>土偶は近親相姦による先天的障害児を象った(つくる会元会長・田中英道) 土偶もそうですが、アフリカ、ニューギニアやアメリカ・インディアンの異形の仮面や彫像はすべて死霊や先祖の あの世での姿を描いたものです。
生きた人間を写実的に表したものではありません: 西洋や東洋の美術が到達し得なかった高みに達している「作品」
北極や南極のような人が住んでいない雪や氷の世界で仕事をすることが多い私だが、そのため、無性に人恋しくなることがある。
それゆえにか、集めているのがアフリカの各部族が祭事のために彫った木彫の仮面だ。これらの仮面は観光客用に媚びを売っている土産ではない。自分たちの祭事に使うための魂がこもっている。そして、これらの仮面は、西洋や東洋の美術が到達し得なかった高みに達している「作品」だと私は思う。 たとえば、写真一を見てほしい。これはアフリカの西海岸に近いサハラ砂漠の内陸国、マリの面だ。これほど憂愁に満ちた表情を持つ仮面は、日本の能面を含めて、世界でもめったにあるまい。作った人にとっては宗教的なものに違いないが、この憂いの深さは、例えばジャコメッティをほとんど凌ぐほどの芸術に見える。緑と黄色の耳飾りの華やかさと憂愁のコントラストが見事だ。 仮面の高さは24センチ。この仮面は木彫だが、木の上に薄い真鍮板を被せ、夥しい数の、丸い頭の釘で留めてある。これは、同国に住むマルカ部族の仮面の特徴である。 じつは、アフリカの国々は、いまはたまたまひとつの国になっていても、そこに住む部族は、人種も文化も違うことが多い。フランス、英国、オランダ、ベルギーなどかつての列強である文明国の、いわば勝手な都合で、それぞれの国にされてしまったのである。 このため、たとえば象牙海岸(コートジボアール)ひとつとっても、何種類もの違う種類の仮面がある。これはそれぞれの部族によって作る仮面がまったく違うからである。それゆえアフリカの西海岸の部族の仮面と東海岸のそれとは、まったくの別物である。 フランス・パリの市内、新オペラ座の近くの裏町にあるピカソ美術館には、ピカソの描いた作品だけではなく、ピカソ本人が収集した絵や彫刻も飾ってある。これらにはピカソと親交があった画家の絵のほか、アフリカの木彫もある。動物とも人間ともつかない原始芸術風のアフリカの木彫もある。これらアフリカの木彫から、彼が芸術のインスピレーションを受けていたことは間違いがあるまい。 写真二は同じマルカ族の、二本の角が生えた男の仮面である。角(つの)も木製の芯が金属板で丁寧に覆われている。製作の基本的な手法は写真一のものと同じだが、真鍮板を留めている釘の数は、こちらのほうがずっと少ない。写真一が釘の配置と数で表現している肌の質感を、こちらはまるで彫金のような真鍮板のディテールで表現している。 この写真二の仮面が表そうとしているものは、西洋美術のジャコメッティが指向したものと遠くないように見える。くぼんだ眼窩と小さな口。デフォルメと簡略化と、そして必要なところは強調しているというバランスが絶妙である。 写真ではちょっと見えにくいかもしれないが、両方のこめかみと、そこから下がった真鍮の長いもみあげの先に深紅のリボンが、合計四ヶ所に着いている。これらは、写真一と同様、金属の面に鮮やかな彩りを添えている。 これは、兜を被った戦士の面ではないだろうか。部族のための闘いに赴く戦士の憂愁を表しているように見える。仮面の高さは39センチと、かなり大きなものだ。 写真三は象牙海岸の女性の仮面だ。アフリカの仮面には比較的柔らかい木に彫って彩色したものも多いが、この仮面には彩色はない。その代わり、とても硬くて目が詰んだ木で、細部までじつに精密に彫られている。とくに頭髪の彫刻は細かい。彫るのには大変な手間がかかったに違いない。
この仮面は、私には貴婦人の面に見える。みごとに鼻筋が通り、目が大きい。頬も唇も豊満だ。両眉が繋がっているのが不思議に見えるかもしれないが、これは象牙海岸の仮面の特徴である。 美しいばかりではない。この仮面は、見る角度によって微妙に表情を変える。この写真の角度より、少し下から眺めると、ずっとふくよかで、もっと穏やかな顔になる。 表情の品の良さ、穏やかさ、見える角度によって変える表情は、すぐれた日本の能面を凌ぐ出来栄えだと思う。仮面の高さは38センチある。 ここでは私の集めた仮面全部を掲げる紙数はないが、なかにはジョアン・ミロ風のとぼけた丸顔も、穏やかな笑顔も、道化も、また、まるで秋田のなまはげのような怪奇な仮面もある。興味のある方は「魂の詩(うた)」と名付けて私のホームページ(http://shima3.fc2web.com/african-masks/)に、そのうち二十数個を公開しているので、ご覧いただきたい。 私は、これらの仮面を西欧各国の蚤の市で買うことが多い。日本と違ってアフリカ美術は彼の地では美術品のジャンルのひとつになっていて、専門の店や画商のところに行けば、驚くほど高い値段で、白人たちが売っている。 しかし、この高い価格が、製作者や、画商以外の流通に関与した人たちに還元されていることは到底、考えられない。一種の搾取というべきだろう。 しかし、道端で開かれている蚤の市では、仮面を作った人たちの後裔が、他の部族の面も並べて売っている。値段も、画商と比べれば、びっくりするくらい安い。いまのアフリカの国名ではこれこれだが、じつは部族にはこれとこれがあり・・、と言った詳しい話や由来を聞かせてくれる。しかし他の部族についてはほとんど知らないことも多い。 だが、自分や一家が欧州に来た顛末を話してくれたり、一緒に売っている民族楽器を驚くほど器用に奏でてくれたりする。 ヨーロッパとアフリカの結びつきは長くて深い。第二次世界大戦前には、多くの西欧の国がアフリカに植民地を持っていた。戦後、それぞれの植民地は独立を果たしたが、それまでの歴史の影響がいまだに強く残っている。たとえば、一般的にアフリカ西海岸の国々はフランス語、東海岸は英語が通じるのもその影響のひとつだ。 私がつきあっている西欧の知識人の心には、アフリカに対する原罪という底流が流れている。それなりの文化を持っていたアフリカを、植民地として収奪して蹂躙してしまっただけではなく、現在に至るまで貧しくて病気も多く、安定しない状態にしてしまったという贖罪意識なのであろう。 私の専門である地球物理学からいえば、そもそもアフリカには大地溝帯という大地の割れ目が走り、世界の他の地域よりはずっと高い地熱がある。ここは大陸プレートが割れていずれ大西洋のような海が誕生しようとしているところだ。この地球の息吹は少なくとも数百万年、つまり人類の誕生以前から続いている。 地球上で最初の人類が発生したのがこのアフリカだ。また、地球上でプレートが陸上で誕生しているのはここだけだ。この二つに関連があるのかないのか、いまだ解けぬナゾとはいえ、なにかの関連を思いながら、遠い昔に思いを馳せさせてくれる仮面なのである。 http://shima3.fc2web.com/sibusawazaidan55.htm 魂の詩・アフリカの仮面
私が持っているアフリカなどの面(マスク、 仮面、African Mask、African Art)をご紹介します。なお、これらを作った「部族 tribes」と今の「国」とは1対1に対応しているわけではなく、また今の国境を越えて同じ部族が住んでいることも珍しくありません。アフリカの国々の国境線は、かつての植民地争奪戦や国際政治の力学によって押しつけられたことも多かったわけですから。 19世紀末以前のアフリカでは、欧州列強の植民地は大陸全体の約10%にしかすぎませんでした。 しかし、アフリカの分割は、1884年のベルリン列国会議から1914年に勃発した第一次世界大戦にかけて、アフリカは欧州列強に分割されていき、ほぼ全域が植民地となってしまったのです。 そして、その影響は、多くの国が独立を果たした現在でも、色濃く残っています。 1-1:マルカ部族(いまのマリ)の真鍮でカバーした木製の「憂いの面」
華やかな耳飾りの陰で、この憂いの深い顔には、どのような感情が込められているのだろう。戦の憂いだろうか。 木製の面の上に、薄い真鍮板を張り付けて、おびただしい数の丸い頭の釘で留めている。これは マルカ(MARKA)部族 (WARKAとも書く)の面の特徴である。 このマルカ部族は、マンデ(Mande)部族の一部だと思われており、マリから象牙海岸にかけて暮らしている。下の西アフリカ内陸の部族分布図にはWarkaと書かれている。人口は知られていない。 バンバラ(Bambara)部族(下の部族の地図の中央部にある)とは別の部族だが、Bambara部族の強い影響を受けているという。また、5-2のセヌーフォ(Senufo)部族とも近くで暮らしている。 (高さ24cm。2001年、フランス・パリ、 レピュブリーク大通りのアフリカ民芸店の地下で買う) --------------------------------------------------------------------------------
1-2:マルカ部族(いまのマリ)の、真鍮でカバーした木製の「戦士の面」
上の1-1と同じように、木製の面の上に、薄い真鍮板を全面に張り付けて、丸い頭の釘で留めている。 角も木製の芯が金属板で丁寧に覆われている。製作の手法は上のものと同じだが、釘の数は、こちらのほうがずっと少ない 。 西洋美術でいえばジャコメッティだろうか。デフォルメと簡略化と、そして必要なところの強調のバランスが絶妙である。 見えにくいが、両方の額と、そこから下がった髪の先に赤いリボンが、合計4ヶ所に着いている。 これは、戦士の面ではないだろうか。 (高さ39cm。1991年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
1-3:マルカ部族(いまのマリ)の真鍮でカバーした木製の「鳥の全身像」
では、このマルカ部族が、仮面以外のものを作ったら、どのような才能を発揮するのだろう。 抽象化された、しかし気品のある頭部や嘴、厚い胸、ピンと張った翼。背の高さ。これも、ジャコメッティなのである。あるいは、それを超えているかもしれない。 これはブルキナファソで昔から多く食用にされてきているホロホロ鳥にちがいない。ハゲタカやワシのような猛禽類ではあるまい。 左下の写真は、ホロホロ鳥の骨格標本である。マルカ族の鳥の立像が、身体の特徴をきちんと捉えながら、「芸術表現」としての抽象化が見事になされているのが見て取れよう。 また、抽象化された頭部の中でも、嘴の根元にある鼻の穴も表現されているなど、この鳥を良く知る者だけが表現できるディテールも盛り込まれている。 木製の像の上に、薄い真鍮板を全面に張り付けて、丸い頭の釘で留めている。両足で丸い石をしっかり抱えて立っている全身像である。 なお、ホロホロ鳥は、15世紀くらいから欧州でも食用にされ、フランス料理では美味な鳥として知られている。しかし、この鳥が部族の人たちにとって貴重な蛋白源であるのとちがって、フランス人にとっては、飽食の果ての贅沢な材料なのである。
なお、この鳥のモチーフは、マルカ部族にかぎらず、周辺の多くの部族の仮面にも使われている。しかし、このように金属をかぶせているのではなくて、木彫である。 (高さ40cm。2000年、フランス・パリ北東部の路上の、その日かぎりの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
2-1:バウレ部族(象牙海岸)の木製の「ミロの面」
同じ象牙海岸でも、部族が違うのだろう。これは、まるでジョアン・ミロの世界である。眼とその表情も、口も、そして顔の輪郭も、どれもすさまじい表現力である。 木製の面に、要所だけ彩色されている。 これは象牙海岸の中央部に暮らしているバウレ BAULE部族(BAOULE, BAWULEとも書く)の仮面だ(下の部族の分布図参照)。 バウレ部族はBaule (Akan cluster of Twi)語を話す部族で、人口は40万人といわれている。約300年前にAsante部族(6-1)に西に追われて、いまの地に落ち着いた歴史を持つ。 バウレ部族の木彫りの仮面は、近くに住むセヌーフォSenufo部族(5-2)やグーロ Guro部族(2-3)の仮面に影響されているものもある、といわれている。しかし、この「ミロの面」は独特のものだ。 (高さ46cm。頭の上に、大きな木の輪が着いている。2001年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市で買う)
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2-2:同じバウレ部族(象牙海岸)の「貴婦人の面」
上の2-1と同じバウレ族が、まったく違う仮面も作る。これも木製の面だが木質が違い、表現はもっと違う。鼻筋が通り、目が大きい。 彩色はないが、とても硬くて目が詰んだ木で、細部まで精密に彫られている。とくに頭髪の彫刻は細かい。 この面は、見る角度によって、微妙に表情を変える。この写真の角度より、少し下から眺めると、ずっとふくよかで、もっと穏やかな顔になる。 この、角度によって表情を変えることや、彫りの品の良さは、日本の能面を凌ぐほどの出来栄えである。 (高さ38cm。2001年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
2-3:隣のグーロ部族(象牙海岸)の「道化の面」
この木製の仮面は、徹底して道化ぶりを発揮している。部族を纏めるためには、このような役割が必要であったに違いない。 あでやかな彩色がされている。口のまわりが、なんとも言えない表情を醸し出している。 頭の上に、頭を前に傾げて面を突つこうとでもしている鳥の全身像を背負い、またアゴの下には、面を支える取っ手だろうか、出っ張りが着いている。 日本の能面にも、頭の上に鹿の角をつけているものがある。一角仙人である。しかし、角は本来、鹿の頭に着いているものだから、このアフリカの面の鳥のように「異物」が着いている異様さはない。 この仮面はグーロ(GURO)部族(GOURO, GWIO, KWENI, LO, LORUBEとも書く)のものだ。グーロ部族は象牙海岸の南部に住み、上のバウレ部族の西、セヌーフォ部族の南に、ほとんど隣接している(上の2-1の部族分布図を参照)。人口は約20万人を擁している。 グーロ部族は、もともとはクウェニ部族と自称していた。しかし、196年から1912年にかけて、侵略してきたフランスに強制的に植民地化されてバウレ部族が呼びならわしていたグーロ族という名前に変えられてしまった歴史を持っている。フランスに限らず、欧州各国は、アフリカで暴虐のかぎりをつくした。彼らの心の底には、いまでも原罪意識が流れているのは、その歴史と無縁ではない。 (高さ32cm。2000年、フランス・パリ北東部の路上の臨時の蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
2-4:これはヨフレ部族(象牙海岸)の「怒りの面」
これも上の赤い面と似た木製の面だが、上のと同じ赤い色ながら、一転、口をへの字に結んだ険しい表情をしている。目も、頬のバツ印も、四角い鼻も、上の道化とは対照的である。 しかし、対照的に、四角く抽象化された耳と、左右がつながった眉だけは、まるで、しきたりでもあるかのように、微妙に違いながらも、よく似ている。しかし、そのつながった眉は、鼻と離れている点で、バウレ族の仮面(2-2)とは違っている。 これも、頭の上に鳥の全身像を背負っているが、その鳥は顔を真正面に向けて凛としている。またアゴの下には、面を支える取っ手の出っ張りが着いている。 上の面と同じように、木製の面に彩色をしてあるが、上の3-2の、のっぺりした絵の具の塗装とはテクスチュアも色合いも違った、別の表現手法である。 この仮面は、上と同じグーロ部族のものかもしれないが、表現が少し違うところから、多分、ヨフレ(YOHURE)部族 (SNAN, YAOURE, YAUREとも書く)の仮面ではないかと思われる。 ヨフレ部族は象牙海岸の中央部に住む、人口2万人という小さな部族だ(上の2-1の部族分布図を参照)。地理的にも、東にバウレ部族、北と西にグーロ部族が住んでいて、文化的にも言語的にも、この二つの影響が強いという。それゆえ、仮面も似ているのであろう。 長細い顔の上に動物を組み合わせる仮面、そして突き出した口は、このヨフレ部族の仮面の特徴である。 (高さ49cm。2001年、フランス・パリ中央部の路上の臨時の蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
2-5:ダン部族(象牙海岸)の穏やかな「少女の面」
これも象牙海岸の木製の面だが、上のと違って、自然の硬い木の肌のままで、彩色はしていない。 眉の形に、バウレ部族やグーロ部族が作った上の象牙海岸の3つの面(2-2, 2-3, 2-4)との共通点がある。 しかし、鼻との連続に、微妙な違いもある。 これはダン( DAN)部族 (DAN-GIOH, GIO, GIOH, GYO, YACOUBA, YACUBA, YAKUBAとも書く)が作ったものだ。ダン部族は、象牙海岸の比較的南部、グーロ部族の西に住む(上の2-1の部族分布図を参照)。一部は隣国リベリアにも住む。 人口は35万人ほどで、Dan (Mande)語を話す。19世紀までは、中央政府を持っていない部族だった。政府らしきものが出来たのは、比較的最近である。 しかし、この仮面は、なんという穏やかな顔だろう。 あるいは永遠の眠りについた死に顔なのだろうか。 画家のアメデオ・クレメンテ・モジリアーニ(モジリアニ。Amedeo Clemente Modigliani, 1884-1920)は、アフリカの仮面に大きな影響を受けた。影響されたのは、たぶん象牙海岸あたりの仮面だと思われているから、このような仮面だったのかもしれない。 しかし、ある意味では、魂の叫びという面では、モジリアニといえども、アフリカの原始美術を超えられなかったのではないだろうか。 (高さ22cm。1991年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
3-1:ガボンのプーヌー部族の木製の「東洋人の面」
ガボンの木製の彩色面。鮮やかな彩りだ。 黄色い肌、細い眼。低くて丸い団子鼻。アフリカの人の面ではないだろう。 私には東洋人を模したものに見える。 頭の上に、嘴をこの顔に向けた鳥の全身像を背負い、またアゴの下には、面を支える取っ手だろうか、出っ張りが着いている。 この仮面はプーヌー(PUNU) 部族(APONO, BAPUNU, MPONGWE, PUONOU, PUNOとも書く)のものだ。額(おでこ)についている菱形の特有の模様が、このPUNU族特有のものなのである。 PUNU族はガボンの南部とコンゴに住む(下のガボンからザンビアまでのアフリカ中西部の部族の分布図参照)。Punu (Bantu)語を話し、部族は約40000人しかいない小さな部族だ。 しかし、この部族がどこから来たか、どんな宗教的な歴史を持っているかは、あまりわかっていない。 (高さ34cm。2001年、フランス・パリ中央部の、路上の臨時の蚤の市で買う。次の日には、影も形もない露店である。) --------------------------------------------------------------------------------
4-1:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のレガ部族の「白人の面」
穏やかな、見方によっては無表情な木製の面。口の表情が特異である。 アフリカの面の中でも、この面が特異なのは、白く塗られていることだ。白人を模したものであろうか。 これはレガ(LEGA)部族(BALEGA, BALEGGA, REGA, WALEGA, WAREGAとも書く)が作った仮面だ。 レガ部族はコンゴ民主共和国(旧ザイール、コンゴ共和国の東隣)の東部、つまりアフリカの大地溝帯やタンガニイカ湖の近くに住む部族だ(上の3-1の部族の分布図を参照)。 人口は10〜25万人と、比較的小さい部族だ。 じつはカメルーン・ガボン・コンゴ共和国(コンゴ民主共和国の西隣の別の国)が国境を接する近くに住むクウェレ(KWELE)部族(BAKWELE, BEKWIL, EBAA, KOUELEともいう。3-1の部族分布図を参照)も、同じような白くて平板な顔の仮面を作っている。しかし、眉から鼻へのつながりが、このレガ民族のものとは、やや違っている。 なお、KWERE部族は東アフリカ、タンザニアに住む人口5万人ほどの小さな部族で、KWELE部族とは別の部族である。 (高さ26cm。1994年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
