡来勢力が勝利した。
(2)ただし、それは征服というようなものではなく、支配層の交代といったものにとどまった。
(3)当時の日本には、縄文、弥生から伝わる農耕文化を基盤とした世襲的な宗教的権威(権力)があった。
(4)新しい支配層は、政治的権威(権力)を強化するために、その宗教的権威(権力)を取り入れることにして、今日の天皇家(制)が成立した。
(5)歴史的に見た天皇家(制)は、政治的権威(権力)と宗教的権威(権力)を両方合わせ持つこともあれば、一方を時の勢力に渡すこともあるといったかたちで今日に至っている。

なるほどという感じですが、吉本氏は前掲書の中で、上記のような考え方は魅力的だが、必然化するだけの根拠をもっていないと言い切っています。
その理由について吉本氏は、一つは、「古事記」などに描かれた<神話>時代(歴史的な天皇家(制)が成立する千数百年以前の数千年にわたる時代)の世襲的な宗教的権威(権力)と、歴史時代の天皇家(制)の権力の諸形態にそれほど違いがないこと、もう一つは、宗教的な権力と政治的な権力を分担する挿話が「古事記」にすでに存在すること、などを挙げています。
この辺は小生も同感で、小生が騎馬民族日本征服論に疑問を投げかける所以は、吉本氏も述べているように、騎馬民族日本征服論を安易に導入することで、天皇家(制)の成立の起源が覆い隠されてしまうことを危惧するからです。
天皇家(制)の起源については、吉本氏の言うアジア的段階、あるいはアフリカ的段階の議論とも絡んでくると思うのですが、あっしらさんはどうお考えでしょうか。
こうした天皇家(制)の起源の問題を抜きにして、今日の天皇家(制)の議論や、最近散見するばかげた神道原理主義の議論も成立しないと思われるので、雑然とした文章になりましたが、とりあえず論点を記してみました。

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