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隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 24 日 17:11:04: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 23 日 11:15:03)

隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム
Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
http://www.fugue.us/Bohm_Nazi.html


ベーム死後の評価の変遷

今年(2011年)の8月14日は指揮者カール・ベームの没後30年にあたる。この20世紀後半を代表する名匠については、かつて、日本では熱狂的な支持があった事が知られている。しかしその反動からか、今では人気や評価の凋落が激しいとも言われている。

これには以下のような理由が考えられる。一つは、ピリオド楽器によるモーツアルト演奏の流行で、ベームの大オーケストラによる演奏スタイルが時代遅れとさ れるようになったこと。二つ目は、80年代頃から、日本でブルックナーやマーラーの交響作品のブームが起こり、複雑なスコアを持つベルクやシュトラウスな どのオペラ録音に傑作が多いベームの真価を解する能力を持つリスナーが相対的に減ってしまったこと。さらに、ベームの晩年になされた一連のスタジオ録音が、いず れも巨匠風の中庸をとるスタイルのものであったため、端正さよりも覇気、熱狂、情熱、雄大さ、と言った、誰にでもわかりやすい解釈を求めたがる、昨今の日本の風潮と合 わなくなってしまったこと。最後の二つに関しては、実のところ日本のクラシック市場の特殊性もある---80年代後半から初心者を中心にカルト的人気をも つようになった、とある批評家の偏った趣味による影響は決して無視できない。

一方、欧米でのベームへの人気の浮沈は、日本とはかなり様相が異なるものであった。クリスタ・ルードヴィッヒが生前のベームに関して、「有名な同僚達に比 べると、メディアにカバーされる度合いもずっと少なかった。彼は芸術の奉仕者だった(ref 15, p63)」と書いているように、彼は敬愛されてはいたが、どちらかと言うと地味な扱いを受けていた指揮者だった。「玄人好み」というのが生前の妥当な評価 だろうし、現在では「過小評価されている巨匠」という枕詞がつくことが多い。

ドイツ・グラモフォンの担当者が「ベームは死の翌日に(セールス上)死んだ」と英グラモフォン誌の批評家に語った (ref 1, p51)そうだから、ベームの録音が生前に比して売れなくなった、ということは確かにあるようだ。ただ、デジタル/CD期以前に物故したステレオ期の指揮 者の中で、欧米のマーケットでその存在感を失っていないものを探す方が難しい、というのもまた事実なのである。例えばシャルル・ミュンシュ、ジョージ・セ ル、フリッツ・ライナー、カール・リヒター、エウゲニー・ムラヴィンスキーなどは多くの録音を残したものの、それらは今のヨーロッパでよく聴かれ ているとは言えない (注)。ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュらモノラルーステレオ初期の指揮者に至っては、フルトヴェングラーとトスカニーニを例外とし て、今や完全に忘却の彼方にあって、批評家でさえ取り上げることが少ない。彼らに比べれば、ベームはスタンダードとして聴かれていると言えるだろう。一例を挙げると、米 AmazonでベームのCDを調べるとカラヤンの半数、現役の小澤征爾やムーティを越える900もの録音がヒットしてくる。

いずれにしても、欧米の批評家の間では、ベームの録音に対する評価は下落してはいない。最近になってマーケットに出た一連の映像作品も第一級の評価を受け ている。日本で上記の傾向から「ライヴに劣る」とされやすい晩年のスタジオ録音の多くも、その音楽性が高く評価され、推薦盤にあがっている。実際、残したオペラ 録音の質の高さ、失敗作の少なさで言えば、ベームは星の数程もいる指揮者の中で、筆頭の業績をあげていると言っても決して過言ではあるまい。


ナチというレッテル

その一方で、ここ10数年に起きた一つの欧米における変化として、ベームのことをナチ、あるいはナチの賛同者として紹介するメディアの記述が多くなってき ている。例えば、「ナチ賛同者でベートーヴェンの権威」というような調子だ。このような傾向が出てきたのは、ベーム死後数年たってからのことだと思うが、 特にそれが顕著になったのは英国の音楽ジャーナリスト、ノーマン・レブレヒトによる「巨匠神話」という本が出版されてからかもしれない(ref 2)。カラヤンを始めとする巨匠指揮者をゴシップ記事風のアプローチで批判した内容は話題を呼び、クラシック関連の本としては異例の売り上げを伸ばした。

レブレヒトの本の中では、ベームについては以下の事例が紹介されている。とある会話でヒットラーとの交遊をほのめかしたこと、リハーサルを中止してヒット ラーのミュンヘン一揆を見に行ったこと、ウィーンの演奏会で禁を破ってナチ式の敬礼をしたこと(注1)、オーストリー併合の際に、「総統の行為に100% イエスを言わぬ人間は名誉あるドイツ人の名に値しない」と話した、とされることなどである(ref 2, p109-110, 注1)。


体制の中で

ベームの戦前、戦中の活動に関する客観的な事実は以下のようになる。彼は1894年にオーストリアのグラーツに生まれた。小さい頃からピアノを学んでいた ものの、大学では親の意向で法学科に進む。フランツ・シャルクの口添えで、ブラームスの友人であったマンディチェフスキーに作曲法、対位法、和声法を学 び、グローアーの元でピアノの研鑽を積んだ(当初、ベームはピアニストを志し、グラーツでは度々コンサート活動も行って好意的な評価を得ていたという) (ref 3, p30)。グラーツ市立歌劇場の楽長を務めた後、カール・ムック、ブルーノ・ワルターの薫陶を受け、バイエルン国立歌劇場の指揮者を経て、ダルムシュタッ ト国立歌劇場、ハンブルグ国立歌劇場の監督を歴任した。1934年にドレスデン国立歌劇場の総監督に就任。彼自身の言葉によれば、「人生でもっとも音楽的 に充実した時」を迎えた(ref 3, p85)。リヒャルト・シュトラウスとの緊密な関係が始まったのもこの時代である。ダルムシュタット時代からさかんに前衛的な作品をとりあげ、30年代に は数多くのオペラ作品の世界初演、ドイツ初演を行っている。1943年にウィーン国立歌劇場の総監督に就任。「オーストリア音楽総監督」の称号を与えられ る。戦後、戦時中のナチへの協力姿勢を問われて2年間の音楽活動禁止処分を受けた。

生前のベームは、第三帝国における音楽活動について批判されることが無いまま、ドイツ=オーストリアの伝統的解釈を今に伝える最後の巨匠として世界中で敬 愛され、幸福な晩年を迎えた。彼自身、戦時中の自身とナチの関わりを正直に話してきたとは言えない。自伝においても、ベームは連合軍による活動禁止処分に ついて「自由を失われておりの中を往ったり来たりしている獣のように自分が思えた」と述べ、自らは戦争の被害者であったことを強調している(ref 3, p164)。また、戦時中の国内の状況についても、「不愉快極まる政治状況」と述べ(同、p85)、自身と当局との距離を強調している。

ところが、近年明らかになってきた戦時中のベームの言動は、はっきりと体制に順応的なものであった。Katarの「Twisted Muse」によれば、1935年、ドイツとオーストリアの関係が緊張する中、ベームはナチの幹部に対し、「自分にはウィーンのナチ党の間に多くの支持者が いるから、ウィーンでコンサートを行うことでナチの利益に適う宣伝ができる」と語り、ヒットラーの「芸術的諸問題に関する深い叡智」を賞賛している (ref 4, p65)。翌1936年には、「ナチズムは音楽家達に目標を与え、才能と長所を発揮するに値する義務を提供した」とヒットラーを文章で賞讃している (ref 4 , p65)。1941年には、ある人物の本の取材でヒトラーのミュンヘン一揆に触れて、「通りには血がながれ、それがドイツの歴史の一里塚となった。我々は 思想のために血が流れるのを見た。そして、それが勝利の礎となったのである。」と述べたとされる(ref 12、注2)。

ベームがドレスデン国立歌劇場総監督に就任するにあたっては、ヒットラーがハンブルグの契約からベームを解放するために特別の便宜をはからったという話 もある(ref 4, p65)。ウィーン国立歌劇場総監督就任に関しては、ベームは自伝で彼の就任がヒットラーによって阻まれつづけていたことを示唆しているが(ref 3, p98)、実際のところ、ヒットラーはベームをウィーンに欲しており、就任時にはベームはヒットラーから勲章を授与されている(ref 4, p65)。ベームはドレスデン、ウィーン時代を通じて「ナチのハ長調」と呼ばれた、ワーグナーの「マイスタージンガー」を頻繁に取り上げ(ref 5、巻末)、1944年にはヒットラーの誕生日にも「マイスタージンガー」前奏曲を演奏している(注3)(ref 4, p65)。


アルフレッド・ローゼンベルグ。ニュルンベルグ裁判で絞首刑に処せられた。


近年明らかになったところでは、ベームはナチ高官アルフレッド・ローゼンベルグがリーダーシップをとったKampfbund fuer deutsche Kultur (Kfdk)に属していたらしい(ref 6)。 Kfdk はワイマールからナチ政権初期に組織された非公式のロビー団体で、国会社会主義の観点から無調音楽などを含む頽廃文化からドイツ音楽の保護を目的とするも のであった(ref 4, p14)。Kfdkの活動は多岐に渡り、無職の音楽家のためにコンサートを企画したり、ドイツの劇場から積極的にユダヤ的なものを排除することであったと いう。ただ、Kfdkの組織としての力は弱く、政権の認可も受けていなかったため、大した影響力は発揮できなかった。この団体は1928年に発足 し、1933年までにはその活動は終息している。


非体制派としてのベーム

ベームとフリッツ・シュー(右)。1953年

こういった記録を見る限り、ベームは体制側に属する人間だったように見える。その一 方で、ベームのナチズムへの同調がどこまで本気だったかについては、さらなる検証が必要になる。まず、公の場での阿った言動やKfdkへの参加の一方で、 ベームがナチスのメンバーになったことは一度も無かった(ref 7, 注4)。ベームの言を信ずれば、党員でなかったためにハンブルグ歌劇場監督の話が消えたこともあるという(ref 3, p78)。彼はハンス・クナッパーツブッシュのような反ユダヤ主義者ではなく、反ユダヤ主義的な発言をした、という明確な証拠も残っていない(ref 6)(ref20, p62)(注6)。実際、ベーム夫妻は、ウィーン国立歌劇場のユダヤ系メンバーやユダヤ系実業家を一年以上に渡って自宅に匿っていたとされる(ref 17, 18)。さらに、彼はナチの台頭後もユダヤ人芸術家達や、非体制的な芸術家たちとの付き合いを続けていた。例えば、彼は反体制派として当局から睨まれていた、 演出家のオスカー・フリッツ・シュー、台本作家のカスパー・ネアー、作曲家のボリス・ブラッハーらと共同作業を数多く行っている。特に、ドレスデン時代にはベー ムはブラッハーにコンサルヴァトワーレの作曲課主任教授のポストを与えるために尽力し(ref 4)、ユダヤ系だったブラッハーを当局の攻撃から保護するために、政権への自身の影響力を行使していたという(ref 14)。ベームはユダヤ人作曲家シェーンベルグらの作品をしばしば取り上げ (注5)、「頽廃芸術」としてナチより冷遇されたアルバン・ベルグの無調作品を世に紹介、生前のベルグ本人からも大きな信任を受けていた。さらに、ユダヤ 人指揮者ブルーノ・ワルターとの友情はハンブルグ時代より続くもので、ベーム夫妻のなれそめのきっかけをつくったのもワルターであった。そして、戦後、ワ ルターは困窮にあったベーム一家を援助した(ref 3, p167, 注7)。

フルトヴェングラー夫妻とベーム夫妻。ザルツブルグにて(1948)

1935年1月、ドレスデンの監督だったベームは、パウル・ヒンデミットの「画家マチス」を当地で取り上げている(ref 7)。これは当時の状況を考慮すれば、勇敢な行為だったと言えるかもしれない。というのも、この上演が起きた日付というのは、有名な「ヒンデミット事件」 が起きたわずか数週間後だったからである。これはヒンデミットの「画家マチス」を「頽廃芸術」として上演禁止にしたナチに対し、フルトヴェングラーがヒン デミット擁護の論説を新聞に載せた、という事件だった(11月25日)。宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスはフルトヴェングラーの反逆に激怒し、フルトヴェング ラーのベルリンフィル、ベルリン国立歌劇場監督、帝国音楽院総裁ポストからの解任、エーリッヒ・クライバーの国外亡命、ヒンデミットのトルコ移住、といっ たドイツ楽界を揺るがす一大粛清につながった。ゲッペルスがフルトヴェングラーに歩み寄る形で会談したのが1935年2月28日のことである。ベームによ るドレスデンの「画家マチス」公演は、まだ騒動の渦中、二人の和解の2カ月も前の事だった。

ベー ムは同年2月、ヴィクトル・ユーゴー原作の「メアリー・テューダー」を元にしたワーグナー・レゲニーのオペラ「Der Gunstling」をドレスデンで初演している。彼はこのオペラを大変気に入り、その後も度々上演を繰り返していた。作曲者のワーグナー・レゲニー自身はナチ に賞賛された作曲家だったが、このオペラ自体は反ヒットラーとも取られかねないプロットを持つものだった(ref 4, p64)。3年後、ベームは同様に、リヒャルト・モハウプトの「Die Wirtin Von Pinsk」の世界初演を行っているが、作曲者のモハウプトはユダヤ系ロシア人で、ナチが「頽廃」と見下していたジャズに親しんでいた(ref 4, p64)。この上演の1年後、モハウプトはナチ禍を逃れてアメリカに亡命している。

宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス。「ヨーロッパのメフィストフェレス」は第三帝国の文化政策において絶大な影響力を振るった。

1943年、ウィーン国立歌劇場総監督に就任したベームは、ベルリン・ドイツ・オペラの専属歌手だった、エリーザベト・シュワルツコップと契約しようとする。この時は、優 れた歌手を失うことを恐れたベルリン・ドイツ・オペラからの抗議をうけ、当劇場を管轄していたゲッペルスは契約中止をベームに迫った。ベームは抵抗の様子 を見せたらしく、ゲッペルスは右腕のハンス・ヒンケルを通じ、「ウィーン国立歌劇場と、オーストリア音楽総監督(ベームのこと)に適切な処罰を行う」とい う脅しを伝えるに至ったという。実際、ベームはゲッペルスの主催するラジオから数ヶ月閉めだされかけた(ref 4, P64)。

