http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html
Tweet |
(回答先: 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 23 日 11:15:03)
ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合
ブルーノ・ワルターの名盤
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 交響曲 第100番ト長調「軍隊」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/877.html
ブルーノ・ワルター _ モーツァルトの名盤
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html
ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html
シューベルト 『未完成交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/856.html
シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html
グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html
グスタフ・マーラー 『大地の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/887.html
グスタフ・マーラー 交響曲第9番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/885.html
モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html
モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/815.html
モーツァルト 歌劇「魔笛」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/816.html
モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/817.html
モーツァルト 『レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/839.html
クールな音楽家モーツァルト
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html
宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html
モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html
▲△▽▼
レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。
「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー)
「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク)
「感傷的なばか」(トスカニーニ)
「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト)
「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」
http://www.kapelle.jp/classic/archive/archive9904_b.html
▲△▽▼
オケメンバーにとっては、リハーサルで失敗したとき、激怒してかんしゃくを爆発させる激情型のトスカニーニの激しい叱責より、ワルターに
「私の指揮が足らず君に失敗があった。 指揮者として申し訳ない」
と言われて涙を滲ませられると、失敗した楽団員にとってはそちらの方(トスカニーニの叱責よりワルターの涙の方)が辛かったという逸話も伝わっています
フルトヴェングラーはあまりそういった逸話がなく、良くも悪くも、フルトヴェングラーは音楽の神に自らの全身全霊を捧げており、「音楽以外はどうでもいい」という感じのする、ひたすら音楽を追求し、あまり人間的な部分を感じさせない求道者的指揮者です。
フルトヴェングラーの家がドイツの富裕な名門であることも音楽以外に気を払わない彼の求道的スタンスに関係しているのかもしれません。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/840652.html
▲△▽▼
ブルーノ・ワルターのステレオ録音のモーツァルトのすばらしい点は、ひとつひとつの音の輪郭が非常に明確であるということ。私のイメージのなかでは、ブルーノ・ワルターは音のつぶだちにはさほどこだわらず、曲全体を雰囲気で大きくまとめる古いタイプの指揮者という感じがあったので、このことは、自分としてはとても大きな発見だ。
ブルーノ・ワルターとの比較という意味で、カラヤンが1970年代にベルリン・フィルを指揮したモーツァルト六大交響曲のCDも購入し、双方を聴きくらべてみた。カラヤンという指揮者、私はけして嫌いではないのだが、このモーツァルトには驚いた。というのは、カラヤンといえば、ブルーノ・ワルター以上に音の美感にこだわるという印象があるのだが、ブルーノ・ワルターを聴いたあとでカラヤンの演奏を聴くと、天下のベルリン・フィルの音色がどんよりと濁ってきこえるのだ。これはなんとしたことだろう。
そこでまたいろいろ考え込んでしまったのだが、実は、ブルーノ・ワルターとクレンペラーの演奏は、主観的と客観的ということである意味対極にあるようにみえながら、音に対するこだわりという点ではかなり近いところに位置しているのではないかということ。二人の演奏では、オーケストラが明るい響きでよく鳴っている。その響きのうえに、それぞれの個性や解釈が打ち出されている。この二人の演奏では、曲に対する解釈が優先して響きが犠牲にされるということはまずない。また、そうでなければモーツァルトは演奏できないと思う。
つまり、ブルーノ・ワルターもクレンペラーも、演奏するうえで、まずはオーケストラの音色や楽器のバランスに配慮し、そのうえで曲に対する解釈や自己表現があると考えていたのではないだろうか。だから、インテンポ(クレンペラー)かテンポが揺れる(ブルーノ・ワルター)かは、本質的な対立点とはならず、テンポが速いか遅いかもさほど問題にならないのだと思う。ちなみに、クレンペラーの初期の演奏は、晩年の演奏からは考えられないような早いテンポで、ぶっきらぼうにきこえるようなものが多い。またクレンペラー晩年の演奏も、個人的な好悪や体調でテンポを遅くしているのではなく、細部まで浮かび上がるような明晰な音で演奏したいという要求が、テンポに反映しているのだと思う。だからクレンペラーの演奏は、どんなにテンポを遅くしても緊張感を失うことがない。またいわゆる客観的演奏ということに関しても、クレンペラーはそのようなものをめざして演奏していたわけではなく、個々の音をきちんと響かせることを優先しながら演奏した結果が、いわゆる客観的演奏という範疇にはいるものになったというだけだと思う。
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-78.html
▲△▽▼
アホ _ ピアニストのワルター評
ワルターの指揮を評してピアニストの内田光子は・・・
「内田:美しいものを追うことにね。ワルターには、道ばたの花がきれいだなと言って、そこに時間を費しているうちに全体が見えなくなっちゃうところがあるんです。それが困るんです。そうお思いになりません?
「あなたは初期の、アメリカヘ行く前のワルターの七十八回転レコーディングを聴いていないんだろう?」
と言ってくれる人もいます。だけど、私の知っている、アメリカへ渡ってから入れたモーツァルトの六つのシンフォニーとか、マーラーとかは・・・・。
マーラー未亡人のアルマが「ブルーノ・ワルターこそうちの夫の跡継ぎだ」と言ったそうですけど、私は、アルマ・マーラーは何もわからなかった人だと思っているんです。それだったら、クレンペラーのほうがマーラーの音楽に近いと思いますね。マーラーでも、ワルターは道草しちゃうんですよ。そこ、ここで小さな花がきれいだと、彼は立ち止まって見ちゃうんです。」・・・
以上のように言っている対談があるが、ワルターとフィラデルフィア管弦楽団の「田園」を聴けば、発言を訂正しなければならない、そう思うはずだと、小生は強く思う。
専門家でさえ、いや専門家だからこそかもしれないが、固定概念が強いようで、同じ演奏家でもその時代とともに、演奏あるいは表現スタイル、解釈は、大きく変化するのだと言うことを前提にしなければならない。ワルターは、そのような固定概念でくくられてきた「巨匠」の代表でもある。
小生はかつてワルターのある演奏を聴いて、ザッハリヒな面もあるのではないかと思った事があったが、年代が変化させたのか、それとも、もともと両面を内包した指揮者であったのかは、依然謎のままである。
http://sawyer.exblog.jp/10030257/
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。