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哲学者だった西尾幹二は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/589.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 8 月 28 日 14:27:26: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 02 日 11:42:09)


哲学者だった西尾幹二は何時から頭がおかしくなったのか?


西尾幹二 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%A5%BF%E5%B0%BE+%E5%B9%B9%E4%BA%8C


西尾幹二の著書
https://www.amazon.co.jp/%25E8%25A5%25BF%25E5%25B0%25BE-%25E5%25B9%25B9%25E4%25BA%258C/e/B001JOSZU8?ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vu00_taft_p1_i0



▲△▽▼


ユーラシア大陸と日本
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/020.htm

 

初めに

 大げさな感もする表題だが、今回は西尾幹ニ『国民の歴史』(扶桑社1999年)の読後感を書いてみようかと思う。

国民の歴史 – 1999/10/1
西尾幹二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%B9%B9%E4%BA%8C/dp/4594027814

この本は随分と売れたようで、そのためこれを取り上げた雑誌も少なからずあった。世間の評価は賛否両論で、著者の西尾氏への支持もあれば厳しい糾弾もあった。

 そうした雑誌の記事やネット上の各種掲示板での投稿から同書の内容の一部は窺い知ることができ、その主張について疑問も感じたので、ヤフー掲示板などで同書について少々批判的なことを書いてしまった。

 実際に読んではいないのにそうしたことを書いたのは軽率だったと今では反省しているが、ずっと貸し出し状態だった同書を漸く図書館で借りることができ読み終えたので、ここで一度同書に対する私の雑感を書いてみようかと思うのである。

 同書には、実際に読む前から少なからず疑問を持っていたが、いざ読んでみると、あまりにも多くの問題点があるのには驚いてしまった。勿論、西尾氏は私などと比較しては失礼なほど博学で読書量も豊富なのだろうから、私の方が的外れな見解を抱いているのかとも思ったが、どうにも納得できなかった。

 だが、私の抱いた違和感はどうも私の独り善がりというものではなく、専門家からも色々と批判がなされており、最近になって『徹底批判 国民の歴史』(「教科書に真実と自由を」連絡会編、大月書店2000年)という、専門家による一般向けの本格的な『国民の歴史』批判本が出版された。

 全面的に同意できないとはいえ、私の疑問点も多くは同書の中で述べられており、今更私が『国民の歴史』に対する疑問点を述べることに意味はないかもしれないが、表題の「ユーラシア大陸と日本」という問題意識で、『国民の歴史』についての私の雑感を述べていこうかと思う。そうした意識で自分の見解を述べていこうと考えた理由は以下の通りである。

 西尾氏の『国民の歴史』での主張は 

@日本は東洋に属さないばかりではなく、ユーラシア大陸と対峙する独立した高度な一文明圏である。 

A戦争に正義と不正義との区別はあり得ず、日本が人類や世界に対して戦争責任を負う必要はない。 

B世界史の必然として起きた遠い過去の出来事に対して、我々は罪の意識を抱く必要も謝罪の必要もなく、沈黙すべきである。それは、日本による韓国の植民地化にも当て嵌まりる。 


の三点に分類されると私は思う。西尾氏は『国民の歴史』において様々な主張をされており、一見するとこれら三点に当て嵌まらないものもあるが、それらは概ね上記三点の直接・間接的な証明や補強だと私は思うのである。

 @ABは独立別個の主張ではない。Aでは、世界における普遍的な絶対的正義の存在への懐疑がその重要な根拠となっているが、それは、従来の正義は特定の集団による異質な集団への価値観の押し付けに過ぎないのではないか、との西尾氏の論理から導き出されたもので、日本は全く異質な西洋の価値観で戦争責任を問われたのだから、これは無効だというわけで、@にも繋がるのである。Bでは、西欧列強の世界制覇の中で、東アジアとは異なる独自の一文明圏を形成していた日本が東アジア諸国とは異なり近代化を達成し、日清・日露戦争に勝利するという情勢の中、日本が韓国を植民地化したのは歴史の必然であるとされており、やはり@にも繋がる。

 これらの点と全体を読んでの印象から、私は、西尾氏の主眼は@の主張にあるのではないかと思う。ABを正当化せんがために西尾氏は@を主張された、とする人もおられるかもしれないが、私はそうは思わない。そこで今回は、@に絞って西尾氏の主張に対する私の見解を述べていこうかと思うのである。

 尚、『国民の歴史』からの引用は紫色で示した。()内の数字は引用箇所のページ数である。

 