1944 年には、ベームはリヒャルト・シュトラウスの80歳の誕生記念式典を統括、マックス・ローレンツやマリア・ライニングを主役とした「ナクソス島のアリアド ネ」の指揮を行っている。この当時、リヒャルト・シュトラウスは後に述べる「無口な女」の騒動や、ユダヤ人だった義理の娘と孫への迫害をめぐって当局と対 立しており、シュトラウスの自宅がゲシュタポの捜索を受けるほどであった。ゲッペルスは式典を禁じはしなかったものの、宣伝をほとんど行わず、当局とシュ トラウスとの距離を明確にしていた。

こういった記録を見る限り、ベームは芸術と当局を天秤にかけた際、多くの場合、前者を選んでいたことがわかる。ベームのナチズムへの肩入れ度合いについて も、党に加盟し、積極的に党活動に加わり、高官の愛人の地位まで手にいれて出世を目論んだエリーザベト・シュワルツコップのそれとは異なっているように見 える。


「無口な女」騒動での沈黙

そ の一方で、時折見せたベームの体制への反抗が、一度たりとも一線を踏み越えることが無かったのもまた事実なのである。ベームは自身の第三帝国内のスタンスにつ いて、「ドレスデンやウィーンの活動の経過の中で、自分がどちらの側にたっていたかは明らかにしたと思っている(ref 3, p84)」と自伝で述べているが、最も左傾化したドレスデンの一時期においてさえ、彼の政治的スタンスは曖昧であった。そして、危機にあたっては、 自らの地位を危うくするような事態に陥らぬよう、用心深く行動していた。

そのことがはっきり出ているのが、1935年5月にドレスデンで行われたリヒャルト・シュトラウスの新作オペラ「無口な女」の初演時の騒動だろう。作家の シュテファン・ツヴァイクはオーストリア系ユダヤ人で、前年にナチ禍を逃れて亡命していた当局のお尋ね者であったが、シュトラウスは1931年頃からツ ヴァイクと「無口な女」の共同作業を始めていた。ベームは初演の指揮を担当し、作曲者シュトラウスも積極的に初演に関与した。この時、ツヴァイクがユダヤ 人であったことが当局を刺激することとなる。ある時、ツヴァイクは帝国音楽院総裁だったシュトラウスの立場を慮り、シュトラウスに煮え切らない内容の手紙 を送ったらしい。何かと人種問題を持ち出すツヴァイクに対し、シュトラウスはうんざりしたように次の言葉をなげつける。

「こ れがユダヤ的しつこさだ!誰しも反ユダヤ主義に走ろうというものだ!この人種という自尊心、群れたがるという心理!あなたは私が今まで「ドイツ人」という考えの もとで行動してきたと思っているのですか?あなたはモーツアルトが「アーリア人」として作曲をしたとも思っているのですか?私にとって、この世には二つの タイプの人間しかいないのですよ。才能のある人と無い人です」(ref 8. p298)


ベームとシュトラウス。シュトラウスの80歳記念式典にて(1944)。


1935年6月17日に投函された この手紙はまもなくゲシュタポの手に落ち、当局を激昂させることとなる。さらに、「無口な女」の初演のポスターに台本作家ツヴァイクの名が無かった事に シュトラウスが激怒し、ツヴァイクの名前を強引に戻させるという事件も起きる。こういった一連の出来事は当局を刺激するに十分であった。当初、初演に出席予 定だったゲッペルスらは出席を取りやめ、初演は4公演で中止。シュトラウスは帝国音楽院総裁を辞任した。

この時、初演の指揮を担当 したベームは事なかれ主義に徹したらしい。シュトラウスの伝記作家Kennedyも、「特筆すべきは、カール・ベームがこの騒動の中、首をすくめてやり過 ごしていたことだ。彼はナチ党員で はなかったが、ナチの支持者だった。彼が最上の勇気とは分別、と決意したのは明らかだった」(ref 16, p302)と書いている。この騒動については、ベーム自身も多くを語っていない。自伝でも「無口な女」騒動に登場するのはシュトラウスの英雄的行動ばかり で、ベーム本人の言動はほとんど書かれていない。せいぜい、「無口な女」初演後のパーティでオペラを力強く擁護したとあるナチ高官を目撃したベームが、「一週間した ら強制収容所に入れられているか、亡命しているかのどちらかだろう」と人ごとのように妻に囁くシーンがあるだけである (ref 3, p130)。ただし、シュトラウスの次作オペラ「ダフネ」がベームに献呈され、後にシュトラウスから長文の音楽上の遺言を託されたように、この騒動でベームと シュトラウスの信頼関係に亀裂が生じることはなかった。


なぜ国内に留まったのか

ベームが時に首をすくめながらも第三帝国にとどまった理由はいくつかあげられる。ひとつは芸術環境の問題だ。とりわけ、ドレスデン国立歌劇場はベームに とって理想的な場所であった。リヒャルト・シュトラウスを始めとする多くの作曲家達の知遇を得、潤沢な資金の元でイヴォーギュン、チェボターリらをはじめと する当代最高のアンサンブルと素晴らしいオーケストラ、新進気鋭の演出家達を意のままに扱うことができた。当時、これほどの芸術環境を他国で得るのは不可能であったろう。そ もそも、彼はクレンペラーのようなユダヤ人では無く、エーリッヒ・クライバーのようにユダヤ系の近親者もいなかった。完璧に近い芸術環境を捨ててまで、他国に亡命 しなければならない理由は当時のベームにはなかった。

彼のような非ユダヤ系ドイツ=オーストリア人が亡命する理由が出てくるとすれば、それは政治的なものになっただろうが、彼の政治感覚は好意的に見ても近視 眼的であり、しかもイデオロギーを持たぬものにとどまっていた。そして、後から見れば不運だったことに、体制はベームの音楽的才能を欲していたのである。 1944年、ヒットラーとゲッペルスは「Gottbegenadeten List=神に祝福されたもののリスト」を作成しており、ベームはアーベントロート、カラヤン、クナッパーツブッシュ、カイルベルト、シューリヒト、イッ セルシュテットなどとともに「Gottbegnadete」の15人の指揮者の中に選ばれた(ちなみに、リヒャルト・シュトラウスとフルトヴェングラーは さらに上位のリスト「Unersetzlichen Kunstler」に入っている)。そして、1945年にはベームは「オーストリア音楽総監督」の称号を与えられている。

さらに、ベームの腰を重くした現実的な理由がもう一つあった。大家族である。当時、彼は国内に20名の家族を抱えており、家長として彼らの面倒を見なけれ ばならなかった。しかも、息子のカールハインツの言葉によると、もし他国(具体的な話があったのはオーストラリア)からのポストのオファーを受けた場合、 家族のメンバーを全て強制収容所に入れる、という警告を受けていたという(ref 8)。ベーム自身、シュテルン紙に掲載された死の3週間前になされたインタビューで、「1935年当時、ドイツ外にコネクションは無かった。そんな中でドイツ を去ったら、その後、どうやって家族を養ったらよかったのか」と話している(ref 5)。


「なんでもないことは流行に従う」

「戦時中、ナチが美辞麗句でやっていたことの裏を知っていれば、ドイツを去っていた」とは晩年のベームの言葉である(ref 10, p246)。その一方で、第三帝国時代のベームはその言葉が白々しく響くほど、ナチの高官達に近い存在であった。音楽評論家のEdward Greenfieldによれば、終戦直後、非ナチ委員会にかけられる前の事だが、ベームはロンドン交響楽団のハーピストだったRenata Scheffel-Steinの夫だったイギリス人将校の訪問をうけた。その時、将校はベームの自宅の応接間にずらりと並んだサイン入りのナチ高官の写真 を見て肝を潰した。音楽家としてのベームを尊敬していた将校は写真を即刻処分するように助言した(ref 11, Chapter 2)。将校の驚きの大部分は、自身の査問が控えているというのにも関わらず、そのような写真を敵国の将校に見せてしまうベームの政治的鈍感さに対してで あったかもしれない。

小津安二郎は、「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」と語ったが、ベームのポリシーもこれに近いものであっ たのだろう。ベームにとっては親ナチ的言動をとることは、家族を養い、優れた芸術活動のスポンサーであったナチと共存するための方便で、それ以上の意味は なかったのかもしれない。それゆえに、戦時中の言動について、大して良心の呵責を感じることもなかったし、ナチ高官と一緒に写った写真を隠すことも考えつ かなかった。彼が示唆したように、ベームはフルトヴェングラーと同じく、ホロコーストについては本当に知らなかったのだろう。それでも、流行に従ったツ ケ、つまりナチと関係を続けたツケは、後のベームにとって高くつくことになった。


芸術家は国家の罪を背負うべきか

ここに重大かつ普遍的な問題が出てくる。市民は国家の犯罪にどこまで責任を持つべきか、というものだ。第三帝国に残った芸術家達について、ロマン・ポラン スキー監督の映画「ピアニスト」、Istvan Szabo監督の映画「Taking sides」の台本を書いたRonald Harwoodは以下のように切り捨てる(ref 13, 注8)。

「フ ルトヴェングラーもシュトラウスも、「他に選択は無かった」と言った。しかし、道徳的選択は常に可能だ。そして歴史上、この時期ほど「何をすべきか」が明 らかだった時期はなかった。(中略)(一人の芸術家が全体主義にできることは限られているのでは、という問いに対して)何も出来ない。芸術は無力で、文明 を守れない。しかし、我々はあたかもできるかのように振舞わねばならない」

つまり、彼の言によれば、芸術家は「何も知らなかった」「何も出来なかった」ではすまされず、個々は全体主義下での行動に責任を持たねばならない。彼の言 は正論ではあるが、同時に、さらなる疑問を我々に提起する。果たして、人道的罪を犯した政権のもとで活躍した芸術家や科学者は皆、政権の犯した罪にどこま で責任を負うべきなのだろうか?スターリンーブレジネフ時代に称揚され、勲章を受けたリヒテル、オイストラフ、ムラヴィンスキーは?冷戦期の東独で地位を 確立したペーター・シュライヤー、テオ・アダムは?ブッシュ政権下で指揮棒をとっていた小澤征爾やジェームズ・レヴァインは?そして、大日本帝国時代にメ ガホンを取った黒澤明は?

ディアパゾン誌のRemy Louisは、ベームが早い時期にナチを公的に支持したことについて、「私はナチの狂気の元でどのような悲劇が起きたかを知っている今日のお気楽な感覚で (これを)裁くことはできない。1932-33年頃の、悲しむべきワイマール共和国の終焉にあたって、すべての社会的、経済的、政治的問題を抱えてドイツ にすむ人々の気持ちはどのようなものだったろうか?」と問いかける(ref 7)。物事には常にディテールがあり、そのディテールを知らずして是非を問うべきではない、ということだ。映画「Taking Sides」の監督Istvan Szaboは、フルトヴェングラーが国内に留まったことについて、「すべての国民が国を去ることはできない。才能あるパン屋はどうするのだ?才能ある教師 や医者は?ーーーーフルトヴェングラーになぜ国を去らなかったかを尋ねることはできない。もし、その質問を彼に投げかけるのであれば、あなたは街角のパン 屋にもそうしなければいけないからだーーーあなたはパンをナチのエリートに売った。だからお前はナチだ-----これは同じ質問なんだ」と語っている (ref 8)。同じ「Taking Sides」に関わった台本作家と監督が全く反対の意見を持っていることからもわかるように、この問題は簡単に是非が決められる問題ではないことは確か だ。


おわりに

戦後のベームとワルター。

第三帝国時代のベームは、体制と非体制の間を揺れ動きつづけた。そのブレの大部分は、政治的信念というよりは、自身のキャリア至上主義、芸術至上主義、そ しておそらくは生存本能によってもたらされていた。彼は日和見的に権力にすりよった一方で、反ユダヤ主義を含むナチズムを全面的に支持していたわけではな かった。彼の一連のナチ寄りの発言がホロコーストが始まる前になされたこと、そしてナチからあれほど迫害され、亡命の憂き目にあったワルターが、戦後も ベームとの深い友情を維持し続けたことは留意しておくべきであろう。

以上の議論で明確になっただろうか。カール・ベームを「ナチ信奉者」あるいは「ナチ支持者」と呼ぶのは、極めて短絡的であるばかりでなく、彼の行動の本質 を捉えていない見方なのである。たまたま相手がナチであったためにベームが「ナチ支持者」に見えるだけで、もし相手がコミュニスト政権、あるいは自由 主義政権でも、ベームは自身のキャリアの発展を第一に考えて、政治上、日和見的に行動していたに違いないのだ。その事は、戦後10年がたち、彼が二度目の ウィーン国立歌劇場総監督に就任して一年もしないうちに、「自らの国際的キャリアをウィーンのために犠牲にするつもりはない」と発言し、あっさり重職を辞し てしまったことからも想像できる。

Ich habe in meinem Leben einiges angestellt; ich bin ein Sünder gewesen, ja, das kann man so sagen. Ich habe gelogen und eine menge Dinge angestellt, die mir nicht zum Ruhme gereichen. Aber in der Musik war ich immer ehrlich, immer aufrichtig.
人生で私は悪いことも沢山してきました。罪人である、そう言ってもいいでしょう。嘘もついてきたし、自分の名誉にならないことも沢山してきました。しかし、音楽においては常に正直で、誠実でした。

上はシュテルン誌のインタビューにおけるベームの死の三週間前の言葉だ(ref 5)。困難な時代を生き抜いた1人の音楽家の懺悔というだけでなく、その機会主義的かつ芸術至上主義的な生き様を集約させた言葉ではないだろうか。
(2011.8.14)

(注)興味深いことに、彼らのように死後聴かれなくなった指揮者はいずれも、生前、EMIやデッカのような英国レーベル とほとんど仕事をしてこなかった、という特徴がある。結果的に英国レーベルや英国アーティストの録音を強力にプッシュすることで知られ、かつ欧米のリス ナーに大きな影響力を持つ英グラモフォン誌に取り上げられる頻度も少なくなってしまったのではないだろうか。ベームの数少ない英国レーベル録音には、ブ ルックナー第三&第四交響曲、バックハウスとのブラームスのピアノ協奏曲、シュトラウス「影の無い女」、モーツアルト「コシ・ファン・トゥッテ」 などがあるが、これらはの多くは英グラモフォンで名盤として推薦されている。

