(回答先: 昭和金融恐慌1(鈴木商店の大番頭・金子直吉) 投稿者 あぼーん3世 日時 2002 年 3 月 06 日 15:57:07)
1920年3月15日、東京株式取引所の株価は大暴落します。
これをきっかけに、第一次世界大戦後の反動恐慌が始まります。
平均株価は、この後三ヶ月間で半値になったそうです。
主要商品も暴落します。生糸の価格は1/4に、綿糸の価格は1/3になってしまいます。
海上運賃も、船舶の価格も下落の一途・・・
金子直吉率いる鈴木商店は、借金に頼りながら、投機的な事業拡大を敢行してきました。
同社は、急激な環境の変化に対応できずに、壊滅的な打撃を被ります。
そして、1923年9月1日、午前11時58分、関東大震災が東京を襲います。マグニチュード7.9のプレート移動型地震により、死者・行方不明者は、10万人に達しました。
経済に与える影響も深刻です。
9月7日、井上準之助蔵相は、支払い猶予令を出して、被災地の債務の支払いを一ヶ月猶予する措置をとります。
そして、9月27日、震災手形割引損失補償令を公布します。
これは、震災前に銀行が割り引いた手形のうち、震災で決済出来なくなったものは、日銀が再割引きして銀行の損失を救うというものです。さらに、政府が、日銀の損害を1億円を限度に保証するという内容でした。
鈴木商店と台湾銀行は、この制度を徹底的に悪用します。
バブル時の放漫経営のつけから生じた手形を、震災手形として、日銀に割り引かせたのです。
1926年末の震災手形の合計2億680万円のうち、台湾銀行は1億4万円で48%を占めます。
そして、台湾銀行の手形のうち、7割が鈴木商店のものなのです。
震災手形の期限は、当初1925年9月30日でした。
直吉は、うそぶきます。
「もし、鈴木商店が潰れたら、日本財界が潰れるのである。だから政府も決して鈴木を潰さないであろう。」
◆◆直吉の予言どおり、震災手形は、1年ずつ2回、先送りされます。◆◆
◆◆ 不良債権を整理せず、合理化も真剣に行なわずに取り繕おうとしたのです。◆◆
◆◆ そして、最終期限の1927年(昭和2年)が巡ってきます。◆◆