世界における日本の位置付け

 私は、ユーラシアを一つの文明圏とする見解も成立し得るのではないかと考えている。恐らく、記録に残らない段階よりユーラシア東西の交流は少なからず行われており、相互に影響を及ぼしていたと推測され、基本的に時代が下るほど相互の交流は盛んになっていったから、ユーラシアを一つの文明圏と認めてもよいのではないかと思うのである。この場合、質量で匹敵するか否かはさて措き、ユーラシアと対峙し得る文明圏は16世紀以前の先スペイン期のアメリカだと思う。

 だが、こうした区分も成立し得るとはいえ、実際にはそれほど意味のある概念とは言えないだろう。先スペイン期のアメリカ文明は食文化を除いて現代世界にほとんど影響を与えておらず、ユーラシア文明圏とはほとんど人類文明と言っているのに等しいからである。故に文明圏を考える際には、ユーラシアを複数の文明圏に区分する方が歴史理解にも役立つのではないかと思う。

 その場合様々な考えがあろうが、私は、大きく区分する際には、欧州と西アジアからなる西洋・インドと東南アジアからなる南洋・東アジアからなる東洋の三つに区分しようかと思う。この他、内陸アジアを独自の文明圏とすべきかとも思うが、自信はなく現時点では留保しておきたい。

 以上は私の考えだが、こうした大きな区分では西洋と東洋とに二分されることが多い。西尾氏もそのようだが、果して西アジアが西洋と東洋のどちらに区分されるのか、いま一つ掴みづらかった。どうも、東洋に区分されているようなのだが、まあこの点を曖昧にしておいても、西尾氏の主張も以下に私が展開する議論も混乱し困るということは特になさそうなので、このまま進めていきたい。

 普通、日本は東洋に属すとされているが、西尾氏の考えはそうではない。西尾氏は第1章において「ユーラシア大陸と対峙する一文明圏」という小見出しを付けられ、次のように述べられている。

 日本文化は東洋と西洋との二大文化が対立するそのなかの東洋文化の一翼ではない。西洋、東洋問わず、両方ひっくるめたユーラシア大陸の文化全体と日本の文化とがあい対しているのである。(39)

 西尾氏はその根拠を色々と述べられているのだが、決定的な根拠は言語である。

 その決定的な要因は言語である。現代言語学の達成した成果によると、日本語は、ユーラシア大陸のどの語族にも属さぬことだけは明らかになったようだ(39)

 比較言語学によると、日本語はどの語族に所属するか不明な言語とのことで、一見すると日本の独自性を証明しているかのようである。もっとも、比較言語学で提唱される言語系統論、更には言語の分岐年代を推定する言語年代学が果してどこまで有効か疑問はあるのだが、一先ずそれは措く。

 さて、所属の不明な言語は日本語だけではなく、朝鮮語やアイヌ語などもそうであり、日本語だけが特例というわけではなく、西尾氏も第5章でこの点には触れられている。朝鮮は普通は東洋に属すとされ、西尾氏もそう主張されているが、その朝鮮も系統不明の言語なのである。つまり、日本はユーラシア大陸と対峙する一文明圏という西尾氏の主張は、そもそもその根拠が甚だ脆弱であることが分かるのである。

 だが西尾氏は、朝鮮語が系統不明の言語であることの意味を掘り下げようとはなさらず、ひたすら日本語、延ては日本の独自性を主張されていくのである。西尾氏によると、朝鮮は時代が下るにつれ中国専制国家体制へ傾斜していき、独立した文明圏たり得なかったとのことで、西尾氏にとって、朝鮮の中国への従属と主体性や独自性の希薄さは自明の理なのだろう。 

 日本が西洋と異質だという主張は理解されやすいので、西尾氏の議論は勢い日本と東洋との異質さの強調に向けられる。上述したように西尾氏にとって、朝鮮は中国の従属下にあるようなもので独立した文明圏ではないから、独立した一文明圏としての日本という主張の証明は、日本と中国との相違の強調と、日本が中国から受けた影響は小さいか表面的なものに留まった、という方向で展開される。

 そこで以下では、西尾氏の主張される中国論や日中比較と日中関係を通じた日本論について見ていきたい。ユーラシア大陸と対峙する一文明圏としての日本、という西尾氏の主張の説得力を確かめるには最適のはずである。

 

