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レス1:古代日本史の補足
投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 18 日 21:49:46:

(回答先: あっしらさんへ:騎馬民族征服説と天皇制の起源 投稿者 南青山 日時 2002 年 11 月 18 日 04:34:25)

南青山さん、こんばんわ。

投稿内容をまとめていただきありがとうございます。

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(1)朝鮮半島の百済や高句麗が中国大陸を基盤とする遊牧騎馬民族系であったことから、ある時点で朝鮮半島の渡来人が日本の支配層に取って代わったと考えても、「騎馬民族日本征服論(あっしゅらさん的には遊牧騎馬民族征服説)」は成立する。その際、先住民の皆殺しは行われなかった。侵攻した地域に支配層として居座った。
(2)農耕先住民に遊牧騎馬系支配者が乗っかるかたちで新しい国家ができた。
(3)一般的に、農耕民族より騎馬民族の方が戦闘能力で勝っている。
(4)記紀には天津神と国津神の争いが描かれている。
(5)現在でも天皇家で行われている大嘗祭も、新たな支配層が既存の祭祀を取り入れた結果である。
(6)ただし、古墳時代以降の埋葬様式や墳墓は朝鮮半島支配層のものに近い。
(7)古代史を現在の国家的枠組みで見るのは誤りである。
(8)日本書紀の天武天皇と天智天皇の関係や、大海人皇子の反乱は、同一支配一族の確執ではなく、異なる勢力間の争いと考えたほうがすっきりする。
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>あっしらさんの論点をまとめると、古代日本で、朝鮮半島から進入してきた騎馬民族
>勢力と日本の農耕先住民との勢力争いがあり、最終的に騎馬民族勢力が支配層になっ
>たが、天皇家の祭祀は代々伝わるものを残した、それは、先住民の歴史(物語)を共
>有るすることで、地域間の衝突を最小限の争いで決着をつけるための方策だった、と
>いうことになります。

若干の手直しと補足をさせてもらいます。

《手直し》

「大嘗祭も、新たな支配層が既存の祭祀を取り入れた結果」については、朝鮮半島から持ち込んだものか、日本古来のものを採り入れたかはわからないという立場です。

《補足》

卑弥呼の時代は、馬がいないという魏志倭人伝の記述を信じれば、その時点では騎馬民族に征服されていないことになります。

倭と呼ばれた国家は、九州を拠点としながらも、朝鮮半島南部までを含む領域であったと推測しています。(任那の日本府と呼ばれるもの)

古代日本の大きな激動は、663年の「白村江の戦い」とそれに伴う百済の滅亡さらには668年の高句麗の滅亡を経ての新羅による朝鮮半島統一を契機に起きたと考えています。
倭(九州)は、唐・新羅連合軍との「白村江の戦い」に参戦したほどですから、百済との関係は深かったはずです。
(この時点で、倭が百済勢力に支配されていたかどうかはわかりませんが、たぶん同盟関係でしょう。朝鮮半島が戦乱状態にあったおかげで、倭は優位であったと思われます)

重要なのは、朝鮮半島が高句麗・百済の南下により新羅を含めた3国が長期にわたって戦乱状態にあったことです。(朝鮮半島南部にあった馬韓などは滅び、3国が対立的に朝鮮半島を支配する状態になった)

領土の奪い合いという戦乱の過程で日本列島に逃れた勢力があったことが想像できます。
領域をとったりとられたりという戦いですから、高句麗・百済・新羅のいずれの勢力も負け戦の後に渡来してきた可能性が高いと思っています。戦いで鍛えられた勢力ですから、渡来者がいくつかの地域で支配権を確立したと考えています。
渡来者は農耕生活様式を既に身に付けており、棲み分けをしながら、それぞれが朝鮮半島の出身民族との交流を維持していたと考えています。
(新羅は山陰地方から関西に、高句麗は北陸から越(新潟)・関東と考えるのが地理的な妥当性を持っています)

このような日本列島の支配状況を大きく変動させるきっかけになったのが、百済・高句麗の滅亡と新羅による朝鮮半島の統一です。

百済の支配層は、滅亡後、倭に流れ込んでいます。(一説には数十万単位と言われていますが、数千から数万が妥当な数だと思っています)
そして、倭は、防人が動員されたほど、新羅・唐からの圧迫を受けることになります。

これらが、倭の領域拡大欲求や東遷を促したはずです。とりわけ、日本に渡来していた新羅勢力支配地域は格好の標的になったと思われます。
旧百済支配層は帰る土地を失ったわけですから、日本列島での領域拡大に命がけになったと想像できます。
天皇発言もありましたが、平安時代の天皇の血筋に百済という明示がありますから、関西から九州の地域は、百済勢力と連合した勢力(たぶん倭)によって統一されたと考えています。
蘇我氏は、出自は不明ながら、関西の大王(天皇)だった可能性が高いと考えています。

(九州の地名と奈良の地名の類似性(山門と大和など)や白鳳時代(九州)という呼び名が残っていることから、九州勢力が東遷したと考えています)

このようなことから、奈良時代の始まりあたりが統一王朝(大和朝廷)の始まりではないかと推測しています。

(この時点でも、東海から東は、大和朝廷の非支配地域であった可能性が高い。そして、東日本には高句麗勢力が大量に渡来したと推測される。これが、武家政治と呼んでいる政治変動につながっていくことになる)


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