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(回答先: あっしらさんへ:騎馬民族征服説と天皇制の起源 投稿者 南青山 日時 2002 年 11 月 18 日 04:34:25)
>小生の騎馬民族日本征服論に疑問を呈する根拠としている大嘗祭について、江波教授
>は全く逆の解釈を紹介し、教授の騎馬民族日本征服論を側面から支援する有力な物証
>と見なしています。
>「改版騎馬民族国家」(中公新書)の162ページでこう述べています。
『現在のところ、…推論の域をでないが、東北アジア系の騎馬民族が、新鋭の武器と馬匹とをもって朝鮮半島を経由し、おそらく北九州か本州西端部に進入してきて、四半世紀末頃には畿内に進出し、そこに強大な勢力をもった大和朝廷を樹立して、日本統一国家の建設をいちおう成就したことは、現在においても、ほぼ暗示されているのである。そうして、大和朝廷の樹立は、応神・仁徳両陵に代表される、古墳時代後期の開幕に相応ずるものであろう。したがって、それ以前は、騎馬民族の西日本侵入のときまでさかのぼって、日本建国の創業の時期と認めるべきであろう。』
レス1で書きましたが、応神・仁徳両陵の時代比定が正しいのであれば、倭(大和朝廷)の大王の陵墓ではなく、関西地方を支配した(百済か新羅?)勢力の大王の陵墓だと推測します。
九州の墳墓と関西の墳墓が異なる様式なので、異なる勢力か、渡来時期が異なっていたかになると思います。
よりでかい陵墓だからより大きな勢力という考えは、単純すぎるものです。
死者の弔い方は伝承的なものですから、大きな勢力でも簡素な陵墓で済ます可能性があります。
中国皇帝の陵墓はどれもでかいのか、大英帝国の王の陵墓はでかいのかといったことを考慮する必要があります。
百済・新羅・高句麗の王墓と比較検討すれば、関西地域を支配した勢力の出自がわかります。
>同書では、大嘗祭にも言及し、こう記しています(186ページ)。
『最近、護(もり)雅夫氏は、「遊牧騎馬民族国家」という題名の書物を著して、日本の神話、伝説、祭儀、儀礼の中に、北アジア、東北アジアなどの騎馬民族のそれらと密接な関係を持つものがかなりあり、とくに現御神としての天皇と、その即位儀礼たる大嘗祭が、大陸の遊牧騎馬民族国家の君主と、その即位儀礼に本質的一致していることを指摘した。』
百済の始祖伝説は“卵”なので、日本書紀や古事記とは異なる発想です。
大嘗祭と遊牧騎馬民族国家の君主の即位儀礼がどのように「本質的一致している」かの説明がないのでなんとも言えませんが、大地と草は、騎馬民族に不可欠の自然条件ですから、稲の代わりに牧草が位置づけられた大嘗祭的祭祀が即位儀礼として行われていた可能性は否定できません。
ただ、「その即位儀礼に本質的一致している」という説明は、説明になっていないというそしりを免れません。