前代未聞・空前絶後の大指揮者フルトヴェングラーとは何であったのか? 芸術というものは、「切れ目」があるもの。音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?
その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。 逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。 以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。 最適化の作業を超えた神の声。そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。
だから、「切れ目」が発生することになる。音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。 もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。
しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ? 表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。 今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。 芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。
フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね? フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。 第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。その映画でも、そんなシーンが出てきます。ナチとの関係は、後で考えてみます。とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。 実は、このDVDの解説が、結構面白い。日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・
「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。 実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな? そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。 DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。 映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの? 聴衆のシーンは別撮りじゃないの? そして、後で編集したのでは? 同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの? 映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・ 真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?
それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ? そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。 「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」 ・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・
何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。
演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・ その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか? 日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。 創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・ そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。 映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。 フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは? フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・ しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。 音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。 「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは? 私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ? フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。 それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・ それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは? 神は切れ目に宿るわけ。切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。 さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。 駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは? そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、 「音楽は政治とは関係ない!」 「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」 「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」 彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。
その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは? 政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。 ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。 いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。 しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。 音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか? その問題と真摯に向き合ったりはしない。 「ボクは本当は作曲家なんだ!」 なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・ せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・ 愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ? 「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」 なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは? フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。
シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ! シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。 自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。 あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。 いつだって誰に対してだって判断保留の状態。 トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ? フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。 フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは? もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・ しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの? そう思いませんか? だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな? 復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな? 好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな? というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう? ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ? フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな? ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。 ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?
だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。 ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。 バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ? しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?
芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?
その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。 実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ? この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・
しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。 いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。 あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな? 禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう? 書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。
まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも? しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの? ゼロから創作することができるの? 現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの? フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな? R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ? 逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う 「時間がなくて、作曲できない・・・」
は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ? 電車で移動している最中にもできるじゃないの? あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの? そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの? それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ? だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ? まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ? その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの? 作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。 彼の作曲した作品ですが・・・
DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの? 実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。 シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。 ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?
アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・ まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。 しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう? そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。 『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』
って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは? それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。 完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。
「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」
「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」 「作曲をしないと行けない!」 と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。
だからますますやっていて楽しい。火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。 しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ? だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ? 「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。 フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?
どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。 そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。 彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。 自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ? 一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの? 同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・
普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。
指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。 指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。 そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?
フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。 個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。 「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」 最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。 オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。
そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・
死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?
ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?
しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか? そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・ 演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・ あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。 http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-01.htm 「作曲家としてのフルトヴェングラー」 彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。
しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して 「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか 「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか? そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」 どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?
ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。
判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。 以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?
自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。
自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。 どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。 自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。 さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・ 映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。と言っても、皆さんは思うかもしれません。 「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」 その感想は、ある意味において、正しいでしょう。しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。 素材をどう広げるのか? あるいはまとめるのか? どのようにコンポーズするのか? それを考えるのが作曲家でしょ? その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。 それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。 それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。 フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?
「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。
よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。 それこそ引き出しにしまっておかないと。しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。 スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。 こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。 指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?
スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。 自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。 自分が何をしたいのか? 何を人に伝えたいのか? それについて考えないようになってしまう。 そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。 実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。 彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。 あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。 あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。 自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。 こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。 つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ? 何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。 たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。 前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。
この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ? 彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。 これが、また、「あいまい」な音楽。 何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。 「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、 「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」 なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの? と言うことなんですね。 自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。 えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・ 色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・ まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ? サボっているわけじゃあないよ。そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。 音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・
フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・ そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ! そうとも言えるでしょうが・・・ どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。 ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。 演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。 しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。 幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ? 神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ? 天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。 弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ? フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。 フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。
しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?
当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの? そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの? そんな根本的な疑問をもってしまう。 作曲を好きなのに才能がないのか? そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか? 「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。 逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの? フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・ そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。
しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは? 少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。
父
「おい!ウィルヘルム! 北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう! あの星はドイツ作曲家の星だ! バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・ オマエも将来、あの星になるんだ!」 子
「父さん!わかったよ! ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」 ・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・ 輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。
「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」
「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」 そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?
しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね? それはこれ。
「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」 まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・ 系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ? それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ? 自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ? 曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・ だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。 そんなものでしょ? まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか? その自問自答の方が先でしょ? しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、 「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」 「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」 「あんな音楽を書かなきゃ!」 なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね? そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。しかし、外観はいいとして、中身はどうなの? そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ? マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ? マーラーの音楽は中身で勝負できる。しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何? 逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ? 作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。 それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ? まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。作曲から逃げる理由がないわけ。しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。 そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?
だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね? 「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」 なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。 「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!