中国史認識

 『国民の歴史』を読んだ印象では西尾氏は大変な読書家のようで、中国史に関しても相当な量の本を読まれたようである。内藤湖南のような大家の論考から近年の若手研究者の論考まで幅広く読まれたようだが、それにも関わらず西尾氏の中国史認識には多々疑問を覚えてしまう。

 西尾氏は、日本人による従来の中国論や中国史認識は中華思想に忠実で中国を崇拝する傾向にあるとして大いに不満をお持ちで、宮崎市定氏のような大家に対しても容赦ない。西尾氏は従来の中国史像に対して、近年の若手研究者の論考を引用しそれにも依拠しつつ、御自身の中国史像や中国論を展開されている。一見すると、時代遅れの中国史像に対して新鮮で魅力的な説得力のある見解を提示されているようだが、私には西尾氏の見解はどうにも疑問なのである。

 西尾氏の中国史像は、早い段階で高度な文明を築き周囲に影響を及ぼしたが、殷以来の専制国家体制の下で早い時期に停滞に陥り、長期に亘って基本的に発展や変化はなかった、というものである。また西尾氏は、唐代までの中国の影響力についてはある程度評価されているが、以後の中国の影響力は唐代までには遠く及ばないとされ、更には、一国の民族史としての中国史は唐滅亡以降は存在せず以後の中国の歩みは王朝交替史にすぎない、と主張される。それに対して、日本の内的発展が強調されるのである。

 こうした主張は特に目新しいものではなく、明治以降、特に高度経済成長期以降の日本人の中国への一般的な認識と通ずるところが多いように思われる。以前には日本よりも先進的な文明を誇った中国は停滞して半植民地状態に陥り経済も発展しないのに対し、発展性に富む日本は西欧列強に抗して独立を保持し、一旦は敗北を喫したがすぐに復興して高度経済成長を達成した。停滞の老大国中国に対して順調に発展してきた日本という図式で、中国に対する優越感も多分に感じられるものである。

 西尾氏は、異質な集団間での「追いつけ追い越せ」史観や先進・後進といった枠組みは成立し得ないとされる。異質な集団同士はどんなに発展しても相互に異なる社会となるのだから、そもそも論の立て方が間違っているというわけだが、少々都合のよい解釈に思える。第19章「優越していた東アジアとアヘン戦争」では、異質な集団間での優劣関係を認めておられ、発展度合いの差や優劣関係、具体的には例えば、古代における中国の日本に対する優越を認められているようである。先進・後進というのも一般には優劣関係の意味で用いられるのだから、たとえ異質な集団間といえども、先進・後進という枠組みで語っても問題はないように思う。

 明治以降の日本の中国に対する優位を自明のものとされている感のある西尾氏は、古来より独立した高度な一文明圏としての日本、という重要な主張の証明のためにも、できるだけ早い時期に日本が中国に優位に立ったと主張されたいようで、そのために中国の停滞を強調されているように思われる。西尾氏が中国の発展を認められているのは基本的に唐代までで、漢の時代から二千二百年間、あの大陸はほとんど何も変わっていない(214)という記述から推測すると、本音では漢代以降の中国は停滞していたとされたいようである。

 専制国家体制が継続し、中国は何等変化のない停滞した社会というわけだが、私にはこうした枠組みの方こそ時代遅れに思われる。専制国家体制とはいっても、果して漢と唐と宋との体制は同質のものとして認識してよいのだろうか。果して漢〜清までの社会の実態を停滞と認識してよいのだろうか。

 そもそも、多数の中国史関連の論考を読まれたはずなのに、西尾氏の中国理解には甚だお粗末な点が見受けられる。中国の王朝交替劇はおおむね「禅譲」ではなくて「放伐」であった。(201)とされているが、前漢の滅亡から宋の成立に至るまで、多くの王朝交替が禅譲によるものである。そうした禅譲の多くは分裂状態の中統一王朝ではなかったから意味がないという理解なのかもしれないが、殷以降を一貫した専制国家体制とされているのだから、漢末〜唐の統一までの長期の分裂状態も前後の時代と同列に認識されているわけで、分裂時期は除外して考えるというのも説得力に欠ける話である。