4-2:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のルバ部族の「ひょっとこの面」
彩色した木製の面。上の象牙海岸の道化の面と同じような用途で使われたものだろうか。 口は真四角で、顔中に皺(あるいは装飾)がある。鼻翼の表現が独特だ。 この仮面は、たぶんルバ(LUBA)部族 (BALUBA, KALUBA, LOUBA, URUWA, WALUBA, WARUAとも書く)のものだ。コンゴ民主共和国(旧ザイール、コンゴ共和国の東隣)の南東部、つまりアフリカの大地溝帯の近くに住む部族である(上の3-1の部族の分布図にLUBAとして出ている)。上の4-1のレガ部族よりは、南に住んでいる。 その北に住むソンギエ部族(SONGYE。その他 BASONGE, BASONGYE, BASSONGO, BAYEMBE, SONGE, SONGHAY, WASONGAとも書く)も、この仮面とやや似た、四角いひょっとこ口の仮面を作っている。顔中に皺(あるいは装飾)があるものもある。しかし、顔の形がデフォルメされているものが多く、このルバ族のものほど、丸と四角の形が単純ではない。 このルバ部族は100万人ほどいる、大きな部族だ。16世紀から19世紀にかけてルバ帝国を作り、領土を拡大していった、しかし、その後欧州列強によって没落させられてしまった。一方、ソンギエ部族は16世紀にこの辺に移住してきた部族で、現在15万人ほどいるといわれている。ルバ部族はCiluba (central Bantu)語を話すが、ソンギエ部族は KiSongye (Bantu)語を話す。 世紀末を彩ったウィーンの画家、グスタフ・クリムト(1862-1918)は56歳でなくなったが、その晩年、時代から取り残される自分を強く感じていた。そして、1914年にブリュッセルを訪れたクリムトは、そこで(当時の)ベルギー領コンゴのアフリカ美術を見て、いたく感心したと伝えられている。「彼らは独自の造形で我々よりはるかに多くのことが出来る」と述べたという。しかし、アフリカ美術から影響を受けて、新しい境地を開拓するための時間は、もう、クリムトには残されていなかったのであった。 (高さ17cm。1996年、英国・ロンドンのカムデンロックの蚤の市で買う。店の白人の主人は、しょっちゅう、アフリカに買い付けに行っているので、この面は留守番役の奥さんから買った。) --------------------------------------------------------------------------------
5-1:カメルーンの「部族長の面」
表情を表す、というよりも、手の込んだ細工で威厳を表しているように見える木製の面。鎖風の金属を、ごく硬い木の表面に埋め込んだ、恐ろしく手間がかかったに違いない面である。 顔の周りには髭を模したものだろうか、縄が廻されている。 この仮面を売っていたアフリカ系の男によれば、この仮面はカメルーンから来た、部族はわからない、ということだった。 しかし、いまのところは、この仮面は、そもそもカメルーンかどうかも謎である。しかし、たとえばカメルーンのチカール(Tikar)部族は、いくぶん似たような仮面を作っている。 アンゴラ東部、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の南部、そしてザンビアに広くまたがって住んでいるチョクウェ(CHOKWE)部族(人口110万人を超えるというこの部族は、住んでいる地域が広いせいか、(BAJOKWE, BATSHIOKO, JOKWE, TCHOKWE, TSHOKWEなど、少なくとも30の別の書き方があるという)の仮面には、この硬い木や、顔を覆う縄など、似たところがある仮面が多い。しかし、これほど手の込んだ細工はない。 またダン(DAN)部族(2-5)も、この面に似ていなくもない仮面を作っているが、やはり、この精緻さにはかなわない。 (高さ40cm。1999年、フランス・パリ南部のバンブの蚤の市の「場外」(本来の市としては許されていない場所での露店)で買う) --------------------------------------------------------------------------------
5-2:セヌーフォ部族(象牙海岸など)の「女性を背負った面」
この表情は、笑っているのか、泣いているのか、私には読めない。口の表情も独特のものだ。 もちろん、ほかのアフリカの面と同じく、目のところは、このように細いものでも穴が開いていて、面を被ったときに前が見えるようになっている。 頭の上に、顔を正面に向けた女性の裸の全身座像を背負い、また顔の八方には、この写真にも一部見られるような、複雑な、まるで花魁のような飾りが突き出ている。 面は木製で彩色していない。 上の5-1などとは違って、木としてはツヤのない木だ。 これは、象牙海岸の奥地に住むセヌーフォ(SENUFO)部族 (SENOUFO, SIENA, SIENNAとも書く)の仮面だ。セヌーフォの仮面には多くの種類があるが、どの木彫にも、じつにすぐれた能力が発揮されている。 セヌーフォ部族は1-1の西アフリカの内陸の部族(太字)の分布地図の中央部にある(2-1の地図にも、部族の位置が出ている)ように、いまの象牙海岸の奥地を中心にして住んできた部族である。部族の人口は60〜100万、比較的大きな部族だ。 セヌーフォ部族が住んでいるのは象牙海岸とはいっても、海岸からは、はるかに遠い。このほか、ブルキナファソ、ガーナ、マリなど広い範囲に住んでいる。i (高さ44cm。2000年、フランス・パリ、 レピュブリーク大通りのアフリカ民芸店の地下で買う) --------------------------------------------------------------------------------
5-3:タンガニイカ湖畔のベンバ部族の「顔が二つある面」
これも、ジョアン・ミロ風に見えなくもないが、私には、それを超えて、西欧の近代美術が到達できなかった高みの魂が作った面に見える。 パリにあるピカソ美術館には、ピカソの作品のほか、ピカソが収集した美術品やアフリカの木彫品が展示されている。木彫品には、面は少なくとも展示してはいなかったが、動物の立像などがある。 製作した人たちはそう思って作ったのではなくて、祭事に使うために作ったに違いない「アフリカの芸術」に、欧州の近代美術が、それなりに影響を受けたのは間違いがないだろう。 面は木製で彩色してある。不思議なことに、顔が二つあり、口はない。上の眼は安らかで、下の眼は、まるで慈しむような眼だ。鼻は上の顔にはあり、下の顔にはない。しかし、全体としてみると、不思議に、奇妙さも奇怪さもが感じられない。つまり、すぐれた美術品と同じなのである。 この不思議な仮面は、ベンバ(BEMBA)部族 (AWEMBA, AYEMBA, BABEMBA, BEMBE, WABEMBA, WEMBAとも書かれる)のものだと思われる。 ベンバ部族はザンビアの東北部からコンゴ民主共和国の南東部にかけてタンガニイカ湖の岸に住んでいる部族で、人口は6万しかいない(右の東アフリカの部族分布図、と3-1の図を参照)。部族の名前であるベンバ(あるいはBabemba)は「湖の人」の意味である。 小さい部族ゆえ、そして、あるいは戦いを好まなかった部族ゆえか、Lega(4-1), Buyu, Binjiといった周囲の部族と多くの習慣を共有してきている。 じつはタンガニイカ湖の北西部に住むゴマ(GOMA)部族(BAGOMA, BAHOMA, BENEMBAHO, HOMA, NGOMA, WAGOMAとも書く)も、全体の形や眼の表情が似ている仮面を作ってきた。しかし、彼らの仮面は、一様に、丸いおちょぼ口が突き出した、つまり日本のひょっとこのような口をしている。つまり、この口が仮面の表現にとって、大事な要素になっているのだ。それゆえ、この仮面とは違うものだと思われる。 (高さ37cm。2003年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
6-1:アサンテ部族(ガーナ)の「安産のお守り」
これは、見てきたほかの「面」とは違って、全身像の顔の部分のクローズアップである。 これは、安産のためのお守りである。現在のガーナに住むAsante tribe(アサンテ部族)が作ったAkua'ba doll (アクアバ人形)というものだ。 アサンテASANTE部族は、ACHANTI, ASHANTE, ASHANTI、とも書かれるが、いまでいえばガーナの中南部に、17世紀初めに作られたアサンテ帝国の生き残りの部族で、約15000人がいるといわれている。 全身像の形は、日本の埴輪に似たところもある。乳房だけが象徴的に突き出した、簡略化された胴体から下の像と比べて、顔の部分は大きく、また胴体が簡略化されているのと比べて、頭の部分は精緻に作られている。なお、丸い顔は美女の象徴であった。 像は比較的硬い木製で、彩色してある。 2-1 の地図(西アフリカの海岸部の部族(太字)の分布地図)で、ガーナの中南部、象牙海岸に近いところにアサンテ族という表記がある。 (高さ33cm。1996年、オランダ・アムステルダムのウォーターループレインの蚤の市で買う) --------------------------------------------------------------------------------
7-1:ナイジェリアの「少年の面」
この面には、まるでウサギのような尖って大きな耳が付いている。その耳から延びた布らしきものが、頬かぶりのように下りてきている。祭りごとなのか、戦に赴く姿なのか、どちらであろうか。 像は木製で、黒いのは地色である。 (高さ21cm。1992年、英国・ロンドンのポートベローの蚤の市の「場外」(本来の市が終わった先)で買う。一般には、昔の植民地の縁で、西アフリカのフランス語圏の国々から来た面はフランスに多く、東アフリカの英語圏の国々の面は英国に多い) --------------------------------------------------------------------------------
8-1:(出所不明の)「着飾った丸顔の面」
なんという鮮やかな飾りだろう。色とりどりのビーズのほか、まるで金箔のような三角形の飾りまで纏っている。アイシャドーも金色だ。 面は木製で、彩色してある。飾りは、象嵌細工のように、はめ込んである。 (高さ13cm。1992年、オランダ・アムステルダムの骨董屋で買う。昔の植民地の縁からいえば、西アフリカの国々から来たのかもしれない) GOMA (BAGOMA, BAHOMA, BENEMBAHO, HOMA, NGOMA, WAGOMA) --------------------------------------------------------------------------------
8-2:(出所不明の)「着飾った猿の面」
この面は、胸部まであり、全体は盾の形をしている。写真の左下に見えているが、首から下の衣装部分も精緻な造りになっている。 しかし、衣装が精緻に出来ているのと違って、顔の部分は、あまりにも落差が大きい。顔は真っ平らだし、眼は、単に丸い穴が開いているだけで、なんの表情も窺えないし、色も朱色一色で塗りつぶしてある。 口も、人間をかたどったにしては、形がへんだ。つまり、この面は人面ではなくて、猿か類人猿を表したものではないだろうか。 だとしたら、上の8-1の丸い面も、鳥の顔のようにも見えてくる。 あるいは4-2のザイールの面も、もしかしたら猿のような動物であろうか。 面は木製で、彩色してある。 (高さ35cm。1998年、フランス・パリ北部のクリニャンクールの蚤の市で買う。昔の植民地の縁からいえば、西アフリカの国々から来たのであろう) 9-1:パプアニューギニアの「おどけた面」 木製の仮面を作って祭事に使ったり、飾りにする習慣は、アフリカに限らず、世界中にある。
これは、パプアニューギニアの面である。パプアニューギニアは驚くほど多くの部族が独立に暮らしている「国」だから(それが「国として成り立つものかどうかはこちらを参照)、仮面も多岐に渡っている。 この面の表情は、悲しみや怒りではあるまい。驚愕でもなく、たぶん、上の1-6のような道化の面ではないかと思われる。一見不要なようだが、じつは部族にはなくてはならない役回しなのであろう。 この面は木製で彩色してある。面の表情も、絵の具の種類や塗り方も、アフリカの面とは、ずいぶん違う。木は、ごく柔らかい木だ。 (高さ40cm。1997年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う) --------------------------------------------------------------------------------
9-2:パプアニューギニアの「戦士の憂いの面」
この面は同じく木製だが、彩色はしていない。上の面よりは、ずっと硬い木だ。 眉間に刻まれた深い皺、高くてまっすぐ通った鼻、意志の強そうな口、それでいて憂いを含んだ眼。この面は戦士の面に違いないと、私は思っている。 (高さ46cm。1997年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う) --------------------------------------------------------------------------------
9-3:パプアニューギニアの「戦死者の面」
この面も柔らかい木を使った面だが、上のものと違って、鮮やかな彩色がされている。また、眼にはタカラガイがはめ込まれている。 パプアニューギニアの多くの部族は、顔にこのような色を塗って祭事を行っている。かつては頻繁に行われた部族の存続を賭けた闘いや、女性を取り戻すための闘いに赴いた姿である。この面にはめ込まれた貝の目は、死者の目に見えるが、違うのだろうか。 (高さ41cm。1996年、パプアニューギニア・ポートモレスビーで買う) --------------------------------------------------------------------------------
9-4:パプアニューギニアの「鳥人の面」
これはパプアニューギニアの本土の東北にある Sepik (セピック)川中流地方の Tambaum (タンバウム)村に住む部族が作った面である。 この鼻。この眼。見るものに恐怖心を与えるための面であろう。鳥をかたどった人というべきであろうか。パプアニューギニアの祭りも、鬼面人を驚かすような飾り付けや衣装が多い。ほとんど、秋田のなまはげの世界なのである。 (高さ39cm。1994年、ニュージーランド・ウェリントンで買う) --------------------------------------------------------------------------------
9-5:パプアニューギニアの「抽象芸術、その1」
パプアニューギニアにも、上の9-1や9-3のような大味なものばかりではなくて、上のアフリカの3-1や5-1のような細かい細工の木彫りがある。これがそのひとつの例だ。 全体のフォルム、眼のまわりの念の入った刻み、胴体や鰭の装飾。愛らしい唇。これは具象芸術を昇華した、ほとんど抽象芸術というべきものだろう。 パプアニューギニアの本土の東北に離れているニューブリテン島のラバウルで買った。比較的柔らかい木を彫ったもので、白いところには、貝がはめ込んである。 (長さ16cm。1996年、パプアニューギニア・ラバウルで買う) --------------------------------------------------------------------------------
9-6:パプアニューギニアの「抽象芸術、その2」
パプアニューギニアのカメの木彫。カメを知り尽くして、なおここまでデフォルメできるのは、芸術的な才能であろう。要所要所には、上の魚と同じように、7色に光る貝が埋め込んである。 上の魚と違って眼のまわりが素っ気ないわりには、足の付け根や尻尾の先には、念の入った刻みが施されている。一方、甲羅の模様は具象というよりは抽象だ。省くところは省き、必要なところだけは過不足なく表現している。 パプアニューギニアの本土の東北に離れているニューブリテン島のラバウルで買った。黒檀かマホガニーのような硬い木を彫ったものだ。なお、腹側(裏側)にはなんの彫り込みもない。 (長さ26cm。1996年、パプアニューギニア・ラバウルで買う) -------------------------------------------------------------------------------- 9-7:パプアニューギニアの「具象芸術」
しかし、パプアニューギニアの「抽象芸術」としての木彫りが優れているといっても、それは具象芸術としての「腕」が優れていないことを意味しているわけではない。 あたかもパブロ・ピカソが「青の時代」などに優れた具象的な作品を造ったあと、抽象芸術の花を咲かせたように、優れた具象芸術の腕があってこそ、抽象芸術が優れたものになるのであろう。 このワニはパプアニューギニアのラバウルで、私が滞在中に、現地の火山観測所の技官が半年間にわたった(海底地震計の)共同観測の餞別として彫ってくれたものだ。鼻の先から、尻尾の先まで(ワニの体長に沿って)60cmを超える大作である。 この木彫りには、ワニをふだんから見なれているものにしか分からないディテールまで、じつに細かく表現されている。リアリズムが凄い。そして、一方で、背中の模様などは、それなりに抽象化されているのが興味深い。 この種の「確かな木彫りの腕」が、パプアニューギニアには綿々と受け継がれている。その「腕」の上に、上の9-5や9-6のような具象的な木彫りが造られているのである。 (長さ43cm。1997年、パプアニューギニア・ラバウルで餞別として造って貰う) --------------------------------------------------------------------------------
9-8:フィジー諸島のワニ。これも具象芸術だが。
同じワニでも、南太平洋のフィジーで作られている木彫りは、パプアニューギニアのものとは、大分、違う。 この木彫りにも、ワニをふだんから見なれているものにしか分からないディテールがある。背中、腹、尾、脚。それぞれが忠実に表現されている。 しかし、パプアニューギニアのワニのような凄みのあるリアリズムは、ここにはない。殺すか、殺されるかの鋭い部族対立が続いていて殺伐としているパプアニューギニアとはちがって、南海の楽園というのにふさわしかったフィジーでは、木彫りのワニも、人間にとっての、よき「隣人」なのであろう。 しかし、最近のフィジーは、いろいろな問題が噴出している。世界のどこにも、楽園はなくなってしまったのであろう。 なお、このワニも、上のパプアニューギニアのワニも、腹側には雌の生殖器が彫られていることが共通しているのは興味深い。 (長さ37cm。体長は39cm。1973年、フィジー諸島スバで買う) 10-1:フィジー諸島の「王の面」(観光みやげ用の複製) これは、南太平洋のフィジー諸島の面。貝から取った白い模様を象嵌細工のようにはめ込んであるのは、海の民らしい細工である。 上のアフリカの面とは、唇も、目の「表情」も違う。なお、この面は王冠をかぶっている。強い意志を感じさせる唇を持ち、それなりに気高い顔をしているというべきだろう。 (高さ33cm。1973年、フィジー島スバで買う) 11-1:カリブ海ハイチの「あまりにも貧相な面」 アフリカの面も、そして多くの地域の面も、喜怒哀楽の感情を表したり、あるいは威厳を示したりするためのものに違いない。いわば、魂がこもっているのである。