注1)レブレヒトの本は読み物としての面白さを追求するあまり、著しく正確性に欠けるという批判が昔からある。上の記述 についても出典が書いてない。ただし、1938年3月30日、ウィーンのコンツエルトハウスで行われたウィーン交響楽団の演奏会において、ベームがナチ式 の敬礼をおこなった事は他の文献にも登場する。

オーストリア併合時のベームの発言「総統の行為に100%イエスを言わぬ人間は名誉あるドイツ人の名に値しない」("Wer dieser Tat des Fuhrers nicht mit einem hundertprozentigen JA zustimmt, verdient nicht, den Ehrennamen Deutscher zu tragen.")については出典が不明。1982年に発刊されたFred K Preibergの「Musik im NS Saat」に引用があるが、当時のどの新聞や本などに記載されたものなのかはわからない。ベームの息子で、ドイツ語圏を代表する俳優となったカールハイン ツは、発言は後世の捏造であると確信しているという(http://oesterreich.orf.at/wien/stories/70021/)。 Michael H. Katerは、一次資料をくまなく精査した「Twisted muse」(ref 4)においてこの発言を引用していない。私がKatar本人にその理由を確認したところ、自著で引用しなかったのは出典が確認できなかったためで、 Katerの考えでは発言はベーム自身によってなされたものだという。

注2) ただし、ベームは自伝で「まったく馬鹿げたことで、私はこんな事を絶対に言っていない」と強く否定している (ref 3, p169)。

注3) 映像作品「Great conductors in the Third Reich」には、ゲッペルスの演説に続いてベームがこのオペラの指揮を取る様子が収められている。

注4) ベームはナチ登場以前にドイツで確固たる地位を築いていたため、(例えばカラヤンが自身の入党の動機として主張したように)ポスト争いを有利にするために党員になる必要がなかったという見方もできる。

注5) ベームとブラッハーのコンサルヴァトワーレでの生徒の1人に、後の東独を代表する指揮者となったヘルベルト・ケーゲルがいた。ケーゲルによれば、当時、演奏禁止となっていたユダヤ系作曲家達の作品群をケーゲルに紹介したのがベームだったという。

注6) ワルターがバイエルン国立歌劇場監督から追放された裏には、反ユダヤ主義者で、かつ、当時ナチの支持層からもてはやされていたハンス・クナッパーツブッシュの画 策があった証拠があるという(ref 20, p62)。ベームはワルター追放時、バイエルン国立歌劇場のカペルマイスターであった。監督を引き継いだクナッパーツブッシュと、ワルターを慕うベームは 当初衝突したものの、次第に二人の関係は好転した(ref 3, p59)。一方、クナッパーツブッシュは一時ナチとトラブルを抱えるものの、1936年以降は政権に近しい存在となった。彼は政権から勲章を授けられ、 ヒットラーの誕生日にも占領先で指揮をとっている(ref 20, p62)。クナッパーツブッシュに関してのワルターのコメントは伝えられていない。

注7)ナチに迫害されたワルターだったが、公の場で体制寄りの発言を繰り返したベームとの絆を切ることはせず、戦後も彼の親しい友人であり続けた。亡命先から ウィーンに戻ったワルターの第一声が、「私の友人のベーム博士はどうしているかね?」だったという (ref 3)。ワルターは死の数ヶ月前にも、1960年に録音されたベームによる「エレクトラ」の録音(DG)に深い感銘を受け、ベームに以下の手紙をしたためて いる(1961年7月25日)。「君の卓越した仕事は私を大きく喜ばせたと言わせて欲しい。この録音は偉大なる傑作を見事に捉えたという点で、全くもって 圧倒的な高みに到達しており、私は君におめでとうを言いたいのだよ」(ref 19, p408)。さらにその年の2月から3月にかけては、両目に障害を抱えながら、アルバン・ベルクの「ヴォツエック」という超難曲に取り組むベームをこうか らかっている。「さてさて、君は優しくて暖かい「ヴォツエック」の日差しの中で静養しようってのかい。でも、親愛なる友よ、君のような仕事中毒の音楽家に とっては、たぶん私のような年寄りが好む静かな海の側で散歩するよりは、そちらの方法で回復する方がずっといいのかもしれないね」(ref 19, p 409)。

その一方で、ワルターはフルトヴェングラー、ナチ党に二度加入したカラヤンについて複雑な感情を持っていた。フルトヴェングラーに対しては、1938年に トスカニーニに向かって「政治的にも個人的にも芸術的にも堪え難い」と語り(p257)、1949年頃にはフルトヴェングラーにナチへの関わりを非難する 書簡を送っている。しかし、1950年頃になると、フルトヴェングラーがユダヤ人を救っていたことなどを知るに至り、彼を「偉大であることにいささかの疑 いもなく、その偉大さは音楽にも偉大さをもたらしていた。私は音楽への貢献に満ち満ちた彼の業績が、音楽史の中で重要な位置を占めるであろうことを疑わな い」と評価するようになっていた(ref 19, p306)。カラヤンについては、1949年頃、「フルトヴェングラーと違い、カラヤンは真性のナチ」とBruno Ziratoに書いたことがあるという。ただし、カラヤンに「(政治的な)困難を知りつつ」ニューヨークフィルへの客演を勧めるなど、音楽家としてのカラ ヤンを評価はしていた(ref 19, p384)。

注8)ちなみに、ポランスキーの前妻Barbara Lassは、ベームの義理の娘、つまり息子カールハインツの前妻でもある(1980年に離婚)。

(2012.2.8追記)
David Monodの"Settling scores: German music, denazification, & the Americans, 1945-1953"は、アーティストらの非ナチ化の模様をまとめた大変優れた論文であるが、このp159-161に、ベームの非ナチ化の過程が詳しく描 かれている。これによると、当時、ベームは1945年12月にザルツブルグの非ナチ化委員会に申請を出し、即座に連合国オーストリア委員会(U.S Element Allied Commission for Austria:USACA) の下部組織であるInformation Services Branch(ISB)によって認められている。しかし、ISBの上位組織にあたるKommandatura's sub-Committee for Entertainmentは全員一致でこの認可を取り消したという。ベームは1年後に再度、占領軍の英国代表者とPuthon 男爵という人物のサポートを受けて申請した。男爵はザルツブルグ音楽祭のオーガナイザーの一人で、1947年のアラベラの指揮をベームと契約しており、 ベームの非ナチ化を必要としていた。さらにベームにとって幸運だったことに、後にウィーン国立歌劇場の監督となったエゴン・ヒルベルトが非ナチ化委員会の 審査員にいた。

委員会では、第三帝国時代のベームのナチ支持の発言などが議題にあがったが、「噂」「又聞き」に過ぎないと却下されたものも多かったという。ただ、戦前の 新聞に多く紹介されたベームのナチ支持発言については、ベームは「似たような事を言ったかもしれない」と認めざるを得なかった。非ナチ委員会はそれについ て「ベーム博士は紙面においては、常に体制に反対していたとは言えない........(他の)オーストリア人達がそうであったように」との好意的な結論 を出した。結局、シュトラウスのオペラを指揮できる人材が払底していたこと、ザルツブルグの「アラベラ」の計画が決まっていことなどが考慮され、「ベーム 博士が公的活動を行うことで、オーストリアのカルチャー、およびミュージック・ライフの再建に良い影響をもたらす」として、無罪が決定となった。


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1. Gramophone (2000) March
2. The Maestro myth: Norman Lebrecht
3. カール・ベーム 回想のロンド(白水社)高辻知義訳
4. The twisted muse: Michael H. Kater
5. カール・ベームの芸術とレコード(音現ブックス)野島正俊
6. Wer war Karl Bohm? 2005.11.17, Der Zeit, Joachim Riedl
7. Discussionforum zuer rolle Karl Bohms in der Nazi-diktatur: "Discussion about Karl Bohm"
8. http://www.film-philosophy.com/index.php/f-p/article/view/683/596
9. "The Saltzburg festival" (director: Tony Palmer)
10. カール・ベーム 心より心へ (共同通信社)真鍋圭子
11. http://www.edwardgreenfield.co.uk/Chapter2.htm
12. Harry Erwin Weinschenk (Hrsg.: Kuestler plaudern. Limpert, Berlin 1941, S. 48
13. Time to face the Nazi musicNorman Lebrecht, Evening Standard, 23 Jun 2010
14. Music of conscience, Leon Botstein, American Sympony Orchestra Program Note
15. In my own voice, Christa Ludwig
16. Richard Strauss, Man, Musician, Enigma. Michael Kennedy
17. http://www.allmusic.com/artist/karl-bhm-p170266/biography, Bruce Eder
18. Symphony News Vol 31, American Symphony Orchestra League 1980
19. Bruno Walter: A World Elsewhere (Paperback) by Erik Ryding, Rebecca Pechefsky
20. Settling scores: German music, denazification, & the Americans, 1945-1953, David Monod

http://www.fugue.us/Bohm_Nazi.html  

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コメント
1. 中川隆[-13390] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:23:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1514] 報告


ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

独裁とむすんだフルトヴェングラー、ビジネスとして市場原理に包摂されていくカラヤンが、現代の巨匠神話の現況であり、徹底的に批判されます。
私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

米国の巨大マネイジメント会社であるコロンビアがクラシック界を支配し、この会社と契約する音楽家の多くが、音楽をビジネスとして位置づけ、本来の芸術的才能を衰弱させるのは圧巻です。

日本の小澤征爾もこの会社のエージェンシーを受けるようになって、指揮が頽廃したとしています。クラシック・ファンは一読の価値があるでしょう。
(2011/11/16)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/book/book.htm


▲△▽▼


巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。

2. 中川隆[-13350] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:21:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1554] 報告

カール・ベームの名盤


モーツァルト 『レクイエム』とベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』の1955年版以外は印象に残っていないですね:

モーツァルト 歌劇「魔笛」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/816.html

モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/817.html

モーツァルト 『レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/839.html

ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html

ベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/837.html

シューベルト 『未完成交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/856.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

3. 中川隆[-13349] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:26:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1555] 報告

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)は、オーストリアの指揮者。

学位は法学博士(グラーツ大学)。
称号はオーストリア音楽総監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。


グラーツ生まれ。弁護士である父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得た。しかし同時に父親がグラーツ市立歌劇場(英語版)の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキの個人教授で音楽を学んだ。

1917年 - グラーツ市立歌劇場(英語版)でデビュー。リヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの『ローエングリン』を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。

グラーツ市立歌劇場では首席指揮者に予定されていたが、ワルターの招きにより、1921年 よりバイエルン国立歌劇場の第4指揮者に転任。

ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。
そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。

ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。

しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任せている。

1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場(英語版)音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポリタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビング(英語版)であり、彼らの友情は終生続くこととなる。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの『ヴォツェック』を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。

1931年 - ハンブルク国立歌劇場音楽監督(1934年まで)。ハンブルク時代よりR.シュトラウスとの親交が始まった。

1934年- ドレスデン国立歌劇場総監督に就任。R.シュトラウスゆかりのドレスデンに転任すると、1935年にはR・シュトラウスの『無口な女(英語版)』の世界初演を行い、さらに1938年にはR.シュトラウスから献呈された『ダフネ』も世界初演した。

1943年 - ウィーン国立歌劇場総監督に就任。シュヴァルツコップなど才能ある歌手を次々と見いだして伝説的なベーム・アンサンブルを作り上げた。1944年にはシュトラウス生誕80年祭ではR・シュトラウスに祝辞を述べ、作曲者臨席のもと『ナクソス島のアリアドネ』を指揮した。1945年にはオーストリア(当時はドイツに併合されていた)からフランツ・シャルク以来となる「オーストリア音楽総監督」の称号を受けた。第二次世界大戦での戦局悪化に伴い、R・シュトラウスより芸術上の遺言(今後のオーストリア音楽界をどのように運営・維持すべきか)を託された。また同時にR.シュトラウスのスケッチブックなど、貴重な資料も渡された(これらはベームの死の直前にウィーン・フィルに寄贈されている)。ドイツ・オーストリア敗戦後に連合軍から演奏活動停止命令を受けたが、1947年に解除。

1954年 - 2度目のウィーン国立歌劇場総監督に就任。1955年11月には連合軍の爆撃により焼失していたウィーン国立歌劇場が再建され、この記念すべき再開記念公演の『フィデリオ』を指揮した。(続いて『ドン・ジョヴァンニ』『ヴォツェック』『影のない女』を指揮。ちなみにベームは当初、ドン・ジョヴァンニの指揮をワルターに依頼したが、ワルターは高齢を理由に辞退し、その代わりにブルックナーの『テ・デウム』とベートーヴェン第9交響曲を演奏した。ウィーン国立歌劇場総監督辞任後は特定のポストには就かず、フリーランスとして客演や録音活動を中心に据えた。

1962年 - バイロイト音楽祭に初登場、『トリスタンとイゾルデ』を指揮。ヴィーラント・ワーグナーとともにオペラ史に燦然と輝く新バイロイト様式を作り上げた。のちに『ニーベルングの指環』も指揮。1964年、「オーストリア(共和国)音楽総監督」(戦前のものは自然消滅)の栄誉を授けられている。1967年、ウィーン・フィル創立125周年を記念し、特にベームのために創設された「名誉指揮者」の称号を授けられた。

1973年 - オーストリア政府から若い指揮者のための「カール・ベーム賞」制定が発表される。1974年 - 「ニキシュ=ベーム指環賞」が制定された。

1981年8月14日 - ザルツブルクで死去。86歳没。ザルツブルク音楽祭の開催中であり、レヴァイン指揮ウィーン・フィルのオペラ公演は「お通夜のような雰囲気」になってしまったという。楽聖たちが眠るウィーン中央墓地提供の申し出は遺族の希望により断られ、グラーツ・シュタインフェルト墓地のベーム家の墓に埋葬された。最後の録音は同年春の映画版「エレクトラ」であった。

家族・親族

息子は俳優のカールハインツ・ベーム。孫のカタリナ・ベーム(英語版、ドイツ語版)も女優として活躍している。

欧州楽壇のマエストロ

ベームは、当時のオーストリア大統領ルドルフ・キルヒシュレーガーをして“(オーストリア)共和国が与え得る栄誉はすべて与えました”と言わしめたほど、数多の名誉職を贈られていた。この発言の念頭にあるものも含めて、それらの一例として、「ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者」「ロンドン交響楽団桂冠指揮者」「ウィーン市、グラーツ市、ザルツブルク市の各名誉市民」「ドイツ連邦功労十字勲章」「バイロイト黄金名誉指環」「バイエルン国立歌劇場名誉会員」「ダルムシュタット国立歌劇場名誉会員」「ベルリン・ドイツ・オペラ名誉会員」などがある。そのため、ベームの死は世界中に衝撃を与えた。