 また、なぜいったん皇帝が即位すると、あれほどの広大な領土の全エネルギーが一人の皇帝に結集して、豪族や地方分権の貴族などの登場を許さず(201)とされているが、漢滅亡から宋の成立に至るまで、京都学派の言うところの中世において、豪族や貴族の勢力は強大なものがあり、皇帝権力を掣肘する傾向が強く、そのために皇帝側が新たな直属機関を置くものの貴族がこれを制圧するという構図が繰り返され、こうした動きの中から貴族・豪族の没落と近世における皇帝独裁政治の成立を見るのだが、これらの点は軽視されているようである。確かに地方分権の貴族は一見すると存在しなかったように思われるが、中世において、豪族は地方に広大な私領を有して強い勢力を保ち、中央政府に出仕した者は貴族と呼ばれた。彼等は中央政府にて形勢不利と見れば所領に帰って好機到来を待つことが屡々あり、地方分権的貴族という性格も認められる。西尾氏のこの見解はどうにも的外れに思えてならない。

 西尾氏の中国史認識は、自説の主張の都合上、中国をできるだけ変化のない停滞した社会・国家体制と描くのに腐心するあまり、非常に古めかしく歪んだものになったように思われる。

 

中国の影響力と日本

 中国の影響力軽視というのも、西尾氏の中国観の特色の一つである。唐滅亡以降に関しては特にそうである。日本への中国の影響も、唐代までは表面的なものに留まったとしつつも認めておられるが、唐滅亡以降はもはや決定的な影響は受けていないとされる。

 春秋戦国期(前七七一−前ニニ一)にヤスパースのいわゆる「軸の時代」の、人間としての限界の自覚と精神の跳躍を経験し、つづいて漢唐の大帝国の統治方式、歴史伝承の様式などを革新的に創造したあとではもはや、なにが起こっても、過去を超えることは二度とできない。周辺文明に、新鮮かつ衝撃的な理念の「型」を提示し、印象づけることはもはや起こりえないのだ。(330)

 一応、新鮮かつ衝撃的な理念の「型」と断わっておられるが、果してこのような理解は妥当なのだろうか。西尾氏の言う理念とは、律令制度などに代表される専制国家体制や儒教など唐滅亡以前に達成されたもので、日本への影響としては漢字も挙げられているが、果して歴史の原動力や社会へ根本的な影響を及ぼしたものをこうした点に留めておいてよいものだろうか。どうも私には、一面的・表層的な側面もあるように思えてしまう。宋以降の中国はそれ以上の影響力を周囲に及ぼしたのではないか、西尾氏の言われる理念の「型」以外のものも提示する必要があるのではないか、という疑問を私は抱いているのである。

 西尾氏には、社会の基盤や実態にはあまり着目されない傾向があり、中国を長期に亘る専制国家体制と捉えられているのもそのためなのだろうが、特に社会基盤への重視には、唯物史観的だとして敵意剥き出しのように思える。確かに全てを下部構造で説明しては偏向していると批判されても仕方なかろうが、かといってこちらを軽視した歴史像も甚だ一面的と言わざるを得ない。社会基盤の軽視は民衆軽視に繋がっており、『国民の歴史』で民衆が描かれることはあまりない。西尾氏の提示される理念の「型」に表層的なものを感じてしまうのはそのためだろうか。

 宋代以降の中国の世界への影響については、枚挙に遑がない。火薬・羅針盤・印刷術・絵画・石炭利用に伴う陶磁器と製鉄の発展・茶・朱子学などである。正直なところ、中国の世界への影響に関しては、唐以前よりも宋以降の方が遥かに強いと思う。

 それらは理念の「型」ではないとのことだが、果して、西尾氏の言われる理念の「型」が周辺地域に及ぼした影響と、宋代以降の上記影響とでは、どちらが衝撃的で根本的なものだったのだろうか。そうした理念の「型」には、例えば日本における律令制度がそうであるように、中国社会との大きな差によりすぐには決定的に根付かなかったものも少なからずあるのではなかろうか。これに対して朱子学は、唐以前の支配理念よりも強力な影響を及ぼしたと思われるのである。

 モンゴルを頂点とする、10〜15世紀における内陸・東アジアの遊牧民族の活発な活動の一要因は、中国における宋代の製鉄革命にある。廉価な鉄製品の大量生産が可能となったため、これら遊牧民族の戦闘力は飛躍的に増大したのであり、また彼等の活動の主目的の一つに高度に発展した中国経済の支配があり、支配に成功した場合には中国がその経済的活動基盤となるのである。宋以降の漢民族王朝が遊牧民族に対して劣勢傾向だったことが西尾氏の宋以降の中国低評価に繋がっているのだろうが、寧ろ中国における経済発展やナショナリズムの勃興など、中国の総合的発展と影響力増大が、これら遊牧民族の活発な活動を齎した要因なのではないかと思う。