しかし、この面は、それらの面と違って、なんと貧相な顔つきをしているのだろう。鼻筋が通っていないのは、もしかして民族性かもしれないが、目や口の表情は、なんともなさけない。眼に力がなく、頬に表情がない。 木製でニス(樹脂)を塗った面だ。 どんな気持ちで作られて、どんな用途に使われた面か、私にはわからない。祭事にも、強い個性を発揮してくれては困る「その他大勢」が必要で、そのための面であろうか。 (高さ18cm。ハイチの首都ポルトープランスで買う) --------------------------------------------------------------------------------
12-1:サラワク(マレーシア・ボルネオ島)の「仁王様の面」とケランタン(マレーシア)の「身内が見た東洋人の面」
同じ木製の仮面でも、東南アジアに来ると、どこか日本の面に似てくる。左は日本の寺の入り口にある仁王様の顔に似ているし、右下は能面や、あるいはひょっとこの面に似ている。 このふたつの面はマレーシア・クアラルンプールの国際空港のロビーに民俗文化の紹介として展示してあったものだ。 左はボルネオ島(マレーシア。サラワク州)で儀式に使われていた面だ。Kayan mask といわれる。高さ38cm、幅26cm。つまり、顔を十分覆うほど大きい。 しかし、上のアフリカの面と比べると、なんと人間的な表情に乏しいのだろう。泣く子も黙る恐ろしさだけを訴えている日本の仁王像の顔と、無表情という意味では、そっくりである。 この12-1のふたつの面だけは、この頁のほかの木彫と違って、私の持ち物ではない。感情に乏しく、魂がこもっているようには見えないので、この種のものは、買う気がしなかったのである。 右はマレーシア。ケランタン州で演劇と音楽と踊りがミックスされた演芸のコメディアンに使われていた面だ
喜劇ゆえ、顔を全部覆ってしまうのではなく、口の表情を見せたり、聴衆に明瞭な発音を聞かせることが必要だったのだろう。ナマの口を見せるというのは、この頁に出している、どの面とも違った特異なものだ。 アフリカやパプアニューギニアの面と比べると、顔の造作や表情が、なんとも日本的、というよりも東南アジア的、なのが興味深い。上の3-1が「東洋人以外が見た典型的東洋人」なのに対して、こちらは「身内が見た東洋人」なのである。 なお、タイと国境を接するマレーシア北部のケランタン州の州都コタバルは第二次大戦中の南方侵略を始めた日本軍が1941年に最初に上陸したところだ。 最近、コタバルには日本軍が残した「傷跡」を展示する「第2次世界大戦博物館」が作られ、同国の生徒や一般人に歴史を語り継いでいる。日本人は忘れても、現地の人々は忘れていない。 (ともに2009年5月、マレーシア・クアラルンプールの国際空港ロビーで。なお、右写真の赤いものは仮面を置いてある台である。) 13-1:北極海の「牙彫り」 どちらが先か分からないが、木彫りのほかに、動物の牙や骨を彫る「芸術」もある。
たまたま手許にある材料を使ったことは同じで、ただ、入手できる材料の大きさや堅さから、自ずから「芸術」が違ってくる。 動物の牙や骨を彫るものには、象牙が有名だが、セイウチやトナカイなど北極海の動物の牙や角を彫った「作品」が各地で残されている。 これは、セイウチの牙を彫ったもので、材質が硬いから、木彫りのように大きな凹凸を造る代わりに、全体の形を生かして、こみ入った絵を彫り込んだものだ。 全体は鳥の頭を擬している。牙の形を生かして、嘴と鋭い目と頭部と羽根が、じつにみごとに表現されている。 それと同時に、北極海で行われている原始的なクジラ漁のありさまが、左右両側に描かれている。 貴重な蛋白源であり、油や骨やヒゲまで残すところなく使えたクジラは、北極圏に住む人たちにとって、大事な獲物だった。 もちろん、大きなクジラを、冷たくて荒れる北極海で、描かれているような小さな舟と原始的なモリで仕留めるのは、命がけの冒険でもあったに違いない。 この牙には「1850年、北極海で取れた」と英語で書いてある。 私はこの牙をオランダ・アムステルダムの有名な蚤の市 waterloo plein の古美術商から買った。もともと誰が造って、どうしてアムステルダムまで流れてきたものかは、残念ながら、売り主は知らなかった。 それゆえ、サーメやエスキモー(エスキモーと呼ばれるのを嫌がるカナダのイヌイットも、エスキモーと呼ばれてかまわないグリーンランドのエスキモーもいる)の製作になるものかどうかは分からない。もし、お分かりの方がおられたら、お教えいただければ幸いである。 しかし、いずれにせよ、欧州の蚤の市には、なんでもある。私の知り合いのノルウェー在住の地質学者はロンドンの蚤の市で、マンモスの歯を二束三文で買った。ロンドンの売り主には、マンモスの歯は、たんに、形の悪い石にしか見えなかったに違いない。 アムステルダムのこの売り主は、額縁に入っていない藤田嗣治の猫の絵を売っていたことがある。売り主が差し出してくれたルーペで見ると、猫の毛の一本一本が極細の筆で描いてあった。生涯、(芸術家ではなく)Artisan(職人)にすぎない、として批判を受け続けた藤田嗣治ならではの筆使いに感心したことがある。 http://shima3.fc2web.com/african-masks.htm アフリカの仮面の「眼」 表現の制約のなかで「眼」を表現する難しさ 以前、この『青淵』で、私が趣味で収集しているアフリカの仮面について書いたことがある、2005年5月のことだ。
そこでは、アフリカ西部の内陸国マリのマルカ族の仮面と、象牙海岸の仮面を紹介した。今回は、その他の面を含めて、アフリカの仮面の特徴的な眼の表情のいろいろを紹介しよう。 眼は、人間の表情の中でも、もっとも雄弁に感情を物語るものだ。目は口ほどにものを言い、という言い方もあり、眼だけは笑っていない、という言い方もあるように、眼の表す感情は多彩で、そして正直である。 ところで、前に書いたようにアフリカの仮面は観光客用に媚びを売っている観光土産ではない。自分たちの伝統的な祭事に使うために、神と対峙して作る魂がこもっている。 祭事に使うために、仮面の眼のところには、被った人間が前方が見えるように、穴が開いている。じつは、このことは眼の表情を仮面の表現として表現するためには、重大な制約を課せられていることを意味している。絵画や彫刻のように、一番大事な、眼の中心部を表現できないからである。 写真一はカメルーンの仮面だ。高さ40センチほどあるもので、鎖のように加工した金属を、ごく硬い木の表面にまるで象嵌細工のように丹念に埋め込んだ、たいへんな手間がかかった面である。 木は黒灰色で目が詰まっていて、ほとんど金属のような光沢を持っている。 私には、この面は威厳を示そうとしていて、なお、憂愁を含んでいるように見える。 他の部族との争いで、いつ命を落とすかもしれない武士の憂愁である。多分、戦いも死も、日常からは決して遠いものではなかったはずだ。以前私が『青淵』で紹介したマリのセヌーフォ族の仮面も、深い哀愁を含んだ戦士の仮面であった。 しかし、アフリカの仮面には、このような憂愁の表情を表したものだけではない。まったく対照的に、あきらかに道化の役割を担ったに違いないものもある。 たとえば写真二は彩色した木製の面で、高さ17センチほどのものだ。ザイール(現・コンゴ民主共和国)の仮面だ。眼のまわりと鼻は黒に、あとは朱色に近い茶色に着色されている。 まるで日本のひょっとこの面のような口をしている。顔中の皺や、鼻翼の単純化された表現が、眼の表情と、この仮面の道化としての役割を際だたせている。 ところで、珍しいものもある。普通の仮面とは違って、一つの仮面にふたつの顔、そしてふたつの違う眼の表情を盛り込んだものだ。 写真三はタンガニイカ湖畔に住むベンバ部族の仮面だ。高さは37センチある。ある時期以降のピカソの絵には、一つの顔に、正面の表情と横顔の別の表情を盛り込んだものがあるが、これは左右ではなく、上下に別の顔を重ねている。 ピカソがアフリカの木彫を集めていたことは前回に書いた。ピカソがアフリカの木彫から、なにかを学んだ可能性は大きい。 両方の顔とも、口がない。しかも下の顔には鼻さえない。つまり他の部分を意識的に省略して、豊かな眼の表情だけが、この仮面の表現を支えているのである。下の顔の眼の慈しむような表情と、上の顔の眼のおだやかな表情を、みごとに描き分けている。 カラーでお見せできないのが残念だが、この仮面は木に彩色したもので、淡い灰色、淡い深緑、そして淡い桃色が絶妙の彩りを添えている。 ある意味では、これはジョアン・ミロが表現したかったものに似ている。以前私が『青淵』で紹介したセヌーフォ族の仮面が、ジャコメッティの表現に似ていたように、私には、アフリカの仮面は、西欧の近代美術が究極のものとして望みながら到達できなかった、高みの魂が作ったものだと思える。 アフリカの仮面には、日本の能面のように、喜怒哀楽をそれぞれ表したものがある。写真四は怒りの表情であろう。これは象牙海岸のものだ。 赤い色に彩色されている。高さは49センチもあるが、こんなに長いのは、この顔の上に、鳥の全身像を背負っているのと、アゴの下には、面を手で支えるために、取っ手風の出っ張りが着いているためだ。 このように鳥を頭の上に背負っている仮面は象牙海岸の仮面に多い。 鳥は、嘴を下げてまるで仮面の人の頭を突こうとしているようなものもあるが、この仮面の場合には、鳥は顔を真正面に向けて凛としている。 仮面の表情は硬い。口をへの字に結んだ険しい表情をしている。眼はもちろん、頬のバツ印も、四角い鼻も、怒りを露わにした表情をみごとに表現している。顔の下に取っ手が付いているのは、この仮面を付けて出演するべき祭事の場面に、瞬時に対応するためだろう。 なお、四角く抽象化された耳と、左右がつながった眉は、象牙海岸の仮面に多い特徴である。 当たり前のことだが、仮面は表情を変えることができない。以前私が『青淵』で紹介した象牙海岸の貴婦人の仮面のように、日本の能面のように、見る角度によって、微妙に表情を変えるものもある。しかし、それにも、もちろん限界がある。 この限界ゆえ、一見したところでは、なんの表情か分からない仮面も多い。つまり、いくつかの役を演じきるために、顔や眼が表す感情を意識的に殺してしまった仮面である。場面に応じて、声や音楽を変え、あるいは衣装を替えることで、仮面が表す役回りを変えるのであろう。 そのひとつは、写真五のセヌーフォ部族の仮面である。この表情は、笑っているのか、泣いているのか、私には読めない。仮面を被る人物が役割を演じない限り、誰にも読めないだろう。 恐ろしく細い眼が、感情を押し殺している。しかし、単に眼を細くしただけでは、間延びしてしまう顔の表情を、頬の隈取りと、抽象化された涙袋で引き締めているのはみごとである。また、口の表情も独特のものだ。 この仮面は、頭の上に、顔を正面に向けた女性の裸の全身座像を背負い、また顔の八方には、この写真にも一部見られるような、複雑な、まるで花魁のような飾りが突き出ている。仮面は黒い木で作られており、彩色はしていない。 高さは44センチほどある。 じつは、私はアフリカの仮面だけではなく、パプアニューギニアの仮面もいくつか持っている。人間の顔を同じように模するものとはいえ、アフリカのものとは天と地ほどに違うのが面白い。 そのひとつに、写真六のパプアニューギニアの戦士の面がある。高さ41センチほどで、現地に多く生えている、ごく柔らかい白い木に彫って、朱色と黒の、鮮やかな彩色がされている。 パプアニューギニアの多くの部族は、いまでも実際に、顔にこのような色を塗って祭事を行っている。 この顔の彩りは、かつては頻繁に行われた部族の存続を賭けた戦いや、女性を取り戻すための闘いに赴いた姿である。相手に恐怖を与える化粧だ。 いかにも海に近い熱帯のものらしく、眼にはタカラガイがはめ込まれている。この面にはめ込まれた貝の眼は、安らかに眠っている死んだ戦士の眼に見える。 いずれにせよ、近代西洋文明が入ってくる前のアフリカや大洋州では、祭事は人間と神が対話できる限られた機会だった。人々は魂の叫びを仮面作りに込めたのに違いない。 http://shima3.fc2web.com/sibusawazaidan7c.htm 遥かな古代、まだ人々が神について考える事すらなかった時代、その頃から人間は、なんらかの魔法を行っていました。我々の知る最古の魔法は、ネアンデルタール人の時代、つまり現在から7〜8万年前の狩猟成就の儀式です。彼等は、くまの頭蓋骨を並べ、より多くの獲物が得られるよう祈ったのです。4万年程前のクロマニョン人の時代になると、魔法も進歩しています。壁画に動物を描いて、狩猟の成功を祈ったのです。
つまり、熊の頭蓋骨という具体的なものを必要とせず、絵という抽象度の高いもので魔法をかけられるようになったのです。 これらを【フェティシズム】〔Fetishism物神崇拝〕と言います。このような時代の魔法、つまり人類最初の魔法はフェティシズム的世界観によって行われた魔法だと考えられます。 つまり、『もの』の魔力を直接用いる魔法です。ネアンデルタール人の魔法も、熊の頭蓋骨という熊の肉体〔の一部〕そのものの持つ力を用いた魔法である事が分かるでしょう。動物の爪を持つことで自らの攻撃力を高める魔法は、フェティシズムの時代からある古い古い魔法なのです。フェティシズムといっても、異常性欲の一種ではありません。宗教学において、フェティシズムとは、物神崇拝〔または呪物崇拝、霊物崇拝〕の事です。つまり、【物】に魔力があり、その力を崇拝するという思想です。元々は、15世紀にポルトガルの船乗りが西アフリカに行き、住民が歯や爪、木片や貝殻、さらに剣や鏡などを崇拝しているのを見て、自分たちがフェティゾ〔カトリックの聖遺物〕をありがたがっているのと似ていると考えて、フェティシズムという言葉ができたのです。 そして、西アフリカの住人が拝んでいる物神のことをフェティッシュと呼ぶようになりました。西アフリカの例では、部族に一つフェティッシュがあるほかに、家族ごとにもフェティッシュがあります。個人が一つのフェティッシュを持っている例もあります。 フランス人で社会学の祖コント〔1798〜1857〕によれば、「フェティシズムは世界に対する人間の根源的態度」であり、人間の精神史における最初の段階である「神学的状態」における人間の心性であるとされます。つまり、人間の精神が発達し始めた最初の段階で、自分たちが生命を維持する為に使うものたちに、何らかの力を感じ、それを崇拝するようになった状態がフェティシズムなのです。フェティシズム自体、物に潜む魔法を見出す一種の魔法体系だと考えられますが、フェティシズムの考え方は、後の魔法体系にも広く取り入れられました。物に魔力を込めてマジックアイテムを作り出すのは、このフェティシズムが起源でしょう。 ちなみに、フェティシズムには、宗教学的意味、経済学的意味、心理学的意味があり、上記の説明は宗教学におけるフェティシズムです。経済学で言うフェティシズムは、(あの『資本論』を書いた)カール・マルクスによって定義された言葉で、「商品が人間の意志を超えて動き出し、逆に人間を拘束するようになった」状態をあらわしています。日本語では【物神崇拝】といいます。そして、心理学で言うフェティシズムが【節片淫乱症】とも訳される性倒錯の一種です。いずれも、実態(宗教学では物の働き、経済学では物の使用価値、心理学では性の対象となりうる人体)から遊離した物に価値を見出す心理です。 人類の実体から象徴を抽象化する能力に伴う、人類の文化そのものに潜むフェティシズムが、様々な方面にあらわれたものと解釈されています。フェティシズム的魔法の時代が数万年続いたあとで、人類はアニミズム〔Animism 有霊観・精霊崇拝〕的世界観を手に入れました。そして、これによって物の背後にあって魔力の基となる霊的存在に気づくことができるようになりました。 メラネシアの住人がマナと呼んでいるもの、我々日本人があらゆるものに宿っていると感じている神々、これらは全てアニミズム的な霊的存在なのです。物に宿る霊的存在こそが魔力の源であるならば、同じ物でもより強い霊的存在を宿らせる事で、より強力に働かせる事が出来ます。また、病などが起こるのも、人間に宿る霊が抜けてしまう事で人間の働きが悪くなってしまうからなのです。逆に、敵の武器に宿る霊的存在を追い出す事ができれば、敵の刃は味方を傷つける事がないのです。 このように、アニミズム的世界観があれば、魔法に様々な工夫を施す事ができるようになります。そして、その工夫の差によって、魔法の力に大きな差が出るようになりました。魔術専門家の出現です。フェティシズムの次の段階として、「物」それ自身に魔力があるのではなく、「物」に霊的存在が宿っていて、それが力を持っているのだという考え方が登場しました。これがアニミズムであり日本語で汎神論といいます。 この霊的存在のことを、精霊と呼んだり、神々と呼んだりします。イギリスの文化人類学者タイラー〔1823〜1917〕によれば、アニミズムは夢や死、病気や幻想などの経験から、体から離脱できる非物質的で、しかも人格的な存在を信じるようになった事から生まれたとされます。そして、そのような霊的存在を進行する事が宗教の始まりであるとされています。 アニミズムは、現在にも残る魔法の基本となりました。死にかけた人の親族が、屋根の上や井戸に向かってその人の名前を呼ぶのは、死にかけた人の魂がどこかへ行ってしまうのを防ぎ、元の身体に戻るように行う儀式なのです。例えば、ケルト人の間でも首を狩る習慣がありますが、これも首に存在する霊魂を獲得する事で、狩った側の豊穣を祈る魔法なのです。他にも、動物霊の存在はきつね憑きなどの憑依現象の原因であるし、お盆も霊魂が特定の日に戻ってくるというアニミズム的な考え方の名残なのです。トーテミズム〔Totemism 族霊崇拝〕とは、ある集団と、特定の動植物や事物とが、特別な結びつきを持っている事をあらわします。 そして、その特定の何かの事を、トーテムと呼びます。元々は、アメリカ・インディアンのオジブワ族の言葉ototeman〔彼は私の一族の者だ〕に由来するものです。特にそのトーテムを柱に刻んだトーテムポールでして知る人も多いでしょう。
けれども、トーテミズムは、インディアンだけの特殊事情ではなく、世界中で広く行われていました。トーテミズムの例としては、奇妙なものも多いです。特定の部族が熊を自分たちの先祖と信じているものなどは、まだしも分かりやすいです・・が、オーストラリアの部族で、下痢という病気をトーテムに持つ部族もいます。こうなると、一体トーテムとは何なのか、訳がわかりません。ともかく、特定のトーテムを持ち、時にはトーテム名で呼ばれる部族が、そのトーテムに関して何らかの利益を得たり、何らかのタブーをもっています。 これが、トーテミズムです。つまり、トーテムと部族の間には、何らかの神秘的なつながりがあります。そのつながりのために、部族は何らかの約束事を守らねばならず、その代わりに何か利益を受けます。これを魔法と呼ばずして・・何といえばよいのでしょう。シャーマニズム〔Shamanism 祖霊崇拝〕は、アニミズムにおける霊的存在が、物に宿るだけではないことを知ったことによって生まれた魔法です。 つまり、本当に強い霊的存在は物に宿っておらず、人間の手の届かないどこかにいるのだということを知った人間が、その強い存在に働きかける為に作り出した魔法体系がシャーマニズムなのです。そして、このシャーマニズムにいたって、遂に職業的魔術師が登場する事になりました。それがシャーマンです。 シャーマンといっても、大きく分けて2種類のシャーマンがいます。彼等の使う魔法も二つに分けられます。【憑依型シャーマン】と【脱魂型シャーマン】です。 憑依型シャーマンは、強力な霊的存在を自分の肉体に宿らせて、その霊的存在に力を発揮してもらう魔法を使います。つまりシャーマンの魔法は、必要な霊を選択すること、自分の体に宿らせる事の二つです。本当に魔法(奇跡かもしれませんが)を使うのは、シャーマンの身体に宿った霊が行うのです。こう言うと、憑依型シャーマンは、たいした能力を持っていないように思えるかもしれません。しかし、そんな事はありません、自らの肉体を霊に貸し、しかもあとから取り返せるようにしなければならないことを考えると、シャーマンの魔力は大変高いものでなければなりません。 実際、能力不足のシャーマンが悪霊に憑依されたままになった例は、何度も報告されているほどです。憑依型シャーマンの魔法の強さは、呼び出す霊のバリエーションと強さによって決まります。より強い霊を、数多く呼び出せるシャーマン(その上で、呼び出した霊を追い返せる能力も必要)が、強力なのです。 脱魂型シャーマンは、自らの霊魂を肉体から離脱させ、高位の霊的存在に会いに行って、依頼を行います。シャーマンの魔法は、自らの魂を離脱させる事、高位の霊のいる所まで魂だけで旅をする事、高位の霊に依頼を聞いてもらう事の3つです。こちらも、本当に魔法を使うのは、シャーマンが出会った高位の霊です。脱魂型シャーマンの利点は、霊を自らの肉体に宿らせなくても良いので、より高位の霊と接触する事ができる点にあります。
