【白人文化 X】 @d アウシュビッツの真実 - YouTube 動画 https://www.youtube.com/watch?v=EV7nMcajBrs▲△▽▼ アウシュヴィッツの大量殺戮装置 ジャン‐クロード・プレサック、ロベルト‐ヤン・ファン・ペルト 歴史的修正主義研究会試訳・抄訳 最終修正日:2003年5月1日 http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm
本試訳は当研究会が、研究目的で、Jean-Claude Pressac withRobert-Jan Van Pelt, The Machinery of Mass Murder at Auschwitz, Anatomy ofthe Auschwitz Death Camp, edited by Y. Gutman and M. Berenbaum,IndianaU.P.を試訳したものである。ただし、167にもおよぶ脚注は、ほぼすべてがアルヒーフ資料の典拠番号であるので、歴史叙述に直接関係しているもの以外は、省略した。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の焼却棟とガス室の設計、建設、使用、改造、破壊。 本小論は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでドイツ人がユダヤ人その他に対して採用した絶滅装置の歴史である。これは、アウシュヴィッツの収容所に建設されたナチス親衛隊の建設局の文書を10年間にわたって研究したことにもとづいている。これらの資料の3分の2はモスクワに保管されている。それらは1945年にソ連軍によって捕獲されてから、ソ連の解体までは研究のために利用できなかった。残りは、アウシュヴィッツ国立博物館の所有物としてアウシュヴィッツに残っていた。 ベルリンの壁が崩壊した年(1989年)、プレサックは、アウシュヴィッツのガス室と焼却棟の建設の歴史を扱った本を発表した(注1 Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chamber, trans. Peter Moss (New York, 1989).)。それは、オスヴィエチム(ポーランド)、コブレンツの連邦文書館(ドイツ)、ヴァイマールの国立文書館(当時は東ドイツ)、ヤド・ヴァシェム文書館(イスラエル)の資料にもとづいていた 。そして、ソ連(今日ではロシア)中央文書館の資料の研究が可能となったのは、1991年であったので、著者の以前の結論のいくつかは修正しなくてはならなかった。 1928年、ハンブルクからの二人の技術者ハンス・フォルクマンとカール・ルードヴィヒが新しい種類の焼却炉の特許権を出願した。それまでは、標準的な焼却炉は、棺を受け入れる加熱室もしくは炉室と燃焼器から構成される中心部を持っていた。この中心部に加えて、燃焼ガスからの熱を熱交換機を介して炉室に戻す節約機があった。節約機は、焼却の初期の過程で燃焼器を閉じ、燃焼をすでに炉に吸収されたエネルギーで続けることを可能にした。しかし、問題点もあった。節約機は燃料を節約したが、建設費用が高価であった。積み重ねられた回路の複雑なシステムは、炉全体の3分の2以上も占めた。フォルクマンとルードヴィヒは、扱いにくい節約機を、圧縮された冷気を炉室に送り込むことにもとづくもっと安価なシステムで置き換えることで、コスト軽減を目指した。 特許権は期待された富をもたらさず、1934年までに、フォルクマン・ルードヴィヒ・システムはドイツのマーケットから姿を消した。しかし、別の会社がこの考え方に資本を投資することができた。工業用溶鉱炉で有名であったエルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社の焼却棟建設部の技術者クルト・プリュファー(図1)がフォルクマンとルードヴィヒのアイディアを採用し、1935年には、トップフ社は、様々なドイツの焼却棟に、節約機ではなく圧縮空気を使った7つのガス燃料炉を設置した 。 図1:クルト・プリュファー、トップフ・ウント・ゼーネ社の技術者、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の炉の建設者。State Archives Weimar, file 2/555a.
トップフ社の焼却炉は名声を博し、1937年には新しいマーケットが開拓されていった。5月、ミュンヘンのSS指導部は、ダッハウの強制収容所に焼却棟を建設することを決定し、炉の入札を行なった。それまで、ナチスの強制収容所は、収容所で死んだ囚人の遺体を焼却するために近くの町の焼却棟を使っていたが、収容所の死亡率が、民間の焼却棟の処理能力を超えることもしばしばであったからである。 アラクのヴァルター・ミューラー社がSSの入札に応じた。この会社は、地元のSSの宿舎やダッハウのSS訓練キャンプの中央暖房システムを建設するなど、ミュンヘンのSSと緊密な関係を持っていた。ミューラー社は、節約機なしで圧縮空気装置を持った1炉室炉の建設(図2)を提案した。そのコストは9250マルクであり、1937年当時は3700ドル、今日では37000ドルほどに等しい。
図2:ダッハウの焼却棟に使うために、ヴァルター・ミューラーが提案した、大理石のネオ・ギリシア風切妻壁をもつ1炉室炉。Archives of the Memorial Place, Dachau,file 943. ミューラー社は、使用頻度を増やせば多くの節約が可能であると主張した。冷たい炉は新しく焼却を始めるにあたって175kgの石炭を必要とするが、前日に使用されていれば、わずか100 kgですむ。同日の二回目、三回目の焼却は、圧縮空気のおかげで、余分な燃料を必要としないであろう。それ以後の焼却には、少量のエネルギーが必要なだけであろうというのである。しかし、ミューラー炉は建設されなかった。収容所の大規模な再編成が優先されており、ダッハウその他の収容所に焼却棟を設置するという考えは、一時的に放棄された。 1939年春、焼却棟問題は、ふたたび焦眉の課題となった。このときまでに、ベルリンの新しい事務局が、強制収容所でのSSの建設活動を統制するようになっていた。このSS中央予算建設局は焼却棟の建設と稼働のための資金を持っており、トップフ・ウント・ゼーネ社にダッハウの契約を与えた。プリュファーは、強制収容所には、ミューラー社が提案したような、大理石のギリシア風の切妻壁で装飾された頑丈な民間用の炉は必要ないことを知っていたからである。そのかわりに、プリュファーが提案したのは、二つの炉室、燃料オイルバーナー、炉室に圧縮空気を吹き込むシステム、強制通風をそなえたむき出しの可動炉であった。その能力は、1時間で2体であった。SS中央予算建設局は、8750マルク(1992年では35000ドル)であったこの簡素で効率的なモデルを採用した。 炉がダッハウで稼働し始めたのは、プリュファーがブッヘンヴァルトから注文を受けた1939年末であった。ブッヘンヴァルト収容所当局は、1938年6月に焼却棟を設置する必要性を最初に提起していた。エルフルトに近いブッヘンヴァルトはプリュファーの二つの炉のモデルの試験場となった。 最初のモデルは(図3)、ダッハウの可動式モデルの固定式バージョンであった。その基本コスト7753マルク(1992年で31000ドル)は、ダッハウの炉よりも安価であった。この値下げが可能となったのは、ブッヘンヴァルトではSSの提供した囚人労働を利用することができたためであった。SSはまた、セメント、石灰、砂、煉瓦などの資材を無償で提供した。この基本コストに加えて、煙突の強化通風機構に1250マルク(1992年で6000ドル)が必要であった。 M:モーター
Dlg:強制空気送風機 L:死体 m:炉室 Ö:オイル・バーナー Rk:導管 Zv:強化通風 K:煙突 PS:馬力 図3:ブッヘンヴァルトに設置されたトップフ・ウント・ゼーネ社製の固定式2炉室オイル燃料炉の図面。すべての図面はプレサックの作成した図面からものであり、版権は彼にある。 トップフ社がダッハウの炉の建設を始める頃までに、ポーランドがドイツとソ連のあいだで分割された。ドイツは1919年以前の東部領土を回復しただけではなく、第一次大戦以前にはロシア領ポーランド、オーストリア領ポーランドに帰属していた領土を併合した。ここには、オスヴィエチム、ドイツ人のいうところではアウシュヴィッツの町も含まれていた。人口12000名の町は、重要な鉄道交差点に位置しており、ベルリン、ワルシャワ、リヴォフ(レンベルク)、ウィーンと結びついていた。そして、ザソレ郊外には、戦争状態が終わってからは廃屋となっていたポーランド軍の兵営が22あった。 1940年初頭、SSは以前の軍隊の基地に、10000名のポーランド人囚人の検疫のための収容所を設置することを決定した。収容所には焼却炉が備えられることになっていた。SS中央予算建設局は、アウシュヴィッツに可動式2炉室オイル燃焼炉と、フリュッセンベルク強制収容所の炉の見積もりを出すようにトップフ社に要請した。3月、SS中央予算建設局は、それぞれ9000マルク(1992年では36000ドル)で二つの炉を生産するようにトップフ社に命令した。 新しい契約はプリュファーを喜ばせたに違いないが、それは、彼が受け取る2%のコミッションのためばかりではなかった。彼は、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、フリュッセンベルク、アウシュヴィッツにトップフ社の炉を建設することによって、マーケットを広げることができ、それを独占できるかもしれなかったからである。彼の唯一の障害は、コリ社であった。コリ社はベルリンのSS高官と良い関係を持っていたので、ザクセンハウゼン強制収容所に、可動式1炉室オイル燃焼炉を2ユニット設置する契約を結んでいた(図4)。この成功は、その他の受注ももたらした。結局、コリ社は、様々な強制収容所に12の炉を建設した。そのうち5つは、程度の差こそあれよく維持されており、いまだにポーランドに存在している。
図4:ザクセンハウゼンに設置されたコリ社製の可動式1炉室オイル・バーナー炉の図面。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,negative 6671. 1940年5月10日、ドイツ軍は低地諸国とフランスを攻撃し、ガソリン、石油、燃料オイルがドイツでは配給制となった。強制収容所のすべての炉はオイル・バーナーを使っていたので、焼却棟が燃料不足に陥った。コリ社はトップフ社よりもこの新しい事態にうまく対処していた。わずか1ヶ月前、コリ社は、マウトハウゼン収容所に、石炭バーナーを使った固定式1炉室炉を売却する交渉を行なっていた。それは5月5日に稼働し始め、まもなく、稼働している唯一の収容所の炉となった。トップフ社は燃料不足を予見しておらず、炉が稼働を停止してしまったとの理由で、ダッハウとブッヘンヴァルトからの不満の総攻撃を浴びた。トップフ社は、SS中央予算建設局がフリュッセンベルクとアウシュヴィッツの注文をキャンセルするのではないかと悩み始めた。 5月末、アウシュヴィッツ新建設局は、注文中の可動式炉は石炭を使うべきであるとトップフ社に伝えた。プリュファーは、簡単には採用できない可動式モデルに取り組むのではなく、前にブッヘンヴァルトに提供されていた固定式の2炉室炉の再設計を行なうことを決意した(図5)。アウシュヴィッツとフリュッセンベルクの炉には修正がなされた。すなわち、炉と煙突を結ぶ地下の導管の両側に2つの外部石炭バーナーを加えたものであった。
図5:ブッヘンヴァルトに設置されたトップフ社製の固定式2炉室炉図面、石炭燃料に修整。記号は図3と同様。G:石炭ガス放出機。 プリュファーがブッヘンヴァルト・モデルを再設計していたので、アウシュヴィッツ新建設局は6月28日に、旧陸軍基地の古い火薬庫を新しい焼却棟のための建築現場に採用し始めた。もう一人のトップフ社の監督官ヴィルヘルム・コッホが7月5日に到着した。彼らは、スペースを有効に活用するために、地下の排気管に対して、炉を90度回転させることを決定した。20日後、炉がアウシュヴィッツに設置された(図6)。 S:(導管のなかの)調節器
