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(回答先: 『とりあえずどうもありがとうございました』 投稿者 書記長 日時 2002 年 9 月 05 日 19:24:38)
丁重なるご回答を有難うございまいした。また、前回投稿では投稿者名を誤記し、混乱を与えました。
米国の経常赤字や日本の累積財政赤字で「ファイナンス」と言ったのは、お金の出し手の問題を指します。ある臨界点を越えると国債の引き受け手がいなくなるのです。民間に溢れかえるお金を尻目に国家の中枢機能である財政が死を迎えます。無論、死を傍観するわけには行かないので大胆な手を打つことになりますが、そんな状態になるまで放置してから手を打ったのでは、ロシアや南米諸国のようになってしまいます。癌は小さい内に除去しなければなりません(実態としては、もう十分に大きくなっているのですが)。
財政問題をことさら矮小化させ楽観視して見せる経済専門家は罪万死に値します。真の意味での「亡国の輩」と言っても良い。昔の高度成長期のように実質GDPの伸びが7%とか10%になれば、長い時間をかけて適正な財政を取り戻せます。しかし、そんなことが夢物語なのは子供でも知っています。累積赤字はとりあえず脇に置き、単年度の収支のみを均衡させるために30兆円歳出削減すると、日本経済は即座に崩壊します。それではと、歳入30兆円増やすために増税したら、消費税も所得税も現在の2倍強になり、今のデフレ騒ぎどころでは済まなくなります。現状維持、問題の先送りをすると確実に毎年の赤字が累積して行く事になり、さりとて景気刺激のための減税や公共投資は問題をさらに深刻化させるだけです。
もう二進も三進も行かないところまで来ています。太平洋戦争にたとえると戦局は昭和18年終わり頃のイメージです。妙な幻想はさっさと捨て、逸早く非常事態体制に入るべきです。構造改革の推進を巡って甲論乙駁する民主的プロセスの時期はとっくに過ぎ去っているのです。とは言え乱世を救う指導者不在のわが国では、時機が熟するのを待つより他ないのでしょう。せめて二度の原爆投下まで至らず、沖縄戦辺りで目覚めて欲しいものです。
他にも様々な興味深いテーマをご提示いただき、建設的な議論ができそうですが、ひとつひとつが大論文になってしまいますので、失礼かとは思いますが簡単に触れるのみと致します。
=国債格付けと現行為替水準について=
ご指摘の通り、両者の日本に対する評価は明らかに矛盾しています。これは、これまで国家を犠牲にし、民間を守ってきたためです。本来両者への評価は近似であるべきで、そのねじれを是正してゆく必要があります。そうした行動を通じて、貴殿のおっしゃるような他国の範となるような日本経済システムを確立できるのだと考えています。
=亀井氏、西部氏の思想について=
亀井先生の見識は立派です。古き良き時代の日本の美徳を守り、国民の一体感をあくまで維持しようとする政治信念も良く分かります。しかし、厳しい時代に何もかも理想通りには行かないことも事実です(地方と都会の経済格差問題、いわゆる二重構造の解消政政策はひとまずピリオドを打たざるを得ません)。また、氏のケインジアンとしての側面については、「確信犯」であると指摘しておきます。私が改革路線によって破局をむしろ早めた方が良いとする丁度逆で、同じく破綻するなら景気にプラスになる財政支出増を行い、国民の痛みを和らげるべきじゃないか、ということです(頭の良い方ですから、国家財政や経済の問題点など全て分かっておられます)。
西部先生については、駒場時代に「経済学」という授業をとった記憶があります(内容は経済理論の解説など一切ないソシオ・エコノミクスでしたが)。元々数学の方ですから、いわば概念操作の天才で、官僚の中にも少なからずファンが存在しています。氏の問題意識は概ね賛同できることが多いのですが、国家としてのアメリカへの分析には食い足りないところがあります。その結果、アンタイ・アメリカン・スタンダードの姿勢にも俄かに賛同しがたい面が出てきます。氏はカリフォルニアに留学しておられたことがありますが、「現実のアメリカ」よりも「理念としてのアメリカ」を考察される傾向が強すぎたのかな、と感じます。
=共産主義と旧共産主義諸国の現状=
確かに旧システムを再度取り入れ始めた諸国の今後の行方は要注目ですね(私にはうまく行くようには見えませんが)。共産主義から平等主義を取り除くのは原理的に不可能で、あえてそれをやるとすればイデオロギーの自殺行為だと思います。貴殿の仰るように、もしかすると私の中には市場・競争原理への「信仰」めいたものが存在するのかも知れません。その点は絶えず自省してみるつもりです。
世の中には様々な職業があります。芸術家、研究者、教育者、医療・福祉、政治や経営の指導者、その他諸々の職業(一部の公務も私としては入れたいが)の中で、仕事の内容がいわば趣味や生甲斐と一致していると言えるものがあります。そういう現場では、社会主義だろうが資本主義だろうが体制など関係なく、全身全霊を込めた自己実現がなされるでしょう。生産性や創造性も極大化します。しかし、残念ながら世にある仕事の多くはそういった人間性の琴線に触れるようなものではありません。より多額の収入が得られる、他人との差がつけられる、落伍者は悲惨である、などのアメとムチが必要であるというのが変わらぬ現実ではないでしょうか。