 こうした影響を西尾氏は理念の「型」とは認められないだろう。だが、仮に西尾氏の提示される理念の「型」という概念を認めるにしても、それらは社会経済の在り様により形成されるという側面が大で、この時期の中国の周辺地域には中国の影響大なるを認めるのが妥当である。更には、西アジアや欧州にも、絵画や陶磁器などを通じて唐以前よりも中国の影響が強く及んでいる。総体的に見て、中国の世界への影響が宋代以降に更に強くなったとするのが妥当と思う。

 日本についても同様である。西尾氏は、九〇七年の唐帝国の崩壊より以降、日本はもはや中国大陸文明から決定的影響は受けていない(23)とされるが、日本が中国より決定的な影響を受けたのは寧ろ唐の崩壊以降だと思われる。

 鎌倉新仏教や朱子学などはその好例である。これらが日本に与えた影響は甚大なものがあり、その後の日本の枠組みが形成されていく上で重要な役割を果たした。西尾氏が高く評価される武士道にしても、朱子学と鎌倉新仏教の影響大である。

 そして何よりも、14〜16世紀における日本の大変動への影響力である。この時期が日本史における大転換期だったことを否定する人はまずいないだろうし、西尾氏もそれは認められている。この大変動は日本列島内だけで自己完結的に説明されるべきものではない。10世紀以降に次第に発展してきた中国を中心とする東アジア交易圏の一員であることにより、朝鮮や中国から齎された諸技術や物産や銅銭なども大きな影響を及ぼしていると考えるのが妥当であろう。この大変動を経て日本に成立した村社会において、物質面だけではなく、精神面においても、朱子学や鎌倉新仏教など中国の影響の強い思想も庶民の規範意識に大きな影響を及ぼしているものと思われる。ただ江戸時代の朱子学に関しては、直接的には朝鮮からの影響が強いとするのが妥当かもしれない。

 果して、唐滅亡以前において中国が日本にこれだけの影響を与えたと言えるだろうか。確かに漢字の影響は甚大だったが、その派生文字である仮名も含めて広く浸透したのは後代で、中国の影響もあっての社会発展がその要因となっていることも公領に入れる必要があると思う。仏教や儒教については、現代日本に重大な影響を与えているのは鎌倉新仏教であり朱子学である。朝鮮経由のものも含めて技術の伝播は唐以前より盛んだったが、灰吹法や明代の中国から学んだ農業技術の浸透など、宋以降もそれ以前と比較して決して劣らないほどの影響を日本に与えている。

 律令制度については、やや詳しい説明が必要かもしれない。西尾氏は、律令制度の導入は表面的なもので、日本風に翻案されており、中国的な支配理念はすぐに崩壊したとされている。確かにそうかもしれない。西尾氏は、その理由を中国と日本との異質さに求めておられ、先進・後進という枠組みでの説明は否定されている。だが、近年有力になりつつあり、西尾氏も認められているが、律令体制はすぐに崩壊したとされるが、寧ろ律令理念は時代が下り日本が発展するにつれ浸透していくという見解が提示されている。確かに律令制度が表面的な導入に終わったのは日本と中国との異質さのためだが、この点からその異質さを追求すると、結局日本が中国よりも後進的だったという見解に帰着させるのが妥当だと思われる。律令理念の浸透は確かに過小評価はできないが、日本の在り様を規定した要素として、果して宋代以降の中国から齎された様々な要素よりも根本的な影響を与えたと言えるかというと、私はそうではないと思う。少なくとも、律令制度に匹敵するような新鮮で衝撃的な理念の「型」が、宋以降の中国から齎されなかったとは言えないように思う。

 日本への、唐以前の中国と宋以降の中国との影響を比較すると、後者の方が圧倒的に強くまた根本的な変化を齎したとするのが妥当と思われる。確かに西尾氏が指摘されるように、唐以前の中国から齎された根本的な文化や諸制度は表面的な受容だったり、日本の状況に応じて大幅に改変されたのかもしれない。しかし、宋以降に関しては、決定的影響を受けていないとする西尾氏の見解は的外れだと思う。

 或いは西尾氏もその点に薄々気付かれており、だからこそ、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本という主張をされる西尾氏にとって、宋以降の中国の日本への影響力は徹底的に軽視されねばならないのかもしれない。またそのために、宋以降の中国の停滞性を強調されているのかもしれない。  