Sz:強制通風 Sch:煙だまり 図6:アウシュヴィッツ・タイプの石炭燃料のトップフ社製固定2炉室炉の図面。排気:1時間4000㎥の煙。 この炉は、1時間に4000㎥の煙を排気する電気式の強制通風システムを備えており、冷気を炉室に流し込む電動通風機を備えていたので、1939年のダッハウのモデルよりも50%も効率的であった。トップフ社でのプリュファーの上司であるフリッツ・ザンダーとパウル・エルドマンは10時間に30−36体を、20時間のサイクルで70体を処理できると見積もっていた。炉は1日に3時間のメンテナンスが必要であった。しかし、炉をテストすることはできなかった。建設局は、10mの煙突を完成させていなかった。8月15日になってやっとすべてが整い、最初の焼却が、のちにアウシュヴィッツTとして知られるようになる焼却棟で行なわれて、満足のいく結果となった。 その後の焼却も問題なく進んだ。だから、任命されたばかりのアウシュヴィッツ新建設局長SS部長シュラヒターは、実験の1ヶ月後に、SS中央予算建設局に、焼却棟が欠陥なく作動していることを伝えている。シュラヒターには、トップフ社に満足するもう一つの理由があった。25%少々も炉のコストを引き上げる炉モデルの根本的改変にもかかわらず、会社は価格の引き上げをしないと決定していた 。余分なコストを愛国的に吸収し、炉の品質を維持することで、トップフ社はさらなる受注の道を開いたのである。 トップフ社は、アウシュヴィッツに設置されたような新しいモデルの炉をフリュッセンベルクには提供しなかった。会社は、もともと合意されていた可動式2炉室炉の建設をエルフルトで完了していたにもかかわらず、7月初頭、補助的な石炭バーナーを備えたこの炉をグーゼンのマウトハウゼン付属収容所に設置すべきであると伝えられた。ブッヘンヴァルト・モデルよりは小さいグーゼン用の炉は、後ろに石炭バーナーをつける余地がなかった。だから、トップフ社は両側にユニットを付け加えたので、幅は倍になってしまった。 プリュファーは、コリ社が影響力を持っていたマウトハウゼンに足場を得たことに喜んでいた。10月末、彼はマウトハウゼンに旅行し、そこで建設局長のSS副官ビュヒナーと会った。彼らは、グーゼンにもう一つの炉を、マウトハウゼンに計画されている囚人収容所にもう一つの炉を建設することを話し合った。プリュファーは、アウシュヴィッツの新建設局が最初と同じような第二の炉を建設することをトップフ社に求めてきていることを指摘して、ビュヒナーに、アウシュヴィッツ・タイプの固定式2炉室炉をグーゼン用に売却した。ビュチナーは、死亡率が1炉室炉か2炉室炉のどちらを求めているのか知らなかったので、囚人病院の炉については関与しようとしなかった(結局は、彼は2炉室炉に落ち着いた)。 1940年12月、アウグスト・ヴィリングがトップフ社からグーゼンにやってきて、可動式炉を設置した 。途中、彼はダッハウにより、既存の可動炉に二つの石炭バーナーを付け加えた(図7)。1941年2月4日までに、ヴィリングはダッハウとグーゼンでの仕事を完了した。二つの収容所は、オイルから石炭バーナーに改造する費用2000マルクを支払わなくてはならなかった。しかし、炉はうまく稼働した。1時間に2体の処理という見積もりの点で、グーゼンの炉(図8)はアウシュヴィッツ・モデルよりも強力ではなかった。しかし、それは満足以上に稼働した。とくに、1941年11月、600の死体を12日間の作業で処理したときにはそうであった。
図7:アウグスト・ヴィリングが2つの石炭バーナーを側面に付け加えたダッハウのトップフ社製可動式炉。
M:モーター Dlg:強制空気送風機 L:死体 m:炉室 Ö:オイル・バーナー Rk:導管 Zv:強化通風 K:煙突 G:石炭バーナーガス放出機 煙の流れ:オイル/コークス→炉室→導管→強化通風→煙突 図8:最初はダッハウに設置され、のちに、石炭燃料に変更されてグーゼンに設置されたトップフ社製2重オイル燃料炉の図面。 アウシュヴィッツでは、焼却棟に第二の新しい2炉室炉を建設する準備が進んでいた。トップフ社は最初のものと同じ価格を提示していたが(7753マルク)、そこには強制通風換気扇は入っていなかった。これは見落としではなかった。プリュファーは、すでに設置されている換気扇で二つの炉には十分であると考えていた。1940年12月19日、プリュファーは第二の炉の場所を決定するためにアウシュヴィッツを訪問した。シュラヒターの代理ヴァルター・ウルバンチュクが彼に同行した。ウルバンチュクは翌年の10月まで焼却棟の建設に責任を負った。彼らは、第一の炉に並んで、第二の炉を建設することを決定した。 プリュファーは、ウルバンチュクに、別のトップフ社員カール・シュルツェを呼んで、二つの炉がきっちりした、換気されないスペースに設置された場合、隣接する検死室と死体安置室にトラブルが生じるかどうか調べさせたらどうかと提案した。ウルバンチュクはこの提案にしたがった。シュルツェは数日間で、検死室と死体安置室から空気を引き出す限定的な換気システムを設置する提案を提出した(図9)。新建設局は、シュルツェに、炉室を修理するわけではないとの理由で、1784マルクの提案を修正するように求めた 。 Sezierraum:検死室(10回の空気交換)
Vorraum:玄関 Aufbahrungsraum:(死体)配置室 Waschraum:洗浄室 Leichenraum:死体安置室(20回の空気交換) So:煙だまり Sz:強制通風 Ofenraum:炉 Kokslager:石炭室 Gebläse:送風機 K:煙突 図9:アウシュヴィッツの焼却棟Tの構造。おそらく、排気システムを始めて配置した図面である。カール・シュルツェが1940年11月30日のトップ社の青写真D.57999にもとづいて1940年12月9日に作成したもの。排気:1時間6000㎥、1.5馬力のモーター。 1941年1月初頭、アウシュヴィッツの焼却棟の第一の炉が壊れ、第二の炉の建設が緊急に必要となった。1月17日、壊れた炉を修理し、第二の炉を建設する資材を積んだ貨物列車がエルフルトを出発した。作業は1月20日に始まり、1ヶ月後に終わった。しかし、トップフ社は、焼却棟の換気のための修正された設計図を送っておらず、建設が緊要となったために、シュラヒターはフリードリヒ・ボース社に目を向けた。ボース社はSSの看守区画に中央暖房装置を設置しようとしていた。換気システムのために必要な資材と技術を持っていたので、ボース社はそれを2月23日から3月1日のあいだに建設した。ゲシュタポのSSペリー・ブロードはそれについて、「(焼却棟の)屋根からでている大きなカーブしたパイプ、それは、大きな騒音をカットし、焼却室(と死体安置室)の空気を清浄にするために設計された換気装置、死体安置室の天井には換気扇があった」と記している。われわれが検証した新建設局の青写真は、ブロードの記述を確証している。 一方、シュルツェは焼却棟のなかの検死室と死体安置室の換気問題に取り組んでいた。これらの部屋は依然として、二つの集合パイプからでたものによって換気されていた。これらのパイプは、天井の隅に入り、排気された煙突の送風機につながっており、1時間に6000㎥の空気を排気した。このシステムは1727マルクであり、シュルツェが行なった修正のためにパイプが短くなったために、最初の装置よりも54マルク安かった。炉のホール(320u)は、4つの開口部を持った垂直のパイプによって個別に換気されていた。それは200番の送風機とつながっており、送風機は75馬力であり、1時間に3000㎥の空気を排気した。これも煙突とつながっており、757マルクであった(図10)。
図10:カール・シュルツェが二番目に設計した1941年2月13日のアウシュヴィッツの焼却棟Tの排気システムの推定構造。排気a:1時間3000㎥、0.75馬力のモーター。排気b:1時間6000㎥、1.5馬力のモーター。D:強制通風、X:(平面から見て)炉の上の吸気パイプ、Y:結合パイプと結び付けられた吸気袖(平面から見て) 暖かい空気について、シュルツェが必要としていたのは、1時間に10㎥という係数だけであった。トップフ社はこの分離した通風を暖かい空気が死体安置室にはいるのを防ぐためと正当化していた。シュルツェの考え方は簡単であった。まったく新しい計画を提出するかわりに、新しい仕様に対応する第二の案を第一の案に足したのである。前の研究にもとづくというやり方は、のちのビルケナウの焼却棟の換気システムを作成するときにも、ルールとなっている。2月15日、新建設局は、この案を否定し、通風は別個の煙だまりを通過するのではなく、炉から直接に煙だまりのなかにはいるべきであると主張した。 2月24日、第三案がスケッチされた(図11)。死体安置室の空気排気は変わらないままであり、5つの垂直吸入装置が水平の集合パイプに結びついており、それらは炉の煙突に向かっていた。検死室の換気は、シャッターのような吸気網ととって代わった。4つの開口部を持つパイプが炉の上を走っていた。3つの集合パイプは、炉室の上で合流し、その流れは、550番の送風機に吸い込まれていた。それは3馬力のモーターを持ち、1時間8300㎥の空気を吹き出し、炉から煙突まで空気を入れた。この装置のための資材は1884マルクであり、その組立資材は596マルクであった。この提案は、3月15日にウルバンチュクによって採用され、彼は、トップフ社にできる限り短期間に、それを製造して運んでくるように求めた。会社は、6ヶ月、あるいは8月15日までかかると見積もった。
図11:カール・シュルツェが三番目に設計した1941年2月24日のアウシュヴィッツの焼却棟Tの排気システムの構造。排気:1時間8300㎥、3馬力のモーター。Z:垂直に置かれた、シャッターのような吸気網。 SS長官ヒムラーは1941年3月1日に初めてアウシュヴィッツを訪問しているが、それは収容所の歴史のなかで分水嶺であった。ヒムラーは、30000名を収容できるまで収容所を拡大し、さらに、近くのビルケナウに100000人を収容できる収容所を建設することを決定した。さらに、彼は、IGファルベンに、メタノールと人造ゴムを生産する工業地帯を建設するために10万の囚人を提供し、収容所地域での農業生産を増大させ、収容所の作業場を発展させることを決定した。ヒムラーはまた、軍需プラントが収容所の近くに設置されるとも述べた。 10万の捕虜がアウシュヴィッツにコロニーを建設するための労働力として使われることになっていた。町とその周辺部をゲルマン化するための膨大な計画では、アウシュヴィッツはパイロット計画であり、東部地区でのその他の収容所のドイツ人・コロニーの苗床であった。1年半にわたって、ブレスラウからの建築技師がこの町の計画に従事した。ナチスが1943年1月31日にスターリングラートで敗北してやっと彼の仕事は終わった。 ヒムラーの計画は、アウシュヴィッツの焼却棟での進行中の活動に影響を与えなかった。第二の炉は、適切な通風装置がなかったので、不満足な結果となった。シュラヒターは、トップフ社との交渉に不満足であったので、問題を自分で解決することにした。煙突の高さを20mに増やしたので、通風装置がふたたび必要となったのである。 もう一つの厄介な問題は、収容所の政治部長SS少尉マキシミリアン・グラブナーが近くで生活していることから生まれた問題であった。グラブナーは、焼却棟のすぐ後ろの建物をゲシュタポの尋問のために、また死体安置室を処刑のために使っていた。二つの炉が稼働しているとき、それは日常的に大量の熱を排出したので、死体安置室から空気を排気するはずである換気システムは、その中に炉室から熱風を送り込んでいた。これを避ける唯一の方法は、死体安置室から換気システムを切り離すことであるが、暑い夏の空気のなかではうまくいかなかった。グラブナーは、建設局にこの「スキャンダル」を申し立て、死体安置室に二つの換気扇、一つは新鮮な空気を入れるもの、もう一つは空気を排気するものを備えること、煙だまりを経過する初期のプランに一致させるように求めた。 連続的焼却は、グラブナーの不満以上の事態を呼び起こした。それは煙突を詰まらせたのである。すべての焼却は6月23日から28日にかけて停止され、鉄のたがで煙突掃除がなされた。 エルフルトのトップフ社では、焼却棟の換気システムはほとんど完成しており、マウトハウゼンの注文に関する作業はスムースに進行していた。しかし、8月18日に、マウトハウゼンの新しい建設部長SS中尉ノイマンからの書簡が届き、グーゼンの炉のための注文をキャンセルしてきた。ノイマンはまた、すでに運ばれてきていた耐火資材をのぞいて、すべてのものへの支払いを拒絶した。プリュファーは怒りながらも、事態が別の炉の注文に波及することを恐れて、グーゼンの炉のキャンセルを受け入れた。2週間以内に、プリュファーは、グーゼンの炉をアウシュヴィッツの炉に転用することができた。9月16日、ウルバンチュクは第三の2炉室炉を焼却棟の検死室に設置するように命じ、プリュファーは、これにはグーゼンの炉が適していると考えていた。トップフ社のなかで新しい注文に怒った唯一の人物は、シュルツェであった。彼が焼却棟の換気システムを変更しなくてはならなかったのは、これが三回目だったからである(図12)。