憑依型シャーマンは、霊を強制的に呼び出すため、自らが霊よりも強い力を持っている必要があります。また、強力な霊を我が身に宿らせるのは、本人にとってかなりの負担です。しかし、脱魂型シャーマンは、自らが会いに行くので、そのような制限がなく、どんな強い霊に依頼する事も可能です。その代わり、高位の霊を強制して働かせるわけにいかないので、うまく説得したり、適当な代償を支払ったりする必要があります。けれども、国家的大事件などを解決するには、憑依型シャーマンでは力不足で、脱魂型シャーマンの力が必要となります。 脱魂型シャーマンの魔法の強さは、高位の霊に会う道筋をどれだけ知っているかと、その高位の霊に依頼を聞いてもらう為の技術によって決まります。より高位の霊と接触できれば、より高度な魔法が使えるのです。 シャーマニズム、特に脱魂型シャーマンは、文明社会では早くに衰退しました。というのも、神々について知った人々は、最高位の霊である神に祈る僧侶の祈りの方が、それ以外の精霊に接触するシャーマンよりも強力に見えたからです。特に大事件を扱う脱魂型シャーマンは、宗教というライバルに顧客を奪われ、衰退の憂き目を見る事になりました。 現在では、未開地域を除いて、脱魂型シャーマンを見る事はありません。しかし、憑依型シャーマンは、憑依させる霊の制限から比較的小さな願いをかなえる魔法であった為個人を相手にする魔法使いとして長くその地位を保つ事が出来ました。心霊主義も、憑依型シャーマンの末裔と考える事ができるほどです。つまり、憑依型シャーマンは、20世紀になっても使われつづけた魔法体系なのです。 http://f4f4440.s10.xrea.com/pagefile/sinwa/jujut2.htm ▲△▽▼ 「神々の糧」:トリプタミン幻覚剤と意識のビッグバーン ホモ・サピエンスは5万年前に知性が爆発的に急成長し、アフリカから脱出した150人程度のグループが現在のすべての人類の祖先となったとされている。アフリカで意識のビッグバーンを引き起こしたものは何だったのか。 『神々の糧(Food of the Gods)』のテレンス・マッケナは、強いエクスタシー感覚をもたらす世界中の向精神性植物を比較検討し、アフリカ中部で幅広く植生し、人類祖先の食糧となった可能性があるのはトリプタミン幻覚剤を含有する植物・キノコ類ではないか、と推理する。 トリプタミン系のシロシビンを摂取すると視覚が鋭敏になり、性的な興奮を誘発するという実験を引き合いにしながら、マッケナは5万年前の激変を以下の3点から考察している。 ■ 1. 鋭敏な視力は狩猟や採集を大幅に向上させ、食糧の大量確保が可能になった。
■ 2. 性的な興奮を引き起こし、人類の急速な繁殖に役に立った。 ■ 3. シャーマン的なエクスタシーを経験し、超自然的な判断力・予知能力・問題解決力をもつ指導者が現れた。 視力向上によって「狩猟される側」から「狩猟する側」に転換したともいえる。裸眼視力が3.0〜5.0に上がっただけではなく、心の目による察知能力も高まり、安全な住み家や集落を確保したうえで、生めよ殖やせよ、が起こったのかもしれない。
やがて超自然との交流を専門にするシャーマンの家系が生まれ、神秘世界や生命現象が徐々にコトバで表現されるようになり、ここから宗教や文字社会へと発展した、と想像できる。 わたしが主張したいのは、初期人類の食物に含まれていた突然変異を起こさせる向精神性化学化合物が、脳の情報処理能力の急速な再編成に直接影響を与えたということである。植物中のアルカロイド、とくにシロシビン、ジメチルトリプタミン(DMT)、ハルマリンといった幻覚誘発物質は、原人の食物の中で、内省能力の出現の媒介を果たす化学的要素となり得るものだった。<中略> この過程のもっと後の段階で、幻覚誘発物質は想像力の発達を促し、人間の内部にさまざまな戦略や願望をさかんに生み出し、そしてそれらが言語と宗教の出現を助けたのかもしれない。(p41) 著者はエクスタシー感の高い“ドラッグ”を以下の4つに分類する。 1. LSD型化合物・・・近縁はヒルガオ、麦角など 2. トリプタミン幻覚剤・・・DMT、シロシン、シロシビン(豆類など) 3. ベータ・カルボリン系ドラッグ・・・ハルミン、ハルマリン(アワヤスカのベース) 4. イボガイン科の物質・・・アフリカと南米に存在 余談だが、本書では『神々の果実(Magic Mushroom)』にも登場するベニテングダケについては、若干の向精神性はあるものの、安定的なエクスタシーはもたらさないとして除外されている。私も『神々の果実』を読んでみたが、インドのソーマ(Soma)に関しては文献学的に説得力があるが、飲尿習慣を絶対の前提とするところが難点だ。また、神話学やユダヤ・キリスト教に関しては、拡大解釈が甚だしい。
ともあれ、人類の祖先がアフリカのトリプタミン幻覚剤で意識のビッグバーンを経験したと仮定すると、その後の放浪地では良質の幻覚剤に恵まれなかったということか。 エジプト脱出のモーゼは麦角(LSD)の知識が豊富だったという説もある。エレウシスの秘儀は麦角ビールのような特殊大麦飲料を使っていたという考察もある。だが、麦角は一歩間違うと大量の死者を出す猛毒物質でもあるため、扱いが困難だ。 アヘンは中国を攻略する薬物となり、“スピリット(精神)”と呼ばれるようになった蒸留アルコール飲料も、大量の中毒者を出して社会不安を広げた。アヤワスカは現在注目されているものの、これを使っていた中南米の民族が戦略的な優位に立てていたかどうか。砂糖・コーヒー・茶・チョコレートは、医薬品や催淫剤としては期待倒れだった。現代社会が抱えるタバコの害についてはすでに周知の通りだ。 現代社会では草原で狩猟をするような視力は不要であり、人類全体の視力は低下する一方だ。生めよ殖やせよの効果が効き過ぎたせいなのか、地球上の人口がこれだけ増えても年中型の発情は続き、それでも満足できず、「もっともっと」とドラッグを求めている。 残された快感と英知の世界は、シャーマン型のエクスタシーの世界だ。このエクスタシーを一般庶民が常時体験するような革命の日々は、果たして訪れるのだろうか。 モーゼが視たヘルメス蛇の幻想 ― 龍神イエスを導くマトリックス ヘブライ大学の認知心理学の教授がモーゼ研究で面白いことを言っている。 ◆AFP:十戒を受けたときモーゼはハイだった、イスラエル研究報告(2008/3/6)
旧約聖書に登場するモーゼ(Moses)はシナイ山(Mount Sinai)で神から10の戒律を授かったとされているが、それは麻薬の影響による幻覚経験だった――イスラエルの研究者によるこのような論文が今週、心理学の学術誌「Time and Mind」に発表された。 ヘブライ大学(Hebrew University)のベニー・シャノン(Benny Shanon)教授(認知心理学)は、旧約聖書に記されている「モーゼが十戒を授かる」という現象に関し、超常現象、伝説のいずれの説も否定。モーゼもイスラエルの民も麻薬で「ハイになっていた」可能性が極めて高いとしている。 モーゼが「燃える柴」を見たり、聖書によく出てくる「声を見た」という表現も、麻薬の影響を示しているという。 教授自身も麻薬を使用して同様の感覚を味わったことがあるという。1991年、ブラジルのアマゾンの森林で行われた宗教儀式で、「音楽を見る」ための強力な向精神薬、アヤフアスカを服用。精神と宗教のつながりを視覚的に体験したと言う。 アヤフアスカには、聖書の中でも言及されているアカシアの樹皮でつくる調合薬と同程度の幻覚作用があるという。 「アヤフアスカ」はアヤワスカとも呼ばれる幻覚調合剤で、エハン・デラヴィやグラハム・ハンコックなど意識の冒険家たちが何度も服用している。このアヤワスカを飲むと大蛇の幻覚を例外なく見ると言われているが、シャーマンとしてのモーゼがアカシア樹脂を使って同様の幻覚作用を得ていたとすると、モーゼの「蛇の杖」や「炎の蛇」や「青銅の蛇」も説明がつく。 蛇信仰は世界中で普遍的に存在するが、旧約聖書の創世記では蛇はサタンの化身であり、イブをけしかけて知恵の実を食べさせた。一方、エジプト脱出のモーゼは杖を蛇に変えたり、堕落した民を炎の蛇で殺してしまうという“蛇使い”だ。 ◆旧約聖書 『民数記(Numbers)』 21:4−9 (新共同訳)
彼らは、ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海を通って行った。しかし、民は途中で耐え切れなくなって、神とモーセに逆らって言った。 「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。 「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」 モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。 「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者ががそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 最も不思議なのは、ユダヤの民が許してくださいと哀願したときに、蛇にかまれても死ぬことのない“解毒装置”として、「青銅の蛇」を用意したことだ。蛇にかまれても、この青銅の蛇を見ると命を得るという。 偶像を拝んではいけない、他の神を拝んではいけないといいながら、チャッカリ蛇の偶像を用意したことになる。みんな死ぬのが怖いので、この青銅の蛇をありがたや、ありがたやと拝むに決まっている。どうして蛇の天敵である「鷲」や「鷹」の像を使わないのか。あるいは 「ヤウェ、ヤウェと10回繰り返せば直る」 という言葉のパワーを使わないのか。 ◆旧約聖書 『列王記 下(II Kings)』 18:1−4 (新共同訳) イスラエルの王、エラの子ホシュアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。その母の名はアビといい、ゼカルヤの娘であった。彼は父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでにこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである。 時代が下ってヒゼキヤ王の時代になると、モーゼの造った青銅の蛇は打ち砕かれてしまう。蛇神は拝んではいけませんよ、何度注意しても、人々は蛇を拝んでしまっていたということだろう。しかしながら、この蛇拝みの元を造ったのはユダヤ教の開祖モーゼなのだ。
蛇神というとおどろおどろしいが、いわゆる地の神の象徴であり、龍神さまと言ってもいい。龍神の側に立って、旧約聖書にある「ヤウェ vs 龍神」の対立構造を読み取ると以下のようになる。 ヤウェがこの世を創造したけれど、ロクなもんじゃないよ、この世界は。 アダムとイブを救うべく、知恵の実を食べさせる龍神さまの電撃作戦がついに決行!
ところがヤウェが「原罪」と恐怖政治の手法を使って闇の人間支配を継続。 これに反撃すべく、モーゼが登場。ヤウェだけを拝むように見せかけて、「青銅の蛇」を拝まざるを得ない仕組みを構築。 ヤウェの化身ヒゼキヤ王がこの工作に気づき、龍神の通信機「青銅の蛇」を破壊。 互角の戦いといったところか。で、この後にユダヤの律法主義を批判しながら登場するイエスは、さて、どちら側の化身なのか。正統派のキリスト教会は口先でユダヤ教を否定・超克したと言いながら、 ユダヤの神=キリストの神 という路線を選択。一方、キリスト教の異端であるグノーシス派は ユダヤの神=サタン、キリストの神=龍神 を選択している。 ユダヤ教の神ヤウェがサタンであるとすると、アダムとイブに知恵づけをした蛇が本当の神さま(龍神さま)だったということになる。また、イエスこそが龍神の化身であり、ヤウェが仕組んだ「原罪」を浄化するために、あえて十字架に掛かって犠牲になったという解釈や、スキをついてサタンをコブラツイストで締め上げたという解釈も成り立つ。
中世のキリスト教では、旧約の神様が偶像崇拝はいけないと何度も警告したにもかかわらず、イエスの磔刑や聖母マリアを偶像にしてしまう。一方、東欧で栄えたグノーシスのボゴミール派は、龍神イエスを処刑した十字架を拝むなんてトンでもないということで、十字架を含めいっさいの偶像を否定した。 ルネサンスになると、エジプトのヘルメス主義やギリシャの秘儀、ユダヤ教のカバラなどを融合した新プラトン主義が台頭する中で、「十字架に架かる蛇」(フラメル紋章)も現れる。反カトリックの神秘主義者は 蛇神=イエス をほのめかし、詭弁のキリスト教徒は これはモーゼの青銅の蛇を意味し、イエスの磔刑を予言したもの
とうそぶいて、“旧約は新約の予表”という預型論(タイポロジー)に溺れる。
いずれにせよ、一方が神で他方はサタンであるという善悪二元論を超越しない限り、旧約を“聖”書に仕立て上げたバイブルであれ、旧約を全面的に否定したグノーシスであれ、英知に至ることは不可能であろうね。 http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1714647 http://hiro-san.seesaa.net/index-23.html ▲△▽▼
宗教の本質はオルギア オルギア、狂宴(Orgy)
ギリシア語の o[rgia に由来する語で、「秘密の礼拝」を意味した[註1]。ほとんどの秘教の礼拝には、エレウシス、カビリア、シャクティスム、スーフィー教、キリスト教の一派の拝蛇教などの秘儀におけるごとく、性の儀式が含まれていた。ウィルキンズは、「宗教は、自然と密着したすべての祭儀につきもののオルギア的傾向をもはやとらなくなったときでさえ、 ……つねに性愛的な一面を持っている。…… 遠くさかのぼればさかのぼるほど、性愛と聖礼の違いを見分けるのはますます困難になる。そして『遠くさかのぼる』のは単に時間的な意味だけでなく、経験の深さをもまた意味する」と述べている[註2]。 現在使われている「休日」holidayという語は東方のホリの祭り(ヒンズー教徒の春の祭り)に由来している。西欧の敬虔な観察者は、この祭りを、「最もみだらな逸楽」を特徴とする「サトゥルナリア祭」として記述している[註3]。参加者はみな一様に、彼らの「逸楽」を、至福を暗示する聖なる行為と考えていた。 ヒンズー教の聖典は「女神パールヴァティと肉体をもって交わることは、すべての罪を消滅させる徳である」と述べた[註4]。易経は、「万物に生命を与える」性交の神秘的価値について語っている[註5]。イワン・ブロッホ(『現代の性生活』の著者。ハヴロック・エリスと同時代人)によれば、「宗教は、やむことのない渇望、永続の感情、生命の深淵への神秘な没入、永遠に祝福された結合による個と個の合体への切望を、性的衝動と分かち合うものだ」[註6]という。このような理由から、情熱、祝福、恍惚、忘我、栄光のような言葉は、宗教的および性的経験のどちらにも置き換えて用いられた。 ギリシア時代の異教は、中心となる秘儀を表すものとして、性的狂宴orgiaを行った。キリスト教の禁欲主義者が「大儀式」を、「名を挙げることをはばかる秘教の儀式」、あるいは「エレウシスの売春」として非難した理由は、性的狂宴にあった。女神は「ひそかに寝室に入ってきた」者たちに永遠の生命を約束した。女神の寝室は「花嫁の部屋」pastosを意味し、そこにおいて、女神と女神の崇拝者たちとの間の「聖なる結婚」hieros gamosが達成された[註7]。 同種の性的狂宴は、北方の未開民族の間でも行われた。ストラボンは、アイルランドのドルイド教の呪術師は、「サモトラケ島のオルギアと同様の」礼拝を行っていると述べた[註8]。 2、3世紀頃の極端な禁欲主義にもかかわらず、キリスト教もまた、その実践にあたって、ある場合には狂宴的な宗教としての徴候をいくつか示すようになってきた。オルレアンのキリスト教の団体は、1年の間に数夜、乱雑な行動に耽るために集まった。同時代の記述は述べている。「明かりが消されると、男たちはみな、たとえそれが母親、姉妹、修道尼であろうとかまわずに、罪の意識なしに、手近の女をひっつかむ。このようなもつれ合いが、彼らにとっては、聖なる行為であり、宗教であると考えられたからだ」[註9]。
しかし、このような行為を、悪魔崇拝の仕業だと決めつけることは、それを防ぐ手立てとしては決して有効とは言えなかった。公共の場での狂宴は、宗教の聖典が書かれる以前から、世界のいたるところで、宗教に伴って行われる慣例的な行為であった。それは、宗教的な体験を特徴的に示そうとする集団感情のうねりの一部をなしていた。中世の農民にとってこの現象は以前から馴染みのものであって、彼らの好むものであり、たとえ悪魔崇拝と呼ばれようと、この行為に固執した[註10]。 悪魔崇拝と呼ばれたからといって、かえりみて自分たちを悪魔の崇拝者とみなす狂宴者はほとんどいなかった。概して彼らは自分たちを特別に聖なる者として考えた。ラスプーチン(1971-1916。シベリアの農夫出身の祈祷僧、ロシア皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラに取り入って、勢力をふるった)一派の「神の人々」は、彼らの裸のダンスは天国の天使のダンスの模倣であると主張した。忘我の状態を誘引する歌と踊りの後で、彼らは性の狂宴に耽り、ときには子どもたちはみな、聖霊によって生まれたのだ、と言われた[註11]。 インディアナ州のあるメソジスト派の説教師はかつてこう語った。「宗教的情熱は他のあらゆる情熱を包括するのであった、他の情熱を刺激せずに、ひとつの情熱だけを激しく感じることはできない」[註12]。アメリカにおける信仰復興運動は、明らかにこの事実を証明するものであり、復興主義者の会合の9か月後に生まれた子どもは、広く「キャンプ集会の子ども」として知られるほどであった。 外見は清教徒でありながら、その実アメリカの新教運動は、宗教的な行動様式を「復興」させた。その様式は、サモトラケ島の狂宴と好色なサテュロスをもつ古代ギリシア人にとって、全く馴染み深いものであったろうと思われる[註13]。ただ本当の名前で呼ばれなくなったにすぎない。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/orgia.html 密教の起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。
「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘(だび)にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。 これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈(ばっこ)する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊する場所として恐れられていました。 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。 シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。 その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人・えたひにん)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。 彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩(ごま)、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。 天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。 星辰(せいしん)の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。
梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族(けんぞく)として祀っているのは、このダキニテンからきています。 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっているたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html ▲△▽▼ 原始宗教
1) アニミズムとアニマティズム
山崎 「アニミズムとは、動植物から、山や川や海といった無生物、 雨や風や雷などといった自然現象に至る万物に、霊的存在〔霊魂・神霊・精霊・妖精など〕を認める信仰だ」。
ルナ 「つまり自然の万物、万象を生命化するのがアニミズムなのね」。
山崎 「そうだね。もっとも原始的な宗教で、神の観念はこのアニミズムから生じたとされるよ」。
ルナ 「やがて、太陽、山、海、風などが が神格化されて多神教の神になったのね」。
山崎 『アニミズムより以前に、アニマティズム(プレ・アニミズム)が存在したという説もある。
アニマティズムとは、万物に内在する生命力や活力に対する信仰で、ここから神の観念が生じたとも言われている。山や海や太陽などといった人間の力を超える存在に対し、おそれかしこむ心情を抱くこと。火や水の浄化力を信じて禊(みそぎ)したり火祭を行うこと。鏡や剣に霊力がそなわるという考え。これらはアニマティズムに通じていると言えるんじゃないかな。 なお、呪術さらには宗教そのものが、超自然的存在を動かすことを目的としていて、アニマティズムの発展と考えられるよ』。 ルナ 「いずれにしても、かつて人間は、人智を超えた自然神秘や驚異を神と見なしたということね」。 「最初にアニミズム説を唱えた人は?」。
山崎 『エドワード・バーネット・タイラー(1832〜1917・オックスホード大学初代人類学教授)というイギリスの人類学者だ。タイラーは主著「原始文化」で、神や霊魂の観念、呪術、祖霊崇拝などといった宗教現象となっている人間の意識をアニミズム〔ラテン語のアニマ(霊魂・生命・気息の意)から〕と定義し、これこそが最も原始的な宗教の形で、ここから死霊崇拝などを経て多神教へと発展し、さらに一神教へと進化したと述べたそうだ』。
ルナ 「当然、一神教の立場の人たちから激しい批判を受けたでしょうね」。山崎「そのとおりだ」。
山崎 『なお、タイラーは最初に「文化」の概念を明らかにした人としても知られている。彼は、文化や文明は、人間が獲得した知識、信仰、芸術、慣わしなどといった能力や習慣の複合体であるとしている。また、世界各地に同じような神話が見られることから、文化は伝播すると主張したようだね。のちには、世界の諸文化を、野蛮、未開、文明の3つに分け、文化の進化主義をとったというよ』。
ルナ 「アニマティズムを主張した人は?」。
山崎 『タイラーの弟子の マット〔1866〜1943・イギリスの人類学者。オックスフォード大学学長〕だ。彼によると、人類が霊魂や精霊の観念をもったのは、智恵がかなり発達してからだという。例えば「雨よ。やんでくれ」と雨に呼びかけるのは、雨に霊魂が存在していると見ているのではなく、雨を生命そのものとみなしているというのがマットの主張だ』
ルナ 「なるほど」。
山崎 『それからマットは、メラネシアやポリネシアといったオセアニアの島々の原住民が持つ「マナ」の観念を自説の裏付けとしていて、アニマティズムは、マナイズムともいうよね』。
B、マ ナ ルナ 「マナって?」。 山崎 「自然、人工物、人間、神、祖霊、死霊などあらゆる存在が持つと考えられている超自然的な力だ。広く太平洋諸島にみられる観念だという」。 山崎 『例えば「彼が勇士なのは、マナを有する槍を持っているからだ」とか「彼の土地に作物がよく育つのは、マナを有する石を持っているからだ」とか「マナを持てば家畜が増える」とか「酋長は多くのマナを所有している」などと言われるものだね。
マナの特徴は、その人やそのものに固有な力ではなく、付け加えたり、取り除くことができるということ、また勝手に他のものに伝わっていくということにある。だから、槍や網などの道具類、また病人や疲労した人に、マナを注入することで、望ましい状態にすることができると考えられている。 マナを得ることが利益ももたらすので、人々は強力なマナを得ようと様々な努力をするというよ。 マナの観念は、イギリスの人類学者・カトリックの宣教師 コドリントン(1830〜1922)の著書「メラネシア人」によって世界に紹介されている。彼は、マナとは“転移性を有する超自然力”と定義している。このマナが学会の注目を集めたのは、マナのような超自然力こそが、宗教の原初であり、あらゆる宗教の本質であると考えられたことからなんだ』。 ルナ 「“超自然力を獲得するための努力”なら、修験道では、山岳を霊力が強い場所とみなし、そこで修行すれば霊験(れいげん)を得るとしている。この霊験という超自然力を得て、加持祈祷を行なう人が修験者だわ」。
山崎 『修験道には“転移性を有する超自然力”の観念もみられるよね。 密教では、宇宙の根本仏の大日如来と合一することで即身成仏を目指す。これも超自然力を手にするための努力だ。 護摩木や供物を火の中に投じ、煩悩を焼き尽くす「護摩」という修法には、火を超自然的な浄化力とみなす観念がみられるね。 また日蓮系においては、日蓮の著した曼荼羅にはすごい功力(くりき)があるとされていて、これを拝み題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで、自己の仏性が顕現され、大変な功徳が得られると信じられている。
古神道では「禊」(みそぎ)は、身削ぎ(心身の浄化)だけでなく、霊注ぎ(みそぎ)の意味もあるなんて言われる。水の持つ超自然的な浄化力やエネルギーを信じるものだね。 「神籬」(ひもろぎ・巨木)や「磐座」(いわくら・巨岩石)に、神が依りつくという考えは、超自然力の転移だ。 神道では、巫女(みこ)や神輿(みこし)に神霊が宿ったり(転移)するし、お祓(はら)いなんていうのは、まさに超自然的な力で災いを除く呪術だよ』。 ルナ 「一神教の神も超自然力をそなえた全知全能の神だわ」。
山崎 『一神教においては、人間が神の力を獲得することは説かれないけど、生前に奇跡をなした人を「聖人」という称号を与えて崇めるカトリックの「聖人崇拝」なんてのは、特定な人間に超自然的な力を認めるものだし、 「教会には神より聖霊が与えられていて、秘蹟(サクラメント)の効果は、聖職者に聖霊が宿るから可能である」なんていうカトリックの教義にもマナ的観念がみられる』。
ルナ「カリスマ(ギリシャ語。神の賜物の意)という語も、本来、キリスト教の言葉で、神から与えられた奇跡、呪術、予言などを行なう力をさすというわ」。
山崎『イスラム教神秘主義のスーフィズムでは、すぐれたスーフィー(神秘主義者)は、人々の願望をかなえるバラカという特別な呪力を得ていて、聖者として崇拝の対象となる。
バラカは死後も存続し、ムハンマドや聖者たちの遺体、遺品、墓石などにバラカがあり、これらを拝んだりすると様々な功徳があるとされている』。
ルナ『スーフィズムの聖者崇拝は、カトリックの「守護聖人」(特定の職業や地域などを守護すると崇められる聖人や天使)に対する信仰と近いわね』。
山崎『こうした宗教の源となったアニマティズムというのは、おそらく人類が超自然的な力を恐れ、危害を避けたいと願うと同時に「その力を味方にしたい」と考えたことから生まれたのかもしれないよね』。ルナ「はい」。
C、呪 術 ルナ『「呪術」も超自然的な力を動かすことで目的を達成しようとするものでしょ』。
山崎『呪術は、雨乞いのように人や社会に有益なことを目的とする「白呪術」と、人や社会に災いが起きることを目的とする「黒呪術」に分けられ、黒呪術には、密教の「調伏」〔ちょうぶく・明王などを本尊として、怨敵や魔障を降伏(ごうぶく)させる修法〕や「丑(うし)の時参り」なんかがよく知られている』。
ルナ『丑三つの刻(午前2時半頃)、社寺の樹に、呪う相手のわら人形を取り付けて、呪文を唱えながら五寸釘を打ち込むのが「丑の時参り」ね。よく白衣に身をまとった女性が、わら人形に釘を打つ姿が漫画に描かれたりするわ。
釘を人形の頭に打てば、相手の頭を痛めつけ、手足に打てば手足を痛めつけられる。満願の日までに人に見られると効果がないとか、目撃されたらその者を殺さないと自分が死ぬとか言われているわよね』。
山崎「黒呪術には、この他、写真に針を刺したり、相手の名前を書いた板に釘を打って海に流したり、足跡に釘を打ったり、相手の髪の毛を手に入れて呪うなどの方法があるようだね」。
ルナ『「お百度参り」は、白呪術になるのかしら?』。
山崎『そうだね。百度参りは、平安時代にはじまり、中世以降に一般に浸透したそうだ。特定の社寺に100回参詣し祈願するものが、のちに1日に100度参詣する形式となったそうだよ。
拝殿で祈願すると、そこからお百度石に戻り、そこからまた拝殿に行き祈願することを100回繰り返す。これを、お百度を踏むと言うんだけど、数を間違えないように、小石や小枝や竹べらが用意されていたり、お百度石の壁面にそろばんのようなものが備え付けられていたりするよね』。
ルナ「宗教がどちらかというと、超自然的な存在への帰依や服従であるのに対して、呪術は人間の力によって超自然的な力を動かそうという意識が強いようね」。
D、シャーマニズム T ルナ「シャーマンが、トランス(恍惚)状態、神がかり状態となって、神や霊といった超自然的存在の言葉を語るシャーマニズムも古いタイプの宗教でしょ。邪馬台国の女王 卑弥呼もシャーマンだったというし」。
山崎『シャーマンは、ツングース語(シベリア東部・中国東北部に住むツングース系諸民族の言語)のシャマン(霊媒師)に由来するという。
日本のシャーマンの代表が、民間巫女(みこ)の「イタコ」(東北)と「ユタ」(沖縄)だね。巫女は、神社で神に仕える神社巫女〔かつては処女をあてた〕と、民間巫女に大別されるんだけど、民間巫女は、口寄せをするところに特徴がある』。
ルナ「巫女の語源は?」。山崎「不明だが、神の子を意味するみかんこの転、貴人の子を敬って称したものなどと言われているよね」。
ルナ「口寄せって、死霊を招いて神がかり状態となり霊の意志を語るのよね」。
山崎『口寄せには、ルナの言った「死口」(しにくち)の他、神霊を寄せる「神口」(かみくち)、生霊を寄せる「生口」(いきくち)があるそうだ。個人によってどれを得意とするかがあるみたいだね』。
ルナ『神や死者・さらには未来人・宇宙人など交信する「チャネリング」は、現代版の口寄せといったところね』。
山崎『シャーマンは、口寄せ(霊との交信)ばかりでなく、とり憑いた悪い霊を除く「除霊」。さまよっている霊を浄化(成仏)させる「浄霊」。またそれらにより、病気を治したり、災いを除くこと。
さらには、予言、占い、前世や過去世をいいあてること。悩み事相談なんかもするよね。悩み事相談の答えは「現在の不幸は、○代目前の先祖への供養が足りないために、その先祖が苦しんでいるのが原因です」とかいうものだ』。
ルナ「最近では、スピリチュアルカウンセラーなんていう連中が登場したど、彼らのしていることは、民間巫女と基本変わらないわね」。
山崎『それから未開社会では、青年期に夢や幻覚で見た鷲や熊などの動物霊を、個人の精霊(守護霊)としたり、日本のように祖霊信仰を持つ社会では、先祖の霊が子孫を加護するという思想があるようだけど、シャーマンは、守護霊と関係が深いようだ。
世界的に見てシャーマンになるには三つの型があるとされるよ。1つは、代々シャーマンの家系で守護霊が継承される世襲型。
1つは、召命型。これは、守護霊に選ばれた者が、巫病(ふびょう)にかかり、夢や幻覚で守護霊を見たり、幻聴で守護霊の声を聞くなど心身に異常をきたす。選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することは困難で、拒否すると異常が激しくなり死ぬこともある。先輩シャーマンの指導によりシャーマンになると異常は消え、守護霊に守られるというもの。
もう一つは、修行型といって自分の意志や親族などのすすめにより師のシャーマンのもと修行し、呪文やトランス状態になることなどを学び、最後に守護霊を依り憑かせる儀式をうけてシャーマンになるというもので、このとき陶酔や幻覚のなかに現れた霊体が守護霊となるというものだ。
守護霊は、神霊であったり、先祖の霊であったり、精霊(鷲や熊などの動物霊)であったりするらしい。シャーマンと守護霊が夫婦や主従の関係とされたり、守護霊に眷属(けんぞく・家来)がいて、シャーマンは守護霊の力により眷属を使うことができるとされている場合もあるというよね』。
E、シャーマニズムU〔イタコ〕 山崎「イタコは、東北の津軽、南部〔岩手県と青森県下北半島と北秋田にまたがる地域。狭義には盛岡をさす〕の民間巫女だ。語源は、アイヌ語のイタク(語る)に愛称のコが付いたという説や、戒名を板に書いて祀るので板コである等の説がある。下北半島の恐山〔おそれざん・879mの火山。宇曾利山(うそりざん)ともいう〕を聖地とするよね」。
ルナ「恐山?」。
山崎『恐山は、862年に 慈覚大師 円仁(延暦寺3代座主。天台宗山門派の祖)が地蔵尊を祀ったことに始まると伝承される。菩提寺(円通寺地蔵堂)があり、比叡山、高野山とともに日本三大霊場とされるよ。
菩提寺は1536年に 聚覚(じゅかく)が再建して以来、山腹の円通寺〔曹洞宗。1522年、宏智聚覚(こうちじゅかく)の開山。南部氏の開基(資金的な開山)。本尊 釈迦如来〕の管理となっている。
宇曾利湖というカルデラ湖を中心に、周囲に朝比奈岳、円山、大尽山、釜臥山などの山々がある。周囲の山々は、八葉(はちよう・8つの花弁)蓮華の花弁をあらわしているとされる。いたるところに硫気孔があり、音を立てて硫気を吹き出していて、三途の川、賽の河原、八大地獄などもあり、死霊信仰と地蔵信仰が習合した霊場だ。
死者の集まる山として7/20〜24日の大祭には、参詣や観光でにぎわい、数珠を手にしたイタコによる口寄せが境内のいたるところで行われる。こ2恐山の大祭や、津軽半島 金木町川倉の地蔵盆には、沢山のいたこが集まるという』。
ルナ「イタコには盲目の女性が多いと聞くけど?」。
山崎『天台宗の寺院でも養成しているところがあるそうだが、普通、盲目の女性が少女のときに師のもとに弟子入りし、経文、祈祷、筮竹(ぜいちく)による占いなどを学ぶことが多いというよね。
独立のときにカミ憑(つ)けという神婚式を行い自分を守護する神や仏をもらうらしい。彼岸や盆に死者の供養として口寄せをする他、病気治しのオッパライ(お祓い。猫や馬や蛇などが描かれているイタコ絵馬を用いて病気の原因を占ってオッパライの祈祷を行う)をしたり、オシラサマを祀ったりするというよ』。
【 オシラサマ… 東北地方の民間信仰の神様。多くは30pほどの桑の木2本に男女や馬の顔などを彫ったり書いたりして、おせんたくと呼ぶ布を着せ、家の神、農耕神、養蚕神としたもの。神棚の祠におさめる。春秋の祭の日には祠から出しておせんたくを着せ替えたり、本家の老婆が祭文(さいもん・祭のときに神にささげる祈願や賛嘆の心を表したことば)を唱えるという。
イタコが行う土地も多くオシラサマを両手で持って舞わせながら祭文を唱える。イタコがオシラサマを舞わせたり、少女がオシラサマを背負って遊ばせることをオシラアソバセという。】
F、シャーマニズム V〔ユタ・御杖代〕 ルナ「ユタというのは、聞いたことがないけど…」。
山崎『ユタは、沖縄本島を中心に南西諸島で活動する民間巫女で、女性がほとんどだが男性もいるというよ。語源は不明だが、左右にゆためくことからとか、あらぬことを口ばしるので、ゆた口やゆたゆん(よくしゃべる意)からきたなどと考えられている。
ノロ〔祝女。地域の祭祀を取りしきり、御嶽(うたき)を管理する女性神官。世襲制で、かつては琉球王国より任命された〕が神官であるのに対し、ユタはシャーマン(霊媒師)だ』。
ルナ「沖縄では、女性が祭祀の中心なのね」。山崎「そうだ」。
山崎「ユタは、多くは幼少から病弱で霊能力を持つ者がなる。宿命によってなるのであり一般人はなれないとされるよ」。
ルナ「イタコが修行型であるのに対し、ユタは召命型なのね」。
山崎『幼児期に不思議な精神体験をし、その後、神ダーリ(巫病・神よりユタになるよう与えられる病気)にかかり、精神的に不安定な状態となり、死者と交信したり、予言を語ったり、異常な行動をするという。神の指示に従うことで精神が安定し、異常行動はなくなり、ユタとしての能力が現れてくるというよ。
その後、御嶽(うたき)を巡り、自分の守護神を見つけこれをのり移りさせて、最終的には弟子入りして学ぶという』。
【 御嶽… うたき・おたけ・沖縄県において、神社および鎮守の森に相当する聖地。多くは森の空間。山そのものや島そのものであることもある。
宮古(宮古島など)や八重山地方(石垣島・西表島・竹富島など)では、過去に実在したノロの墓が御嶽となっているものも多く。そのノロは地域の守護神として祀られているという。
社殿はなく、本殿にあたる最も神聖な場所をイベ、イビ、ウブ等と呼び、イベ石という自然石を祀る。イベ石は、古神道の磐座(いわくら)にあたり、神が降臨する場である。
イベには、香炉、線香、ロウソクなどが置かれ、酒や供物が供えられる。琉球王国時代、御嶽は完全に男子禁制で、現在でも、イベには、ノロ(祝女)・ニーガン(根神)・ツカサ(司)等の女性神役しか近づくことはできないという御嶽も多い。
≪ ニーガン… 村の草分け的な家を ニーヤ(根屋)と呼び、その主人(村の長)が ニーンチュ(根人)、主人の姉妹が ニーガン(根神)である。ニーガンは ノロの支配下にあり、村の祭祀を行った。
ツカサ… 宮古、八重山地域には ノロの名称はなく、ノロに代わって村落の祭祀を司る神女。≫
また、大きな御嶽では、人々が御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための「神あしゃぎ」(神が足をあげる場=腰を下ろす場の意味という)と呼ばれる四方が吹き抜けの建物が設けられていることもある。
鳥居がある御嶽も見られるが、これは明治の「皇民化政策」による結果。明治初期には、宗教政策の一環として御嶽を神社化する動きもあったが、影響は一部にとどまっている。
御嶽に祀る神は、村落共同体の祖霊神、太陽神、土地神、水神、火の神、農耕神、鍛冶の神、航海神、竜宮神、英雄神など様々。普通、それぞれの御嶽には、これを崇拝する集団がいて、代表者の女性神役を中心に定期的に豊作祈願や悪霊払い等がなされている。
現在でも新しい御嶽が出来たり、逆に統合されたり、放置されるなどしているという。なお、村落や地域の人々が、加護や繁栄を祈願する場所を「うがんじゅ」(拝所)と総称する。うがんじゅの多くは御嶽であるが、他に霊石や洞穴などの場合もある。】
ユタを守護する神(守護霊)は、多くは何代か前の先祖が多いが、観音菩薩などとする者もいるらしい。ユタは、自分の守護神が他人のそれより霊力が強いことを誇りとするそうだ。
ユタによる死霊の口寄せを「マブイワカシ」(マブは霊魂の意。本来は守護する意)という。人により、琉球王朝時代の死霊を呼び出すのを得意としたり、死んで間もない者の霊を得意とするなどの違いがあるらしい。この他、身体から抜け出した生霊を戻して病気を治す「マブイグミ」なんかを行うそうだ。
また、教義も戒律もないことから、ユタの祭壇には、仏教、神道、キリスト教などの偶像なんかが一緒に並べられているそうだ。また、副業としてユタを行なっている者も多いというよね。
また沖縄には、沖縄県には「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、ユタが千〜2千人(5千人とも)いて、多くの人たちがユタと関わりを持ち、結婚相手、結婚の日取り、運勢、転居、ノロなどの神役の選定、家庭の不和などの悩み事について占ってもらうそうだ。