カラヤンはコンサートでの演奏に先立って追悼の言葉を述べ、さらにモーツァルトの『フリーメイソンのための葬送音楽』が演奏された。レヴァインがモーツァルトの『レクィエム』、アバドが『マタイ受難曲』をベームに捧げ、ベルリン・フィルはベームの指揮予定だった演奏会で代行を立てず、指揮者無しの演奏会を行った。ポリーニ、クライバー、ヨッフム、ショルティらも追悼演奏会を開いている。カルロス・クライバーとバイエルン国立管弦楽団による追悼演奏会は広く知られる(ベートーヴェンの交響曲第4番と交響曲第7番)。

ザルツブルク音楽祭は、長年にわたるベームの功績を称えフェルゼンライトシューレ(ザルツブルク祝祭小劇場)とホワイエの間の大ホールを「カール・ベーム・ザール」と名付けている。さらに出身地であるグラーツとザルツブルクを結ぶインターシティ列車をカール・ベーム号(IC517/518)と名付けた。これは現在も運行されている。

ベームの演奏

ベームの身振りはいつもごく控えめで、お世辞にも「格好良いバトン・テクニック」とは言えない。これには、R. シュトラウスの教示・影響がある[1]。マーラーとR. シュトラウスは、当時を代表する指揮者であったが、全身を使って激しい指揮をするマーラーに対して、後年のR. シュトラウスは指揮するときも常に左手をポケットに入れたままで、指揮棒を持った右手も必要最小限しか動かさなかった。

カラヤンは「ベーム85歳の誕生祝賀会」に出席した際に、 “ 禅の高僧が矢を射る時、「私が矢を飛ばす」とは言わず「矢が飛ぶ」と言う。すなわち「無為の為」である。これと同じく、ベームの指揮は「音楽が湧く」と言える。つまりベームによって、音楽が自ら奏ではじめるのである。”と、ベームの指揮を評している。

主な録音

ベームの実力が遺憾なく発揮された分野はオペラであった。モーツァルトは『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』などの録音がある。ペーター・シュライアーはベームのコジ・ファン・トゥッテを特に絶賛しており、「他の指揮者の下ではこれほどの感激を味わえない」と語った。ザルツブルク音楽祭を飾るモーツァルト指揮者でもあった。1971年にウィーン・フィルと録音された、モーツァルトのレクイエムは評価が高い。

リヒャルト・シュトラウスの大家としても知られ(巨匠の『ダフネ』は、ベームに献呈されている)、主なオペラをスタジオ録音している。特に愛した作品は『ナクソス島のアリアドネ』であった(複数の録音あり)。また、『影のない女』は世界初全曲録音(1955/DECCA)である。当時はマイナーな作品であったため、DECCAは録音を渋ったが、ベームの強い要望により「ギャラなし・一発録り」で実現した。同年、ウィーン国立歌劇場の再建記念公演で『影のない女』を指揮。カイルベルトやカラヤン、後のシノーポリに較べると、最少のカットで演奏しており、貴重な記録となっている(ORFEO)。管弦楽曲では、1958年、1963年に録音されたベルリン・フィルを指揮しての『ツァラトゥストラはかく語りき』や『ドン・ファン』、『祝典前奏曲』などの管弦楽曲集が知られている。

バイロイトの巨匠であったことからもわかるように、1966年のバイロイト音楽祭における『トリスタンとイゾルデ』のライヴ録音など、ワーグナーについても高い評価を得た。ビルギット・ニルソンは「これまでに『トリスタンとイゾルデ』を33人の指揮者の下で歌ったが、誰もベームに比肩することはなかった」と書いている。

このほか、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ブラームスなどドイツ・オーストリア音楽においては、当時はひとつの規範ともされた。ベルリン・フィルを指揮してのモーツァルトの交響曲全集とウィーン・フィルを指揮してのベートーヴェンの交響曲全集はベームの大きな業績である。


ベームと日本

ベームの名が日本に知られるようになったのは早く、1930年代半ばには小品のレコードが発売されていた。1937年11月26日には、シューマンの遺作・ヴァイオリン協奏曲の初演を含む日独交歓放送に、ゲオルク・クーレンカンプらとともに出演した(PodiumよりCD化 No. POL1053)。この放送はナチスの威信をかけたもので、当時既にクーレンカンプ同様、ベームはドイツ圏内で主要な指揮者であったことがわかるが、日本ではあくまでもシューマンの遺作の世界初演を聴く演奏であり、ベームの知名度を高めることはなかった。程なく、第二次世界大戦勃発によって原盤の供給も途絶え、ベームの名はしばらく日本では聞かれなくなった。ベームの人気や知名度が飛躍的に高くなるのは戦後のことであった。ベームが亡くなる際にも、危篤の段階から新聞やテレビ・ニュースで報じられていたほどである。ベームの来日は1963年、1975年、1977年及び1980年の4回。1979年にも来日の予定(読売日本交響楽団の招聘)であったが、体調不良のためキャンセルされている。

初来日

1963年に開場した日生劇場のこけら落しのためにベルリン・ドイツ・オペラを率いて初来日(同行:ロリン・マゼール、ハインリヒ・ホルライザー)。ベームはベートーヴェンの『フィデリオ』[2]とモーツァルトの『フィガロの結婚』[3]、特別演奏会の「第九」を指揮した。両オペラともディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、クリスタ・ルートヴィヒ、ヴァルター・ベリー、グスタフ・ナイトリンガーらの名歌手が多数出演した。第九演奏会では、演奏後に殺到した多くのファンがベームの足に抱きつき、身動きできなくなったこともある。

70年代

日本でのベームの人気に一気に火がついた1975年の公演は、ウィーン・フィルを率いての公演であり、前評判に違わぬ演奏が大きな反響を呼んだ。あまりの反響の大きさにベームは感激し、時期こそ決めないものの再びの来日を即断したとも言われる。この時はリッカルド・ムーティも同行し、ムーティの指揮での公演も別途行われた。

わずか2年後の1977年に再来日が決定したのは、その他に来ていた話をベームがすべて断り最優先で時間を作ったからだった。両公演はNHKやTOKYO-FMによって多数録音され、一部はCDやDVDとして販売されている。

最後の来日

1980年にはウィーン国立歌劇場の引越し公演に同行したが、老いと病気による衰えがはなはだしく、ホルスト・シュタインら多数の同行指揮者を伴っての来日となった。ベームは『フィガロの結婚』3公演(東京および大阪)[4]と十八番であったリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』の1公演[5]、昭和女子大学人見記念講堂でのウィーン・フィルとの演奏会(1980年10月6日。人見記念講堂のこけら落とし記念演奏会だった。これらはCD・DVD化されている。

なお、2007年には「フィガロ」の公演もDVD化された)だけを指揮し帰国した。このウィーン・フィルとの演奏会は、日本でのベーム最後のオーケストラ演奏会だったのみならず、彼自身も1938年以来続いたウィーン・フィルとの最後の演奏会だった。なお、この時の「フィガロ」上演での第3幕はオリジナルではなく、ロバート・モウバリー&クリストファー・レイバーン提唱版(1965年。第7場、第8場を第4場、第5場の間に挿入する)によるものである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0

4. 中川隆[-13347] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:43:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1557] 報告
ベーム最後のインタビュー
ドイツ「シュテルン」誌1981年8月20日号より
http://mahdes.cafe.coocan.jp/wkb2.htm

質問・フェリックス・シュミット、訳・堀内修
(「音楽の友」1981年10月号掲載)

ベーム「あなたにおいで頂いた事を有難く思っております。この様ないまいましい椅子に座り込んでいなければならなくなってこの方、どんな気晴らしも私には有難いのです。人はともすると恵まれた老年という事を話題にしますがね、結構なお恵みとしか私には言えないな。ところで私はこうして座り込んでる訳なんですが、頭はまだちゃんとしているものの、両脚はもう言う事をきかない。両腕もそうですし、昨晩はベッドから転げ落ちてしまった。どうです?こういうのが恵まれているなんて。この齢に成ってパンツをようよう身に着けるのに前より3倍もの時間を喰うというのがお恵みというものなんですかね。」


───ベームさん、あなたの腕はもう言う事をきかないと仰いましたね。という事はもう指揮する事は出来ない訳ですね。ところであなたのカレンダーには1984年に至る迄予定が立てられているでしょう?

ベーム「まあ、カレンダーに線を引く他ないですね。」

───あなたはエネルギーが全くなくなってしまったら、自分はもう指揮はしない、そうしたら生きていたくないと、嘗て仰いましたね?

ベーム「その時はたまたまそう口を滑らせたんです。しかしさて、もううまくいかないというのなら、それがどんな状態なのか私には判りますよ。あのですね、指揮するという事は何しろ私にとって一種の若返り療法みたいなものなんです。その度に何時も齢のひとかけらがこそげ落とされるのですよ。この間の公演、今年の3月、ウィーンでの「フィガロの結婚」の事を覚えています。指揮台に立った時、大してうまくいかない演奏をするんじゃなかろうかと予感したんです。惨めな気分になりました。けれど、既に序曲の間にあらゆる疲れは消え失せてしまい、悩みももうなくなったんです。木だって引っこ抜ける様でしたね。しかしそれももう過ぎ去った事です。御覧なさい、この椅子の傍らの譜面台を。其処には以前は点検中の総譜が常に置かれていたものですが、今や何が乗せてあるとお思いですか?一寸漫読している本なんですよ。」

───ところであなたは病臥なさる前に今一度大変な努力をお払いになりましたね。TVの為にR・シュトラウス「エレクトラ」とレコードのベートーヴェン「第九」を練習なさいました。

ベーム「その為に全力を尽くしました。それが私を倒したんです。けれども私は自分が駄目になる前にもう一度2つの事をしておきたいと思ったんです。そう、「エレクトラ」と「第九」です。この2つの作品を私がその時した様には、人は未だに耳にした事はないと言っても過言ではないと思います。」

───どの様な所が特別なのでしょうか?

ベーム「私は生涯これらの作品と取り組んできました。第一級の「エレクトラ」を保証するに足るチームを持つ迄捜し求めてきました。そうでないと容易ならぬ「侍女達の場」に穴が開いてしまいますから。昔はその場面になると歌手達に対して猛り立ったものでしたよ。というのも、彼女達には歌えないって事が元々解ってたからなんです。宜しいですか?TVの歌劇を必ず観なくちゃいけませんよ。レオニー・リザネックを聴くって事だけの為でも。大変なエレクトラですから。それも彼女は初めてこの役を歌うのですよ。とはいえ、聴かなくちゃいけませんとは、そうた易く言えないでしょうが。そもそも相違を聴き分けられるのは、まあよくて2、3人の人達ですかね。私の息子、カールハインツは聴き取りましたがね。彼は私と同業の沢山の指揮者達よりも実際良い耳を持っているよ。彼女(レオニー)も父親から受け継いだんだね。」

───ベームさん、あなたの耳は本当にまあ多くの音楽家達を絶望に追いやりました。間違った響き、呆けたテンポといったものはあなたをカンカンにさせましたね?

ベーム「ええ、怖れられたのは知ってますよ。ドレスデン・シュターツカペレとでしたが、「神々の黄昏」の事を思い出します。彼らの行う演奏が私には正しい様に聴こえないんです。そこで、まあ私の流儀なんですが、がなり立てたんです。「諸君、一体何を演奏してるんだ?」ところがね、彼らは自分達は何時もそう演奏してるんだと言うんです。で、私はこう応えてやりました。「ではあなた方は今初めて正しい演奏をなさる訳です」とね。100以上の間違いをその後次から次へと総譜から見付け出しましたよ。」

───辛辣な観察によって、ですね?

ベーム「まあ、愛情溢れるシニカルさと言いましょう。」

───ある逸話が伝えられておりますが、それによりますと、あなたは声を相当長くのばしていた女性歌手(正体はレオニー・リザネック)に対し、こう叱り付けたとか。「君はどうしてそんなに長く声をのばすのかね?それで週末休暇用の別荘でも建てようと思ってるのかね?」。

ベーム「失礼、夏季休暇用の別荘と言ったんだよ。」

───あなたは生真面目ですか?

ベーム「私はゲーテと同じ日に生まれた。ゲーテは生真面目だった。私もそうですよ。でも私は特に短気なのですよ。自分の思い込んだ事は、ものにしとかなければいけないのです。それも即座にね。つまり、ある一定のテンポが欲しいと自分が思い、歌手或いはオケがそれを解ってくれないとなると、もう一波瀾起こしてしまうという訳です。或いは、或る時期に或る編成による一つの歌劇をやろうと思い、それがうまくいかないとなると、私はね、家を飛び出してわめき散らすのですよ。さてさて、私は自分の家でオーケストラの事に汲々しているのは厭なんだが。それにしても、妻が長い年月の総てを我慢してきてくれた事は、正に驚くべき事です。」

───ではあなたには妥協というものはないんですか?譲歩はなさらないんですか?

ベーム「そんな事は思いもしないね。音楽にあっては如何なる妥協も知らないね。私の人生、かなりの事をしでかしてきました。私は罪人ですよ。ええ、そう言っていいでしょう。嘘もつきましたし、自分の名誉にならない様な事も沢山してきました。しかしこと音楽にあっては何時もまともに、何時だって誠実でしたよ。」

───何をしでかしたと仰るのですか?

ベーム「老人にその答えは御勘弁願います。私の短気に関わる事でしたら、カラヤンの事を話題にしなければなりませんね。あの人は大変寛容な人ですよ。彼が稽古の時、正しい響き、自分の求める響きが出る迄待っている事や、心を鎮めて楽団員を説得していたのには感心しました。全く驚嘆すべき事でしたよ。ええまあ、あの人は何というか別種の意地悪をするんですよ。」

───あなたに対しても意地悪をですか?

ベーム「いやいや、我々は親友ですし、気楽な付き合いをしていますよ。」

───ライヴァル同士の妬みはないのでしょうか?

ベーム「彼の代弁は出来ないよ。ああ、そうだ、思い出したよ。彼は私に素敵なプレゼントをくれる事に成っているんですよ。私の90歳の誕生日に黄金のカッコー時計を約束してくれたんですよ。でね、金相場がまた上がったのを知ると、子供の様に嬉しがるんですよ、私は。ああ、90を迎えられます様に。」

───あなたは既にカラヤンからの時計をお持ちでしょう?