図11:カール・シュルツェが四番目に設計した1941年9月末のアウシュヴィッツの焼却棟Tの最終的排気システムの推定構造。排気:1時間8300㎥、3馬力のモーター。 9月24日、ノイマンは、もともとのグーゼンの炉が壊れたので、トップフ社と再度契約した。この炉を設置したヴィリングは、グーゼンに戻り、そこで10月11日から11月10日まで働いた。その後、プリュファーはマウトハウゼンとの更新された関係を利用しようとした。彼は、SS予算建設局との関係をうまく利用した。その結果、10月16日、ノイマンはベルリンからの電話を受け、ハイダーという名のSSの副官から、アウシュヴィッツ・タイプの2炉室炉に関して、トップフ社に即時注文するように命じられた。ノイマンはこの命令に礼儀正しくしたがったが、この強制的な契約をサボタージュするためにトップフ社に対する秘密のキャンペーンを始めた。その結果、二つの炉のすべての部品が集められるのには一年以上もかかった。マウトハウゼンはトップフ社の資材の保管を拒絶していたので、これはグーゼンに限ってのことであった。1943年1月、トップフ社が炉の建設の現場監督の来訪時期を質問すると、ノイマンはそのような施設は予定されていないと回答した。 アウシュヴィッツでは、捕虜収容所建設の準備が始まっていたが、それはヒムラーがビルケナウに建設を命じたものであった。1941年10月1日、SS予算建設局長SS准将ハンス・カムラーがSS大尉カール・ビショフを収容所建設の監督の特別事務局長に任命した。ビショフはその日から仕事に就いた。 ビショフは1935年から空軍に所属しており、北フランスとベルギーで準士官として勤務し、イギリス攻撃を行なう飛行場を設置した。そのときに、彼はやはり空軍に勤務していたカムラーと知り合った。バトル・オブ・ブリテン後には、ビショフには残された仕事はなく、SSに移ったカムラーはビショフにも同じようにしないかと提案した。彼は、ビショフに将校の階級と、巨大な捕虜収容所の建設長官としての独立した権限を与えた。 ビショフはこの申し出を受け入れたが、それは、建設局の設計部門の長官として自分の部下を任命する権限について交渉してからのことであった。彼が念頭に置いていたのは、オーストリアの建築家ヴァルター・デヤコであった。彼は、短期間シュラヒターのもとで働き、SS予算建設局に1941年秋に雇われた。カムラーが同意すると、ビショフはアウシュヴィッツを訪問し、仕事を始めた。デヤコは10月24日に続くことになっていたが、ビショフは新しい主任設計技師の到着を待たずに、仕事を始めた。 ビショフが監督し始めてから1週間以内に、彼の事務所は125000名の囚人の収容所の最初の計画を提出した。それは、3つの区画に分かれた大きな施設を提案していた。1つの区画は囚人の検疫、2つの区画は囚人の居住であった。10月14日に作られた第二の計画は、検疫収容所と残りの区画に鉄道線を導入していた。 設計を作り上げていくにつれて、ビショフは10万の捕虜を扱う予定である自分の収容所が1万の囚人を予定していた中央収容所の焼却棟に依存することはできないことを悟った。だから、10月11日、彼はトップフ社に電報をうって、プリュファーをアウシュヴィッツに派遣するように要請した。プリュファーは10日後にやってきて、彼とビショフは次の2日間で親密となった。二人は互いのことが好きであった。二人とも第一次大戦のベテラン軍人で、専門的な建築家であり、精力的に激務をこなし、自分たちのキャリアを自分自身で作り上げてきた人物であったからである。 プリュファーは、ビショフに、3つの焼却炉室を1つの炉にまとめ、必要な数の炉を並列させることで、捕虜収容所に必要な焼却能力を達成できると説得した。1つの比較的コンパクトな建物を使って、大きな焼却能力を生み出すことができるというのである。3炉室炉は、トップフ社の2炉室モデルの自然の発展のようであった。その配置は効率と経済性を結びつけていた(図13)。プリュファーは4炉室モデルをあえて提案しようとはしなかった。
図13:ブッヘンヴァルト(2ユニット)とアウシュヴィッツ(10ユニット)に設置されたトップフ社製3炉室炉の図面。Rk:導管。 プリュファーは、8000名の囚人に1つの炉室と仮定したので、15の炉室で十分であろうと計算した。3つの炉室を持った5つの炉、それらは共通の煙突で結びつけられていた。プリュファーは、各炉が30分で2体を処理し、それゆえ、施設全体では1時間に60体、あるいは24時間で1440体処理できると計算した。昼夜兼行で操業すれば、理論的には、新しい焼却棟は、3、4ヶ月で計画中の収容所の囚人全員を焼却することができた。 建物は、ビルケナウではなく、アウシュヴィッツ中央収容所の行政当局の建物の反対側、現存の焼却棟の後ろ側に予定された。プリュファーは、55−66m×12mの焼却棟を計画した。その中央には、大きな炉室があった。それに隣接して、石炭貯蔵庫、解剖のために選別された死体の洗浄・死体安置室、現存の焼却棟の検死室――それは第三の炉と交代される――にかわる検死室が存在した。中央の翼には、ゴミ焼却炉、強制通風を作り出す2つの換気扇、二重の煙突が置かれることになっていた。地下には、2つの大きな死体安置室が置かれるはずであった。1つの死体安置室は「新鮮な」死体を、もう1つの死体安置室は焼却予定の死体を保管した。エレベーターは死体安置室を炉と検死室につなげていた。プリュファーとビショフは、炉のホール、検死室、地下の2つの死体安置室から空気を排気するための換気システムを設計することシュルツェに委託した。現存の焼却棟の配置と一致させて、死体安置室の一つは、新鮮な空気をもたらすシステムを備えるはずであった。 デヤコはプリュファーが出発しようとしたころに、アウシュヴィッツに到着した。彼の仕事は、技術者のスケッチを設計図とすることであった。彼は二つの設計図を作成した。平面図と立面図であった(図14)。この計画のなかで、彼は、死体安置室の規模を次のように示した。すなわち、「B.Keller(Belufteterkeller、通風室)」を7m×30m、「L.Keller(Leichenkeller、死体安置室)」を8m×60m。ベルリンでSS予算建設局のために働いていた建築技師ヴェルクマンも、この問題に取り組むように求められた。彼の焼却棟は、プリュファーのもともとのスケッチに改良を加えたものであった。それは、立面図ではいっそう記念建築的であり、図面では実際的なものであった(図15、16)。例えば、ヴェルクマンは、地上の入り口から地下の死体安置室への死体の輸送を容易とするために、滑降路を設置した。彼は、死体安置室の長さを固定せず、その両方を「L.Keller」として設計した。あらゆる点で、デヤコのデザインよりも改良されていたので、ヴェルクマンの提案が受け入れられ、カムラーによって署名され、11月20日にアウシュヴィッツに送られた。
図14:SS少尉ヴァルター・デヤコがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年10月24日の図面。地上平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146 and 502-1-285.
図15:SS建築家ヴェルクマンがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年11月の図面。地下平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146.
図16:SS建築家ヴェルクマンがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年11月の図面。地上平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146 and 502-2-146. 一方、エルフルトでは、トップフ社が、新しい焼却棟のための炉の設計に従事していた。3炉室炉の炉室全体のサイズは、2炉室炉のそれよりも大きかったので、会社は、強制通風用の換気扇の数を2から3に増やすことを決定した。さらに、全体の排気能力を1時間あたり20000㎥から120000㎥にまで増やすことを決定した。会社のオーナー兄弟の一人エルンスト・ヴォルフガング・トップフは、「設置される設備は適切であり、うまく設計されている」と保証した。 コスト見積もりは、アウシュヴィッツは安上がりとなることを示唆していた。各3炉室の炉は、せいぜい6378マルク(1992年で25400ドル)、ゴミ焼却のための炉は、わずか4474マルク(1992年で18000ドル)であった。全体としての計画は(52237マルク1992年で205000ドル)となった。この価格には煙だまりにつながる地下の煙ダクトの建設が含まれていたが、3つのダクトに共通の煙だまりは含まれていなかった。さらに、換気システムのコストも含まれておらず、それはさらに 7795マルク(1992年で31000ドル)必要であった。 シュルツェは、各部屋の1時間当たりの換気能力を 10㎥と見積もっていた。ために、彼は、排気・吸入を行う483㎥のB.Kellerのために、2つの2馬力の通風機を持った二重のシステムを作動させることを提案した。これは、1時間に 4800㎥の新鮮な空気を部屋の中に入れ、4000㎥の空気を部屋から出すことができた。B.Kellerの2倍のサイズであったL.Kellerは、排気だけが行われ、1時間に10000㎥の空気を排気する5.5馬力の通風機を持った換気システムを備えることになっていた。同じようなシステムは、L.Kellerとほぼ同じ大きさである炉室にも設置されるはずであった。解剖室は全体で 300uであり、1時間に3000㎥の空気を排気することのできるシステムが備えられるはずであった。このころ、会社の2人のオーナーのうち年長のルードヴィヒ・トップフが、建設部隊での一般の兵士として祖国に奉仕するために招集された。会社のメンバーはこれに腹を立てていた。独身のルードヴィヒは、攻撃的でタフな弟よりも扱い安かったからであった(弟は結婚しており、それゆえ兵役を免除されていた)。プリュファーは、できるならば、ルードヴィヒの兵役免除を獲得するためにビショフの助けを求めた。彼は、ルードヴィヒが3炉室の炉の建築に指導的な役割を果たしており、新しい焼却棟は彼の監督なしでは完成されることができないと偽って、兵役の免除の要請を正当化した。ビショフはこれに成功し、ルードヴィヒは除隊した。エルフルトに戻ると、彼は、自分の軍事的な義務すべてから引き上げることに成功した。しかし彼はビショフに借りを作ってしまった。 プリュファーの焼却の「魔術師」としての名声は、SS予算建設局内で、ますます高まっていった。1941年11月中旬、SS予算建設局部の作業部長であるSS少佐ヴィルツが、プリュファーをベルリンに招いた。会話のテーマは、ロシアのモギリョーフに「焼却棟」を設置することであった。プリュファーは、炉室の数を炉ごとに3つから4つに増やすことが技術的に可能であるとの結論に達していた。そして彼は、4つの炉室を持った二重の炉(図17)が基本要素として適切であるとヴィルツに提案した。二つの要素は、8つの炉室を持った1つのユニットを提供するはずであった。 G:放出機
M:炉室 S:煙だまり 図17:トップフ社製4炉室炉の図面 アウシュヴィッツの炉と比較すると、モギリョーフの炉は単純であった。それは木材を燃料としていたので、バーナー発生器を閉じるドアも内部の熱絶縁材も持っていなかった。それはまた安かった。8つの炉室を持った1つのユニットは、わずか13800マルク(1992年で 55200ドル)、すなわち、1つの炉室あたり1725マルク(アウシュヴィッツに設置されていた3炉室の炉室あたり2126マルクおよび2炉室の炉室あたり5000マルクとの比較)。SS予算建設局は32の炉室を持つ4つのユニットを建設しようとしており、12月4日にトップフ社と合意に達した。全体の仕事は55200マルク(1992年で 220000ドル)であった。 いつもの通りSSは急いでおり、ヴィルツは、プリュファーに、契約調印後1週間以内にモギリョーフに出発してほしいと求めた。彼は現場を視察し、炉のための耐火資材の輸送に同行するはずであった。12月19日、トップフ社は、契約の半額の支払い、すなわち27600マルクの支払いを要求した(それは1942年5月に支払われた)。12月30日、4つの炉室を持った1つのユニットがモギリョーフに運ばれた。しかし、さらに15000マルクがトップフ社に支払われたにもかかわらず、モギリョーフではそれ以上何も起こらなかった 。 モギリョーフの契約が進んでいたころ、トップフ社はアウシュヴィッツの焼却棟Tに第三の炉を設置することについて面倒を見なくてはならなかった。11月20日、マールという名の監督官が炉の土台を設置し始めた。彼は3週間働いたが、続けることはできなかった。なぜならば、ザクセンのコルディツのコルメナー・シャモッテンヴェルケ社が煉瓦をトップフ社に送っていなかったからであった。マールはエルフルトに戻った。 マールが出発した直後、チクロンBを使った最初のガス処刑が、アウシュヴィッツのブロック11の地下室で実行された。シアン化水素の丸薬であるチクロンBは、フランクフルトのデゲシュ社によって作られ、ハンブルクのテシュ・シュタベノフ社によって供給されていた。それは4つのサイズ(200g、500g、1kg、1.5kg)の金属製の缶によって利用できた。チクロンBは不活性の多穴性の媒体であり、無防備な使用者に無臭性のガスの存在を警告するために、刺激剤を含んでいた。大半の条件の下では、この殺虫剤は危険ではなかった。シアン化水素は27℃で気化するにすぎなかったからであった。チクロンBがアウシュヴィッツに最初に導入されたのは1940年7月であった。その時には、以前のポーランド軍の兵営を燻蒸消毒するために使われた。その兵営には収容所のSSの看守たちが住むはずであった。チクロンBは1940年から1941年には燻蒸消毒に使われていた 。 1941年12月、チクロンBは初めて殺虫ではなく強制収容所の治療不能の250名の囚人と600名のソ連軍捕虜を殺すために使われた(注62 私は、最初のガス処刑が1941年9月に行われたというダヌータ・チェクの説を否定する。ヤン・ゼーンは、ソ連軍捕虜の最初のガス処刑は、1941年11月にゲシュタポのチームが1ヶ月間訪問したのちに起こったと述べているからである。ゼーンの説の方が信頼できそうである。ブロック11の地下室に入る前には、2日間の換気が必要であったと述べているからである。Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbek bei Hamburg, 1989), 117 and 119; Jan Sehn, Concentration Camp Oswiecim-Brzezinka (Warsaw, 1957), p. 105.)。ヘス(当時そこを離れていた)によると、即死であった。2日後も生き続けた犠牲者もおり、第2回の毒の投与が必要であったと主張している者もいる。殺人者たちは実験を行なっていた。彼らは、まだ、どのくらいの量のチクロンBが致死性であるのか、どのぐらいの人々に対して致死性であるのか知らなかったし、シアン化水素が27℃でやっと気化することも十分に知ってはいなかった。