 

日本文明圏という枠組み

 以上、主に『国民の歴史』における西尾氏の中国への見解に対して私見を述べてきたが、次に、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、という西尾氏の主張に対する私の意見を述べておきたい。

 確かに西尾氏の指摘される通り、日本と中国とは古代より現代に至るまで相互に異質な存在である。だが、凡そ全ての集団、更には個人同士は相互に異質な存在であり、民族や文化や文明などは、全員を対象にして類似性と異質性とを抽出して比較し、その強弱の度合いによって様々な区分がなされているわけで、決して自明のものでも固定不変的なものでもない。

 さて古代より現代に至る日本と中国とを、両者の異質性と相互の影響力とを理由として、一貫して相互に別個の文明圏だったとする見解を取ることは可能だろうか。私は、確かにそうした見解も成立し得ると思う。だが、日本と中国との異質さを理由に両者をそれぞれ異なる文明圏とする場合、世界各地に多数の文明圏を設定しなければならないのではなかろうか。

 西尾氏は朝鮮を中国を中心とする東洋文明圏に属すると自明の如く主張されているが、上述したように言語系統学では朝鮮語は中国語と異なるばかりか系統不明なのだから、西尾氏の論理では独自文明の最重要ともいえる構成要件を備えているのである。李朝以降の、儒教の受容を誇ったことや事大主義が朝鮮の独自性を軽視させるのだろうが、前者は陸続きの大国に対する配慮であり、後者にしてもそれが中国と同様の儒教浸透の在り様かは検討を要するであろうし、儒教が古来の基層文化を消滅させたとは言えず、それは民衆芸術などに噴出していた。語り物であるパンソリや農楽などがそうである。朝鮮は時代を下るにつれ中国への傾斜を強めていったとされるが、政治制度や社会全般の点での中国との根本的類似性が本当に認められるのか、慎重な検討の必要があると思う。また、18世紀以降にはハングル表記の民間文学も盛んとなっていく。

 朝鮮については、今後ホームページに掲載予定の「朝鮮史」の中で詳しく考察していきたいが、現時点での私の考えでは、仮に日本と中国とを別個の文明圏とするなら、朝鮮と中国とも別個の文明圏とするのが妥当であるし、そうすると世界各地に設定する文明圏は10程度では到底足りないということになるのである。故に、西洋・東洋・日本といった文明圏の設定には無理があるように思われる。

 異質さという観点から日本と中国の対峙関係が成立するなら、朝鮮と中国に関しても同様なのではないか、という私の見解は或いは妥当性に欠けるのかもしれないが、次は類似性という観点から見ていきたい。

 欧州諸国の類似性を以って西洋という枠組みを提示する一方で、東洋という枠組みを提示する時、果して日本は東洋に属さないほど、例えば東洋の中の朝鮮や中国との類似性に乏しいのだろうか。実は、西尾氏は次のように述べられているのである。

 最近痛切に感じるのだが、中国を南と北に分けると、南の文化、すなわち揚子江流域の稲作地帯には、日本や東南アジアにもつながる自然に開かれた感性、天地万物との共生感覚があって、われわれはおのずと共感を覚えるし、広い意味でのアジア的特性をわれわれと共有しているような気がする。これに反し北京政府に代表されるところの北中国は、およそ精神風土を異とするように思える。ここには、むしろイスラエルの砂漠の民と共通したきわめて抽象性の強いカミの概念があり、その意味では北中国はアジアではないのではないかとさえ、むしろ違和感を感じることがときとしてある。つまり、黄河以北など北方が代表するところの中国は、元来、西洋的思考にむしろ近いものを持っているのではないかということなのだ。(175)

 西尾氏も、西洋に対するアジアの温暖湿潤地域における共通性を認められている。私も、日本は江南など東アジア南方の文化と共通する特徴が多々見受けられるように思う。それは単純化して言うと、稲作農耕文化圏ということで、高床式建築を初めとして、日本の生活文化は南方的要素が多分に認められるのである。勿論、日本を南方要素だけで説明することはできず、弥生時代の青銅器文化やシャーマニズムを初めとして、北方的要素も大いに認められる。日本はその地理的環境からアジアの吹溜りとなる傾向にあり、遺伝的にも文化的にも雑多な要素からなる混合社会という点に最大の特徴があり、日本の独自性とは、東アジア、広く見ればユーラシアにおける様々な要素が認められる点にあると思う。