ベーム「80の時に貰ったんです。その時計はまだまだ動いていますよ。」

───あなたの時計コレクションは有名です。同じ様にそれらの時計は皆揃ってチクタク鳴っているという事も。一個でも進んでいると、あなたはゾッとして即刻調整されるとか。

ベーム「極度の精確さには賛成です。何れにせよ私は楽団員の些細な杜撰、如何なるインチキ、どんな曖昧といえども大目に見る事はありません。精確さへのこの様な性向は正に生まれついてのものでして、これは多くの人には妄想と見なされるかも知れませんが、音楽家にとっては最高の財産なのです。」

───その精確さへの性向というものは、あなたが法律を学ばれた事と関わりがあるのではないですか?法律家は几帳面でなくてはならないでしょう?

ベーム「相互に何らかの関係があるとは思いません。私はね、自分の好みによって法律を勉強したというのではないんでして、ただ父親を喜ばせ様としただけなんですよ。父は大変音楽的素養があり、また音楽狂だったんですけど、私にはお堅い職を身に付ける様に言ってたんです。父はグラーツ劇場の法律顧問でありまして、それで芸術における並の才能というものの惨めさを熟知していたのです。父は私が同じ様な運命を辿らない様にと願ったのです。そうした訳で、父は私にはっきり言いました。

「お前は法律家の試験に通って初めて音楽を勉強する金を手に出来るのだぞ」と。」

───では、あなたが学位審査に受かる以前にグラーツ劇場で既に歌劇を指揮したというのはどうしてだったんですか?実際何時だったのでしょうか?

ベーム「1919年4月に学位を取りました。でも法律学を総ざらいしていた間にも音楽をやっていたんです。グラーツ劇場でコペルティトーアをしていましたし、夜にはよく道具方を取り仕切ったりしていました。」

───すると正規の音楽勉強はなさらなかったのですか?

ベーム「ウィーンで2、3学期勉強しました。でも正式な指揮の講義は受けておりません。指揮法は総て見覚えたものです。私のは独学なんですよ。それについては面白い話があるんです。病気になった指揮者の代わりに「アイーダ」を引き受けざるを得ない事があったんです。ところがその当時私は4/4拍子では左の方で2拍振るものだという事を知らなかったんです。でね、自分の知っている3/4拍子で絶えず右の方に振ったんですよ。これには楽団員も大混乱をきたしましたね。それで楽団の代表が支配人に抗議しまして、正しく4/4拍子の振れる指揮者を要求したんです。私は彼らに短時間でまともに4/4拍子を振れる様にすると請け合いました。」

───ベームさん、あなたの欧州での音楽の歴史を思い浮かべてみて、最も深い印象を覚えられるのはどの様な事でしょうか?

ベーム「先ず第一にアルバン・ベルクの「ヴォツェック」です。私としてはこの歌劇は私どもの世紀の最後に書かれた最後の、最も優れた歌劇であると思っています。総譜を初めて手にした時の事は、今でもありありと覚えていますね。ずっしりとした総譜でした。その当時私はダルムシュタットの音楽総監督でした。」

───1931年の事ですね?

ベーム「そう、31年でした。当時私はあの孤高の音楽家と共に声部に手を入れる作業をしたのです。私はこの作品は全く類を見ない音楽であると繰り返し力説してきました。本当に骨の折れる作業を強いる作品でして、稽古に丸一年要しました。今日では全く思いもよらないでしょうが。それで私はね、「ヴォツェック」にかけてはパイオニアみたいなものだったんですよ。まあ、初演の指揮はとりませんでしたが。ですが私はこの歌劇をナポリ、そしてブエノスアイレスへと持っていった最初の人間なんですよ。ナポリではオーケストラが「パッサカリア」を、つまり「ヴォツェック」中で抽象的音楽の独創的な部分をもう全然うまく通せないという事がありました。私の名高い悪態も憤怒も何の助けにもならなかったのですよ。彼らは兎に角全然出来なかったんです。私は我慢出来なくて指揮棒を放り捨て部屋に戻ってしまいました。

かなり経ってオケの全幹部が追いかけてきました。彼らは私の前に跪いたんです。本当の事なんです、誓っても好いですよ。彼らはしゃくり上げながら「どうかお戻り下さい」と嘆願したんです。私は彼らを5分程しゃくり泣くままにさせた後、戻りました。そしてピットに歩み入りますと、全楽団員が立ち上がって拍手を浴びせかけたんです。誰かが盆を運んできました。今お話している事は正真正銘の事実なんですよ。盆の上にはヴェルモットの瓶と菓子鉢が置いてありました。私が一口飲みますと、オーケストラが熱情込めて「オー・ソレ・ミオ」を弾き始めたのでした。本当に巧く弾いてのけましたよ。そうした上で我々は「ヴォツェック」の正規の上演を実現させたんです。」

───あなたが力をお尽くしになったもう一人の作曲家はR・シュトラウスですね?

ベーム「あの人の為にはもうグラーツ時代に学校をさぼった事がありますよ。「薔薇の騎士」のリハーサルに居合わせ様と思いましてね。後にドレスデン歌劇場の監督だった時、シュトラウスと私的に親しく接しました。それが長い密接な友好の始まりでした。彼はオペラ「ダフネ」を私に献呈してくれました。無論私が初演しました。それからは彼は幾つかの習作ノートを贈ってくれました。貴重なものです。この間それを金庫から取り出しました。私のオーケストラに遺贈する為にね。」

───ウィーン・フィルの事ですか?

ベーム「勿論ですとも。」

───勿論ですって?あなたは世界の著名なオーケストラの総てとしょっちゅう演奏なさってたんでしょう?

ベーム「確かにそうですよ。しかし1933年に初めてウィーン・フィルを指揮した時−「トリスタン」でした−恋愛結婚の様なものをしたのです。そうして我々は長い間ハーモニックな結婚生活を送ってきたのです。我々は人がお世辞を言って下さる様に、表も裏も知り尽くしているのです。だからこそ先例のないものと憚る事なく評しても好いブルックナー、ベートーヴェン、モーツァルトの表現に、我々は成功する事が出来たのです。指揮者にとって楽団員各人を知る事以上に素晴らしい事はありますまい。この間、こんな風にブルブル震える老人が「エレクトラ」を録音した時の事ですが、私は指揮台に行き、こう言ったんです。「この老人をよく見て下さいよ。これがあなた方の前に立つ恐らく最期でしょう。有終の美を飾る手助けをして下さいよ」。彼らは、ああ、正にその様に演奏したんです。」

───あなたはブルックナー、ベートーヴェンの他に、生涯を通してモーツァルトに特に親しみを感じていらっしゃいました。

ベーム「ええ、でも常にとは限りませんでしたよ。モーツァルトの開眼はブルーノ・ワルターに負っているのです。」

───彼はミュンヘン(バイエルン)国立歌劇場の監督だった時、あなたをグラーツからミュンヘンにお呼びになった……

ベーム「ええ、客演として「蝶々夫人」を振りました。うまく振る事が出来ました。といいますのも、彼は後で私を呼んでこう言ったからです。「まだ何かと勉強したいとお思いならミュンヘンの私の許へいらっしゃい。けれどあなた自身一人前の指揮者であるとお考えならば、そのままあなたのグラーツに残りなさい」。無論(ミュンヘンに)行きましたよ。」

───ベームさん、一寸あなたは聞き取れない程小声でお話しになりますね。ところで何しろモーツァルトはあなたにとって清涼剤みたいなものでしょう?

ベーム「そういって宜しいでしょう。とはいえ私は先ずはこちこちのワーグナー教徒でしてね、モーツァルトは侮蔑的に見下していたんですよ。けれどもワルターの模範的なモーツァルト演奏を聴きまして、突然モーツァルトに燃え上がる様な欲求を覚えたのです。ワルターは私の願いを叶えてくれ、「後宮からの逃走」を振らせてくれました。……序に言いますとマリア・イヴォーギュンやリヒャルト・タウバーが出ました。そういう事だったんですよ。」

───けれども、モーツァルトの他に、あなたは一人の娘さんを思ってらした。

ベーム「17歳のそれは素晴らしい歌手でして、彼女が私の許で歌う時には特に熱情込めて伴奏したものでしたよ。今日でしたらこう言うでしょう、首っ丈だった、とね。」

───そして1927年彼女はあなたの奥様になられた。

ベーム「元はと言えば私達はモーツァルトについて話していたのではなかったかね?今やこの老人の慰めであるモーツァルトを。」

───モーツァルトを非常に表情豊かに指揮した、あなたの後援者であるワルターと違い、あなたはパトスのないモーツァルトを演奏なさいますね?

ベーム「ええ、そう言って宜しいでしょう。それが良い意味で近代的なモーツァルト解釈なのです。」

───あなたのモーツァルト像にすらラディカルな修正が、今やニコラウス・アーノンクールのオリジナル楽譜に基く上演によって行われました……

ベーム「オリジナル楽譜によるものも確かに一つの主張ではありましょう。私がテンポを変えるとすれば、それはオリジナル楽譜とは無関係です。私にはモーツァルトを手ひどく扱う彼の遣り方は気に入らない。彼の解釈がモーツァルトとは少しだけ関わっているに過ぎないという事を私は証明出来るのですがね。まあ、彼には別の立場があるからね。私は彼には賛成しませんし、彼の方も私に対してそうである様にと思いますよ。」

───若い指揮者とあなたの世代の指揮者ではどんな違いがありますか?

ベーム「同僚については何も語りません。若し私が言いたい事を言ったら、それは自分自身を苦しめるでしょう。」

───けれども、あなた位の年齢になれば、そうする資格があるのではないでしょうか?

ベーム「はあ、あなたはベームがもはや善悪の彼岸の老齢にあるとお考えですな。宜しい、色々言いましょう。若い指揮者達は大部分間違って教育されています。楽器について、声楽について、しばしばまるで解っていません。例えばホルン奏者に何を求める事が出来、何を求めてはいけないか、知らないんです。或いは歌手がどう呼吸するのか、などをね。私はグラーツの劇場で練習指揮者をしている時に、歌手に何を望め、何を望めないかを学びました。

指揮者は自分の直観だけではやっていけないんです。オーケストラを前にした時に、目を閉じ、そして聖霊のお告げが下されるのをじっと待つだけじゃ充分じゃないんです。お告げなんてそうたやすく下りてきません。指揮者は何よりも先ず勤勉でなければならず、勉強に勉強を重ね、そして誠実でなければなりません。いかさまは許されないのです。同業者には非常に多くのイカサマ師がいるのですが、私はそれを5分もあれば見抜けますよ。」

───誰の計略をあなたは見破ったのですか?

ベーム「それを言い立てる訳には参りませんよ。」

───話を他へ向けたいとお思いですね。しかし本当に小さい声ですね、もう少し大きくはなりませんか?

ベーム「私は歌手じゃありませんよ。」

───でもあなたが不誠実だとお思いになっている沢山の指揮者達は腐れ切った誤魔化しをやっているのでしょう?

ベーム「若し私が今その名前を言ったりしたら、ベームはすっかり老いぼれた、もう判断する事が出来ない、と言われるでしょう。けれども、私は老いぼれにはなりたくないので黙っています。」

───あなたが肯定的に例外と思われている方の指揮者、カルロス・クライバーの事にしましょう。あなたは彼を何時も称賛しておいでですね。

ベーム「天才的な男です。父親の様にね。」

───エーリッヒ・クライバーですね。

ベーム「やっぱり(父同様)気難しい男でね、周りの者は奔放な行動に梃子摺ってましたよ。私は彼自身にしばしば紡ぎ手だと言いました。人を魅了する紡ぎ手だとね。」

───レナード・バーンスタインともあなたは良い関係を持ってますね。

ベーム「ええ、私は彼を大変素晴らしい指揮者だと評価しております。何ものにも囚われない、スケールの大きな音楽家ですね。」

───しかし、指揮はあなたと丁度正反対ですよね?あなたは労力を最少限に抑えた身振りで指揮している様に見受けられますが……。

ベーム「つまり、私は汗をかきません。バーンスタインは水がしたたる位に汗をかく。」

───彼はオケとスコアの前で飛び跳ねているといっていいでしょう。

ベーム「でもそれは彼の内面から来るものなのですよ。ワシントンでのコンサートの後、彼が私に尋ねました。「あなたが全く汗をかかずに指揮をするのは一体どうやってなのか教えて下さい。私は何時でも物凄く汗をかくんですよ」とね。で、私は言いました。「ウィスキーも程々にしなさい。そうすればそんなに汗をかかなくなりますよ」(バーンスタインは酒豪&ヘヴィ・スモーカーで有名)。

───あなたは酒を飲んで何かする事はなかったんでしょう?

ベーム「ええ、私は食事も酒も、何をするにも差し支えない位に控えめですから。父と違ってね。父は100キロも体重があり、甚だ社交的な人でした。」

───反対にあなたは独りでいるのが好きだと噂されてますね?適応するのが難しいと、例えばウィーン国立歌劇場の監督の頃そうだったという事ですね?

ベーム「お尋ねになりたいのはそれだけじゃないでしょう。私はその地位を全然望まなかったんです。何故ならウィーンの人々が陰謀にかけては世界的な名人なのを知っていたからです。有名な音楽家、例えばマーラーとかカラヤンがこの街の歌劇場監督の地位を追われています。私はその地位をウィーンの劇場連盟からのさしせまった要請で引き受けたに過ぎません。」

───あなたはその後旅に出て、他所の場所で指揮し、客演契約をしたので、ウィーンの人は突然「ベームはもう此処にいない」と確認したんだそうですね。

ベーム「私が「フィデリオ」を振る為に再びそのオーケストラ・ボックスに戻って来た時ですが、桟敷席の連中が何分間も悪意に満ちて怒鳴ったのです。今でも耳に響く様ですよ。私が有難い事にウィーン国立歌劇場監督を続けずに済んで、国際的な活動が出来る様になるという、あれは元気一杯の告知だった訳です。」

───あなたは1954年から1955年迄1年間耐えました。

ベーム「若しかしたら長過ぎたかも知れません。丁度国際的な繋がりが始まった頃だったんですが、その時期をウィーンの人達の為に捧げて、しかも少しも喜びがなかったんですから。1947年、再び指揮する事が許される様に成った際、決して一人だけで任命されまいと誓ったんですが。」

───1934年から1942年の終わり迄ドレスデンで音楽監督をしていますね?