ブロック11の地下は暖められていなかった。850名の犠牲者を焼却するという作業も予想されていなかった問題であった。第二の炉を作る突貫作業が必要となった。 実験が終了すると、ブロック11の地下室は、換気設備を備えていないので、ガス室としては理想的ではないことが明らかとなった。また、ブロック11と焼却棟との間は非常に離れていた。殺人者たちは、収容所のメインストリートを使って850名の死体を運ぶことを嫌っていた。焼却棟の死体安置室が、もっと効率的なガス室として推奨された。そこは、毒ガスを排気することのできる機械的換気システムを備えており、1階の構造になっているので、屋根に作られた3つの穴からチクロンBを投入することが容易であった。 焼却棟Tの死体安置室のなかの新しいガス室は、1942年1月から5月までに断続的にうまく作動した。5月には、第三の炉を建設するために閉じなくてはならなかった。そのときまで、この焼却棟はガス処刑に必要な「隠匿性」を確保しえないことが明らかとなった。トップフ社の人間が、新しい炉の建設に着手した直後、ガス処刑をビルケナウに移すことが決定された。 1941−42年、ビルケナウは次第に中央収容所に統合されていった。12月1日、中央収容所の建設局とビショフの捕虜収容所特別建設局がビショフを長とする新しい組織、上部シレジア、アウシュヴィッツ、武装SS・警察中央建設局に合同した。1942年1月中旬から2月初頭の間、建設局は、前年11月のヴェルクマンの設計にもとづいて、新しい捕虜収容所焼却棟のための8つの青写真を作成した。デヤコは、ヴェルクマンの設計に細かな修正を加え、煙突を再配置し、焼却作業のための第三の部屋を地下に付け加えた。死体安置室3とされたこの部屋は、死体を登録のために受け入れることになっていた。中央収容所の焼却棟の配置は、変わらないままであった。 1942年1月末、プリュファーは、アウシュヴィッツに戻り、焼却棟Tのための第三の炉の建設を計画し、新しい焼却棟に加えて、ビルケナウに補助焼却施設を建設する可能性を討議した。それは、ビショフの希望にこたえてのことであったろう。プリュファーは、強制送風機を持たず、構造的に鉄の使用量が少なくてすむ、2つの3炉室炉を備えた焼却棟を提案した。炉は共通の煙突の周辺に置かれたので、コストは14652マルク(1992年では58600ドル)であった(図18、19)。 S:(地下導管の)調節器
A:分離バルブ R:導管 L:死体 m:炉室 G:発生器 S:シャフトカバー 図18:アウシュヴィッツの焼却棟の焼却システム用のトップフ社製のむき出しの3炉室炉の図面
図19:2つの単純化された3炉室炉を備えた、ビルケナウの補助焼却棟の配置図。 しかし、SS経済管理中央局(SS予算建設局の強力な後継者)の建設局長となったカムラーは、2月27日に訪問すると、この計画を破棄した。彼は、ビルケナウに新しい焼却棟を建設する方が重要であると提案した。トップフ社は心穏やかではなかった。しかし、SSが、破棄された計画の研究に社が投資した1769.26マルク(1992年では7500ドル)に配慮してくれるのかと要求することを差し控えていた。支払いは行われたが、お金を受け取ったことを後悔するような事態がやって来た。 3月中旬、ビショフはシュルツェから新しい計算を受け取った。オリジナルの数値を検討したのち、ビショフはビルケナウに建設予定の新しい焼却棟の換気システムの全体の能力を1時間32600㎥から45000㎥に増やすことを決定した。これによってもっとも影響を受けた部屋は、1時間4800㎥から8000㎥、すなわち66%の増加となるB.Kellerであった。ビショフは4月2日にシュルツェの新しい提案を採用した。彼は、トップフ社に会社の青写真での設計を収容所で作成されたものにあわせるように求めた。これは、B.KellerがL.Keller1に、L.KellerがL.Keller2となることを意味した。トップフ社の設計は修正され、5月8日にアウシュヴィッツに戻された。 4月30日、貨車がエルフルトからアウシュヴィッツに到着したが、それには、11トンの資材が積まれており、そこには新しいビルケナウの焼却棟に建設される5つの3炉室炉のための金属資材の3分の2,強制送風機のすべて、焼却棟Tの第三の2炉室炉に必要な鉄材、すべての空調装置が含まれていた。貨車の中身の大半が保管された。第三の2炉室炉のための鉄材だけが、すぐ使われた。 同時に、プリュファーは2つの3炉室の第一の炉のブッヘンヴァルトでの建設も監督していた。彼は、早期に完成させることによってビルケナウに5つの同じような炉を建設する前に具体的なデータが入手できると期待していた。5月末、炉は強制送風機をのぞいて完成した。5月29日、トップフ社はビショフに、3炉室炉と3馬力のモーターのために保管されている送風機の一つをブッヘンヴァルトのために貸してくれるように求めた。アウシュヴィッツがこれでうまくやっていけるのか、トップフ社は欠落した部品を再び作らなくてはならなかったのかどうか、これについてはわからない。何が起こったとしても、最初のブッヘンヴァルトの炉が稼動したのは、8月23日、第二の炉が稼動し始めたのは10月3日であった。プリュファーは、稼動ののちに、アウシュヴィッツのもともとの見積もりを修正した。プリュファーは、ビルケナウの新しい焼却棟の5つの炉が焼却できるのは、24時間で800体であると結論した。これは、前年の1440というオリジナルな数字よりもはるかに低かった。 5月、ヘスは、ビルケナウの灌木の端にある小さな小屋(「赤い小屋」)を新しいガス室に選んだ。それは修理中の最初の焼却棟の死体安置室に取って代わるものだった。60−80uのこの家は、2室から構成されており、その中に500名が押し込まれた。ドアは密閉されており、窓は覆われており、小さな開口部がチクロンBの投入のために開けられていた。2つの部屋からガスを排気するための機械的換気設備は設置されていなかった。処刑は夕方行われるはずであった。そして、すべての囚人が死んだのちに、ドアが開けられ、一晩中開けられたままであった。夜明けになって、死体を安全に運び出し、灌木のなかの埋葬地に運ぶことが可能となった。ブンカー1として知られるようになるこの設備は、その月に稼働し始めた(1942年5月)。 その間、中央収容所の焼却棟は、修復・修繕された。5月30日、すべての準備が整ったかのようであったが、3つの炉が稼働し始めると、うまくいかなかった。煙突のたがが壊れ、深い亀裂が石造部分に現れ、政治部のメンバーは、煙突が自分たちの事務所を破壊することをおそれ始めた。ビショフは調査を命令し、報告にもとづいて、カムラーが完全なオーバーホールを認めた。 地元の専門家、ミスロヴィツからのロベルト・ケーラー技師は、25−30mの新しい煙突を推薦した。グラブナーは怒って、煙突は10mを超えてはならないと要求した。ケーラーは、10mの煙突を地下の20mの導管と結びつけ、「仮装の」30mの煙突を作ることによってグラブナーの要求を満足させることができると考えた。しかし、これを行なうスペースがなかった。ビショフはトップフ社に代案を求めた。会社は15mで十分であると答えた。ケーラーは12mの導管をトップフ社の煙突と結びつけ、27mを達成した。作業は6月12日に始まった。 このときまで、アウシュヴィッツはユダヤ人を殺害するにあたってはまったく周辺的な役割しか果たしていなかった。中央建設局の文書館の資料の証拠は、収容所を虐殺目的で使い始めたのは、やっと1942年6月からのことであったことを示している。この結論は、ヒムラーがヘスにビルケナウは1941年夏に殺人センターとなると述べたという1946年のヘスの陳述と矛盾している。われわれが研究した証拠は、ヘスが1941年と1942年を混同したことを示している。ヒムラーは、1942年6月初頭に、収容所の将来の使用に関して伝えるために、ヘスをベルリンに召喚したに違いない。アウシュヴィッツを選択した一つの条件は、1941年か1942年に適用された。すなわち、収容所のすばらしい鉄道関係である。しかし、もう一つの重要な要因が1941年末に登場した。一日に1440名(あるいは800名にすぎなかった)焼却する能力を持った特別な焼却棟の存在である。ヒムラーがアウシュヴィッツに関心を寄せたのは、この二つの条件の結びつきであった。 大量殺人は7月1日に始まった。問題が生じた。焼却棟がまだ計画中であったからである。5月17日から、100名の囚人部隊が、建物の基礎を掘り起こしていたにすぎなかった。さらに、ブンカー1は、ガスを排気する機械的な換気設備を持っていなかったので、継続的なガス処刑には使用できなかった。さらに、収容所は資材不足であった。しかし、これらの事情はヒムラーにとっては屁理屈であった。彼は、ヘスが解決策を見つけると確信していた。 ブンカー1からさほど離れていないところに、白壁のもう一つの農家があった。105uで、「赤い小屋」よりもわずかに大きかった。ヘスは、そこをブンカー1とおなじようにガス室に改造することにした。そこには800名を収容することができた。 ビショフは、換気についての助言を求められた。彼は、チクロンBの製造者であるデゲシュ社の社長ペテルス博士の論文を思い出した。それは、たがいに並んだ10㎥の8つの小さなガス室を持つチクロンBを使った殺菌駆除システムを記述していた。各室は、二つのガス気密ドア(金属製か木製)を持っており、一つは物品を汚れサイドに、もう一つはそれを清潔サイドに移すものであった。それは暖房のための放熱器、内部空気循環装置を持っていた。それは、最初に、殺菌駆除される物品に媒体を規則的に伝え、次に、60−90分の措置が終わると、効果的な排気を行なった。ペテルス論文は、1941年12月に、デヤコがアウシュヴィッツの将来の囚人受け入れ窓口に19の同様なガス室(2列)をもった殺菌駆除施設の設置を提案したときに、彼の発想の源となっていた。デゲシュ社は、殺菌駆除室は各50㎥でなければならないと提案していた。 小さな農家の両側にドアを持った平行に配置された部屋を設置することは簡単であった。しかし、循環通風を提供する放熱器は問題を生みだした。このシステムはボース社によって設置されねばならず、輸送するためには、長い遅延を覚悟しなくてはならなかったからである 。放熱器は放棄され、50㎥の4つの並列のガス室を設置するという修正だけがなされた。ガス室は風上に向けられていたので(ビルケナウでは北−南)、自然の換気で十分であると考えられた。毒ガスを投入する方法は、ブンカー1と同様であった。各室あたりチクロンBの一つか二つの500g包みを使うと、ほぼ即死であった。「白い小屋」すなわちブンカー2は1942年末頃稼働した。 アウシュヴィッツでは大量死をもたらすにあたって、自然と人間が競争していた。SSの医師は5月に、未処置の水に起因する腸チフスの蔓延に直面した。6月末、SS将校、収容所の17の民間会社の社員は収容所の水を飲むことを禁止された。ミネラルウォーターが無料で提供された。発疹チフスの勃発が事態をさらに悪くした。収容所の医師は驚いた。彼らは、防疫措置(検疫、毛髪の切断)と衛生措置(毛髪の消毒、シャワー)が、疫病の媒体者であるシラミを除去することで、収容所への疫病の侵入を防止すると考えた。 困難は、殺菌駆除処置の対象とはなっていない自由労働者、民間労働者から生じた。彼らは毎日囚人と接触していたからである。1942年中旬、アウシュヴィッツ地区(強制収容所群と居住区)の新しい配置が、1000名の民間労働者を雇用する民間企業にもたらされた。彼らは許可を受けた環境のなかで居住した。作業現場のスタッフやボスたちはアウシュヴィッツの町から徴発した家やアパートに居住したが、労働者の大半は、収容所に隣接した木造のバラックに居住した。7月1日、最初のチフスの発病が労働者バラックで起こり、続く2日間のあいだに、新たに3例が起こった。 囚人の死亡率が上昇した。1940年5月から12月までに、毎月220名が死んだ。1941年1月から7月までに、この数は三倍となった。1941年8月から12月までに、それは1000名に達した。1942年までに、それは4000名を越えた。不衛生状態はどうしようもない状態となった。周辺地域にチフスが拡大することを防止しなくてはならなかった。7月10日、部分的な隔離が宣言された。 しかし、たとえ収容所の出口が封鎖されたとしても、入り口は開放されていた。ユダヤ人を積んだ貨車が到着し始めていた。7月4日、囚人の最初の選別が、スロヴァキア系ユダヤ人に適用され、労働に不適格と判断された人々は、即座にガス処刑された。1週間のあいだに、この手順は日常的となった。 一方、収容所で歓迎を受けた人物はヒムラーとカムラーであり、彼らは7月17日に収容所にやってきて、再定住とIGファルベン群の進行を巡察した。ビショフは、自分の上司に、設計図、青写真、縮小モデルを使って説明した。その後、収容所の様々な農業・工業作業の見学が続いた。午後、ヒムラーはオランダ系ユダヤ人の選別と不適格者がブンカー2でガス処刑されるのを見学した。その後、彼は、モノヴィツのIGファルベン者の作業現場に向かった。大レセプションが日没まで続いた。 翌日、ヒムラーは、中央収容所を視察した。彼は建設中の3つのトップフ社製2炉室炉と焼却棟の新しい煙突を見学した。その他いくつかの見学ののちに、ヒムラーはヘスに、作業を促進し、収容所の収容能力を100000から200000に増やし、ブンカーの後ろにあった死体の詰まった壕を除去するように命令した。ヘスは昇進し、SS大佐となった。ヒムラーが戻ってくることはなかった。 ヘスは収容所の不衛生な状態をヒムラーから隠すことに成功したが、チフスは蔓延していた。ヒムラーが出発してから1週間のうちに、状況は破局的となった。