さらに明治以後、移民によりブラジル、アルゼンチン、ペルーなどにも広がり、当地のユタの判示(占いの答え)を受け、沖縄に祈願にくる人もいるというよ。
しかし、不安を煽るような事を言っては、お金を騙し取るユタも多く、社会問題になることも多い。
また、中央集権化や近代化を目指す支配者層は、ユタの存在は、脅威や障害とみなされ、琉球王国以来「世間を惑わす」として、幾度も弾圧、摘発を受けている。近代以降も、明治期のユタの禁止令、大正期のユタ征伐運動、昭和10年代(戦時体制下)のユタ弾圧といった迫害を受けている』。
ルナ「日本初の統一王朝とされる邪馬台国〔初代神武天皇が創始した大和朝廷以前に存在。3世紀半ば頃〕の女王 卑弥呼(ひみこ)は、鬼道(幻術、妖術)に通じた巫女(シャーマン)であったとされるでしょ」。
山崎「飲食を給し、用件を伝えるただ一人の男子と婢(ひ・女の奴隷)千人が仕えていたとされ、弟が卑弥呼の神託に従って政治や軍事を担当していたというよ」。
ルナ「古代の祭祀って女性が中心だったのかしら?」。
山崎『古代の祭祀では、未婚の女性(処女)を神聖視したそうだ。神の妻とされた女性が神がかりして、神の言葉を伝えてきたようだね。例えば、斎宮〔さいぐう・斎王(さいおう・いつきのみこ)〕は、天皇の代わりに伊勢神宮に入り、天照大神に仕えた内親王(未婚の皇女)や 女王(じょおう・天皇の2世(孫)以下の女子)で、天皇即位のさいに選ばれたという。10代 崇神(すじん)天皇のときにはじまり96代 後醍醐天皇(在位・1318〜1339)のときまで続いたとされる。
〔崇神の年代についてはよく分かっていない。3〜4世紀とする説もある。また、崇神天皇を初代天皇とする説や、神武(初代)=崇神とする説、神武=応神(10代)=崇神とする説もある〕
皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ・太陽の女神)の御神体である「八咫鏡」〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は、天皇のもとにあったが、崇神天皇のとき、恐れ多いとして、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して、皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えた。
しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が荒ぶったことから、姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)となり、丹波(京都中部)、大和(奈良)、木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)を21年間巡っている。
さらに11代垂仁天皇のとき、年老いた豊鍬入姫命に代わり、垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代となり、新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)、美濃、尾張を巡り、伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき、天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」といたく気に入ったとして神殿が建てられた。これが伊勢神宮だよ。
天照の霊魂が皇居を出て、最終的に伊勢神宮に鎮座するまでに、25ヶ所もの社(宮)に祀られたとされ、これらの場所は「元伊勢」と呼ばれているよ。〔1つの元伊勢に、現在あるいくつかの神社が候補地としてあげられていたりする〕
また、日本武尊〔やまとたけるのみこと・12代景行天皇の第3皇子。14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は、東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り、おばで斎宮の倭姫命より、草薙剣を授かっているよ』。
【 草薙剣… 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいう。八咫鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに、歴代天皇の三種の神器、皇位継承の証とされる。天照の弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、大蛇のしっぽから出てきた剣。】
このような女性中心の祭祀形態は、神の言葉を伝えるという巫女の役割が形骸化されてゆき、巫女が男性神職の補助的存在になって失われていったと考えられているよね。だから沖縄の祭祀は、古代日本の宗教形態を最もとどめていると言えるかもしれないね』。
G、フェチニズム 山崎『マナの観念と似るものに「フェチニズム」というのがある。アニミズムやアニマティズムとともに宗教の原初形態の1つとされている。現在では、自然崇拝やアニミズムが宗教の原初であるという説が有力だが、かつては、フェチニズムから、アニミズム、多神教へと発展したという説も唱えられたそうだよ』。
ルナ『「フェチ」と言うと、異性全体ではなく、髪の毛とか、足とか、耳とかいった身体の一部や、靴下とか、下着とかといった所持品に、愛着を示すことでしょ』。山崎「そうだね。下着どろぼうや、毛皮(異性の象徴となるモノ)を着ていない女性とは、性交できないなんてのがいい例だ」。
山崎「フェチニズムは、もともとは特定の自然物や人工物に神秘的な力、超自然的な力が内在すると信じ、崇拝するものだよ。アフリカの未開社会をはじめ各地でみられるというよ。物神(フェティシュ)崇拝とか、呪物崇拝と訳される。
語源は、フェチコに由来する。15世紀後半、西アフリカと交易をしたポルトガルの航海者たちが、西アフリカの海岸地域で、原住民が、歯や爪、木片や貝殻や石などを、髪の毛に包んでお守りにして身に付けていたり、剣や鏡や玉、首飾り、臼などを崇拝しているのを見て、
カトリック信者が、聖者たちの遺物や護符をフェチコ(呪符や護符の意)として崇拝しているのと同じとみたところからきているそうだ。
フェチニズムの語を最初に使ったのは、フランスの比較民俗学者で思想家(ヒューマニスト)の シャルル・ド・ブロス(1709〜77)の著書「フェティシュ諸神の崇拝」だとされるよ』。
ルナ「偶像(仏像やキリストの画像)や十字架、曼荼羅、御札やお守り…。これらは広い意味で、フェチニズムと言えるわね」。
H、トーテミズム 山崎「ルナは、トーテムポールを知っているかな?」。ルナ「学校の校庭にあったわ。公園にもみられるわよね。鳥とか動物とか、人間の顔などが彫刻されている柱でしょ」。
山崎『トーテムポールは、カナダ西海岸部から北西アメリカのネイティブ(インディアン)諸族が製作するもので、トーテム〔家系をあらわす紋章。動植物など〕や、彼らのもつ伝説や物語の登場人物を表現したものというよ。
家屋から独立して建てられる独立柱、家屋の正面に建てられる入り口柱、家を支える柱また家の内部の飾りとして建てられる家柱、墓地に特定の個人を記念するために建てる墓標柱、特別な出来事(戦いなど)を記念して建てられる記念柱などがあるようだ。但し、これらは、崇拝の対象ではないというね』。
ルナ「トーテムって何?」。
山崎『氏族の先祖として崇拝する特定の動植物だね。動植物ばかりでなく、自然物、人工物、自然現象などの場合もあるようだ。
トーテムという語は、オジブワ族〔アメリカおよびカナダのネイティブの部族。アメリカでは3番、北米全体でも4番の人口〕の「彼は私の一族の者だ」という言葉に由来する アルバート・ギャラティン〔1761〜1849・アメリカの民俗学者。言語学者。政治家(財務長官を務めた)。アメリカ民族学会の設立者〕の造語だと言われているよ。
トーテミズムは、トーテムを崇拝する信仰だ。この信仰は、はじめネイティブアメリカン(アメリカインディアン)で発見され、のちに世界各地、とくにオーストラリア、オセアニア諸島、アフリカ、インドなどにも見られることが明らかになったそうだ。
オーストラリアには、各氏族のトーテムをあわせると、その数4千にもなる部族があったり、日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などもトーテムとなっている部族があったり、安眠、下痢、嘔吐、性交などがトーテムとなっている部族があったり、男がコウモリで、女がキツツキというように、氏族でなく性によるトーテムを持つ例がみられたりするそうだ。
また、メラネシアには、各氏族が、鳥1種、樹木1種、動物1種というように複数のトーテムを持つ部族があったり、インドには、短刀、割れた瓶、トゲの付いた棒、腕輪、パン切れなどもトーテムとなっている部族があったり、
アフリカには、トーテムは牛だけで、各氏族のそれは、赤牛とか乳牛といった牛の種類や、舌、腸、心臓といった身体の部位で区別する部族があったり、アメリカ北西部には、個人が特定のトーテムを持つ例(但しこれは守護霊であるとする考えもある)もみられるというよ。
ほとんどの場合、トーテムとトーテム集団との結びつきの由来を物語る神話が存在するそうだ。また、トーテムは部族や氏族の先祖として畏敬され、殺したり食べたりしてはいけないとされていて、触れたり、見たりすることもタブー(禁忌)とする例もあるという。
一方で、禁忌をともなわない例も多く、トーテム動物は、トーテム集団の者に好意を持っていて、撃たれて食べられることを望んでいるとする例もあるそうだ。トーテム集団の人たちの姿や性格は、トーテム動物に似ているなどとも言われるらしい。
また、同じトーテムを持つ氏族の者同士の結婚は許されないというよね』。
I、アニミズムと神道 ルナ「日本の神道って、アニミズム的要素を割合と濃くとどめていると言えるような気がするけど…」。
山崎『そうだね。経済先進国において、純粋にアニミズム的要素を濃く残している宗教は、日本の神道以外にないかもしれないよ。
アニミズムとは自然の万物に、精霊や霊魂(みたま)が宿るという信仰だね。巨樹、森、山、太陽、月、あるいは、雨や風などの自然現象に精霊が宿るといった信仰だ。
前述したとおり、山、太陽、月、雨、風、雷などが神格化されて、神道のような多神教の神になったとされる。
インドのヒンズー教も多神教ではあるけど、仏教同様、輪廻や解脱を説き哲学性が強いうえ、カースト制度をも包含し、社会への影響は計り知れない。また中国の道教も多神教であるけど、まじない的要素が強いし、人間神も多いからね』。
山崎「ルナはどんなところに、神道にアニミズム的要素が色濃く残っていると感じたのかな?」。
ルナ「そうね-。仏教では仏像が本尊とされたりするけど、神道では神像がほとんど見らないわ。もちろんこれは一神教のような偶像崇拝の禁止とは違うでしょ…」 。
山崎「そこに、神道が自然崇拝を残している感じを持たせるわけだね。ルナにそう感じさせるのは、おそらく社(やしろ)が、本尊を拝む場ではなく、万物、自然を対象とする拝殿って感じがするからかもしれないね」。ルナ「確かにそうね」。
ルナ「鏡や玉や剣が御神体とされるところにもアニミズムの要素が感じるけど…」。
山崎『なるほど。おじさんが、神道がアニミズム的要素を色濃く残すと思うのには、神道がタマ(魂)とカミ(神)の観念が結びついた信仰だからというのもある。
古代の日本人は、言葉には言霊(ことだま)、木には木霊(こだま)、人には人霊(ひとだま)、稲には稲霊(いなだま)、船には船霊(ふなだま)が存在すると考えたそうけど、
天照大神の御神体(ごしんたい・神霊を象徴するもの)=御霊(みたま)を「八咫鏡」(やたのかがみ)とするのなんかは、まさにタマとカミの結びつきを示していよね。
さらに、神道の神、つまり日本神話の神には、ギリシア神話でみられる理念神〔勝利、自由、秩序、愛などの理念を神格化した神。日本神話ではこれといった理念神は登場しない〕がみられず、自然神が多いことも、神道にアニミズム的要素が色濃く残っている根拠の1つになると思うよ』。
ルナ『秩序の神という理念神がみられないのは、古代の日本人が、天体の運行から、花の一生に至るまでの全ての自然現象に、規則性や秩序性を感じ、
自然の摂理こそが、全ての秩序であり、理念であるとみていたからかもしれないわね』。山崎「なるほど」。
山崎「それから、例えば、八幡神社の祭神の八幡神は、応神天皇(15代天皇。5世紀頃)のことだとされている。このように神社の祭神はみな自然神なわけではない。でも、一般の人は、地域の神社は、その祭神に関わりなく、そこの地域や住民を守る 産土(うぶすな)神、鎮守神、氏神であると認識しているよね。ここにもアニミズム的要素がみられるだろうね」。
J、多神教と一神教 山崎『アニミズムやアニマティズムの信仰の対象が、やがて神格化されて、自然神が誕生した。自然神の誕生は、多神教の誕生でもある。
自然神とは、山や川、太陽や月、雷や風といった自然、天体、気象現象を神格化したものだ。アイヌの熊など神聖視される動物も自然神の一種と言える。
その後、人間神や文化神や理念神も誕生する。人間神とは、民族や氏族の統合の象徴で、祖先神や氏神といったものだ。
例えば、奈良の春日大社の祭神 天児屋根命〔あねのこやねのみこと・天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩屋にかくれたとき、祝詞(のりと)を奏して出現を祈った。のちに邇々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨につきしたがった神の1人。祝詞の神。子孫は大和朝廷の祭祀を司った〕は、
朝廷の祭祀を司った中臣(なかとみ)氏と、中臣氏から分れた藤原氏〔中臣鎌足が大化の改新の功により藤原姓を賜ったことにはじまる〕の氏神だ。
【 春日大社… 710年の平城京への遷都後まもなく、藤原不比等が、武神の建御雷神(たけみかづちのかみ)を春日山の浮雲峰に祀ったのにはじまり、786年に、称徳女帝の命で、藤原永手(ながて・不比等の孫。左大臣)が山麓に移し、建御雷神とともに、祖神の天児屋根命をあわせて祀った。この他、祭神は、武神の経津主神(ふつぬしのかみ)、比売神(ひめがみ)。】
祖先神や氏神は、子孫に律法をさずけたり、子孫を守護する神だね。
歴史や伝説の英雄なども神格化されている。家康は、日光東照宮に、東照大権現〔権現とは、権(かり)に現れた神の意。神仏習合思想で、インドの仏・菩薩が、日本の衆生を教化するために、仮に神の姿をとって現れたという意味〕として祀られている。
この他、人間神の例として、明治神宮は、明治天皇を祭神としている。天満宮の祭神の天神さんは、菅原道真だね。
文化神は、屋敷神、かまどの神、音楽神、学芸神といった生活や文化を司る神だ。
理念神は、勝利、秩序、自由、愛などの理念が、神格化されたものだ。アメリカの自由の女神。ギリシア神話の秩序と正義の女神 テミスや、運命の3女神 モイライ。
最高神のゼウスも雷神であると同時に、人間社会の秩序を支配している。また、バラモン教の宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を神格化した ブラフマー(梵天)は、自然神と理念神の性格をもっていると言えるよね。
多神教では、時代がすすむにつれ、神の間に上下関係や支配被支配関係が生まれ、多くの神のなかから最高神が誕生したり、主要な神がトリオで最高神の位置を占めるようになってくる。
3神トリオの例としては、ギリシア神話で世界を3分する ゼウス(天)、ポセイドン(海)、ハデス(冥府)の兄弟。ヒンズー教の ブラフマー(創造)、ビシュヌ(維持)、シバ(破壊)。
古事記の最初に登場する造化3神〔天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神御産巣日神(かみむすひのかみ)〕。
黄泉(よみ)の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海で禊(みそぎ)して生まれた三貴子〔天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)〕などがあげられる。
多神教には、特定の最高神は存在せず、祭儀の目的(福徳・病気平癒・長寿・悪霊退散・和合・祈雨など)にかなった神を最高神とするものもある。
つまり、その場に適した神を、交替で最高神とする信仰で、これを交替神教というそうだ。
リグ・ヴェーダ(バラモン教の聖典ヴェーダの最初部)時代のバラモン教はこれにあたる。密教の別尊曼荼羅〔 密教U 曼荼羅T 分類 〕もこれに属すると言えるよ。
また、多神教でも特定の一神をとりわけ強く信仰するもの、多神教と一神教の中間に位置するものもあるらしい。
一神教の成立については、多神教より発展したという説や、一神教こそ宗教の原初の形態で、多神教は一神教が退化して誕生したという説もあけど、これらはほとんどかえりみられない。
最も支持されているのが、創唱者によって創造されたという説だ。一神教にも、他の集団が崇拝する神を容認するが、自分たちは特定の神しか拝まないというものと、他の神は一切認めないという立場があり、古代イスラエルのヤーウェへの信仰は、前者だね』。
K、汎神論。理神論 ルナ『アニミズムって、一切が神、宇宙や自然すべてが神という「汎神(はんしんろん)論」に通じているわよね』。
山崎「そうだね。ただ汎神論に2種類あるんだよ」。ルナ「2種類?」。
山崎「一切が神というのと、神が一切というやつだ」。ルナ「同じように思えるけど…」。
山崎「一切が神となると、ルナもおじさんも、そこに転がっている石も、あそこに立っている木も神ということだね。すると神という言葉は飾りものにすぎない。形容詞にすぎないってことになる。これは神がいないのと同じだというので“無神論”というんだよ」。ルナ「なるほど」。
山崎「これに対して、神が一切というと、ルナも私も、そこの石も木も、宇宙のすべてが、じつは神の影のような存在で、実際は、本体の神しか存在しないことになるね。だからこっちは“無宇宙論”というのさ」。
ルナ『無神論は多元論。無宇宙論は一元論ね。一神教は「神」と「神の創造物の宇宙」の二元論にあるから、一切が神という多元論や、神が一切という一元論は否定されるでしょ』。
山崎「そうだね。汎神論を、無神論、無宇宙論と立て分けて論じるようになったのも、一神教の立場から、汎神論を否定するためになされたことと想像できる」。
ルナ「いつ頃から汎神論について色々論じられるようになったの?」。
山崎『スピノザが“神即自然”(即はそのままの意)という「理神論」を説いてからだというよね』。
ルナ「理神論?」。
山崎『17〜18世紀のヨーロッパに登場した神学だ。世界の根源としての神の存在は認めるが、これを人格的な神とは考えない立場さ。理神論者たちは、イギリス国教会(聖公会)の説く、神の啓示(おつげ)、神の奇跡、秘儀(サクラメント)などの神秘的要素、超自然的要素を否定し、
神による天地創造以後の世界においては、自然に内在する法則を把握することは可能であり、宗教的真理は自然から理性によって把握できると主張したんだよ。このため、理神論は、自然宗教や理性宗教と呼ばれているんだ』。
ルナ「理性宗教と自然宗教って反対のような感じだけど、キリスト教の世界観では同じなのね」。
山崎『イギリスの思想家 トーランド〔1670〜1722・論争をまきおこす多くの著書のため、迫害され諸国を放浪。貧困のうち死去。「キリスト教は神秘ならず」は処女作〕が「キリスト教は神秘ならず」(1696)を公刊すると、それに反論する国教会側とのあいだに論争が起きたというよ。
トーランドは、信仰が理性に反してはならず、キリスト教の教義は理性に反しないと主張し、教会の伝統的な秘儀を厳しく攻撃したそうだ」。
ルナ「でも、キリスト教の教義を、理性で把握できるという主張もおかしいわよね」。山崎「結局そこが一神教の世界で育った思想家の限界ということなんだろうね」。
L、スピノザ。必然と偶然 山崎「理神論者で最も有名なのが、オランダの哲学者・神学者の スピノザ(1632〜77)だ」。ルナ「スピノザ?」。