自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」 そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」 とお説教の声。そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。 フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ? しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない! これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。 さあ!どうする? と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。 「あそこに困っている人がいるから・・・」 「ボクが助けないとダメだ!」 「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」 と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。 そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。 重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ? 逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。
その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・ 「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。 逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。 別の言い方をすると、「いい子」。彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。
自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。 実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね? それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。 ゲッペルスに対して、 「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、 「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」 なんて言われるだけでしょ? ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね? その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは? 同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか? やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」 ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ! そう考えることは、立派なこと。しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ? 立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは? 第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。 こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね? 作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。 「自分だったら、どうするのか?」 「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」 そんな発想が常に存在しているわけ。フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは? あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ? 規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。 フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの? 乖離云々以前に中身がないのでは? 伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何? 抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は 「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。 「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。 そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは? 自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。 自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・ だから、結局は「世界の声」も表現できない フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」 これでは創作なんてできませんよ。 「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ! ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」 そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの? 自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの? そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね? あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ? それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。 「アイツのせいで、ダメだったんだ!」 あるいは 「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」 「これが足りないせいで、失敗した!」 「政治が悪い!時代が悪い!」 そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ? アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね? というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ? あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね? 韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ? あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ? 「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ? 本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ? しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。 他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。 以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?
伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。そして上手く行かなくなると犯人さがし。抑圧的な人間はそんな行動をするものです。ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ? いわば抑圧状況の典型なんですね。ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは? フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。 「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。 「いい子」って、要は減点法でしょ? いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ? フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。
「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」 「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」 まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ? 「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。 まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・ まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。 彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ。たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。 「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」 「時間は十分に上げるから・・・」 「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」 なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ? フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、 「ふんっ、なにこれ?」 「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」 「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」 なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。あるいは、 「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」 なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。そして、最後に決めセリフ。 「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。 もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。 あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ? 「グンターってバカだよな! だって、こんなこともわからないだからさっ。 君もそう思うだろ?グンター君!」 といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな? いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。相手の一番弱いところはどこなのか? そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・ 「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。 前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。自分がやりたいことが自分でもわかっている。 ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。 というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、 「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」 なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、 「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」 なんて言ったらしい。いやぁ・・・外道だねぇ・・・ シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね? まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ? 傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。 ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?
彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ? その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。 他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね? 「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、 「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」 「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」 そう思うくらいの思い込みはいいのでは? それが演奏することの使命感につながるわけでしょ? そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。 しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ? そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも? 抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは? 自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。それは幸運な成果なの? 確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ? もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも? しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな? http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-08.htm アーノルド・シェーンベルク モーゼとアロン (1954年 初演) 新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。
この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね? 何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。 シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな? それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら? オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。簡単にまとめると、下記のとおり。
1. モーゼが神から言葉を受ける。
2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。 3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。 4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。 5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」 6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。 7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。 8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。 9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。 10. ここでモーゼが乗り込んできて、 「こらぁ!ええ加減にせんかい!」 「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」 11. アロンは、
「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」 と反論。 12. モーゼは
「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」 基本的なあらすじは、こんなところ。いやぁ・・・笑える。
モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。 さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?
それは演奏家でしょ? 作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。 しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。 それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか? それについては言うまでもないことでしょ? 音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね? まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。 作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。 あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!! この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。基本的には、こんな調子。 1. 作曲家が神から霊感を受ける。
2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。 3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。 4. 演奏家は見事に演奏する。 5. 見事な「演奏」に民衆は感激! 「感動した!これぞ奇跡だ!」 6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。
7. 作曲家は、 「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」 と、引っ込んで、新たな作曲活動。 8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。
9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。 10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、 「こらっ!ええ加減にせんかい! ものには限度というものがあるんじゃ! 楽譜に忠実に演奏しろよ!」 11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は
「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」 と反論。 12. 演奏家からの反論を受けながら、
「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」 と締める。 私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?
逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ? オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。 しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ? そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。
もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。 この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの? ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ? ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・ この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ? どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ? そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ? むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの? 何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ? あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ? 翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ? だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。 まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。シェーンベルクは台本を書きながら、 「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」 と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは? まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは? それこそ作曲しながら、 「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」 と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・ まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ? しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。そうして大規模な演奏会へ! 第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。 「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。 変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。 人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」 このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?
皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ? まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは? だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。 気持ちが入ったギャグだねぇ・・・ まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ? シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・ 私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?
まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で 「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」 なんて質問しているインタビューがあります。いやぁ・・・エゲツナイ。 ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。 「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」 と思ったのでしょうね。シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。 もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、 「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」 と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、 「タコはオマエだろう!」 そんな言葉も言う人もいるんじゃないの? たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。 ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰? 後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの? と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね? 自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・ まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ? 音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの? そうなんですね! シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。 「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」 これは色々な意味でそのとおり。しかし、まさにアロンのように、 「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」 と言わざるを得ない。しかし、本当に民衆にわかってもらえるの? 民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの? 表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。 神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。 それを一般聴衆がどう聞くの? もう、とんでもない伝言ゲーム状態。 最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの? 最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何? 「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」 第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。 この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。しかし、そのセリフの前の部分
「想像を超える神よ! 語ることはできない意味あまたなる想念よ!」 と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。 言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。 いや! 備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。 そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。そして、その共通性は、 「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」 と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。 「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」 と言うウィトゲンシュタインの言葉と、 「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」 というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。 ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。
シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。 それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ? そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ? 言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、 「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」 というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。 じゃあ、どうして表現するの? アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの? どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・ まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・ それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ? これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね? このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。 何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。 わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。 しかし、だからこそ、ますます閉塞する。そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。 しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。 そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。 いやぁ!苦笑いせずにはいられない。 「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。 ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう! そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?
このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね? そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも? http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm
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