7月23日、収容所は完全な隔離状態に置かれた。あらゆるものが即座に殺菌駆除されなくてはならなかった。個人の所有物、バラック、建物、作業場。数トンのチクロンBが収容所の救済に必要であった。大量のチクロンBを入手する唯一の方法は、経済管理局の手を借りることであった。ヒムラーをだましたことを認めたくなかったので、アウシュヴィッツのSSは疫病が流行し始めたのは、ヒムラーが去ってからのことであったと説明した。7月22日、ベルリンは2トン半のチクロンBを積んだトラックの出発を許可した。1週間後、第二のトラックが出発した。しかし、これでも不足であった。 8月20日頃、疫病はまだ猖獗をきわめていたが、チクロンBの蓄えは消えていた。アウシュヴィッツ当局は、状況をコントロールすることができないことを意味してしまうので、これ以上多くのシアン化水素を注文することをためらっていた。そのとき、誰かが、ユダヤ人のガス処刑に言及することによってチクロンBの購入を正当化するというアイディアを思いついた。経済管理局の高官は、ユダヤ人が殺虫剤によって殺されていることを知っていたが、どれほどの毒が必要であるのかは知らなかった。事実は、1000名の移送者を殺すには、わずか4kgのシアン化水素が必要なだけであった。ガス室で作業に必要な量の3000%も水増しすることによって、SSはそこから95%を殺菌駆除用に汲み上げたのである。トリックはうまくいった。8月26日と9月14日、ビルケナウでの不適格者の清算を意味する「特別措置」「特別行動」のために、大量のチクロンBを購入することが許可された。 これらのことすべては、収容所にはまだまったく焼却棟が存在しないときに起こった。第三の炉の設置と新しい煙突の建設のために、焼却棟は3ヶ月間使うことができず、とくに、その処理能力の停止は、チフスによる死亡者が倍増したときに明らかとなった。(ヘスは、この停止を1941年から42年にかけての冬としている。) それゆえ、焼却しなくてはならない10000の死体が、ガス処刑された労働不適格なユダヤ人の死体とともに、ビルケナウの灌木の壕のなかに埋められていた。8月8日に、新しい煙突が完成したのち、3炉室炉は最大の処理能力(1日に200−250体)で稼動した。これは、8月13日に煙突に損傷を与えた。明らかに、最初の焼却棟は耐用年数を失ってきたのである。 多くのユダヤ人が到着するとすぐに殺害されたので、2ヶ月前にも、新しい焼却棟の完成はもっとも緊急の課題であった。6月18日、5トンの資材を積んだ貨車がエルフルトを出発した。5つの3炉室炉の失われた部品、ゴミの焼却炉、強制通風のための3つの新しい送風機の資材であった。1.5馬力のモーターが8月6日に続いた。 7月初頭、中央建設局は、ビルケナウの建設に関与していた二つの会社、すなわちフタ社とレンツ社を焼却棟の骨組みの建設の入札に招いた。レンツ社は人材の不足を理由にこれを拒否した。7月13日、フタ社は133756.65マルク(1992年では535000ドル)で建物の建設を請け負うという提案を受け入れた。会社は8月10日の月曜日に作業を開始することに同意した。 アウシュヴィッツ建設局は、経済管理局と3ヶ月後に作成した報告のなかで、「特別行動」によってもたらされた状況によって、新しい焼却棟をすぐに建設する必要があると示唆した。この陳述は、アウシュヴィッツがユダヤ人の絶滅の場所として最終的に選択され、新しい焼却棟が本質的な役割を果たすことを正式に表明したものであった。この焼却棟は、もともとは捕虜収容所のための通常の衛生設備として計画されたものであったが、プリュファーの商業的な確信、職業的な情熱、創造的天才、ビショフとの友好関係のおかげで、新しい重要性を獲得した。 ゆっくりとではあるが、経済管理局のメンバーは、「ユダヤ人問題の最終解決」を新しい焼却棟の処理能力と結びつけ始めた。ビショフはビルケナウに第二の焼却棟の建設を考え始めた。ヒムラーは、収容所は200000人を収容すべきであると命令しており、中央建設局は7月末には拡大された収容所の設計を完了した。人口の増加は、さらなる焼却棟の建設を意味した。ビショフは建築学的なバランスを取るために、二つの建物を、たがいに対称形に建設することを決定した(図20)。焼却炉室の数は、30に増加され、6670名に一つとなった。しかし、輸送列車が次々と到着したのでこれだけでは十分ではなかったであろう。
図20:ヒムラーは1942年に収容所の収容人員を20万人にまで拡大せよとの命令を出したが、それにこたえて作成されたビルケナウの計画図。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,file BW 2/10. プリュファーはストックを受け取りに、8月18日にアウシュヴィッツにやってきた。一日後、収容所当局は、2つの焼却棟の建設を認めた。一つは建設中のもの(もともとは捕虜収容所のためのもの)、もう一つは収容所の拡張に対応して計画されたものであった。プリュファーは新しい契約で80000マルク(1992年で320000ドル)を獲得した。 予備的な研究がプリュファーの道を切り開いていた。ビショフは15の炉室を持った第二の焼却棟を第一のものと並んで建設することを決定していた。彼はまた、ヒムラーの命令によって、埋めるのではなく焼かなくてはならないとされた「製品」を収容するためにブンカー1と2に並ぶ焼却棟も考えていた。多くの焼却棟が考えられていたので、ビショフは新しい名称を考え出した。アウシュヴィッツの既存の焼却棟は焼却棟Tと呼ばれた。焼却棟UからXまではビルケナウに建設されるはずであった。焼却棟UとVは5つの3炉室炉を備え、焼却棟WとXは2つのむき出しの3炉室炉を備えるはずであった。焼却棟Wはブンカー2の隣に、焼却棟Xはブンカー1の隣に建設されるはずであった。(建設計画にもとづく別の設計図では、焼却棟UはBW(Bauwerk)30と、焼却棟VはBW30aと、焼却棟WはBW30b、焼却棟XはBW30cとなっている。) プリュファーは、焼却棟WとXの技術的側面を考えていた。プリュファーは、前年に最初のビルケナウの焼却棟にむき出しの3炉室炉を提案していたが、それはその後進展していなかった。すぐさま解決する必要に迫られていたので、プリュファーは4炉室を持ったモギリョーフの2重炉を提案した。その製品はすでに生産過程にあったので、エルフルトの工場はすぐにそれを製造できたからである。ビショフはプリュファーの考えを受け入れて、8月14日に青写真を書かせた 。それは、2つの煙突を持った2重炉の簡単なレイアウトであった。死体安置室の配置図は不完全なままであった(図21)。
図21:ビルケナウの焼却棟Wのための、4炉室2重炉を持つ焼却システムの図面。W.C.:便所、Sas:せき止めと倉庫 8月19日朝、プリュファーは資材が保管されているアウシュヴィッツ駅の倉庫に出かけ、5つの3炉室炉のすべての部品の資材が到着しており、良い条件のもとで保管されているかを調べた。彼は、エルフルトから4月14日に送られてきた11トンの資材のうち、金属資材の大半がマウトハウゼンの第二の2炉室炉のためのものであることを発見した。それらは、SS中尉ノイマンの戦略によってエルフルトの倉庫に残っていた。プリュファーはこの間違いを利用することに決めた。 昼食後、プリュファーは、SS少尉フリッツ・エルトルが議長を務める(ビショフはベルリンに召喚されていた)建設局の会議で、煙突の専門家ロベルト・ケーラーと会談した。彼らは、ブッヘンヴァルトで最初の3炉室炉に取りかかったばかりであったマルチン・ホリクが到着したのちすぐに、焼却棟Uの5つの炉の建設を始めることを決定した。ケーラーは炉を並べ、地下の導管と3つのダクトを持った共通の煙突を建設することになった。 プリュファーは、モギリョーフへの輸送準備が完了していた4炉室二重炉を焼却棟WとXに設置することを提案した。彼は、SS経済管理局が、情報を知らされており、ロシア建設局と資材の移送について交渉していることを知った。ケーラーは4つの煙突に責任を負っていた。安全な側にたつために、中央建設局はケーラーに、むき出しの3炉室炉を持った改良された焼却棟の見積もりを出すように求めた。ビショフはモギリョーフの計画の採用に依然として疑問を抱いていた。とくに、4つの焼却棟の同時建設のために必要な4人の現場監督を即座に用意できなかったためであった。 焼却棟WとXが大量殺人に関与していることは、会議の参加者全員に自明のことであった。エルトルは、この会議での報告中で、ビルケナウの森のブンカー1と2を「特別行動のための浴場施設」と呼んでいる(図22)。ケーラーは彼の会社をこれらの「特別作業」に関与させた会議で個人的な責任を負っていた。プリュファーはこのような仕事を自分の会社にさせる全権を持っていなかった。だから、彼は独自に行動した。しかし、彼は、自分の上司ルードヴィヒ・トップフがSSのおかげで兵役免除になったので、自分を支持してくれると確信していた。
図22:1943年6月2日のアウシュヴィッツ・ビルケナウ地区の地図。立ち入り禁止地区(Sperrgabiet)が掲載されている。そこでは、ブンカー1と2(「赤い小屋」、「白い小屋」)とよばれた殺人室があった。Central State Special Archives, Moscow, files 502-1-88. 最終議題は、焼却棟Uの対称型である焼却棟Vであった(図20)。それは最後に建設されることになっていた。作業の開始は、必要な鉄材を確保するための国家保安中央本部との交渉にまったく依存していたからである。ここで、プリュファーは自分が、今朝気づいた間違った資材搬送の存在を指摘し、事態の緊急性を考慮すれば、アウシュヴィッツにマウトハウゼンの2炉室炉を即座に建設すべきであると提案した。 翌日、SS軍曹ヨーゼフ・ヤニシュは、プリュファーとケーラーを伴って、ビルケナウに行き、彼らに焼却棟Uの作業現場をみせた。エルフルトに戻る前に、プリュファーは焼却棟WとXのための単純化された4つの3炉室炉あるいはモギリョーフ炉の手書きの確認書か注文書を要求した。エルトルは経済管理局(ビショフはまだ到着していなかったので彼ではない)と相談したのちに、8月24日に事態を収めた。ビショフがベルリンから戻ってきたとき、彼はエルトルが勝手に行動したことで彼を責めた。彼がとくに怒ったのは、マウトハウゼンの炉をエルフルトに返送したエルトルの決定であった。 アウシュヴィッツ中央建設局は、数千の囚人を利用できたにもかかわらず、自前でビルケナウの焼却棟の建設を進めることはできなかった。そのメンバーはかなり単純な労働現場を運営することができた一方で(木造のバラックあるいは居住家の建設)、彼らはもっと技術的な計画に対しては外からの援助を必要としていた。特別な会社の民間技師による研究と当該の会社が派遣した何人かの現場作業員によって実行された実際の建設のためにも、外部からの援助が不可欠であった。ビショフは関係をうまく調整するために、各計画に特別指導者を割り当てた。特別指導者は民間会社と交渉し、作業の進行を監督し、仕事が順調に終わるかどうかを監視した。 11の民間会社がビルケナウの新しい焼却棟の建設に関与した。トップフ社は炉を建設し、換気システムを設置するはずであった。ミスロヴィツのケーラー社は煙突を建設するはずであった。カトヴィツェのフタ社は、焼却棟Uの外壁作業にすでに取り組んでいたが、焼却棟Vのすべてを建設することに合意する前に、焼却棟Wと焼却棟Xの建設に着手し始めていた。フタ社の下請け会社の一つブレスラウのヴェダグ社は、焼却棟Uと焼却棟Vの地下室の防水を行なった。ベルリンの大陸水工事会社によって始められていた焼却棟Uの下水は、グライヴィツのカール・ファルク社、カトヴィツェのトリトン社によって続けられた。後者はのちに焼却棟V、焼却棟W、焼却棟Xの下水もあつかった。ボイテンのコンラート・ゼグニッツ社は、4つの建物の屋根を設計し、部品を製造したが、実際に設置したのはインダストリエ・バウA.Gであった。ビエリツのリーデル・ウント・ゼーネ社は、すでに終了していた焼却棟Wと焼却棟Xの外壁の建設にあたってフタ社と交代した。グライニツのクルーゲ社は、焼却棟Wと焼却棟Xの炉の建設にあたってトップフ社を支援した。各作業現場は100−150名の人員を雇い、うち、3分の2は囚人で、3分の1が民間人であり、全員が各社からの現場監督に指示されていた。 フタ社は、8月末には、焼却棟Uの二つの死体安置室の床と壁を終了した。しかし、それらは防水のためにアスファルト処置をされなくてはならなかった。フタ社はヴェダグ社にこれを依頼した。ヴェダグ社はこれを受け入れたが、アスファルトは配給制であり、社はそれを十分にストックしていなかったので、必要量から割り当てを除去することを求めなくてはならなかった。ヴェダグ社は通常の手順にしたがって申し込んだが、それは、長く待たねばならないか、最悪の場合には拒否されることを意味した。申し込みが長引くのを避けるために、ビショフは経済管理局に手を回した。その結果、希望通りのアスファルトが10月末に発送されたので、焼却棟Uと焼却棟Vの死体安置室に対して、地下水が冬に上昇する直前に防水処理が行なわれた。 トップフ社がこの秋に直面した一つの問題は、モギリョーフのために設計されていた、石炭よりも木材を使った二重4炉室炉を改造することであった。さらに、内部絶縁と放熱機を閉めるドアが必要であった。これらの部品にはさらに3258マルクかかった。9月8日、二つの完全な8炉室炉の建設資材(鉄材と耐火煉瓦)12トンが鉄道でエルフルトを出発した。それは、9月16日にアウシュヴィッツに到着した。資材はトップフ社の二人の現場監督マルチン・ホリックとヴィルヘルム・コッホによって検査・署名された。