山崎『スピノサの両親はポーランドからオランダに移住した裕福なユダヤ商人で、スピノザは、ユダヤ人学校でヘブライ語や聖書を学び、その後、ユダヤ教の神学を研究したそうだ。
しかし批判的な見解をもつに至り、ユダヤ教会から永久的に破門され、学問の研究に生涯を終えたようだね』。ルナ「そうなんですか」。
山崎『スピノザは、まず神を万物の内在的原因と考え、超越的原因ではないとして“神即自然”と主張したんだ」。ルナ「汎神論ね」。
山崎『そして、神は唯一無限の実体である。精神界、物質界の全ての事物、事象は、神の諸様態である。
神の本性は、絶対・無限で、属性を無限に持つ。精神も身体も神の属性の1つにすぎない。と考えたんだ』。
ルナ「これは汎神論の無宇宙論ですね」。
山崎『そうだね。神による一元論さ。さらに、一切は神に内在する必然性(必ずそうなる)によって生成されるので、人間の自由意志や偶然(たまたまそうなる)は全く存在しないとしているよ。
スピノザによると、自由意志と理解されている心像や言語は、じつは単なる身体の運動にすぎないというよね』。
ルナ「決定論、運命論ね」。
山崎「但し、彼は、個の本質に、自己保存の衝動(コナトゥス)を認めている。その上でこのコナトゥスを乗り越えるには、神による必然性を理性によって認識し、この認識を他者と共有する必要があると唱えているよ」。
ルナ「ここに理神論的な思想があるのね」。
山崎『スピノザの真の自由とは、理性を通して、自己を含む全ての存在が、神の必然性の中にあることを洞察し、人間が神を通して思考できていることを知ることだという。
そして、これが最高の善であり道徳あるというのが、彼最大の主張で、これを「神への知的愛」と呼んでいるよ』。
ルナ『デカルト(1596〜1650)の「我思う、ゆえに我あり」を、根拠のない宗教的信念から否定しているわね』。
山崎『さらに「神への知的愛」とは、神が、神の一様態である人間を介して、自分(神)自身を愛することであり、人間は神の一様態であるから、神への愛は人間への愛でもある。
人間は、神が、自分自身を認識し、愛し、満足する行為に参与することで、最高の満足を得ることができると主張するよね』。
ルナ「感情については?」。
山崎『感情には、感覚的な受動感情と、理性的な能動感情があり、欲望の決定が、不完全な受動感情でなされたとき、人間は自らの環境にふりまわされ支配されている状態にある。能動感情により決定されているとき、人間は自由であるとしているよ』。ルナ「なるほど」。
山崎「そして、以上のような理神論の立場から、聖書はあくまで民衆を導く信仰の書であり、科学や哲学の書ではない。聖書にある奇跡を現実の出来事として教えるのは、信仰を迷信におとしめる行為であると主張したそうだ」。
ルナ「スピノザも色々と考えたようだけど、結局、センスのない服をおかしくアレンジしたみたいになっちゃってるわね」。
山崎「もともとオカルトにすぎないものに、色々と理屈をつけたからおかしなものになってしまったということだね」。ルナ「はい」。
山崎「無宇宙論や唯心論〔全ての事物、事象は、心という本体よりあらわれた影であり、本来 心の他に存在しない〕は、神あるいは心を唯一の真理とする一元論だ。一元論の場合、1つの存在だけが真理なんだから、その1つがよほどしっかりとした根拠を持たないと、スピノザみたいに哲学ではなく神学みたいになっちゃうよね」。
ルナ「全てに仏性があるという仏教の立場は、一切が神という無神論と同じだと思うけど…」。山崎「そうだね。仏教は無神論的宗教と言えるね」。
ルナ『スピノザが「全ては必然」という運命論の立場にあるのに対して、仏教はそうではないですよね。すると、仏教って全ては偶然だというの?」。
山崎「仏教でも偶然はあり得ないとみるよ。但し、それは全てを必然とみるからではなく、全ての結果に原因があるという因果の法則の立場からだ」。
ルナ「なるほど。まず因果の法則によって偶然は否定されるわけね」。
山崎『それから一神教では、宇宙は唯一絶対の神によって創造されたとするけど、これに対して仏教では、全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因)が、一瞬一瞬 和合して成り立っているという「縁起」を説く』。
ルナ「全てが関係性によって成り立っている。全てが相互依存の関係にあるということね。全ては神の御心という運命論とは違うわ」。
山崎『仏教における、森羅万象の本質は変化だよ。変化しないものはないという「空」だ。空は、縁起と表裏一体の関係にあり、あらわれた果にまた新たな因と縁が加わると、たちまち変化するので、新たな因や縁をつくってゆくことで、未来はいくらでも変えてゆけるという可能性の哲学でもあるんだよ』。
ルナ「空は可能性の哲学なのね。運命論や決定論、つまり全ては必然で決まっているというのとは逆の立場ね。すると、偶然でもなく必然でもないというのが仏教の立場になるわ」。山崎「そういうことだ。 全てが関係性によって成り立っているというのが仏教だ」。
M、アイヌの信仰 T〔アイヌ人〕 ルナ「アイヌの意味は?」。山崎「アイヌ語で人間を意味するそうだ」。
ルナ「そもそもアイヌ人とは?」。山崎「東アジアの古種族で、歴史的には、北海道を中心に、樺太南部、千島列島、本州の東北部を生活圏にしていた人たちだ」。
山崎『現在では、日本とロシアという2つの国に分断されて生活する少数民族で、日本では北海道を中心に、東京他の都市部でも生活しているというよ。その数3万人を超えるとも、北海道内には2万3千人がいるともいうが実際のところ正確な数はよく分かっていないようだ。
これはアイヌと名乗ることができない人がいるからだというよね。またこれらの人たちのほとんどが、日本人との混血によって人種的な特質は薄れているらしい。
なお、アイヌは、他のモンゴロイドに比べて、彫りが深かったり、体毛が濃かったりといった身体的特徴から、コーカソイドに近いという説が広かった時期があったそうだ。のちに、アイヌ=縄文人近似説が主流となっている』。
ルナ「縄文人近似説?」
山崎『この説によると、≪縄文時代、日本列島を含む東アジア一帯には、南方系の人々が住んでいた。およそ5千年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。2300年前には、九州北部から日本列島に侵入してきた。彼らが弥生人である。本土の大部分は弥生人によって占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になった。現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7〜8割、南方縄文系2〜3割の比率で混血している≫ということらしい。
〔縄文時代… 今から約1万6500年前(前145世紀)〜約3千年前(前10世紀)。弥生時代… 前10世紀中頃(異論もある)〜3世紀中頃〕
室町中期から江戸後期にかけては、和人(アイヌの立場から日本人を指す語)の抑圧に対して、しばしばアイヌの武装蜂起が起きている。秀吉、家康から松前氏が蝦夷の支配権を認められた後にも、大規模な蜂起が起き、これを収拾することで、松前氏は実質的な支配権を確立したそうだ。
アイヌ人は、食糧や生活に必要な素材のほとんどを狩猟〔エゾシカ・ヒグマ・アザラシ・トド・オットセイなど〕、漁労〔サケ、マス、ニシン、シシャモなど〕、植物採集により得ていたんだ』。
【 シシャモという言葉はアイヌ語のスサム(柳の葉の意)に由来する。神の国の柳の葉が人間の世界に落ちて魚になったとされる。サケは、カムイ・チップ(神の魚)と呼ばれ、サケの回帰性を神が与えてくれたものとみなした。】
ルナ「木の皮の繊維で織った和服に似たアイヌの民族衣装をアツシ(アットゥシ)というわよね」。山崎「アツシには、オヒョウあるいはシナノキの内皮を使うそうだ」。
山崎『しかし明治政府が成立し、多くの和人が移住してくると、森林は伐採され、原野は耕作地となり、狩猟や漁労の権利も奪われてしまったという。これにより彼らは、採集民としての生活が維持できなくなったという。
明治政府は、アイヌの農民化とともに、皇国臣民化を図ったというよ。以来、政策によって日本文化への同化を強いられ、固有の文化を失っていったそうだ。とくにアイヌ語は、日常の会話で全く使われなくなったそうだ。
近年までアイヌに対する根強い差別や偏見があったが、現在では、物質的、精神的ともに、日本人と全く同じ生活を営んでいて、民族としてのアイヌはすでになく、せいぜいアイヌ系日本人となっているともいう人もいるよね』。
ルナ「北海道や東北を、蝦夷地(えぞち)と言うでしょ」。山崎「蝦夷とは、大和朝廷によって異族視されていた北方に住む土着民に対する呼称で、蝦夷地は、時代によりその地域は変化しているよね」。
山崎『アイヌも、近世には、蝦夷(えぞ)と呼ばれたそうだ。アイヌという言葉が一般化したのは明治以降だという。蝦夷は、古代には「えみし」と読み「毛人」とも書かれたらしい。また「えみし」の転訛から「えびす」とも読まれたそうだ。えぞと読むようになったのは平安中期以降だというよ。
えみし、えぞの語源については様々な説があるが、一説によると、アイヌ語の雅語(日常語に対して文章語をいう)の「エンチュ」(人間の意)に由来するという。他には、本来の意味は「田舎(辺境)の勇者」であったという説などがあるようだ』。
N、アイヌの信仰 U〔カムイ〕 ルナ「アイヌの信仰ってどのようなものなの?」。
山崎『まず、ユーカラという神話的叙事詩がある。ユーカラは吟唱するもので、「カムイ・ユーカラ」(神謡)と「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)の2つに大別される。また、鳥獣、植物、火、風などの神々が自らの身の上を語るカムイ・ユーカラ(神謡)、人間の祖先神が自らの功績を語るオイナ(聖伝)、人間の英雄(主にポンヤウンペという少年)の戦闘や愛などの体験記であるユーカラ(英雄詞曲)、主人公が女性のマト・ユーカラ(婦女詞曲)の4つに分けられたりする。
カムイ・ユーカラやオイナによれば、アイヌ神話の国造りの神は、コタン・コル・カムイ〔コタンは村や里や集落。カムイは神や神霊の意〕で、この神は巨人神で鯨を串刺しにしてあぶったりする。妹神とともに、大海に陸地をつくり、山や川、人間、動物、植物などを創造し、天上界に帰ったとあるそうだ。
天上界は神々の生活の場〔カムイ・モシリ〕で、ここの支配者は、カント・コル・カムイ〔雷神カンナカムイと同一とする説もある〕で、この神の指示によって、地上世界の創造されたという。
アイヌの世界観には、神々の世界(カムイ・モシリ)、人間の世界(アイヌ・モシリ)、死後に行く(ポクナ・モシリ)があり、死後に行く世界は、地上と同じ様相をしていると考えられていて、主神的な存在は見られないそうだ。
天上界から人間界〔アイヌ・モシリ〕に、生活の知恵や文化を授けた神は、アイヌラックル(人間的な神の意)という始祖神(アイヌ人の祖)で、オキクルミ、アエオイナカムイ、オイナカムイ、オキキリムイの別名を持つ。
この神は、脛(すね)の中に、稗(ひえ)の種を隠して、地上に降り、人間に穀物を授け、狩猟、漁労、耕作、薬草につていの知識、家や舟の作り方、彫り物、機織り、刺繍、神の祀り方や祈りの詞(ことば)などの信仰の儀礼、争いごとの解決法など生活の全てを教えたという。また地上の悪神を退治している』。
ルナ「日本語の神とカムイ〔神威や神居と当て字する〕は関係あるの?」。山崎「共通の祖先語から生まれたという説もあるようだよ」。
山崎「そのカムイ(神霊)が、動植物や自然現象、さらには人工物など、あらゆるものに宿っているというのがアイヌの世界観だね」。ルナ「アニミズムね」。
ルナ「他はどのような神がいるの?」。
山崎『太陽(チュプカムイ)、雨乞い(ホイヌサバカムイ)、雷(カンナカムイ)、狩猟(ハシナウックカムイ)、幣柵(ヌサコルカムイ)、月、風、雪、山、川、湖、草木、鳥獣、魚、虫、火、舟、疱瘡などの神々が祀られるという。
カムイ・ユーカラでは、これらの神々が、自分の来歴や体験などを語り、人間に対する位置づけや祀られるゆえんなどを明らかにしているそうだ。
水の神(ワッカ・ワシ・カムイ)や、魚(チェプコルカムイ)を与えてくれる川の神(ペトルンカムイ)はとくに重要で、また多くの祭儀では、火の神(アぺ・カムイ)がとくに尊ばれるというよ。火の神は人間の言葉を神の言葉に変えて、諸神に伝えてくれるため、どんなカムイに祈りを捧げる場合でも、原則としてアペ・カムイへの礼拝がともなうそうだ。
舟や家をつくる材料となるシランパ・カムイ〔樹木の神霊。樹木の集合である山をも意味した〕には、材料となる良い樹木には良いカムイが、ならない樹木には悪いカムイがいるとみなしたそうだ。
家にも、家の守護霊(チセコロカムイ・家の東北角に存在)、囲炉裏の霊〔アペ・フチ・カムイ。アペは火、フチは老婆の意味で、老婆の姿をした神〕、夫婦の霊(エチリリクマッ・家に入って入口すぐ右の柱に存在)などがいるとされたという。
また、陸、海、空のそれぞれに、最も重要な動物神がいる。陸ではキムン・カムイ(山にいる神)であるヒグマ、海ではレプン・カムイ(沖にいる神)であるシャチ、空ではコタン・コル・カムイ(集落を護る神)であるシマフクロウだ。他には、鹿の霊(ユッコルカムイ)、狐の霊(キムンシラッキ)なども信仰されたようだ。
さらに、人間に幸をもたらすピリカ・カムイ(善きカムイ)と、人間に災をもたらすウェン・カムイ(悪しきカムイ)がいる。流行病や天災は、悪しきカムイとされる。疱瘡(天然痘)や流行病を司る神は、パヨカカムイまたはパイカイカムイといい、この神の射た矢の音を聞いた者が疱瘡になるそうだ』。
O、アイヌの信仰 V〔イオマンテ〕 ルナ「イオマンテ(熊神送りの祭儀)ってよく聞くけど…」。
山崎『イは「それ(神霊)を」、オマンテは「行かしめる」の意味で、飼育した子熊(ヒグマ)を殺し、その霊魂であるカムイを神々の世界(カムイ・モシリ)に送り届ける祭儀だというよ。なお、親熊を狩りで殺した場合、その場で解体し、霊を送るけど、これはカムイ・ポプニレ(カムイを発動させる意)というそうだ。
カムイ・ポプニレは、祭壇を設えてヒグマの頭部を祀る。これは、殺された直後の獣(熊以外の動物も)のカムイ(霊魂)は、両耳の間に留まっているので、これを神々の世界に送り返すからだというよ。
但し、人間を傷つけたり殺したりした熊は、細かく刻んで大地にまいたり、ゴミと一緒に燃やしてしまい、ポプニレを行わないため、こうした熊の霊魂は神の世界に帰れないそうだ。
春先、まだ冬眠から目覚めない熊を狩ると、冬ごもりの間に生まれた子熊がいる場合がある。この子熊を集落に連れ帰って飼育する。はじめは、人間の子供と同じように家の中で育てるそうだ。1、2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な祭儀(イオマンテ)を行う。
花矢(木を装飾的に削ってつくった矢)を射かけ、最後に本物の矢を心臓に打ち込み、さらに丸太の間に首を挟んで屠殺するそうだ。遺骸は一定の様式に従い、頭だけを残して解体される。頭部はポプニレ同様、イナウ(木幣)や酒を供え、祈りを捧げて、霊魂を神々の世界に送り返す。肉は人々にふるまわれるそうだ。
アイヌの人たちは、イオマンテを行うことにより、再び熊神が、自然の恵み(毛皮や肉)をもって、人間の世界に訪れてくれると考えたらしい。
なお、熊神の他、主要な動物神〔シマフクロウ・キツネ・タヌキ・カラスなど〕を送る場合もイオマンテと呼ばれ、クジラやシャチを対象とするイオマンテもあるそうだ。一部の地域では、シマフクロウ〔北海道には130羽しかいない。日本では1971年に国の天然記念物。93年に希少野生動植物種に指定〕のイオマンテが重視されるという』。
翔「イオマンテは、生贄(いけにえ)を神に捧げて守護を願うというものや、人間の罪を動物に着せてあながわせるといった贖罪信仰とも違うみたいだね」。
山崎『アイヌの信仰は、アニミズム的な側面が強い。自然物、人工物、人間に関わるものであれば全てに神霊(カムイ)が存在すると信じられていた。神と霊との関係は、樹を切るときには、その霊を森の神に送り返すといったもので、同様に、使わなくなった食器は、捨てずに特定の場所にもっていき、器や皿の霊を神の世界へ送り返す。葬式では、死者の霊とともに副葬品の霊が他界へ行くように、副葬品を壊したり破ったりするそうだ。イオマンテもこうしたところからきていることが分るよね。
カムイは、カムイ・モシリという神々の世界からやってくる。このカムイ・モシリは、天上界にあると考える場合と、山の獣であれは山の奥に、鳥であれば天界にあるといったように生活の場から想定される場合とがあるようだ。
カムイ・シモリでは、カムイは、人間と同じ姿で、人間と同じように、料理をしたり、彫り物をしたり暮らしているが、人間には見ることができないという。カムイが人間界になにかの理由(シマフクロウなら村を護るため)でやってくる場合、人間に見える衣装を身に付ける。火のカムイなら赤い衣装を、クマなら黒い衣装を身に付ける。これが人間には炎に見えたり、毛皮に見えたりするそうだ。
クマは毛皮と肉という土産をもって、気に入った人間の家を訪れる。狩猟はこれを迎える行為だというよ。本人が心が美しいと熊が好意をもって訪問してくる。猟運とはこれをいうそうだ。
なお、熊やキツネを先祖とする家も多いそうだけど、これをトーテムの残存とするかどうかについては考えが分かれているらしい』。
P、アイヌの信仰 W 翔「偶像は作られたの?」。
山崎『アイヌの信仰は、神殿やら神の像やらは作らない。祭儀では、イナウを用いる。例えばイオマンテでは、熊神の祭壇を中心に、森の神、水の神、狩猟の神、氏神、農業神、祖霊などの祭壇が設けられるそうだけど、祭壇とは、イナウを立てる並べる柵だというよ。
また祭壇は、家の脇にも設けられていて、祭儀ごとに酒を供え、祈りを捧げるそうだ。 【 イナウ… 木幣(もくへい)。通常は、ヤナギを使用。ミズキや、キハダ(ミカン科)で作られたものは上等とされ、肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、黄色いキハダのイナウは金に変るとされる。捧げる神によって種々の形がある。
一例をあげると、直径が3センチほどのヤナギやミズキの枝を採集し、70センチほどの長さに切り、皮を剥ぎ、乾燥させる。乾燥したら、表面を削り、先端部あたりにふさふさと飾りたらす。イナウ作りはアイヌの男性の大切な仕事とされ、イオマンテなど重要な祭儀には、泊りがけで集い、イナウを作成したという。】 また、アイヌには神官のような人は存在せず、成人男性であれば誰でもカムイへの儀礼ができなければならないという。一方、女性はふつう火の神以外には祈りを捧げられないそうだ。参加できない祭儀も多いようだ』。
Q、アイヌの信仰 X〔コロボックルと日本人の起源〕 翔『「コロボックル」ってアイヌの説話に登場する小人だよね』。
山崎『地面を50センチくらい掘って屋根をかけた竪穴住居に住むというよね。また、コロボックルとはフキの葉の下に住む人の意味で、フキの葉の下に2〜3人(10人とも)入れる大きさだそうだ。
漁が得意で、笹の葉を合わせて作った舟で漁に出て、多くの舟が力を合わせてニシンなどを捕り、クジラも捕るそうだ。北海道の原住民で、アイヌの家にやってきて物品を交換したりするという。
人類学者の 坪井正五郎〔1863〜1913・東大理学部教授。日本人類学会の創設者〕が、1887年(明治20)に「コロボックルは日本列島の先住民で、アイヌに追われた」と主張し、「日本人の先住民はアイヌである」(当時の主流の説)と主張した 小金井良精〔よしきよ。1858〜1944・東大解剖学部教授。日本解剖学会の創設者〕と激しい論争を展開したそうだ。
これを「コロボックル論争」「アイヌ・コロボックル論争」という。この論争によって、日本人の起源の研究が飛躍的に進歩したというよ。
小金井は、人骨の実証的研究から坪井の間違えを証明し、彼の「アイヌ先住民説」は、修正をなされながらも現在に至っている。つまり、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。沖縄の人たちも、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。