ベーム「ええ、アメリカ人もロシア人も私の非ナチ化の処置の時良く言ってはくれましたが、こう尋ねましてね、「ベームさん、あなたが本当にナチの反対者だったのなら、どうして亡命もせず、どうして英国や米国で指揮なさらなかったんですか?」。」

───で、どうしてなんですか?

ベーム「当時私はドレスデンの音楽総監督として、外国との如何なる繋がりも持っていませんでした。どうやって逃げ出したらいいんでしょう?どうやってお金を稼いだらいいんでしょう?しかも、私には家族がありました。」

───国内に留まった事であなたは戦後2年間に渉って演奏禁止に成ったのですか?

ベーム「ええ、とはいっても私はNSDAP(ナチス)に属していたんじゃありません。でも厭な2年間でした。私が一番焦燥感を味わった頃で、毎日毎日私の件が調査されるのを待っていました。音楽を教える事も許されていませんでした。ナチのハ長調音階を教えるとでも思ったんでしょう。いや、厭な頃でした。私は妻とグラーツの小さな家に腰を落ち着けて待ちに待ちました。もう待てない位に。」

───あなたがその後実現なさった国際的な活動を始めようとしていたのでしょうね?演奏出来る様になって数年を経ずして、一番稼ぐ指揮者に成りました。

ベーム「それは知りません。けれども結果はその様に成りましたね。私の後をお金が追ってきたんじゃありません。報酬として手に入れたんです。」

───そしてあなたは何時も倹約家でした。

ベーム「私にはそうする為の広い意味での大きな家族があるんです。」

───あなたは日本で特に称賛(報酬という意味もある)されましたね?

ベーム「ええ、日本は特別ですね。1980年の秋に行ったんですが、その時にTV中継される演奏会を1回振って、それで6万マルク(当時の通貨。当時の日本円にして約550万円)入りました。この秋にもう一度日本へ行ってもいいと思っています。けれどもこんな椅子に座って、病気の相手をしてやっているもんでね。」

───どんな御病気なのですか?

ベーム「老衰という間違った名をつけようなんて企てられてますね。あなたがよく知りたいと思うなら言いましょう。これは2年前にロンドンで始まりました。ホテルで倒れた訳です。その時それは素晴らしい小さな場所を見付けたんですよ。倒れていたのは浴室の便器とビデの間なんです。其処で私の硬い頭蓋と一緒に転んだのです。直ぐにウィーンに運ばれました。医者はひどい脳の出血があると診断しました。人がいうように、自分は低能になってしまうと思いました。しかし、低能にはならなかった。そうなっていたらあなたにこうして総てを説明出来なかったでしょうからね。それから療養しました。けれどもそれは非常に有効という訳にはいきませんでした。出血による障害が繰り返される訳です。この前はTV用「エレクトラ」の冒頭について話し合っている際中でした。有難い事に私は回復しました。気が紛れる位によくなろうと思います。」

───どうしてですか?

ベーム「不機嫌だからですよ。私は周囲の人たちの生活を不愉快にしています。それで少しだけ読んでます。」

───読むって、あなたのその目でですか?

ベーム「まだ幾らかは見えるんですよ。とはいえ灰色の星が良い方の目にも大きな悲しみを与えつつありますが。そして勿論私の誕生日に演奏するという計画も変更を余儀なくされています。もう一度回復するものなら、ウィーン・フィルと一緒にモーツァルトの46の交響曲をレコーディングしたいと望んでいるんですが。」

───凄い計画ですね。

ベーム「ええ、老人が皆そんな事をする訳じゃありませんね。」


これは巨匠が亡くなる少し前に行われたインタビューであり、文字通り最後のものとなった。

もうベームはこの時期には相当体力が落ちていたが、かなりの質問に答えている。多くは当時既に世間によく知られた内容で、この大指揮者の音楽人生を振り返る意味合いが強いが、ベーム自身が語っているというところに意義があろう。

後は最後の録音となったベートーヴェンの第九やR・シュトラウスの『エレクトラ』に関するコメントや、カラヤンやバーンスタインとの親交やカルロス・クライバーへの称賛、アーノンクールへのささやかな批判等同業に触れている個所が貴重だ。

http://mahdes.cafe.coocan.jp/wkb2.htm

5. 中川隆[-13346] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:49:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1558] 報告

ベーム・エトセトラ
http://mahdes.cafe.coocan.jp/ekb.htm

リハーサルの鬼

リハーサルの凄まじさといえば、マーラーとトスカニーニが伝説的存在だ。彼らの時代には、指揮者が軍隊の司令官の如く振る舞い、オケはそれに絶対服従しなければならなかった。今時の指揮者がそうした練習を行おうとしたら、直ぐにオケから追放されるか、二度と声がかかる事はないだろう。

ベームは決してマーラーやトスカニーニの様にオケを絶対的に支配するというタイプではなかったが、重箱の隅を突付く様な厳格なリハーサルは世界的に有名で、しかもその口やかましいリハーサルを許されるという特権を与えられていた稀有の存在である。オケも歌手も、練習は厭だが、ベームとの共演で得られる幾多の効果には逆らえなかったのだろう。一つはベームという世界的指揮者と組む事による知名度アップ。もう一つは、確かにベームは練習では厳しいが、決して融通性がない訳ではなく、特に実演ではオケや歌手の自主性を尊重したからである。

要するにベームの練習はスポーツと似ている。普段厳しく基礎を鍛えない限り、本番での応用がきかない。基礎が出来ないのに、本番がこなせる訳がない。ましてや、指揮者は自分で音を出す訳ではない。従って、指揮者はオケを隅々迄知り、オケは指揮者を隅々迄知る事によって、信頼関係が生じ、自発性に富む音楽が生まれるのである。いわばベームのリハーサルは各々の技を磨く為にあるというよりは、自分一人で演奏しているのではないという全体意識を植え付けつつ、そうした中で各自の最高のパフォーマンスを引き出せる様な環境を整える為にあるのである。実際ベームも回想録でその様に述べている。

その代わり、リハーサルでは如何なる妥協も許さない。例えば、腕立て100回と決めたら、それは必ずこなさなければ成らない。50回で諦めさせたら、本番で力を発揮出来なくなる可能性があるからだ。丁度、中国の孫子や韓信が兵を厳しく調練したのと似ている。彼らが精鋭を鍛えたのは、いざという時どの様な状況下にもこちらの指示に対応し得る反応を身につけさせる為のものであった。言葉を換えるなら、厳しく鍛え上げず、”烏合の衆”のままでは実戦での成果が期待出来ない。”軍団”として成果を収める為には、日頃から厳しく鍛錬されていなければならない、という事だ。

しかし、実戦では何が起こるか判らない。従って、どの様な状況にも対応し得る様指揮官は身構えていなければならない。時には当初立てた作戦を急遽変更しなければならない事もあろう。多くの指揮者は自分のヴィジョンを知って貰う為、オケに意図を説明する。しかし、ベームは強弱やテンポの狂い等正に基礎練習しか行わなかった。それというのも、ベームが本番で何を意図するか判らない、本番で自在に指揮したいからこそなのだという事が分かるのである。

見た目の厳格なリハーサル風景がベームへの誤解を生じさせた事は確かである。私も自分がオケのメンバーや歌手だったら、ベームのリハーサルには耐えられないと思う。しかし、こうした厳しい練習を乗り越えたからこそ、本番で驚異的なパフォーマンスを引き出す事が出来たという事は、決して忘れてはなるまい。


喝采の嵐

当時メディアで盛んに議論の対象に成っていたのがベームへの拍手の多さ。出て来るだけで「ブラヴォー!」の大喝采が湧き起る妙な現象は殆どベームの専売特許だった。しかも、時には10分以上も喝采が収まらず、演奏が始められない事が多々あったという。オランジュ音楽祭の「トリスタン」やバイエルン国立歌劇場の「後宮」でも、出て来るだけで怒涛の様な喝采を受けるベームを目撃する事が出来る。終演後の拍手も凄まじく、日本ではステージに殺到する若者が続出し、世界中のメディアに報じられた。この現象はどうして発生したのかと考えてみると、矢張りベームが”伝統の象徴”と捉えられていた事が大きいだろう。多くの19世紀の巨人が世を去った中、ベームがまだ生きている。その”生ベーム”に逢えた喜びが、登場するだけで未曾有の拍手を巻き起こしたのではあるまいか。もう一つはベームの人間性である。巨匠の多くは何となく近寄り難い偉大な雰囲気を具えていたが、ベームは指揮をしている時意外は普通の爺さんで、気軽に喝采を贈れる雰囲気があったのではないだろうか。カーテンコールにぎこちなく応えるベームの姿はもはや指揮者には見えないのである。

ギャラ王

ベームといえばギャラが高い事でも有名だ。チェリビダッケはそうしたベームの姿勢をあからさまに批判している。しかし、私は芸術家というものは人間がどうであろうと、素晴らしい感動を与えてくれれば、何の問題もないと考えている。実際、モーツァルトやベートーヴェン、ワーグナーやブルックナーらも人間性はさ程高く評価されていないし、金への執着心はあった。聖人君子ではないし、ボランティアや素人芸術家ではないのだから、自らの業績に対し、何らかの報酬を求める事は寧ろ当然ではないだろうか。特にベームにはカラヤンというこれまた稼ぎまくるライヴァルがいたから、対抗意識もあったであろう。そういえば、ベームの師匠であるR・シュトラウスもアルマ・マーラーの自伝で”守銭奴”とこきおろされている。若しかするとベームの金銭への執着は師匠譲りなのかも知れない。或いは戦前から戦後にかけて、極貧生活を経験した為、二度とあんな思いはしたくないという気持ちがあったのかも知れない。しかし、繰り返すがそうした要素はベームの評伝等には必要かも知れないが、演奏とは無関係である。我々にしてみれば、素晴らしい演奏であれば、日常生活がどうであろうと一向に構わない。芸術家というものは、寧ろ公私の落差が激しい人種なのだ。


名誉職コレクター

ベームといえば、歌劇場総監督や常任指揮者等の音楽的実権を掌握する地位からは二度目のウィーン国立歌劇場総監督辞任後は遠ざかっている。その代わり、やたらと記念色の濃い実権のない名誉職やメダルを数多く授かっている。その筆頭はオーストリア音楽総監督である。これは別にオーストリアの音楽行政を統括する様な権力は一切ない。しかし、この肩書きは海外においては功を奏し、人間国宝的価値、或いはオーストリアの親善大使みたいな役割をはたした。ベームが外来の指揮者としては初めて皇居を訪問する事が出来たのも、この飾り物の肩書きがものを言ったのである。

他ではウィーン・フィルの終身名誉指揮者に選ばれた事も忘れては成るまい。しかも、これは史上初めての快挙である。他にも名誉市民や記念メダル等折に触れてベームに多くの名誉が授けられている。今からは考えられない程、当時のベームの存在感が大きかった事を示していると言えるだろう。


時計コレクター

ベームといえば時計コレクションも有名で、来日した折もセイコーの工場を見学している。沢山ある時計の内、一つでも時間がずれると直ぐに調整し直したとか。そうしたベームの趣味を知っていたから、カラヤンもベームの誕生日に時計をプレゼントしたのだろう。

カール・ベーム賞

1973年にオーストリアの若い指揮者の為に制定された賞。コンクールで最も優秀だった者に授与された。因みに第一回の優勝者はラルフ・ヴァイケルト。

カール=ベーム・ザール
ザルツブルク祝祭小劇場内にあるホール。

カール=ベーム財団
世界の難民救済を目的にベームが設置した財団。ベームの死後は長男のカールハインツが運営している。

カール=ベーム号
巨匠の名を冠したグラーツ〜ザルツブルクを結ぶオーストリアの特急。拙サイトの常連、こうもり様よりの情報提供。

オリンピック

1964年、冬季オリンピックはオーストリアのインスブルックで開催された。ベームは世界中が注目するこの一大イヴェントの開会式で、恩師R・シュトラウスの「オリンピック賛歌」を指揮している。若しかすると、この時のフィルムや録音が残っているかも知れない。

誕生日

欧州音楽界において、ベームの誕生日は一大イヴェントと呼べるものであった。嘗てベームが師のR・シュトラウス生誕80年祝祭で祝辞を述べた様に、ベームも多くの人から誕生を祝ってもらったのである。特に80歳を祝った1974年と、85歳を祝った1979年はカラヤンが参加した事もあり、欧州音楽界をあげての一大イヴェントと化したのである。しかも、1979年にはバーンスタインやレヴァインも参加し、バーンスタインの自作をレヴァインが演奏してベームに献呈。カラヤンはベルリン・フィルを、ベームはウィーン・フィルを指揮し、大いに盛り上がった。更にカラヤンはベームに豪華な時計の目録を贈呈(実物は90歳の誕生日に贈ると約束)。このパーティーは正に古き佳き時代の最後を飾る華やかな内容だったのである。


冗談好き

一見生真面目で四角四面と思われがちなベームだが、結構融通性があり、冗談好きでもあった。特にさり気なくドイツ語の駄洒落をかましていたそうだ。


ベームと病気

一度目のウィーン国立歌劇場総監督時代に、凍結した地面でしたたかに腰を打って寝込んだ事があったそうだが、指揮者生命を左右する様な重病も二度経験している。最初は米国客演時、失明の危機に晒された。この時は同行したリーザ・デラ・カーザが紹介してくれた医師のおかげで助かったと、ベーム自身が述べている。二度目は1979年にロンドンのホテルで脳内出血で倒れた事だ。生命は取りとめたものの、後遺症は以後死ぬ迄残ったという。中には最晩年のベームが極端にテンポが遅くなったのは、このせいではないかという人もいる。


酒とベーム

ベームは酒や煙草が苦手だという事を述べている。しかし、一度だけ大酒を飲んだ事がある。戦時中にベルリン・フィルに客演したベームだったが、翌晩にはウィーンで指揮をする事に成っていた。戦時中故、急遽の移動に使われたのは軍用機。しかし、機内はあまりに寒く、他の乗客からこのままでは凍死するからとコニャックを勧められたベーム、ウィーンに着いた時にはホロ酔い加減を遥かに超えていたという。ウィーンでの演奏がどう成ったのかは語られていない。