彼らは焼却棟Uの5つの炉の土台に着手したばかりであった。 注目すべきは、ビショフもプリュファーも炉の価格の問題についてまだ切り出していなかったことである。10月末、建設局は最終的に、価格を問い合わせた。トップフ社は8炉室炉が13800マルクであると返信した。最終的な見積もりは、アウシュヴィッツのSSが所有するドイツ装備工場の金属作業所がいくつかの仕事を担当することを考慮して、12972マルクに減った。 9月23日の朝、経済管理局長ポールが突然アウシュヴィッツに姿を見せ、チクロンBのすべてがどこへ行ったのか調査した。ポールは最初に中央建設局に行き、収容所の全体図を説明させ、完成した建物、建設中のもの(ビルケナウの4つの焼却棟を含む)、まだ設計中のものの見取り図を入手した。彼がチクロンBについて尋ねたとき、彼は、それはシラミとユダヤ人の同時破壊のためのものであるとの説明を受けた。ポールはこの話題についてこれ以上質問しなかった。腸チフスとマラリアを防止するために、彼は浄化プラントの建設の促進を推奨した。 しかし、中央建設局の当座の関心は少々異なった性質のものであった。9月25日、ビショフは焼却棟Vのための焼却装置をトップフ社に注文した。それは、ゴミ処理装置を持っていない点をのぞくと、焼却棟Uと同一であった。焼却棟Vを最後に建設するという8月末の合意にもかかわらず、ビショフは、それは焼却棟Xよりも急ぐべきであるという結論に達した。 シレジアの冬の到来によって、ブンカー1と2を使うことはますます困難となった。戸外の気温は下がり続け、シアン化水素はうまい具合に気化しなくなっていた。1942年10月末、中央建設局はガス処刑をブンカー1と2から焼却棟の部屋に移すことを考え始めた。そのためには、トップフ社に換気システムの青写真を送ってもらうことが是非必要であった。1週間以内に、焼却棟U、焼却棟Vの送風換気システムを設置する青写真と、焼却棟Tの換気システム――4月に到着していたが、設置されていなかった――の最終青写真を受け取った。 焼却棟Uの死体安置室をガス室に改造することが決定された。そのような決定を示唆しているのは「リーク」である。すなわち、資料(書簡、青写真、写真)における焼却棟の通常ではない使用についての言及であり、それは人間の大量殺害以外では説明することができない。それは、11月27日に起こった。そのとき、ビショフの助手の一人ヴォルターがトップフ社に、焼却棟Uの死体安置室に換気システムを設置するための金属工の親方を求めた。彼の同僚ヤニッシュは正式の現場監督であったが、この要請を拒否した。ヴォルターはビショフにメモを送り、何が起こったのかを明らかにした。このノートのなかで、彼は焼却棟Uの死体室を「特別地下室」(Sonderkeller)と呼んでいる。リークはこれだけではない。ビルケナウの完成のために必要な120の資材項目は12月10−18日に作成されている。それは「捕虜収容所(特別行動の実施)」というキャプションがつけられているが、それは、殺人作業を意味している。 別のリークは、デヤコが焼却棟を虐殺機能に適用させ始めたときに生じた。炉のホールとサービス・ルームを持つ地上には、改造は必要ではなかったが、地下は新しい機能に対応して改造しなくてはならなかった。建設中の建物は、地上から2つの地下の死体安置室に容易に死体を移動させるために階段の中央に滑降路を提供していた。しかし、ガス処刑される犠牲者はガス室となる死体安置室に歩いて降りていくことができた。このため、死体滑降路はまったく不必要となり、取り除かれねばならなかった。 12月19日、デヤコは、犠牲者のための階段のついた新しい地下の配置をスケッチした(図面2003)。青写真のキャプションによると、階段は死体安置室への唯一のアクセスであった。このことは、厳密にいうと、死者は階段を歩いて降りていかなくてはならないことを意味していた。青写真が建築現場30と30aに届いたのは非常に遅かった。このために、コンクリートの滑降路はすでに設置されてしまっていた。のちに、SSがガス室に独自の階段を持った脱衣室(死体安置室2)を付け加えるように決定したとき、滑降路が入り口につながる場所は、犠牲者の通路と重ねられた。滑降路の入り口は破壊されたが、その出口は板で覆われた。 デヤコは、階段と滑降路をどこに配置するかという単純な問題以上の難題に直面した。11月までに、SSはブンカー1と2での作業になれてきていた。そこでは、脱衣バラックで服を脱いだ犠牲者はブンカーでガス処刑され、その死体は壕に埋められていた。この手順を焼却棟にも適用する必要があった。焼却棟Uと焼却棟Vについては、ガス室として(換気設備を持つ)死体安置室1を選択することは自明であった。SSは、残った二つの死体安置室もガス室として使うことを計画した。5つの3炉室炉は高い処理能力を持っているので、作業が促進されると誤解していたからである。この配置では、戸外の脱衣室が不可欠であった。そして、この戸外の脱衣室は、中央入り口を経由して、2つのホールを結びつける別の階段と直接つながっていなくてはならなかった。さらに、(排気だけの)死体安置室2に吸気システムを付け加えることによって換気システムを改良しなくてはならなかった。炉がテストされ、その能力が見積もられると、二つのガス室の「製品」を処理する能力がないことが明らかとなった。その結果、死体安置室2は脱衣室となった。この配置では、排気はまったく不要であった(犠牲者の死臭を換気するのは、自然換気でも容易であった)。 結局、死体安置室1はガス室には大きすぎた。1943年末、焼却棟Uと焼却棟Vの作業を「正常化」するために、収容所行政当局は、ガス室を二つに分け、24時間で1000名の新しい到着者(労働不適格者)を殺害するのに、100u以下のスペースをわりあてた。 1942年8月の焼却棟Wと焼却棟Xの最初のスケッチは、焼却部分だけを提示していた。10月中旬、屋根の建設に責任を負っていたコンラード・ゼグニッツ社は、最終的な配置図面を描いた。炉のホールは48×12mの大きな死体安置室(576u)によって拡張された。それは、これが「一連の手順の鎖の終わり」として使われることを意味していた。犠牲者の脱衣とガス処刑はブンカー2で依然として行われていたが、死体は焼却棟Wの死体安置室に保管されそこで焼却されることになっていた。 その後、SSはガス室(ストーブ暖房)を建物の中央に置こうとした。この結果、犠牲者は脱衣室からガス室へ、8炉室を持った炉のホールへと移動することになった。焼却棟Wと焼却棟Xには機械的な換気システムが設置されていなかったので、自然換気によるガス室の換気には、偶発的に毒ガスにふれるという危険がともなっていた。ガス室を焼却炉からできるかぎり離しておくことが決定された。最初の配置の修正は、ガス室を炉のホールの反対側に置いた。この結果、犠牲者は、ガス室から死体安置室、8炉室炉のホールに移動することになった。この配置の難点は、脱衣室がまったくないことであった。戸外にバラックを建てる必要があった。 焼却棟Wと焼却棟Xの焼却能力は、焼却棟Uと焼却棟Vの能力よりもはるかに低かったので、そのガス室も小さくなくてはならなかった。SSは、犠牲者の小グループを処理する低い能力のガス室(100u)を作って、断続的な作業を行なおうとした。1943年1月11日、SSは焼却棟Wの殺人プロセスの最終的な青写真を確定した。 すでに見てきたように、この考え方には、外部の脱衣室の建設が必要であった。しかし、資金を節約するために、良い天気の時には、犠牲者は戸外で脱衣することが決定された(1944年夏には実際にそうであった)。冬には、中央のホールは脱衣室と死体安置室の二重の役割を果たした。犠牲者は建物の中に入ってきて、脱衣し、ついで裸のままで二つのガス室に歩いていった。殺されると、彼らは中央ホールまで引きずられていき、焼却されるまでそこに横たえられた。この手順は、とくにダッハウの新しい焼却棟の合理的な配置と比較すると、機能的な観点からは、劣っていた。ダッハウでは、犠牲者は入り口から暖房装置を持つ脱衣室に入り、その後、暖房装置と換気装置を持つガス室(「シャワー室」)に歩いていった。死体は、死体安置室に運ばれ、炉のホールに置かれた。ダッハウのガス室は、機械的排気システムを備えていたので中央に置かれた。幸運なことに、それは使われることはなかった。 ガス室と焼却炉を設計することとそれを建設することは別のことであった。アウシュヴィッツでさえ、SSができることには限界があった。チフスはかなり押さえ込まれていたが、それにもかかわらず、予期せぬやり方で、作業の進行に影響を与えた。11月、アウシュヴィッツの状況は、周辺地域の住民の関心の対象となり始めた。住民たちは収容所のチフスの件を良く知っており、鉄条網を越えたその拡散をおそれていた。 11月17日、ビエリツの町での公聴会で、地域の相談役は、2例のチフスの発生を指摘した。アウシュヴィッツからの一人のポーランド人女性が病気にかかった。彼女は、カール・ファルク社の民間労働者で、16才になる息子を介して感染していたので、原因は収容所にあった。プレチシャウの別の女性は、11月3日にチフスで死んだ。彼女の夫は、収容所建設に従事する自由労働者であった。地域の相談役は、SSが民間労働者と感染した囚人との接触を禁止しなかったことを非難した。彼は、検疫隔離の厳格な遵守を求めた。12月4日、地域の相談役、強制収容所守備隊の医師、SS少佐エドゥアルド・ヴィルツ、各種の地域、市、政治、軍事、保健衛生の担当者の全体総会がアウシュヴィッツで開かれた。さらに3つのチフスの発生の原因が収容所であることが明らかになった。ヴィルツはSSに対する非難を認めようとしなかった。検疫隔離は厳格に実行されており、それゆえ、感染はSSの責任ではないというのである。アウシュヴィッツ市長は、収容所からのSS隊員と民間人(緑の腕章でわかった)がアウシュヴィッツの鉄道駅で肩をすり寄せているのを目撃したと指摘している。このことが、論点、すなわち、年末休暇問題とかかわっていた。年末休暇は12月25日に始められ、関係者は丹念に消毒されて、出発前の三週間は隔離状態におかれることが決定された。 32社の関係者は、検疫隔離が21日間に引き延ばされたことを知ると、激怒した。彼らはさらに、12月10日に、フタ社とレンツ社が担当する宿営収容所の民間労働者が病気に倒れたときにいっそう憤激した。21日の期間を守ることは、12月31日以前には年末休暇をとることができないことを意味していた。アウシュヴィッツに数ヶ月も拘束されていた民間人はうんざりしており、12月17日、18日に作業現場から年末休暇に入り始めた。12月18日、収容所のゲシュタポの干渉と、会社幹部との激論の末に、収容所当局は降伏し、1000名の民間労働者が1942年12月23日から1943年1月4日に年末休暇をとることを認めた。 この退去がさらに、焼却棟の完成を遅らせた。カムラーへの報告のなかで、エルトルは、焼却棟Uは1月31日、焼却棟Wは2月28日、焼却棟Vは3月31日までに完成するようにとのビショフの命令を伝えている。これは平均2ヶ月の遅れであった。焼却棟Xについては、日付は設定されていない。新しい目標日付を伝えられたカムラーは、作業の進行について毎週報告するように主張した。ヒムラーからの指令に喚起されて、ヘスの副官はこのような伝達を拒否したが、結局、報告は書簡で送られた。 ビショフは、あらゆる障害を乗り越えて焼却棟Uを1月31日までに完成させようとした。彼はトップフ社に、オリジナルなスケジュールにしたがって、必要な資材を配送しなくてはならないこと、焼却棟Uと焼却棟Vは1月31日までに、焼却棟Wと焼却棟Xは3月31日までに完成するようにしなくてはならないことを伝えた。プリュファーは、調整のためにアウシュヴィッツに来ることを求められた。 プリュファーに先立って、ハインリヒ・メッシングが到着した。彼は1月4日にエルフルトを出発し、翌日の早朝アウシュヴィッツに到着し、すぐに、焼却棟Uに赴いて、そこで10日間、煙突の強制通風システムの設置に取り組んだ。その後、メッシングはまったく休みを取らず、日曜日(8時間働いた)をのぞいて、毎日11時間働いた。焼却棟Uのための3つの強制通風システムは1月26日までに完成することになった。しかし、焼却棟はまだ完全ではなかった。焼却のスピードをコントロールする圧縮空気送風機がまだ設置されていなかった。メッシングは、1月26日にそれを設置し始め、2月7日にその仕事を終えた。 1月29日、ビショフ、キルシネク、プリュファーが建築現場30、30a、30b、30cを巡察した。SS少尉キルシネクは作業現場の状況について詳しい報告を書いた。プリュファーはキルシネクの報告に影響されて、自分独自の報告を書き、それはカムラーに送られた。焼却棟Uはまだ稼働していなかったけれども、プリュファーはそれがほぼ完成したと述べ、2月15日までには完全に稼働し始めることを約束した。カムラーはこの報告を受けて、ビショフをSS突撃指導者に昇進させた。2月29日のカムラーの書簡には、彼が焼却棟Uの死体安置室1を「Vergasungkeller(ガス処理室)」としているもう一つのリークがある。 ビショフはカムラーに対して自分をかばってくれたことに恩義を感じて、「中央サウナ」での個人物品の殺菌駆除のための4つの温風室を発注することで彼に報いた。それは39122マルクという破格の値段であった。その一方で、彼は、コリ社による同じような設備にはわずか5000マルクとしている。さらに、彼はトップフ社に、焼却棟Vでのゴミ焼却炉(5791マルク)、焼却棟Vの1500kgの積載能力の臨時のエレベーター(968マルク)、焼却棟Uと焼却棟Vの常設エレベーター(9371マルク)を発注している。 エレベーターの発注は、ビショフがそれを上部シレジアでは発見できなかったことを示している。フタ社はガス室と炉室を結ぶわずか一つの中古の貨物エレベーターだけしか発見できなかった。それは、2月初頭に焼却棟2に設置された。焼却棟Vのために臨時のエレベーターを発見すること、ハードワークにも耐えられる常設のエレベーターを探し出す課題は、トップフ社に委ねられた。チューリンゲン地方で探す方が簡単であると考えられたからである。たしかに、プリュファーはビショフが必要としたものをすぐに見つけだした。エルフルトの会社グスタフ・リンゼ社が、750kgの積載量をもつ貨物エレベーターを提供した。それは、ケーブルを二重にすることによって、積載量を1500kgまで増やすことができた(図23)。
