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(回答先: 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 23 日 11:15:03)
ウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史をずっと隠し続けている
レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコンサート」批判(前編)
by funapee on 1月 9, 2015 • 1:15 AM
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ/
『巨匠神話』や『だれがクラシックをだめにしたか』などの著書でお馴染みのロンドンの音楽評論家、ノーマン・レブレヒト氏が、昨年11月から今年1月頭にかけて、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートについて自身のブログで痛烈に批判している。歯に絹着せぬ発言を連発するお騒がせジャーナリストのレブレヒト氏だが、今回は今までにない程にブログのコメント欄が荒れており、しかも反対意見に対しては真っ向から対決姿勢を見せるなど、大変に清々しい態度を取っている。さすが、強固な信念を持っていらっしゃる、音楽評論家の鑑だ。
厳密には、ニューイヤーコンサート批判というよりも、もっと大きくウィーン・フィル批判なのだが、この際どちらでも良い。僕がここで彼の言説を取り上げ紹介したい理由は、彼はウィーン・フィルというオーケストラを題材にして非常に難しく且つ重要な文化問題・社会問題を扱っているからであり、また日本という国は信じられないほどウィーンの音楽を愛し、憧れ、崇敬する国であるにもかかわらず、この話題があまり取り沙汰されていないからだ。僕自身もウィーン・フィルの音楽が大好きで、ウィーン現地でも来日公演でも聴いているし、オーケストラから楽団員伝統の室内楽まで幅広く録音を愛聴している。そのどれもが美しい音色で心揺さぶる音楽であることは確かだ。ではレブレヒト氏は一体何をそんなに批判しているのかというと、「ウィーン・フィルは人種差別主義、女性差別主義、エリート主義、意地悪で卑劣なウィーン気質を、ニューイヤーコンサートという世界中のテレビを盛り上げる楽しい番組を使って隠蔽しようとしている」というのだ。
事の発端は、メータが指揮する2015年のニューイヤーコンサートのプログラム変更から。日本では毎年恒例元旦の夜にNHKで放送されるこのコンサート、今年もご覧になった方も多いと思うが、シベリウスの楽曲は演奏されていなかったはずだ。レブレヒト曰く、ウィーン・フィルは、本当はシベリウス生誕150周年のアニバーサリーイヤーの皮切りに、ニューイヤーコンサートでシベリウスの「悲しきワルツ」を演奏する予定だったらしい。しかし、ヨーロッパの著作権事情(死語70年らしい)を失念していたウィーン・フィル側が、多額の権利料を支払わなければならないことを理由に楽曲の変更を決定。これもあくまでレブレヒト氏のブログがソースだが、同じ北欧の音楽基金団体からがっぽりお金を貰って懐を温めているくせに、シベリウスの権利団体に支払うのをケチっておいて、当のオーケストラ側は「誠に残念ながら、著作権の関係でプログラムの変更を余儀無くされました」というアナウンスを出したとのこと。クラシック音楽界の情報通レブレヒト氏は、どこかから仕入れてきたこの狡いやり方を聞いて大激怒。「恥を知れ」とウィーン・フィル批判記事をアップしたのが11月17日のことだ(元記事→False triste as mean Vienna Philharmonic blanks out Sibelius)
そんなレブレヒト氏が、本腰を入れて批判に取り組んだものが、英Spectator誌に寄稿した記事、“The Nazi origins of the Vienna Phil’s New Year’s Day concert” (ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートはナチス起源)だ。この記事はなかなか興味深いので、関心のある方はぜひ元記事を読んでいただきたいのだが、要はウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史を持っているが、それをずっと隠し続けている、という内容だ。以下にレブレヒト氏の意見や史実をまとめてみたので、ご一読いただきたい。