 ただ、日本の基底文化となると、漠然とした印象だが南方的要素が強いように思われ、西尾氏もそうした印象をお持ちのようである。だが西尾氏の場合、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、という主張が前提条件となっているため、華南よりも日本とは異質な華北を以って中国、更には東洋を代表させ、その特徴を強調することで、日本と東洋とは別個の文明圏と区分すべきほど異質だ、という議論を展開されていくのである。

 西尾氏は中原一元論的立場のようで、中国の多様性についてはさほど考慮に入れられていないようである。停滞史観もそうだが、一見すると従来の東洋史学に大いなる疑問を投げかけ新しい中国史像を提示されているように見えても、実際には、偏見や蔑視が混じっていると思われても仕方のない伝統的な中国観の提示に留まっているという側面が多分に認められるように思われる。

 そうした中国観に基づく文明区分論にはやはり疑問で、私はユーラシア大陸において東洋と西洋という文明区分を採用する場合は、日本を独立一個の文明圏とするのではなく、東洋の一端を担うとする方が妥当と思われる。

 

結び

 大変な読書家で博学なはずの西尾氏が『国民の歴史』で展開された議論にはあまりにも多くの問題点があり、説得力に著しく欠けるように思われる。何故こうなったのかと考えると、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、という無理のある主張を証明せんとしたためではないかと思われる。

 西尾氏は宮崎市定氏の「東洋史の上の日本」について、なにがなんでも中国が日本よりも先進国で、古代だけでなく現代史においてもそうだと言い張りたいための支離滅裂に陥って、十五、十六世紀以後の同氏の日中比較は見るも無残な内容であるが(341)と述べられている。別に宮崎氏は現代史においても中国が日本より先進国だとは主張されておらず、意図的かどうかはさて措き明らかな誤読なのだが、私が同様の言辞で西尾氏の『国民の歴史』を評すると、次のようになる。

 何が何でも、ユーラシア大陸と対峙した独立した高度な一文明圏としての日本、と主張されたいがために、西尾氏の比較文明論は支離滅裂に陥っていて、特に中国論と日中比較論は見るも無残な内容である。

 西尾氏の、西洋の日本に対する人種的偏見と植民地支配の問題、中国と朝鮮の日本への伝統的蔑視が日清戦争や朝鮮支配の要因となった、中国と朝鮮の腐敗と停滞、といった見解は、10代の頃の私の考えに近いものがある。これらは新鮮な見解であるかのように描かれているが、実は明治以降の日本の伝統的な主流見解で、私も特に選り好みせずに本を読んでいると、自然にそうした考えを抱いたのである。その後読書量が増えるにつれてこうした見解に疑問を抱き、現在ではかなり異なった考えになっているが、私よりも遥かに読書量が豊富で勉強されているはずの西尾氏がこうした見解を未だに強く主張されるのは、理由は分からなくもないが不可解な面もある。今回『国民の歴史』を読んで、一体読書や勉強とは何なのか、改めて考えさせられた。

 この他にも、縄文時代における日本列島外と区別されるような文化的同一性の形成と連続性の保持、西欧像、明治維新と近代化論など、『国民の歴史』への疑問はこの他にも多々あるが、これ以上書く気力はないので、今回触れなかった問題については、『徹底批判 国民の歴史』と共に、歴史に関心のある方の批評に期待したい。 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/020.htm  

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コメント
1. 中川隆[-8625] koaQ7Jey 2019年8月28日 14:33:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4127] 報告

西尾 幹二(にしお かんじ、1935年(昭和10年)7月20日 - )は、日本のドイツ文学者、評論家。


東京府に生まれる。東京都立小石川高等学校を経て、1958年(昭和33年)東京大学文学部独文科卒。

1961年(昭和36年)同大学院修士課程を修了。
指導教官は手塚富雄であった。


1961年静岡大学人文学部講師、1964年電気通信大学助教授、1975年教授。

1979年に「初期のニーチェ」により東京大学より文学博士を授与された

1994年正論大賞受賞。1999年電通大を定年退官、名誉教授。2015年春、瑞宝中綬章受勲。


文化人としての軌跡


論壇・文壇への登場

「ニイチェと学問」(静岡大学『人文論集』13号)、「ニイチェの言語観 ―― 初期の作品をめぐって」(『ドイツ文学』28号)、「論争と言語 ――ニイチェをめぐって」(『Neue Stimme』創刊号)により、1963年(昭和38年)第3回ドイツ語学文学振興会賞を受賞[2]。また、1965年(昭和40年)には論文「私の『戦後』観」(『自由』1965年2月号)にて雑誌『自由』の新人賞を受賞。