図23:エルフルトのグスタフ・リンゼ社がアウシュヴィッツに提供し、焼却棟Vに設置された貨物エレベーターの図面。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,file BW 37/4, no. 723. プリュファーはまた、新しい焼却棟Yの発注も受けた。それは基本的に戸外の焼却のための壕であった(25148マルク)。このようにして、プリュファーは、自分の立場とビショフの困難を利用して、余計にかかる労働コストは別として、総額90000マルク(1992年では360000ドル)の契約を結んだことになる。 このとき、トップフ社と中央建設局は、中央建設局がプリュファーに作業現場を監督するために週に2、3日アウシュヴィッツにやってくるように求めるという、細かい条件を結んでいた。プリュファーはこの条件を守らなかったが、そのかわりに、マルチン・ホリクとアルノルド・ゼイファースを2月初頭にアウシュヴィッツに派遣した。プリュファーはまた、換気システムの設置のために、第二の金属工の親方を派遣することを約束していたが、この人物はやって来なかった。焼却棟Uの換気システムの設置は、様々な下請け業者が義務を守らなかったために停滞した。その結果、もともとは2月8日に予定されていたガス室(死体安置室1)の吸気・排気システムの設置が遅れた。失われていた部品が2月11日に到着した。この3日間の遅れはビショフをいらいらさせ、彼はカムラーに不平を述べた。とくに、トップフ社の最後の発送に死体安置室2の排気のためのモーターが入っていなかったときには、不機嫌であった。 中央建設局とトップフ社が2月11、12日に交換した書簡と電報は死体安置室1のための木製の送風機について言及している。これは死体安置室がガス室として使われたことを確証している。ビショフとプリュファーは、濃縮されたシアン化水素(1㎥あたり20g)が混じった空気の排気には非腐食性の換気扇が必要であると考えた(図24)。
図24:非腐食性の木製の換気扇。Bruno Eck, Ventilatoren, 3rd edition (Berlin:Springer-Verlag, 1957), p. 388.初版は1937年に刊行された。 焼却棟Uに必要なもう一つの装置は、シアン化水素の痕跡を探す検知器であった。トップフ社でのプリュファーとシュルツェの上司ザンダーとエルドマンはこの必要を伝えられた。ザンダーは検知器を求めて数社にあたった。中央建設局は2月26日の電報のなかで、ガス室は検知器なしでは完成させることができないので、ガス検知器をすぐにアウシュヴィッツに配送するように強く要請している。 もう一つの関心は、ガス室のなかの換気システムであった。死体安置室として計画されていたので、強い吸気と弱い排気のシステムとして計画されていた。ガス室としては、それはそれとは逆に作動しなくてはならない。ザンダーとプリュファーは3月2日に中央建設局に次のように書いている(図25:ドイツ語オリジナル)。 「焼却棟U。われわれは、『合意されたように10のガス検知器の即時の配送。見積りはのちに』というあなたの電報を受け取ったことを認めます。この件に関して、2週間われわれは、シアン化水素の痕跡を示す装置に付いて5社にあたりました。3社からは否定的な解答を受け取り、残りの2社については回答を待っています。この件に関するさらなる情報を入手したときには、この装置を作っている会社とコンタクトをとることができるようにおはからいすることができるでしょう。ハイル・ヒトラー。」
図25:ビルケナウに建設中の焼却棟Uのガス室の換気システムに関する、1943年3月2日の、中央建設局あてのトップフ・ウント・ゼーネ社の書簡。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-313. 建設局はこの手紙を受け取った。この手紙は3月5日に焼却棟Uのなかに致死性のガス室が存在したもう一つのリークである。 もう一つの最後の問題は、煙突の周囲の3つの強制通風について起こった。煙突から換気システムへの熱の移動がシステムを使っているすべての部屋の温度を高くするからである。プリュファーは2月19日のこの欠点を指摘し、余分な熱を死体安置室1に移しかえすことを提案した。これは、本来ならば冷たくなくてはならない死体安置室がガス室となったことを明らかに示していた。死体安置室を暖めることはチクロンBの急速な気化をもたらすからである。2月22日SSはこの計画をすぐに認め、トップフ社はアウシュヴィッツに1時間あたり9000−10000㎥の能力を持った銑鉄製の送風機をアウシュヴィッツに送った。これは522マルク(1992年では2100ドル)であった 。 製造されていない比較的小さな部品は、三つ又のかたちで、強制通風と送風機を持った部屋の天井のロフトに配置される金属製の結合パイプであった。煙突のスライド式調節器が空気の流入をコントロールした。作動する送風機による温風の流入が、ガス室に流れ込み、そこを前もって暖めた。それは毒ガスの発生を促進した。結合パイプの発注は1070マルクで公式に3月6日に承認された。それは1週間のあいだで製造された。 シュルツェは3月1日にアウシュヴィッツに行き、プリュファーは3月4日に彼に合流した。その日、焼却棟Uの5つの3炉室炉が、プリュファー、シュルツェ、建設局と政治部のSS隊員、ベルリンからのSS高官の前で初めて試運転された。このために、体重の重い50名の死体がブンカー2で選別され、焼却棟Uに運ばれて、そこで焼却された。特別労務班員の火夫ヘンリク・タウバーの大まかな見積もりでは、焼却は45分続いた。手に時計を持って焼却時間を計っていた将校は、計画よりも遅いと記している。この試運転ののち、プリュファーは、炉が十分に乾燥していないと判断し、1週間使用しないで暖めるべきであると推奨した。 3月10日、シュルツェとメッシングは、焼却棟Uのガス室の吸気と排気システムをテストした。メッシングは3月11日と13日にも作業しているので、装置は完全ではなかったのであろう。3月13日の土曜日の夕方、換気システムは稼働しうると宣言された。 同じ夜、クラクフのゲットーからの2000名のユダヤ人から選別された1492名の女、子供、老人が新しい焼却棟で殺された。6kgのチクロンBが天井を支える柱の間の4つの鉄網柱の穴に投入された。5分間ですべての犠牲者が死んだ。吸気(1時間に8000㎥)と排気(同じ強さ)システムが作動し、15−20分後には、3−4分で一回更新される空気は十分にきれいになったので、特別労務班員がまだ熱いガス室にはいることができた。この最初のガス処刑では、特別労務班員はガスマスクをつけていた。死体は引き離され、貨物エレベーターのところまで引きずられていった。毛髪は切り取られ、金歯は引き抜かれ、結婚指輪と宝石ははずされた。炉のホールに引き上げられると、死体は炉室の前の広い場所に引きずられ、炉に放り込まれた。1492体の焼却には2日かかった。 焼却棟Uのガス室は稼働し始めたけれども、まだ完成していなかった。クラクフのユダヤ人を清算したのち、焼却棟Uはサロニカからの2191名のギリシア系ユダヤ人がガス処刑される3月20日まで停止していた。死体が焼却されるので、強制通風のレベルまで火が噴き、それはオーバーヒートをもたらした。プリュファーとシュルツェは、現場に呼び出され、3月24日に損害を調査した。3月25日、彼らは強制通風を除去することを決定し、ガス室を前もって暖めておく可能性を放棄した。さらに、彼らは、ガス室の排気システムのための木製の送風機を金属製に取り替えた。腐食の危険性が過大評価されていたからである。3月中、メッシングは脱衣室の換気システムにかかり続け、それは3月31日に終了した。その日、脱衣バラックが壊され、犠牲者は西側に作られた階段から脱衣室に入った。 焼却棟Uが最終的に引き渡されたのは3月31日であり、費用は554500マルク(1992年では2215000ドル)であった。建物の受領書メモは、死体安置室1がガス気密ドア、4つの「鉄網投入装置」(チクロンBをガス室に投入するための鉄網柱)、4つの「木製カバー」を備えていたことを示している。脱衣室となった死体安置室2の排気システムにはモーターがつけられなかった。このシステムは不要であったからである。 4月初頭、焼却棟Uは何の問題もなく作動していた。しかし、ある日、スライド式調節器がうまく機能しないことが発見された。さらに調査すると、内部の内張が壊れていること、地下の結合導管の形が悪くなっていることが明らかとなった。中央建設局はプリュファーに電話して、対処方法を尋ねた。彼は、煙突のための新しい青写真を送ることを約束し、ラインラント地方に商用に出かけた。彼はこれがトップフ社の問題とは考えていなかったからである。彼の会社が煙突を建設したわけではなかったからである。青写真がつかないと、中央建設局は何回も電報をうってこれを求めた。さらに、焼却棟Vのゴミ焼却炉の熱が100のシャワーのための水を温めるために利用できないかどうか研究することを求めていた。4月15日、プリュファーはエルフルトに戻り、2日後にアウシュヴィッツに向かうことを約束した。彼は4月19日にアウシュヴィッツに到着し、SSをなだめ、新しい煙突の青写真を約束し、少々がっかりして、焼却棟Wの炉の保証が消滅したこと、中古の資材を使って建設された炉をもはや修復することはできないことを記した。にもかかわらず、彼は機械的換気が行われれば、ガス室は依然として使用しうると見積もった。彼は、焼却棟Wと焼却棟Xのための2つの排気システムを2510マルクで発注し、4月20日にエルフルトに戻った。 焼却棟Uは5月22、23日に停止した。ケーラー社が煙突のゴミを清掃した。仕事は5月29日に完了したが 、プリュファーの青写真がまだ届いていなかったので、修理を始めることができなかった。それが届いたのはやっと1ヶ月後のことであった。中央建設局、トップフ社、ケーラー社のあいだの書簡では、損害と停滞の原因を相手になすりつけていることが見て取れる。 3月の焼却棟Uの完成が遅れたために、焼却棟Wの方が早く、3月22日に公式に収容所管理当局に引き渡されるという結果となった。それは、203000マルク(1992年には810000ドル)であった。ここでもまた、建物の使用目的をわれわれに伝えているリークがある。2月28日、西側部分の内装を完成させていたリーデル・ウント・ゼーネ社の監督官が、堅い木製の「窓」をさしはさまなくてはならなかった。毎日の作業報告で、彼は、「ガス気密ドア」をさしはさんだと報告している。3月2日、彼はガス気密ドアが設置されている場所にアスファルトをしき詰めなくてはならなかったときに、彼はその日の末尾に「ガス室にアスファルトをしき詰めた」と記している 。 焼却棟Wの最初のガス処刑は、うまくいかなかった。フェイスマスクをつけたSS隊員が、小さなはしごを登って「窓」に向かい、ついで、片方の手でそれを開け、別の手でチクロンBを投下しなくてはならなかったからである。このアクロバット的な繰り返しが、6回も繰り返されなくてはならなかった。ガス気密ドアがガスを排気するために開かれたとき、自然換気が効果的ではないことがわかった。空気の流通をはかるために、北の廊下にドアが作られなくてはならなかった。 焼却棟Wの二重4炉室炉がうまく稼働したのは、短期間にすぎなかった。プリュファーが価格を安くしようとしたために、それを単純なものとしたので、問題が起り始めた。2週間の過重な稼働ののちに、炉はひび割れた。コッホが耐火土で割れ目を埋めたが、それは再び現れた。5月中旬までに炉はふたたび使えなくなり、焼却棟Wはまったく稼働を停止した。 プリュファーは、資材の劣悪さを非難したが、自分に責任があることを知っていた。事実、プリュファーは、炉がその稼働開始1ヶ月以上前から、問題を生みだしていることを知っていた。2月、プリュファーは、モギリョーフの原型が炉の中心に偏った設計のために亀裂を生んでいることを伝えられた。このモデルの炉(図26)の構成ユニットでは、2つの炉室と発生器、発生器と煙の排気のための中央ダクトとのあいだの炉室が、発生器から離れているほかの炉室よりもかなり熱くなってしまう。温度差が耐火煉瓦のあいだに衝撃をもたらし、それが亀裂を生み出してしまうのである。 Rk:導管(煙だまりへ)