時はナチス政権下、ヒトラーがウィーンに来るとなった際、ウィーン・フィルはユダヤ系と左派の奏者を解雇したという事実がある。マーラーをはじめ多くの音楽家をウィーンから追放して、また名指揮者カール・ベームに勧められるままオーストリア併合に賛成の意を示し、ナチスの文化的粛清に大いに寄与したのだとレブレヒト氏は語る。氏はカール・ベームについて、指揮者としては素晴らしいものを持っていることを認めているが、その思想や人格においては決して立派な人物ではなかったと考えているようだ。当時のコンサートマスターでロゼー四重奏団のリーダーとしても名高いアルノルト・ロゼーも、オーストリア併合後すぐにウィーン・フィルを追放されているし、多くの才能ある音楽家がウィーンを去ることを強要されたのである。
オーストリア併合後、ウィーンは一地方都市ということになり、オーケストラの権威も喪失の危機に陥った。ナチスのウィーン大管区指導者である政治家シーラッハは、ウィーンを芸術の都として存続させようと様々な優秀な音楽家をウィーンに招聘することに努めた人物でもあるが、同時にウィーンから大勢のユダヤ人を追放した人物でもある。多くの音楽家たちがシーラッハに媚び諂い、また多くのユダヤ人音楽家がシーラッハによって収容所に送られ、殺された。そんなシーラッハが1939年12月31日に戦争資金のためのチャリティーとして開催したのがシュトラウス・ファミリーの音楽を演奏するコンサートであり、後に1月1日に行われニューイヤーコンサートとなったのだ。初回からしばらく指揮を務めたクレメンス・クラウスはナチスに反抗しなかった指揮者として有名であり(後年になって当時のナチスに対する態度を振り返って後悔したらしい)、1955年から、ナチスとは無関係のウィリー・ボスコフスキーが指揮をするようになった。
ウィーンのユダヤ人追放に関与した政治家、バルドゥール・フォン・シーラッハ
こうしたウィーン・フィルとシーラッハに関する事実などは、近年、歴史学者ハラルド・ヴァルザーが明らかにするまで、ずっと隠し通されていた。ウィーン・フィルのユダヤ系メンバーがナチスによって収容所に送られ殺されているのに、ウィーン・フィルは彼らの慰霊をすることもなく、しかも戦犯であるシーラッハにオーナーリングまで贈呈しているとヴァルザーは指摘したのだ。シーラッハ以外にも、オランダで大量のユダヤ人を収容所送りにしたオーストリアの政治家ザイス=インクヴァルトや、アウシュヴィッツまでユダヤ人を送り込んだドイツ国営鉄道のトップなども、ウィーン・フィルのオーナーリングを授与されている。彼らへのリングの授与が取り消しになったのは2013年になってからのことだ。もちろんこうした指摘に対して、ウィーン・フィル側はナチスとの関連を否定するコメントを出している。
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ/
レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコンサート」批判(後編)
by funapee on 1月 9, 2015 • 1:35 AM
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ-2/
ウィーンという街は独特の雰囲気がある。伝統を守ろうとする意志、古いもの・古いスタイルを変えないようにする気持ちが強く、それに誇りを持っている。日本で言えば京都のようなものだ。僕はそうした伝統に憧れや尊敬の念を抱くし、そういった部分が鼻に付くと感じる人がいることも理解できる。「体裁よく」「見栄え良く」という言葉が似合う。それがアイデンティティだし、オリジナリティだし、だからこそ美しい街なのだろう。
19世紀後半のウィーンで流行したシュランメル音楽の代表曲、“Wien bleibt Wien”(ウィーンはいつもウィーン)というものがあるが、これは正しくウィーンという街のモットーを言い表している。歴史が流れ、暗黒の部分が洗い流されたとしても、よくよく見れば根っこは何も変わっていないとレブレヒト氏は言う。良い意味でも悪い意味でも、それがウィーンなのだ。ニューイヤーコンサートの客席にいるのは財界人の要人やセレブたち。今テレビで見ることができるこの客席の様子は、ナチス政権下だって同じだったはずだ。レブレヒト氏は、カール・ベームがよく語っていた言葉を引用している。「ナチスもそんなに悪くはない。彼らは政治から女性を排除しようとしているだけだ。」きっと今のウィーン・フィルのメンバーも同じように思っているのではないか、「男の世界」では女はすっこんでろ、という考え方が変わらずに残存しているのではないかと、氏は勘ぐっているのだ。