しかし小金井は、縄文時代の先住民のアイヌは、弥生人(日本人)が海外から渡来したことによって、北へと追いやられたと考えたが、これはその後の研究によって、弥生人も基本的には縄文人に由来することが分り、間違えのようだ。
縄文人は、本州では、大陸から農耕文化が入ることによる生活の変化や、西からの遺伝的影響によって体質を大きく変えて弥生人となったが、北日本では、北からの遺伝的影響を受けながらも、漁猟採集を中心とした生活が続き、本州ほど体質を変化することなくアイヌとなったというのが現在の見方のようだね。
なお、縄文人は、2〜3万年前(後期旧石器時代)に、アジア大陸から陸橋を渡ってやってきたモンゴロイド系の集団が、海面が上昇したことで、日本列島に長期に亘って閉じ込められ、その結果、特殊化したものだというよ』。 http://shinri809.com/sono13.html
▲△▽▼ ポリネシアは広大な空間を占める海洋と島々の世界であるにもかかわらず,島ごとの偏差を越えて,言語と文化の共通性がいちじるしい。これは,ポリネシア人がいまでこそ広漠たる大洋に散在する多数の島々に分散居住してはいるものの,もと一つ源泉に出たものであるからにほかならない。 相手かまわぬ乱暴狼籍とはいかないまでも,ポリネシアのあちこちに散見される習俗として,死者の財物を破壊する行為がある(Williamson 233−287)。この場合,破壊される財物には二種類ある。そのひとつは死者が病臥中に使用していたか,あるいは死後その屍体に触れるかしていた品々であり,他はそうしたことにかかわりのない,死者の生前の所有物すべてである。 前者に関しては,たとえばマルケサス諸島(Handy 1923:111)やタヒチ(Oliver 1974:494)では,死者が病臥中および死後に触れていたもの一一ベッド,マット,衣料,食器等々 のいっさいが焼却された。マルケサスでは,死者が病臥していた住居さえもが焼き払われた。 こうした焼却は,浄化の火によって死の不浄を除去するため,と土着宗教の司祭によって説明されている。 ところが,このような,死者が死の前後に触れるか使用するかしていた品物の,焼却による破壊とは別に,生前の身の回り品や道具類を破砕することもあった。タヒチのある女性首長が死んだおり,彼女の身の回り品や特別に愛着のあった品々を,遺体とともに墓所に納めたが,そのさい,それらの晶々は,こなごなに壊したうえで納められた,というロンドン伝道協会宣教師の手になる,19世紀初めの記録が残されている(Oliver 1974:494)。 破壊する品がそれだけにとどまらず,故人の所有にかかる耕地や樹木にまでおよぶばあいもあった。たとえば,ッアモッ諸島では,死者がでると,人びとはただちに死者の持ちものを燃やすばかりか,彼の畑も壊わし,彼のココヤシの木を伐り倒した(Williamson 1933:275−276)。ニウエ島でも,死者のすべての畑が殿たれ,ココヤシをはじめとする果樹類が伐り倒されたうえ,海に投げ捨てられた(WHliamson 1933:278)。 こうした破調行為の理由として,これまでになされてきた説明には,4つのものがある。 その1は,死者(の魂)が死後においても生前の財物を用いうるよう,それらの財物を所有者同様に死なせて(破壊して),財物の霊質だけを死者に同伴させる,というもの。 その2は,死者に生前属していたものはすべて,それが死の前後に死者によって触れられたと否とにかかわらず,死霊がとりついていて危険きわまりないから,というもの。 その3はゴ邪術によって死者の霊を操作しようと待ちかまえている敵対者によって,死者の遺品が邪術の手段に悪用されることを妨げるため,.というもの。 そして最後は,以上の諸説と違って世俗的な説明である。つまり,死者の遺品が他人に盗まれてその所有物にされることを防ぐため,というものである。 これらの説明は,資料採集者もしくは研究者の解釈というだけでなく,その慣習をもつ人びと自身の説明でもある。どれもがもっともらしく,にわかにどれか一つに決定的理由をしぼることは困難である。 畑や果樹まで含めて,死者の財物を破壊するこの慣習は,一見ハワイの場合との類似を思わせるが,つぎの諸点で根本的に相違しているとせざるをえない。 ハワイのばあいには,その慣習の契機となる死者は,原則として王もしくは首長にかぎられる。誰が死んでもというわけではない。他方,破壊の対象とされる財物は,死者のものだけにかぎられない。相手かまわず誰のものでも,手あたりしだいに破壊の対象とされ,破壊ばかりか掠奪されたり放火されることもある。さらに,攻撃が人間にむけられ,傷害や殺人さえおこなわれることもある。まったくの無法・無秩序状態の現出といってよい。こうみてくると,ハワイのばあいを,ポリネシアにかなり一般的な,死者の財物破壊の慣習の,一変異とみなすことはとうていできがたく思われる。他に類例を求めねばならない。 首長の死に続く無法・無秩序 サモアとタヒチの事例
捜してみると,ハワイのそれによりょく似た慣習を,サモア諸島のサヴァイイ島にみいだすことができた。 サヴァイイ島では,首長が死ぬと,戦士たちが首長の遺体を野外に引き出し,これを担って「おおわが首長よ,あなたはわが君主」と歌いながら村のうちを巡回し,行きあたった豚を殺し,カヌーを壊しというように,見つけるかぎりの財物すべてを破壊した。それで,村はあたかも戦争で掠奪されたかのような光景を呈した(Williamson 1933:240−241)。 ウィリアムソンは,この破壊はおそらく首長の霊魂のためになされたのであろう,と解釈している。この報告では,ハワイのばあいによく似てはいるものの,傷害や殺人について触れるところがない。ハワイでは,そうしたことさえもおこなわれたというのである。ところが,こんどは,サヴァイイ島の事例とは逆に,破壊や掠奪こそともなわないものの,傷害が通常のことで,ときとして殺人にまでいたるという例が,タヒチを含むソサイエティ諸島にみられる。これについては,ハワイの事例を報告したエリス自身をはじめ,多くの情報提供者がある)。それらによれば, 大首長が死ぬと,親族と従者の若者たちが,腰帯をまとうだけの裸体となり,その体を赤,自,黒に彩色して,見るからに恐ろしげにつくり,司祭を先頭に領土内をねり歩いた。司祭はすっぽりと頭部を掩う仮面をかぶるほか,全身を着飾り,手には2枚の真珠貝でできたカスタネットと,サメの歯を植えこんだ長さ1メートル半もの大鎌とを携えていた。若者たちは手に手に槍や棍棒をもち,それを回しながら行進した。もし,彼らの行手を横切ったり,無礼とみえる態度を示す者があれば,たちどころにこれを打ちすえ,あるいは斬りつけて,ときには死に至るまでの傷害をおわせた。 このため,彼等の接近を知らせる司祭の鳴らすカスタネットの音は,村の人びとの恐怖心をかきたてた。村を通過するとき,司祭は手にした大鎌で家の壁を激しく叩き,屋内の人びとを怯えさせた。屋内の人びとは,じっと息をひそめて,彼らの通過が少しでも早かれと願うばかりであった。 戸外の人びとは,身の安全をもとめて,マラエ(土着宗教の祭祀場,神域)に逃げこむのであった。マラエだけが,いかなる暴徒といえども乱入をはばかる「聖域」だったからである。 こうした異常事態は,1∼2週間からときには数ヶ月もつづく。その期間が長ければ長いほど,それだけ死者が喜ぶと信じられていたのである。やがて,遺族の意志によって終燃することとなるが,そうはならずに,戦争にまで発展することもあった。他の地域の人びとが鎮圧にのりだしたばあいである。双方に同盟者が加担して,全土をまきこむ深刻な戦乱になることさえあった。首長連中の仲介によって戦乱が収まるまでには,多数の戦死者がでた。司祭が仮面をぬぎ,服装を変えると,これが戦争終結の合図となって,平和が回復するのであった。 この異常な慣習は,ヨーロッパ人との接触以後にもつづき,暴行に用いられる武器に,新たに導入された火器まで加わったという。そこまで狂暴化するこの慣習の意味について,18世紀の末にタヒチを訪れた,南海の探検史上有名なイギリス船バウンティ号の,掌帆良種を務めていたジェームズ・モリソンは,親族の死のために悲しみのあまり狂気に駆られた行動,と述べている(Oliver l974:502)。モリソンの解釈だけでなく,島民自身にもぞうした見方があったようで,それは,こうした暴挙を演じる若者たちが,ネネヴァ(「無意識」とか「錯乱」の意)という名称で呼ばれていたことから推測される。 しかし,かりに錯乱からでた行動であったにしても,それが一定の様式にしたがってなされていることからみて,儀式化された錯乱であったことは明らかである。 エリスの説明はまた別で,死者が生前にうけた侮辱への報復と,遺族にたいする無礼への懲罰とのために,その人びとは死者の霊にのり移られたものと考えられていた,と述べている(Ellis 1831:414)。報復とか懲罰ということはさておき,この暴挙への参加者の異様な扮装,とりわけ司祭の仮装は,死者の霊を象徴しているようにも思われる。 エリスはまた,これが戦争をはじめる手段として利用されたという,政治的な意味も指摘している。 無法・無秩序を演出する理由一ひとつの仮説一
エリスがハワイについて記述した,王や首長などの社会的に高い身分の人びとの死にともなう,慣習としての無法・無秩序状態の意味を探るために,ポリネシア諸地域に類例を求めてえられた結果が,上に述べたサモア(サヴァイイ島)とソサイエティ諸島の事例であった。さきに触れたように,前者では無差別な財物の破壊だけで,人にたいする危害はなく,後者にあっては逆に,人の危害だけで財物の破壊をともなわない。しかし,どちらのばあいも,けっして衝動的な暴動・暴行というようなものではなく,それなりの形式にしたがっている。サモアの例では,首長の遺体を担い,一定の文言を唱和しながらということであったし,ソサイエティ諸島のばあいでは,いっそう形式化しており,暴徒のスタイルを含めて始まりから終わりまでが一定の型にはまっている。 この両者にくらべてハワイのばあいは,エリスの記述にしたがうかぎり,掠奪,破壊,放火,傷害,殺人といった乱暴狼籍のかぎりがっくされ,文字どおりの暴動の印象をうけるのである。 しかし,それにもかかわらず,そうした事態の起こるのは,首長など高位の人物の死去にさいしてだけであり,ある期問,日常の秩序が失われ,無法がまかり通るという点では,ハワイもサモアやソサイエティ諸島のばあいにことならないのである。つまり,ことの本質において,ハワイ,サモア,ソサイエティのそれぞれの慣習は同じである。 この同一性,あるいは一致を,この慣習がそもそも高位の人の死にともないがちな性質のものであり,それゆえに各地域に独立に成立し,結果的に一致を示した,とみることもできよう。しかし,いまのばあい私は,三地域間の一致を,歴史的な関連にもとつく結果であることまちがいないと考えている。それは,三地域間に民族移動の とくに,ソサイエティ,ハワイ問のそれは西紀12世紀ごろという比較的新しい時代に あったことが,先史学的に立証されているからである。 ハワイでは,暴徒が裸のままで走りまわったというが,ソサイエティ諸島でも暴徒の若者たちは腰帯一本の裸体となった。ソサイエティ諸島では,人びとはマラエ(〃研α6,伝統宗教の祭祀場,神域)に難を逃がれたが,ハワイでもキリスト教の教会領が避難所とされた。 ハワイにも1819年の伝統宗教の放棄以前には,ソサイエティ諸島のマラエにあたる,ヘイアウ(加’α枷)と称する祭祀場があちこちにあった。キリスト教以前の伝統宗教の時代であったならば,おそらくヘイァウが避難所とされたことであろう。こうした類似からも,その暴力的慣行が同根であることを疑うわけにはいかない。エリスの記述で一見無統制な暴動を思わせるハワイのそれにも,やはりなんらかの形式があったのではなかろうか。エリスの聞きもらしか,あるいは,のちの変化で失われたか,本来はサモアやソサイエティ.諸島と同様に,演出された無法・無秩序であったにちがいない。 さて,それならば,この慣行にはどのような意味があったのであろうか。すでにこれまでに,ウィリアムソン,モリソン,そしてエリスの説を紹介してきた。そのどれをも,誤った解釈であるとして,否定するだけの積極的根拠を私はもたない。それぞれになるほどと思わせるものがあり,各説相互に矛盾するわけでもないから,むしろ柑補弼に理解することが妥当なのかもしれない。 しかしながら,そうした解釈とは別に,より深いところで,この慣行の意味をとらえることも可能なのではないか,と私は考える。 エリスの著書にハワイのその記事を読んだとき,まず私の頭に浮かんだことは,『古事記』に語られた天岩屋神話であった。つまり,アマテラスが岩屋にかくれた結果,世がヨロズワザワイ コトゴト闇となり「……萬の妖,悉に昇りき」という条である。天岩屋神話が,神話の類型学からみて日蝕神話に属するにしても,上に引用した句は,明らかにアマテラスが世界秩序の体現者であり,彼女の姿が失われるとき,世の秩序もまた失われることを物語っている。いうまでもなく,アマテラスは太陽神であり,あらゆる生命の源泉,世界の秩序の体現者と観念されて少しもおかしくない。 このあと,すぐに述べるように,ポリネシアでは大首長がそのような存在と考えられていた。アマテラスが神話上の存在であるのにたいして,ポリネシアの大首長は肉体をそなえた実在であるという違いはあるものの,観念的にはポリネシアの大首長もまた,生命の源泉であり,世界の秩序を体現した存在であった。であればこそ,大首長が死をヨロズ ワザワイ迎えるとき,世の秩序は失われ,アマテラスが天岩屋にかくれたおりと同様な「萬の妖,コトゴトオコ悉に発」る情況が演出されなければならなかったのであろう。そうした情況を続出せず,ただひたすら厳粛,静謹のうちに大葬が運ばれるならば,そのことはかえって,世界秩序の体現者としての大首長の本質を否定することになるのではないか。 ここで当然に想起されるのが,フレイザーがその昔『金枝篇』の中にはじめて集めたことで有名となった,「王殺し」の諸例である(Frazer 1890)。 このばあいには,人の世の繁栄を維持するために,少しでも体力の衰えをみえた王,あるいは一定の統治期間のすぎた王は,みずから生命を断つか,拭殺されるかしなければならなかった。これは王があらゆる力の源泉と考えられたがゆえにほかならない。帝威衰えるとき天変地異あり,という東洋に古くからみられる思想も右に同じである。 ポリネシアのばあいも同様であり,ただ,ここでは慣行が,フレイザーの諸例とことなる形態をとって発現した,ということなのではないか。 ポリネシアの大首長の本質
さて,ポリネシアの大首長の本質についてである。これについては,ポリネシア人の宗教観念の基本にある,マナの観念から説明を始めなければならない。 マナというのは,精霊や霊魂ともことなって,いわば世界を運行させる原動力ともいうべき超自然力の観念である。作物の成長,家畜の繁殖,海や山からの豊かな収穫,人びとの繁栄,そして人の世のあらゆる企ての成功をもたらすものがマナである。ひとりポリネシアにかぎらず,このマナの観念は,南太平洋諸民族のあいだに広くみられるが,ポリネシアでは,身分制と結びついて特異な発達をとげていた。 ポリネシア人の観念では,マナは生物,無生物を問わず,万物に宿っている。ただし,宿っているマナの量はけっして一様でなく,個々の宿主ごとにことなる。マナをごくわずかしかもたない存在もあれば,大量にもっているものもある。マナとはこのようなものであり,こうしたマナをもっとも大量に,というよりも無限に宿した存在が神であった。神はマナの源泉といってよい。 ところで,ポリネシアではマナはけっして一代かぎりのものでなく,系譜的に継承もしくは相続されていく。そのばあい,なにごとによらず長子優先のポリネシア社会では,長子が祖先のマナをもっとも大量に相続し,他は祖先からの系譜上の位置の遠近に応じて,それなりのマナを相続するものと考えられていた。 ポリネシアの社会は,大きく貴族と平民両落分層から構成されていたが,この二つの身分層を区別する規準は,神の系統に属するか否か,ということであった。いうまでもなく,神の子孫にあたるものが貴族である。この氏族のうち,代々にわたって長子継承の原則にもとつく神の直系の子孫こそが大首長にほかならず,彼は前述したマナ相続の原理にしたがって,神のマナをもっとも大量に身に宿した存在,つまり現人神ということになる。 大首長のこのような本質を理解してみるならば,その死にともなって,社会の一時的な無法・無秩序状態が演出されたとして,けっして理解できぬことではあるまい。ハワイ,サモア,ソサイエティ諸島の准例を,私はそうしたものと解釈したい。 なお,ここで私が大首長と称したものは,首長国(chiefdom)の頂点に立つ首長(chief)のことであって,首長国を構成する諸小集団それぞれの長のことではない。後者もまた首長と呼ばれうるので,それらと区別するために,ことさらに大の字を冠したわけである。土地の言葉でも,たとえばハワイ語では,アリイ(髄)という言葉で首長一般をさすほか,これに「大」を意味するヌイ(nui)を付してアリイ・ヌイ(alii nui)をとくに区別することがある。英語文献では,私のいう大首長を,paramount chiefまたはthe highest chiefと表現することが多いが, chiefとだけ記して,区別の曖昧な例も少なくない。 ウィリアムソンが引用したサモア(サヴァイイ島)の例に語られている首長は,大首長のこととみてまちがいあるまい。エリスもまた,ハワイの記事で「王や首長」と述べているが,この首長も大首長であること疑いない。ハワイ王国は,その群島の各地に割拠分立していた多数の首長国を,カメハメハ大王が1810年に征服・統合したことによって成立したもので,カメハメハ大王もその前身は,ハワイ島かぎりの大首長にほかならなかった。したがって,エリスによって王に併記された首長は,とうぜん,王国成立以前のかつての諸首長国の長,つまり大首長をさすものと考えて誤りないであろう。 エリスは,ハワイにおいて,王母の死去にさいしても,無法・無秩序状態のおこることを人びとが懸念して,避難さわぎのおこったことを目撃している。じっさいには,そうしたことはおこらなかったのであるが,もし人びとの懸念が思いすごしではなく,正当な予想であった ということは,キリスト教以前であればとうぜんにおこった とするならば,死につづく無法・無秩序の慣行は,ひとり大首長の死去のばあいだけにかぎらず,大首長に準ずる高位の人の死にさいしてもみられたこととなる。かりにそうであったにしても,私は,サモアやソサイエティ諸島の事例にてらして,ハワイのそれは,この慣行の真意が忘れられた結果としての拡大現象であると考えたい。 最後に,この慣行が,ときとしてポリネシアで葬儀にともなう模擬戦とは別ものであることを,付言しておきたい。これもまた,大首長の死にさいしての慣行の一つにはちがいないが,模擬戦では,遺族側の集団と,近隣からの弔問者の集団とのあいだで,儀式的に戦闘が演じられるのであって,暴徒が一方的に荒れ狂うのではない。その意味についてここでは立ちいらないが,この慣行が,本稿の主題としたそれとは別ものであることだけを,念のためにここに書きそえておく。 http://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:W5fs8-SrRusJ:ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/1875/1/SER59_004.pdf+%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2+%E6%AD%BB%E9%9C%8A&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESjEtS4plalExa8V1OWH7eQYsuzpbBxPVQF82TcN3daLeBxtTdQJmY3VkFgeFF9Y7kz3n3TyZCc1AvEbyPq7A9_Dzi0yTmn1j7B3tKkGM9WXxkq5CHKbE8ypelFUbr3_I5SepDaP&sig=AHIEtbQlJ-_RC-hifQKdGt0DC5vBXSkGTw
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