Es:マンホール S:調節器 M:炉室 Fk:炎の導管 K:石炭供給器 A:切断バルブ 図26:ビルケナウの焼却棟W8炉室炉の原型の構成ユニットの図面。C:煙を排出するための中央ダクト、2つの炉室を地下の煙導管につなげている。 焼却棟Wの炉について何もすることができなかったので、プリュファーは、焼却棟Xの炉の修正を決定した。彼はその構造を再設計し、炉室を再グループ化して、端におかれた、二つのダクトでそれを囲んだ(図27)。この新しい配置は、炉を「厚くし」、それを「補強した」。しかし、プリュファーは、亀裂の根本的な原因、側面の発生器を除去することはできなかった。焼却棟Xは4月4日に配送されたが、ガス室の気密ドアは4月16−17日まで設置されなかった 。 →、←、↑:煙の流れ 図27:ビルケナウの焼却棟Wの8炉室炉の強化型の構成ユニットの図面。C1、C2:煙を排出するための周辺ダクト、2つの炉室を地下の煙導管につなげている。 一方、焼却棟Vの作業は進行していた。5月初頭、メッシングはガス室を設置した。収容所の焼却能力は焼却棟Wが作業停止しており、焼却棟Uも停止していたので、劇的に低下していたために、焼却棟Vを完成させる緊急の必要が生じた。中央収容所の焼却棟Tと、過重な作業をした場合停止するかもしれない弱い炉を持った焼却棟Xだけが稼働していた。焼却棟Vが引き渡されたのは6月24日であった。詳しい発送状には、死体安置室1にはガス気密ドアと14の(偽)シャワーが含まれていることが記されているが、その二つは死体安置室の機能にはふさわしくないものであった。焼却棟Uと同様に、死体安置室2(脱衣室、メッシングによって二度このように記されている)を排気するためのモーターは設置されなかった。 1週間以内に、焼却棟Uは操業を再開し、中央建設局は、SS経済管理局に、動物の死体の「ユニット」70−100kgとして計算する、収容所の毎日の焼却能力を示す報告を提出している。そこには、公式の数字と潜在的な能力の大きな相違があったようである。焼却棟Tは340kgに対して250 kg。焼却棟UとVは1400 kgに対して1000 kg。焼却棟WとXは768 kgに対して500 kgであった。(実際の能力はもちろん、すべての焼却棟が稼働しているわけではないので、もっと低かった)。にもかかわらず、この数字はある点では有効であった。10 kgの二人の子供と、50 kgの女性を焼却する時間は、70 kgの男性を焼却する時間に等しかったのである。このために、重さを人数に換算すると、1から3までの掛け算の係数が必要となり、焼却棟の能力の人数的な統計数字は、そのどれを採用するかにかかってしまった。焼却棟WとXの見積もり能力は、炉室がUとVと同様の能力を持っていると仮定して、焼却棟Uをもとに計算された。 しかし、見積もりは楽観的以上のものであった。6月末、焼却棟Wは使えなくなり、Uは停止した。7月末、焼却棟Tは政治部の要請で使えなくなった。Xに関しては、U(修理された)とVがユダヤ人の日々の移送者集団を扱うのに十分であるので、9月以降は使わないことになった。 ケーラー社は、6月22日に、焼却棟Uの煙突の内部のオーバーホールを始めた。作業は1ヶ月続いた。ついで中央建設局は、トップフ社に、まだ保証期間中の地下の煙ダクトの修理を要請した。中央建設局は、ドイツ装備会社の金属工場が作った新しい調節器を設置した。この作業は8月末までかかった。3ヶ月の停止ののちに、焼却棟Uは9月に再度稼働した。 誰が余分の費用を出すかという問題が未解決であった。問題は、9月10、11日に議論された。中央建設局は、トップフ社が損害に責任があると考えていた。2つの単純化された3炉室炉(1942年にカムラーが進めた計画)をもった焼却棟の研究のために支払われた1769.36マルクには、ケーラー社の焼却棟2の煙突のための青写真と統計計算が含まれていると誤解されていたためであった。トップフ社は資材をケチったとケーラー社を非難し、ケーラー社はこれを否定した。トップフ社は新しい装置の青写真をケーラー社に提供していた。しかし、トップフ社はこの計画が適切に実行されているかどうか監視できなかったので、あらゆる責任を免れていると考えていた。ケーラー社だけが問題の本質を提起する勇気を持っていた。煙突の損傷は焼却棟Uの過剰稼働によるというのである。結局、合意がはかられなかったので、中央建設局は、かかった費用を3つに分割した。4863.90マルクをそれぞれが、1621.90マルクずつ負担した 。 トップフ社と中央建設局との関係は9月以降急速に悪化した。双方ともが不満を持っていた。建設局は、焼却棟Wの炉の失敗と焼却棟Uの煙突の問題の件でトップフ社を批判し、一方、トップフ社は泥沼に陥りつつあることを理解し始めていた。枢軸国の戦局が急速に悪化すると、トップフ社の幹部は、連合国の勝利のあとの自社の将来について考え始めた。彼らは状況が絶望的であることを悟った。 とくに、トップフ社が悟ったのは、SSとの協力が収入を与えてくれるだけの楽な仕事ではないことであった。第一に、SSは最小の請求書さえも点検した。その上、支払いはきわめて遅かった。1943年、8月20日、中央建設局はトップフ社に90000マルク借りていた。資金を回収するには、何回もの督促の手紙が必要であった。最後に、SSは気まぐれで、一貫していなかった。トップフ社が数日間頭を悩まして作成した計画を、SSは説明なく廃棄することがあった。たとえば、焼却棟Yであり、それは日の目を見なかった。焼却棟UとVの死体安置室の予備暖房、焼却棟Vの100のシャワーである。あるいは、焼却棟Tの換気システムのように、もはや必要のないものを発注することがあった。 トップフ社とアウシュヴィッツの最後の関係は、1944年に発生した。建設局の新しい局長SS少佐ヴェルナー・ヨハンは、ハンガリー系ユダヤ人の即時の到着を予想して、UとVが完全に稼働することを望んだ。また、1943年9月以来使われていなかったWとXの再稼働を望んだ。彼はトップフ社に、焼却棟UとVに常設のエレベーターを設置し、大量ガス処刑のために焼却棟WとXのガス室に排気システムを設置することを希望した。非常な困難と、軍需省とSS経済管理局からの干渉を受けながら、2つのエレベーターは1944年5月にアウシュヴィッツに発送された。しかし、それを設置する時間がなかった。焼却棟Xへの排気システムの設置は、その資材の一部が1月から倉庫にあったので、5月に行なわれた。2つのガス室と廊下は480㎥であり、焼却棟UとVの死体安置室1とほぼ同じであった。シュルツェはこのために、同じパワーの排気システムを計画した。3.5馬力のモーターを持った450番の送風機であり、1時間に8000㎥の能力を持っていた(図28)。第二の換気システムは設置されなかった。 O:チクロンBガスを投入する開口部
G:ガス気密ドア X:暖房ストーブ S:ストーブの煙突 C:汚染された空気を排出するダクト 図28:1943年6月にカール・シュルツェが設計し、1944年5月に設置されたビルケナウの焼却棟Xのガス室の排気システムの図面。平面図(上)、A−Bの断面図(下) 1944年5月6月のハンガリー系ユダヤ人の大量虐殺はおもに焼却棟U、V、Xで行なわれた。焼却棟Xの炉はすぐに満杯となり、ガス室に沿って掘られた壕のなかで、犠牲者は戸外で焼却された。ブンカー2が小グループを処理するためにふたたび稼働し、その死体は30uの壕のなかで焼却された。チクロンBが不足するようになった夏の終わり頃、犠牲者は焼却棟Xとブンカー2の焼却壕のなかに並べられた。 数千の女性、子供、老人が炎のなかに消えていくなかで、中央建設局とトップフ社は金勘定をしていた。中央建設局は、1943年の最後と1944年の2月初頭に高額な請求額を実際に支払っていた。しかし、建設局はトップフ社がドイツ装備会社金属工場に委託していた仕事、トップフ社が様々な作業現場で必要とした細かな仕事について、トップフ社が支払うことを要求した。たとえば、2ヶ月間レンタルされた酸素シリンダーのコストは、2.10マルクであった。借用されたモーターオイルは、8.25マルクに達した。トップフ社は総額9000マルクに達する請求書を申告した。総額は7500マルクに減らされた。 2つの8炉室炉の件がきわめてデリケートな問題として残った。ルスランド・ミッテ建設局は、トップフ社に55520マルクでモギリョーフのための4つの炉を発注しており、2つの設置で、総額42600マルク支払っていた。アウシュヴィッツ中央建設局は、27600マルクで2つの炉を発注しており、1つの設置で10000マルク支払った。トップフ社は、6つの炉をそれぞれ13800マルクで売却したと考えていたが、ビルケナウの2つの炉はモギリョーフへの発送から引き抜かれていた。2つの建設局は、トップフ社に30200マルク(6つの炉)ではなく2600マルク(4つの炉)の差引残高の支払い義務を負っており、アウシュヴィッツ建設局はそれに配慮することに合意していた。実際には、トップフ社が建設したのはビルケナウの2つの炉とモギリョーフの1つの半分であり、それは34500マルクであった。だから、不正に着服した18000マルクを返却すべきであった。2600マルクの補足的なクレジットを受け入れることによって、それはまさに20700マルク(1992年では83000ドル)の利益を生んだ。それはアウシュヴィッツのSSとの喧嘩の代償であった。馬鹿を見たのは、ルスランド・ミッテ建設局であった。 1944年10月7日、ビルケナウの特別労務班が反乱を起こした。労務班員の多くが寝泊まりしていた焼却棟Wは放火された。SSはこれを残酷に鎮圧した。建物は崩壊し、炉の金属部分は溶かされて、鉄道駅に保管された。 11月末、ヒムラーからの口頭の命令で、ガス処刑は中止された。12月初頭に結成された解体部隊が、焼却棟UとVを解体した。焼却棟Xは使われ続けたが、「自然死」した人間の焼却という「正規」の使われ方であった。 1945年1月中旬までに、焼却棟UとVはまったく崩壊し、その残骸にはアスファルトがかけられた。収容所群は1月18日に疎開した。1月20日正午、SSは焼却棟UとVの残骸を爆破した。まだ存在していた焼却棟Xは1月22日午前1時にダイナマイトで爆破された。1月27日、ソ連軍の兵士が、4つの建物の雪で覆われた残骸のもとに到着した。 合衆国第三軍は、その3ヶ月後の4月11日にブッヘンヴァルトを解放した。アイゼンハウワーが収容所を訪れた。ブッヘンヴァルトの焼却棟の2つの3炉室炉はトップフ社の名声を高めた。第三帝国は5月8日に降伏した。5月30日、調査ののち、合衆国憲兵隊はプリュファーを逮捕した。ルードヴィヒ・トップフは5月30−31日に自殺した。プリュファーは6月13日に釈放され、アメリカ人から炉の注文を受けることにさえ成功した。合衆国の調査官は、会社の本部を捜査することを怠り、アウシュヴィッツのガス室建設でのトップフ社の役割を理解できなかった。 6月14−21日、エルンスト=ヴォルフガング・トップフとプリュファーはアウシュヴィッツでSSと結んだすべての契約を破棄した。米軍はソ連地区となったエルフルトから撤退したので、トップフの弟はアメリカ軍とともに6月21日に西へ移動し、技術的・工業的文書以外の資産を残していった。 7月3日、ソ連がエルフルトを占領した。10月11日、ソ連軍は、プリュファーとトップフ兄弟についてトップフ社の開発部長グスタフ・ブラウンに尋問した。1946年3月4日、ソ連はブラウン(臨時の社長となっていた)、ザンダー、プリュファー、シュルツェを逮捕した。エルドマンは共産主義組合に登録されていたので、拘禁を免れた。ブラウンは25年間の収容所送りとなったが、1955年に釈放された。プリュファーの運命は知られていないが、彼と残りの技師はおそらくブラウンと同じ運命をたどったのであろう。アメリカ人とは異なって、ソ連人はアウシュヴィッツの建設にあたってのプリュファーの役割にすぐ気がついた 。 エルンスト=ヴォルフガング・トップフは1949年にヴィスバーデンで会社を再建しようとしたが、資金が不足しており、再建は失敗した。ヴィスバーデン支社は1963年に解散した。彼は法的なトラブルを経験することはなかった。ただし、彼のもとに残ったただ一人の技術者マルチン・クレットナーが1950年に焼却炉の特許権を恥知らずにも申告するという大失態をやらかした。この事件は、当然にもスキャンダルとなり、ヴィム・ファン・レールの戯曲『未解決の特許』の背景となった。この戯曲は1963年にロンドンで上演された。 ビショフは穏やかに戦後の生活を送り、1950年に死んだ。建設局の二人のメンバーヴォルター・デヤコとフリッツ・エルトルだけが法廷の前に立たされた。デヤコは青写真部長として、すべての青写真を見ていた。エルトルは1942年8月19日のアウシュヴィッツでのプリュファーとケーラーとの悪名高い会議の議長を務めた点で告訴された。そのとき、ビショフはベルリンにいて、新しい焼却棟のための数少ない青写真に署名した。1972年1月にウィーンで開かれた二人の「焼却棟の建築技師」の裁判は、二人の釈放を持って終わった。 注 本小論を準備するにあたって、以下の文書館を利用した。ロシア中央国立特別文書館(モスクワ)、10月革命文書館(モスクワ/10月革命)、ヴァイマール国立文書館(ヴァイマール)、カトヴィツェ国立文書館(カトヴィツェ)、ブッヘンヴァルト記念文書館(ブッヘンヴァルト)、ダッハウ記念文書館(ダッハウ)、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館文書館(オスヴィエチム)、ヤド・ヴァシェム文書館(イェルサレム)、ベルリン資料センター(ベルリン)コブレンツ連邦文書館(コブレンツ)、ヴィスバーデン商工業室(ヴィスバーデン)、パリ現代史資料センター(パリ)、ポーランドにおけるヒトラー一派の犯罪中央調査委員会(ワルシャワ)、産業保護国立研究所(コンピエーヌ)、ウィーン最高裁判所(ウィーン)。 http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm
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