1927年の金融恐慌から2年後、ようやく日本経済が落ち着きを取り戻した頃のことです。
ライオン宰相と呼ばれた浜口雄幸内閣は、「金本位制(金輸出解禁)への復帰」を最大の経済政策として登場します。
1929年8月、政府は、金解禁と緊縮財政に対する国民の理解を得るために、1300万枚の宣伝ビラとラジオ放送を使い、国民に次のとおり呼びかけます。
今日のままの不景気は、底の知れない不景気であります。
前途暗澹たる不景気であります。
これに反して、緊縮、節約、金解禁によるところの不景気は底をついた不景気であります。
前途晧々たる光明を望んでの一時の不景気であります。
・・・・我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで、
後日の大なる発展を遂げなければなりません。
金融恐慌で痛手を負った財界人や庶民の心に、この政策は輝いて見えました。
この頃、「♪金の解禁立て直し、来るか時節が手を取って♪」という歌詞の金解禁節が流行ります。
1929年10月24日、ニューヨーク株価の大暴落(暗黒の木曜日)がおこります。
私達は、この暴落が重大事件であることを歴史で学びますが、当時のアメリカの実体経済は、まだ健全のように思えました。
日本でも、アメリカでも楽観的な見通しが有力だったのです。
浜口首相の下で、金解禁の指揮をとったのは、蔵相の井上準之助でした。 1929年11月21日、井上は決断します
そして、1930年1月11日、金解禁が実施されたのです。
この日の株価は、金解禁を歓迎して、高くなります。
浜口首相は、自身満々、1月21日、衆議院を解散して、国民に信を問います。
浜口内閣(民政党)は、圧倒的な支持を受け、273議席を獲得します。反対派の政友会は、完膚なき敗北で、わずか174議席に落ち込みます。