今は昔

1981年の『ステレオ芸術』10月号に掲載されている指揮者の人気投票では、

@アバドAベームBカラヤンC小澤DC・クライバーEフルトヴェングラーFバーンスタインGショルティHワルターIマゼール

で2位に支持されていたベームだが、1996年『レコード芸術』3月号で評論家やファンを交えて行われた「20世紀最大の指揮者は誰か」という投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBトスカニーニCバーンスタインDワルターEベームFブーレーズGC・クライバーHクナッパーツブッシュIムラヴィンスキー

で、ベームは6位に後退。一応上位6人は嘗て”3大指揮者”と称されたトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーと”20世紀後半3大指揮者”と言われたベーム、カラヤン、バーンスタインだから、或る意味順当といえる結果だとも言える。しかし、2009年の『レコード芸術』12月号で行われた「世界の名指揮者ベスト・ランキング」投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBバーンスタインCトスカニーニDC・クライバーEワルターFクレンペラーGムラヴィンスキーHセルIクナッパーツブッシュ
JチェリビダッケKベームKミュンシュMアーノンクールNジュリーニNショルティNブーレーズQモントゥーRアバドSライナー

で、ベームは12位と大きく順位を下げてしまった。読者投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBワルターCバーンスタインDトスカニーニEC・クライバーFクレンペラーGムラヴィンスキーHベームIチェリビダッケ

で、辛うじて十傑に名を列ねているが、評論家票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBバーンスタインCC・クライバーDトスカニーニEワルターFクレンペラーGムラヴィンスキーHセルIアーノンクール

で、十傑から洩れている。実績を考えれば、常に十傑に列せられるべきベームが、信じ難い過小評価を受けている。評論家がこれでは、ベームがメディアに登場する回数は減り、新規のファン開拓の裾野が拡がらず、少しずつ支持者が減って行くのは当然だ。フルトヴェングラー亡き後の欧州楽壇をカラヤンと二分し、1970年代にはバーンスタインを加えて”20世紀後半三大指揮者”を形成していた人なのに、何でこんな格下扱いに成るのだろう。

古くからの世代で彼の録音や実演に数多く接した評論家が減り、時代認識に著しく欠け、ベームの事をよく知らない世代の評論家が増えたという事なのだろうか。何れにせよ、今はまだ古くからのファンがいるからいいが、評論家がこの調子では将来更に地盤沈下が進んでしまうに違いない。まあ、現在も高く評価されている歴史的名盤が少なからず存在するのがせめてもの救いだ。それにしても、この手の企画は時代の変遷を感じざるを得ない。しかし、私はこの結果に納得していないし、ベームの名誉回復の為、生涯戦い続ける積りだ。


総評

ベームは指揮者としてはともかく、人間としては決して偉大でなかったかも知れない。しかし、逆にそうした庶民的な部分が独特の魅力を感じさせ、彼が空前絶後のカリスマに成れたのかも知れない。尤も、マーラーが「私には墓石は要らない。作品が残れば充分だ」という意味の事を語っている様に、芸術家にとって大事な事は、名前や生涯が語られる事ではない。作品(演奏家は演奏)が残る事こそ大事なのであって、人間ベームをよく知りもしない癖にあしざまにけなし、演奏の価値迄低くしようとする人がいる事はおかしい。

これもマーラーが「何故ワーグナーの様な最低な人間の音楽を愛好するのか」という質問に対して「牛肉を食べたからといって、牛に成る訳ではない」と語っている事を忘れてはなるまい。

また、ベームの人間性を貶している人間に果たしてベームを貶せるだけの人間性が具わっているだろうか。ベームは公の場で他人を名指しで批判するという様な事は滅多にしていない。するにしても、オブラートに包んでいる。相手を知るという事は、文献や他人の風評からだけで判断してはならない。直に会って話してみる必要がある。それもなるべく多くの機会に。ましてや、個人的な知己でもない故人をよく分かりもしない癖に貶す連中の方が余程人間的に最低だ。少なくとも彼らに比べれば、ベームの方が遥かに立派な人間であり、人格者であると思う。

それに、ベーム程追悼コンサートが盛んに行われた巨匠はいないのではあるまいか。即ちベームには同業の演奏家達にそうした気持ちを起こさせるものがあったという事だ。そういう意味においては、人間的魅力も充分に具えていたのではなかろうか。

http://mahdes.cafe.coocan.jp/ekb.htm

6. 中川隆[-13345] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:05:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1559] 報告

カール・ベームはバックハウスの伴奏が一番良かったですね:


Wilhelm Backhaus plays Beethoven, Piano Concerto No.4 - Karl Böhm, Wiener Symphoniker (1967)




WILHELM BACKHAUS, piano
Wiener Symphoniker
KARL BÖHM, conductor

Recorded at Studio Rosenhügel, Vienna, 3-9 April 1967


______



Wilhelm Backhaus- Brahms Piano Concerto No. 2




Wilhelm Backhaus plays Johannes Brahms Piano Concerto, in 1967.
This is one of the last of his recording.

Wiener Philharmoniker
Conductor: Karl Böhm


______


Brahms / Backhaus / Böhm, 1953: Piano Concerto No. 1 in D minor, Op. 15 - Complete, Vinyl LP




Karl Böhm
the Vienna Philharmonic Orchestra


______


Mozart / Wilhelm Backhaus, August 2, 1960 (Live): Piano Concerto No. 27 in B-flat major, K. 595



Karl Bohm
the Vienna Philharmonic orchestra.
7. 中川隆[-13344] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:11:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1560] 報告


ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 バックハウス




ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37

ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス
指揮:カール・ベーム
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1950年9月23日 ムジークフェラインザール (ウィーン)

8. 中川隆[-13342] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:39:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1562] 報告
感動する音楽は、スタイルに関係ない 2013年11月29日(金)

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)

音楽評論家の吉田秀和氏の正反対の極に立つような評論家がいる。

”毒舌と偏見”で知られる宇野功芳だ。

毒舌はともかく、偏見に対しては本人も異論があると思うが、少なくとも多くのこの人の書物を読んだり、批評をみているとそのように感じるしかない。でもそのことは一面では褒め言葉でもある。それだけ持論が”ぶれない”ということでもあるからだ。

でも持論を押しつけられるような気がして、最近ではほとんど読まなかったが、つい図書館で表題につられて読むことにした。

『宇野功芳のクラシックの聴き方』(音楽之友社刊)。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%81%B4%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%80%8D-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211190


ところが、この本が実に面白かった。なかでも評論家山崎浩太郎との音楽放談「ベートーヴェンの交響曲演奏と大巨匠の音楽」が愉快だった。

ワインガルトナーから始まって、歴代の巨匠たちを順番にベートーヴェンの演奏を中心に批評してゆく。もともと日頃の評論そのものが”放談”みたいな人の音楽放談だから面白いに決まっている。それこそ毒舌を通り越して、”なんでもあり”の世界だ。

うなずいたり、感銘を受けたり、興味深く読んだ個所をちょっとひろってみると・・・

ワインガルトナー
音程はいいけれど、縦の線がひどい。とてもプロの指揮者とは言えない。
いいかげんだしね。聴いていて、学者という感じがします。


トスカニーニ

フルトヴェングラーやワルター全盛期に彼がスカラ座を連れてベルリンで実演をした。その凄さは格別だった。


Y:彼のもたらす緊張感のようなものが全然違っていたのかもしれませんね。

U:レコードに入りきれないものすごいものがあるんじゃないの? 
実演を見なきゃわからないものが。
それでなきゃ、あんなに尊敬されるわけがない。


メンゲルベルク

僕の若いころから、すでに正統的じゃなくて、メンゲルベルク節のような感じにとらえられていて、われわれはあまり聴くものじゃないという印象をもってましたよ。麻薬のような。


ワルター(宇野功芳が若い時、ワルターと文通していたのは有名な話)
僕はワルターを聴いていると、ワインガルトナーに比べて、芸術的に相当上の指揮者だと思うなあ。

ワルターは、ルフトパウゼがすごく巧いんですよ。日本人的な”間”の感覚がある。「田園」を聴いていても、「40番」の例のルフトパウゼにしても、あの”間”は至芸だね。


クレンペラー

U:「7番」を最初聴いたときにはいやになっちゃったけど、フルトヴェングラーに飽きてくるとあの四楽章はいかしてますよ。(1960年・フィルハーモニア管)

Y:わかります。私もあの四楽章が大好きで、終わりのほうの、第一ヴァイオリンと他の弦楽器たちとの対話を聴いたときに、ああ、これが聴きたかったものだと。

U:絶対興奮しないしね。最後まで踏みしめていって、しかも冷静でね。でも中は猛烈温かいんだよ。駆け落ちするようなやつだからね。新婚の人妻を連れて駆け落ちするようなところがまだ残っているわけですよ。しかも、表面は冷静にやるから。

フルトヴェングラー

彼の「田園」の第一楽章を聴いてぶったまげたね。あの演奏は偉大な人生体験の一つだな。(1952年・ウィーンフィル) 

ワルターは夢みたいに美しいけどね。フルトヴェングラーの第一楽章は、人生を背負っているという感じですね。


昔、佐川吉男さんが編集長をしていた『ディスク』で対談を編集長としたが、私が「魔笛」は最高の音楽だと思うと言ったら、佐川さんは「私はザルツブルクの人形芝居しか観たことがない」と言うから、「おれはもう帰らせてもらう」と言った。
(笑) 

でも、僕も偉そうなことが言えないんだ。ブルックナーの話になって、「ブルックナーは要らない」と言った。(笑い)
ブルックナーがわからない、そんな時代だったのです。

クナッパーブッシュ(みんな知っている宇野功芳一押しの指揮者)

クナは、ワーグナーだけを尊敬していますね。ワーグナーのときはまったく恣意的なところがない。

ワーグナー以外は全部下に見ている。自分の遊び道具にしています。

だから、ベートーヴェンさえ一段下に見ています。
「第九の終楽章は、あんなひどい曲はない、だから指揮しない」と言っています。

彼は天才ですね。大天才です。

朝比奈隆

「ここはメロディだ、ここは伴奏だから少し弱くしよう」とかいうのが朝比奈のリハーサルにはないんですよ。

フォルテは「フォルテだぞ」と。

「トランペットがフォルテで下を向いて遠慮しながら吹いているから音が出なくなるんだ、堂々と吹け」と。


朝比奈がドイツ式だ、ドイツ風だとかいうのは全くの間違い。

ドイツ風に聴こえるだけであって、昔のドイツの指揮者はもっともっと、フルトヴェングラーでさえも主題と伴奏ということを絶えず考えて、その分だけスケールが小さくなっていたと思う。

ムラヴィンスキー

凄かったのはムラヴィンスキーですね、

何といっても。あのベーチーヴェンの「4番」はほんとうにもう、震えましたよ。

僕のいちばん嫌いなタイプの演奏なんです。

テンポが速くて、動かなくて、直線的で、歌わないし、とにかく即物的で、微笑みのない、ドラマのない。効果も狙わない。

それに痺れたんですよ。いかに彼が凄いか。

場内の空気は一変しました。最初の一音から。指揮者というものは凄いものですね。

ショスタコヴィッチの演奏は全部すばらしいけど、「5番」だけは僕はあまり買えない。あれは大衆的なおんがくですよ。それを高踏的に演奏している。


U:ショスタコヴィッチの「5番」はベートーヴェンの「5番」に比べるとずいぶん落ちる音楽だと思うよ。ベートーヴェンの第四楽章なんて凄いですよね。

僕は一時、「5番」より「エロイカ」のほうが好きだったんです。
ずーっとずーっと好きだったですよ。でもいまでは、「5番」のほうがやっぱり上だなあと思ってきた。

Y:なるほど。私はまだ修行が足らないせいか、「エロイカ」のほうが好きです。

U:修行じゃないです。歳です、アハハハハ。
(これは僕も同意見。ベートーヴェンの「5番」ほど最初から最後まで完璧な音楽は、僕は他に知らない)


シューリヒト

シューリヒトの名盤というと、やはり「エロイカ」と「田園」かな。

あの人はスピードでスーッといくから、「1番」もいいね。

「田園」がなぜかいいんです。非常にユニークな指揮者だね。
スーッと行っていながらいろんなことをやっているんだよ。目立たないように。
面白いですね。名人じゃないですか。やはり巨匠だな。

(「エロイカ」1963年フランス放送管、「田園」1957年パリ音楽院)

ベーム

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)

カラヤン

カラヤンのベートーヴェンはまったく買わない。

バーンスタイン

バーンスタインで良くないのはベートーヴェンです。
NHKホールでの「3番」を聴いたことがありますが、非常に浅い、ヤンキーのベートーヴェンだった。アメリカの大衆性が悪く出てしまう。

だけれども、ウィーン・フィルを振った全集はオケがしっかりしているから、あれはあれなりに優れた演奏のひとつだと思う。

クライバー

U:ヴァントがいちばんいい例で、三流、二流、一流、超一流となる。
朝比奈先生も二流だったもんね。

60歳ぐらいから少しずつ一流になってきて、長生きしたおかげで曲によっては超一流になった。


Y:そういう意味ではカルロス・クライバーは、決して亡くなったとき若くはないですけれども、老い、円熟ということは一切なく、カルロス・クライバーという人がそのまま来て、そのままいなくなった。

U:ああいう天才型は大体そうだなあ。アルゲリッチもそうだし、ハイドシェックもそうだし、天才型というのは何か進歩しないんだ。


アバド
まったく買わないです。アバドは腑抜けだよね。
音は美しいよ。だから、「田園」は聴いていていやじゃないなあ。

チェリビダッケ

彼の「5番」と「田園」を聴きました。
いちばん面白いのは「5番」ですね。個性のかたまり。

ゲルギエフ

「エロイカ」を埼玉まで聴きにいったんです。旧スタイルなんですよ、ロシア人だから。

巨匠風かというと、全然そんなことはない。中途半端ですね。

小澤もそうですよ。ゲルギエフよりまだスケールが小さい。

マタチッチ

U:マタチッチは詰めが甘いんです。録音で聴くと、なんだかずいぶん怪しいところがある。

Y:彼は、それをそのまま放っておくようなところがありますね。

スメターチェク

あとは、スメターチェクを忘れてはいけない。
彼は、日本に来るたびに大感動した指揮者です。

チェコへ行ったと聞いた話ですが、ノイマンの政治力が強い。
スメターチェクにはまるでないんだって。

社会主義国家だったから、上の覚えがめでたくなくて、不遇だったと言っていた。楽員はみんな、実力はスメターチェクが全然上だと言っていましたけど。

Václav Smetáček - Dvorak Symphony No.9 From the New World
Symfonický orchestr Českého

