(回答先: 昭和金融恐慌2(第一次世界大戦後反動恐慌と震災手形) 投稿者 あぼーん3世 日時 2002 年 3 月 06 日 15:58:04)
1927年3月14日、衆議院予算委員会の始まる直前の出来事です。
東京渡辺銀行が正午の資金繰りに困り果て、同行専務の渡辺氏は、大蔵省の事務次官に泣き付きます。
次官は、次のメモで片岡蔵相に緊急事態を知らせます。
「本日正午、東京渡辺銀行が支払いを停止せり。」
同委員会では、来る9月30日が期日となる、震災手形を10年間繰り延べる法案が審議されていました。
与党憲政党の同法案を政友会が猛反対していました。
政友会の吉植庄一郎は、
「政商を助けるために、国家の金を投入すべきでない」
「台湾銀行などの所有する震災手形の金額を示せ」
「銀行が潰れるたびに国家がいちいち救済するというのでは、自由競争の原理が壊れる。」と追求します。
不良銀行の名前や問題企業の名前が明らかになると、預金者が銀行に殺到して取り付けが起きたり、企業の信用不安が生じます。
1920年3月片岡蔵相は、反論します。
「そんなことは、できません。・・・・
現に今日正午頃において、東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。」
ところが、同行は、資金繰りに成功して破綻を辛くも免れていたのです。
東京渡辺銀行の幹部は、このニュースを聞いて喜んだといいます。
「どうせ潰れるところだったが、これで蔵相の失言のせいにできる。よし!明日から休業だ!」
姉妹銀行のあかぢ貯蓄銀行も休業します。
この事件が三月の金融恐慌の発端でした。預金者の不安が燎原の火のように広がり、中小銀行に殺到し預金を引き出します。中小銀行は、現金を見える場所に積んでこれに対抗します。
3月19日中井銀行、21日左右田銀行、八十四銀行、中沢銀行、22日村井銀行が力つき、休業を余儀なくされます。
21日には、日銀が非常貸出を実施します。
片岡蔵相問責問題で、国会は乱闘騒ぎになり紛糾します。
事態が緊迫するなか、震災手形救済法案は3月23日貴族院を通過します。
パニックもこの日以降、下火になります。
◆◆しかし、この法案には、次の付帯決議がついていました。◆◆
◆◆ 「今後、台湾銀行の根本的整理を行い、その基礎を強固にすべし。」◆◆
◆◆ さしもの、取り付け騒ぎも収まったかに見えました。◆◆
◆◆ ところが・・・・◆◆