アジア人音楽家の冷遇や世襲主義なども挙げられるが、レブレヒト氏が最も気に入らないのは、ウィーン・フィルの女性差別問題である。ニューイヤーコンサートの放送を見ても、女性楽団員はほんの数人しかいない。130名近くの団員がいて、女性は7名。ウィーン・フィルは平等なオーディションで決めていると主張しているが、世界中のどのオーケストラと比べても少ない。ヨーロッパでも、もちろんオーストリアでも女性差別は禁止されている。にもかかわらず、だ。レブレヒト氏が1月1日に年始早々更新したブログ記事には、「今日のウィーン・フィルに女性が何人いると思う?」という内容で、ニューイヤーコンサートのステージにはたった5人しかいない、これがこのオケのDNDに書き込まれた差別主義だ、と痛烈に批判(元記事→How few women in today’s Vienna Phil?)。これに同意するアンチ・ウィーン・フィルの人たちを中心に、対立意見なども含めて、コメント欄が大いに盛り上がった。来年のニューイヤーコンサートの指揮者がマリス・ヤンソンスだと発表されたことについても、1月2日に記事を更新(元記事→Why don’t conductors do something?)。レブレヒト氏はヤンソンスにも、今までの指揮者に要求したのと同じように、少なくとも10人の女性がコンサートに出るように要求するつもりだと語っている。今までも指揮者にそういう話をしたことがあるが、皆お茶を濁すばかりだったとのことだ。音楽的に影響力を持つことのできる指揮者でさえ、ニューイヤーコンサートについては皆「伝統」の前に単なるタイムキーパーとマスコットに成り下がるのだという。
こうしたニューイヤーコンサートについての記事が思いのほか大きな話題となり、レブレヒトのブログ編集部が更新した記事が“Slipped Disc editorial: Discrimination is wrong, right?”(差別は悪か正義か)というかなり挑発的な題の記事である。そんなもの悪に決っているだろうが、「文化」というものを考えたとき、どこまでそれを断罪し、どこまでそれを是認するべきかは、意見の分かれるところだろう。いかに音楽が良くても、その音色が甘美でも、悪は悪だ、差別主義者はこのブログを読む必要なし、と強気のレブレヒト氏。ニューイヤーコンサートの甘い誘惑に惑わされていたら、ウィーン・フィルの差別体質は変わらないのだと、レブレヒト氏は手厳しい意見を世に放った。
ウィーンから追放されたマーラーは「伝統とは怠惰だ」と語った。独特の音色が受け継がれるウィーン・フィルは、一種の伝統芸能と言っていい。日本の伝統芸能、例えば歌舞伎や相撲だって、ほとんど男の世界である。僕は歌舞伎に詳しい訳ではないが、出雲の阿国は女性だし、今でも女性歌舞伎の復活をと声を上げている人たちもいるようだ。国技と言われている相撲も、スポーツとしては女子の相撲もあるようで、時々テレビで特集をしているのを見かけることがあるが、神聖な土俵に女子が上がることなど許せないという意見を言う人もいる。このあたりの線引は難しいところだろう。古い建築を残す街、「古き良きもの」を残すヨーロッパの文化の中で、古典芸能が保守寄りになるのは至極当然な気もするし、かといってあらゆる差別が許される時代ではもうとっくになくなっているのだ。レブレヒト氏のようなある意味でお騒がせな、影響力のある人物が、どちらかに偏った意見を堂々と語るのは、文化にとってもヒューマニティにとっても大きな事件である。
レブレヒト氏は、「シュトラウス・ファミリーの音楽における甘ったるく絹のようななめらかさ、そして皮肉なことにマーラーの音楽の超然たる様はウィーン・フィルの他に表すことはできない」と語っている。このオーケストラが今のスタイルを変えれば、得られるものもあるだろうが、失うものの大きさも計り知れない。
http://bokunoongaku.com/music/レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコ-2/
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