宇野功芳:

僕はいつも、いちばん最終の判断は、知識のない、『レコ芸』なんか読まない、何にも知らない、ただ音楽が好きで音楽がわかる人が感動する演奏がいちばん凄いんだと思う。スタイルに関係なく。
http://kirakuossa.exblog.jp/20038456/

9. 中川隆[-13341] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:43:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1563] 報告

指揮者チェリビダッケの音楽語録〜 2008年04月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015


☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

先日(4月5日)、我が家での試聴にjmc音楽研究所長のO君が持ってきたCD盤の「シェラザード」がすっかり気に入って、いまのところ愛聴盤として活躍中。(4月8日付けのブログで紹介)

オーケストラの音の響かせ方やテンポ、調和のとれたハーモニー、独奏ヴァイオリンの歌わせ方などによく練りこまれた独特の味わいが感じられる。

こうなると自然にその指揮者に関心が向く。

セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996:ルーマニア)

「私が独裁者?モーツァルトこそ!〜チェリビダッケ音楽語録〜」(シュテファン・ピーンドルほか著、音楽の友社刊)に略歴や人となり、音楽の考え方などが詳しく記載されている。

哲学と数学を専攻する中、音楽に目覚め24歳のときにベルリンに移住して作曲、指揮、音楽学を修めた。1945年にはベルリン放送交響楽団の指揮者コンクールに入賞。

当時、ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者だったフルトヴェングラーが非ナチ化裁判のため指揮を許されなかった1945年から1947年にかけてベルリン・フィルを任されたほどの逸材。

フルトヴェングラー死去後、誰もが世界の名門オーケストラのベルリン・フィル常任指揮者に就任するものと思ったが、楽団員達が択んだのはなんとヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

以後、チェリビダッケは国際的な指揮活動に集中せざるを得なくなり、イタリア、デンマーク、スウェーデン、フランスなどで指揮棒を振るが、晩年はミュンヘン・フィルハーモニーの音楽総監督として12年間に亘り蜜月時代が続く。

彼がとくに関心を抱いていたのが、若い指揮者を育てることで、自由になる時間のほとんどすべてを後輩の育成に捧げた。

彼がカラヤンに代わって当時のベルリン・フィルの常任指揮者に納まっていたら、その後、世界のクラシック音楽の動向も変わっていただろうといわれるほどの超大物指揮者だ。

チェリビダッケは言う。

「わたしがベルリン・フィルをさらに指揮し続けたら、このオーケストラは別の道を歩んだことだろう。カラヤンはアメリカ流に艶っぽく磨きぬかれたオーケストラに変えてしまった。わたしならそれをドイツ的なひびきを持つオーケストラに育て、その結果フルトヴェングラーの伝統を受け継いだことだろう。」

彼には指揮者から演奏者までさまざまな「歯に衣をきせない」発言がなかなか面白い。ここでは指揮者に限定して抜粋してみよう。

☆フルトヴェングラー

師として仰いだので次のように賞賛の言葉が続く。

「私はフルトヴェングラーの後継者になることを望まなかった。彼の後継者になれるものなどいない」

『私は彼にこう訊ねたことがある。「先生、ここのテンポはどうすればよいのでしょう。」答えは「そうだね、それがどんなひびきを出すかによるね」。まさに啓示だった。テンポとはメトロノームで測れるような物理的なものではない。結局、テンポが豊かなひびきを出し、多様性を十分に得るのに私はかなりの期間を必要とした。』

※通常、作曲家は楽譜にいかなるテンポで演奏するかを指定していないという。つまり、これは完全に指揮者任せということで、テンポ次第で音楽から受ける印象がすっかり変わる。しかし、速いテンポでも遅いテンポでも違和感がなく自然に聴ける唯一の音楽がベートーヴェンの作品!

☆クラウディオ・アバド

「まったく才能のない男。災厄だね。私は3週間何も食べなくても生きていける。だが演奏会に3時間もいれば〜心臓発作を起こしかねない。その相手が彼なら怒り心頭」

☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

☆ヘルベルト・フォン・カラヤン

「彼は天才ではない。すべての若い音楽家にとってひどい毒となる実例である」

「彼は大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカ・コーラもしかり。」

☆ユージン・オーマンディ

「あんな凡庸な楽長がどうしてストコフスキーの後継者になることができたのか」


☆ヴォルフガング・サバリッシュ

「私の見るところ、彼は高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ。イタリアでは長距離専門アスリートをメゾフォルテと呼ぶ」

☆ゲオルグ・ショルティ

「ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末。」

☆アルトゥーロ・トスカニーニ

「トスカニーニは楽譜どおりに演奏した唯一の指揮者だといわれてきた。といっても彼はそもそも音楽などまったくひびかせず、音符だけを鳴らした唯一の指揮者だった。彼は純粋な音符工場だった。」

以上、かっての名指揮者たちもチェリビダッケにかかってはかたなしというところ。

最後に、最近HMVから取り寄せた3枚のチェリブダッケが指揮するCD盤を試聴してみた。

☆ベートーヴェン交響曲第6番「田園」

以前、このブログで田園の11枚の試聴を行って、およその演奏レベルを把握しているつもりだが、これは、ベストだったマリナー、ワルター指揮と十分比肩しうる名盤。
嵐のあとの感謝の歌の神々しいまでの荘厳さといい、全体的に細かいところに手を抜かず、重厚かつ深々としたひびきに”チェリビダッケは凄い”と感心した。

☆ベートーヴェン交響曲「第九番」

何だかフルトヴェングラーの最新ステレオ録音を聴いている思いがした。第一楽章から第四楽章まで時を忘れて聴き耽った。

☆シューマン交響曲「第2番」

仲間のMさんによるとチェリビダッケはシューマンとかブルックナーといったあまり陽のあたらない作品に光を当てて、見直させるのが得意な指揮者だという。たしかにこのひびきは人を飽きさせず作品に没入させる何かを持っている。

以上3曲(ライブ録音)についてとにかく重厚なひびきに圧倒された。これがドイツ的なひびきというものだろうか。ミュンヘン・フィルでこのくらいだから、彼がベルリン・フィルを引き継いでいたらもの凄かっただろう。本人が言うようにフルトヴェングラーの伝統を引き継ぐ資格に太鼓判を押したい。

ただし、自分が思うところフルトヴェングラー、チェリビダッケともにひびきを重視していることに変わりはないが、前者はいったん演奏に入るとひびきを忘れて演奏に深く没入するが、後者は常にひびきを念頭において(そのひびきを)冷静に第三者の目で観察しているところに違いがある。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015



チェリビダッケ語録

「(マゼールは)カントについて語る二歳児」

「(クナッパーツブッシュは)スキャンダルそのもの」

「(ムーティは)才能はある、おそろしく無知だが」

「(アドルノは)世界史のなかでいちばんの大言壮語野郎」

「(ムターは)彼女は自分の弾き方に自信を持っている。だが彼女のやること全てには真に偉大な音楽性はない。彼女には視野がない」

「シェーンベルクはまったくどうしようもない愚鈍な作曲家である」

「イーゴリ・ストラヴィンスキーはディレッタントの天才に過ぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。そしてこの欠陥をいつも、
新しい様式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「私の見るところ、サヴァリッシュは高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ」

「リズムが機械的なものと理解すれば、それがブーレーズだ」

「(ムターに対して)さてと、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏のところで学んだことをすべて忘れなさい」

(とあるマスタークラスにて、若き日のインバルに向って)
「ちゃんと勉強しないと、バーンスタインみたいな指揮者になってしまうぞ!」

「ハイフェッツは哀れな楽譜運搬業者だ」

「人間は何も食わずとも3週間くらいは生きられる。だがアバドのコンサートを3時間聴いたら心筋梗塞を起こす」

「ベートーヴェンの交響曲第5番は失敗作、特に終楽章は」

「(カルロス・クライバーは)あんな常軌を逸したテンポでは何も分からない。
彼は音楽がなんであるか、 経験したことがない」

私が独裁者だって?モーツァルトこそ独裁者だ!」

評論家など寄生虫だ」

「フランス人くらいドビュッシーやラヴェルを下手糞に演奏する連中はいない」

「(ショルティは)ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末」

「チャイコフスキーは、真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である」

「ベートーヴェンの《第九》の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。ぞっとするサラダだ」

「(カラヤン時代の)ベルリンフィルには、世界最高のコントラバス奏者がいます。だから、ベルリンフィルのコンサートは、今、すべてがオーケストラ伴奏付きのコントラバス協奏曲なのです」

「(ハスキルは)すばらしいコンサート・ピアニスト。機知に富み、魅力的で、徹頭徹尾、音楽的。 ユーモアと生きる歓びに充ちている」

10. 中川隆[-12660] koaQ7Jey 2020年5月19日 13:21:50 : LfQj1i5ZCU : S3hDdmx4LzY1U1E=[6] 報告
○ ベルリンフィルの常任指揮者は樂団員たちの投票によって決められるが、後継者選びにあたり常に違ったタイプの指揮者を選んできた。

厳格で正確な指揮をするビューローから、次のニキシュはまるで反対の緩いラフな指揮。

そのあとにフルトヴェングラーという哲学者が登場し、そして現実主義者のカラヤン。

それに続くのが夢見る男クラウディオ・アバド。彼の音楽は正確ではないかもしれないが本能やヒラメキがある。
そしてサイモン・ラトルの音楽にはおおらかで寛いだ人間的な温かさがある。(コントラバス奏者ヴァッツェル氏)

○ フルトヴェングラーの後継者としてチェリビダッケが取り沙汰されたが、彼だけは楽団員の立場として「真っ平ごめん」だった。

それにベームもヨッフムも我々の目には二流としか映らなかった。後継者カラヤンは順当な選択だった。(コントラバス奏者ハルトマン氏)

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/eb01c1f65d5422e764082b999a095df6

11. 2022年5月15日 09:30:10 : J0IDKwuJiY : a3dQM1g0ckxYTDY=[4] 報告
「指揮者」と「演奏者」の間の「以心伝心」
2022年05月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c8ff948791fe853905769e512f1e7c50

モーツァルトの演奏に定評がある指揮者カール・ベーム(1894〜1981)。

まるで大学教授みたいな風貌だが、彼の指揮したオペラ「魔笛」〔1955年〕は今でも愛聴盤だし、ほかにも「レクイエム」、「フィガロの結婚」などの名演がある。

その彼に次のような逸話が遺されている。

あるときブルックナーの交響曲を暗譜で指揮していた彼は思い違いをして、ここでチェロが入ってこなければならないのにと思った〔錯覚した)のだが、その瞬間(チェロのほうを向いていた分けではなかったのに)ひとりのチェロ奏者が間違って入ってきた。

あとから、ベームが「さっき君だけ間違えて入ったね」と尋ねると、当のチェリストはこう答えたという。

「マエストロが”入れ”と思っていらっしゃるような感じがしたものですから」と。

まさに「以心伝心」、指揮者と楽員がいかに目に見えない糸で結ばれているか、やはり余人には計りかねるところがあるものだ。

以上の話は次の本に掲載されていたもの。

「音楽家の言葉」(三宅幸夫著、五柳書院刊) 

                 

文脈から推察すると人間の感覚が研ぎ澄まされ、指揮者と演奏者が深い信頼関係で結ばれると、「以心伝心」でこういうテレパシーまがいの神業のようなことも可能になるという実例として挙げられていた。

ベームの「思い違い」から出発した話なので当然ベーム側から洩らされた話だろう。

しかし、この「以心伝心」というのはちょっと”出来すぎ”のように思えてどうにも仕方がない。

部外者にはどうでもいいことだろうが(笑)、少しこだわって「ホント」説、「偶然」説の両面から勝手に考察してみた。

1 「以心伝心」ホント説 

ベームの棒の振り方はほとんど目につかぬほど小さかったので慣れない楽員たちを大いにまごつかせたという。

ウィーンフィルのチェロ奏者ドレツァールは言う。

「彼はオーケストラの玄人向きの指揮者だ。あまり経験のない若い楽員向きではない。彼の指揮に慣れているものは、ほんのわずかな棒の振り方と身振りだけで、さっとついて行くことができた。いつもごく小さい身振りに終始し、もし大きくなったとしたら、絶望の表現だった。」

テレパシーまがいの以心伝心の背景にはベームの極めて微妙な指揮棒の動きがあった。楽員たちは常に彼の指揮棒を注視しているのでどんな細かなクセも分かっていた。

したがってベームの思いが指揮棒に微妙に表出された途端、チェロ奏者が同時にその動きに無意識のうちに反応してしまったという説。


2 「以心伝心」偶然説

ベームは随分厳しい指揮者だったらしい。演奏中、鵜の目鷹の目で楽員たちのミスを見張っているので、若い楽員たちはそれにびびってしまう。

一度でもミスした犯人は決して忘れずいつも「ミスしたら承知せんからな」と言わんばかりに相手をにらみつけるので、よけい相手は不安になる。するとそれによってまた新たなミスを犯す危険が生ずる。

むずかしい箇所にさしかかると、ベームの顔が不安感で引き歪む。ほんらいならこういう箇所でこそ楽員たちに安心感を与えるべきなのだが、新入りの楽員たちは彼の顔つきにおびえて、ミスを犯す危険が絶えなかった。

それでますます指揮者は腹を立て、激しくわめき、罵りちらす結果になる。ベームは権威を保つことにこだわり、相手にやさしくすればすぐ付け上がると考えるタイプなのでそんな用心が演奏の最中に隠せなくなる。

ウィーンフィルの首席チェロ奏者ヘルツァーが新入りのときの始めての練習で例によってべームからいびられ(ベームは新入りをいびる癖があった)、何と同じ箇所を11回も演奏させられたという。

12回目になるとこの箇所を一緒に弾かねばならないヴィオラ奏者がまず抗議した。ヘルツァーの隣のチェロ奏者もこの嫌がらせに文句をつけた。するとベームはかんかんになってピットから出て行ったという。(「指揮台の神々」より)

こういう風だから指揮者と演奏者の間に「以心伝心」が成り立つはずもなく、演奏者側の単なる言い訳に過ぎない説。

結局、最終的な真実のありようは不明だが、こういう「以心伝心」まがいの深い信頼関係が楽員との間に結べる指揮者として思い浮かぶのは、古今東西を通じてあの「フルトヴェングラー」ぐらいではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c8ff948791fe853905769e512f1e7c50

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