1965年から67年(昭和40年から42年)にかけ、ミュンヘン大学近代文学科のヘルマン・クー二ッシュ教授研究室の客員助手として西ドイツに留学し[3]、この経験をもとに執筆した論考が、三島由紀夫など論壇に注目された[4][5]。論考集は処女作『ヨーロッパ像の転換』として刊行され、三島由紀夫の推薦文が付された[5]。ついで発表した『ヨーロッパの個人主義』も、梅原猛が「一人の思想家の登場をみた」と同著のカバーで推薦文を寄せている。

ほぼ同時期、文芸評論家として文壇にもデビューする。論壇・文壇への登場は、西尾の才覚を早くから認めていた三島由紀夫や福田恆存の推挙による面も大きく、2人が関与していた楯の会関連雑誌『論争ジャーナル』にも寄稿していた[6]。西尾は福田恆存の思想にも影響を受け、福田が没するまで深い交流があった(「西尾幹二のインターネット日録」参照[いつ?])。批評家として小林秀雄論をはじめ様々な作家論を発表、また三島由紀夫の自決(三島事件)に際し、三島論「不自由への情熱」を月刊文芸誌『新潮』に掲載した[7]。後述するが生前の三島と西尾は交友があった。晩年の小林秀雄と会った際、西尾はブルクハルトについて小林と議論している[8][注釈 1]。


ドイツ哲学・ドイツ思想の専門家から独自の哲学者・思想家へ

アカデミズムの世界にはニーチェの研究と翻訳で登場する。『悲劇の誕生』、『偶像の黄昏』、『アンチ・クリスト』、『この人を見よ』などのニーチェの書の翻訳や、『ニーチェとの対話』をはじめとする様々なニーチェ論を発表。ニーチェ以外のドイツ哲学者については、中央公論社「世界の名著」シリーズ『ショーペンハウアー 意志と表象としての世界』の翻訳と、ショーペンハウアー論(「ショーペンハウアーの思想と人間像」)などがある。

1990年代後半に至ると、こうしたドイツ哲学研究・ドイツ思想研究の蓄積を、江戸期の日本思想への関心と連関させた独自の思想研究を開始、21世紀に入って開始された数年に渡る雑誌連載の論考を『江戸のダイナミズム』(文藝春秋社)にまとめた。

モラリスト的思索に徹した哲学論考や哲学エッセイも数多く執筆しており、それらを『人生の価値について』(新潮社)、『人生の深淵について』(洋泉社)などにまとめた。小浜逸郎は西尾の哲学論考・哲学エッセイについて、「・・・日常で出会うふとした経験の数々からの一瞬の感知を自ら過たず捕捉し、それを若き日に積んだ読書体験による確乎たる人間観に結合させていく巧みな氏の手法は並大抵のものとは思われない」[12]としている。

マルティン・ハイデッガー研究者の川原栄峰と親交があった。たとえば川原の長男が登山で遭難死したのち、毎月川原が息子の墓参りをする帰路に西尾の自宅に立ち寄り、そこで哲学的議論をするのがお互い楽しみであったというエピソードを述べている[13]。中島義道も西尾の著書『ニーチェとの対話』を、「この本は日本の人文科学の一つの大きな財産である」と評している[14]。


政治的論客として

以上のような論壇・文壇・アカデミズムでの活動とパラレルな形での政治的言論活動を1970年代後半以降、旺盛に展開しはじめる。経済評論家の草柳大蔵は、政治的論客としての西尾の論理回転の早さについて「知的超特急」と形容している(『労働鎖国のすすめ』カッパブックスのカバー推薦より)。

冷戦時代後期では、自身のヨーロッパ文明論を論理的武器に、冷戦最中のソ連を訪問、現地の文学官僚と様々な議論を行う(『ソ連知識人との対話』に所収)。冷戦崩壊後直後には、精神的荒廃に直面している東欧各国を訪れ各国知識人と、自由その他の思想的テーマをめぐり対話・論争を展開し、共産社会の想像を絶する残忍な過去、急激な自由化がもたらした多面にわたる困難の両方を明らかにした(『全体主義の呪い』など所収)また冷戦後の西ヨーロッパについて、行き詰まりにまで至った自由の飽和とそれがもたらす停滞、荒廃を批判している(『自由の悲劇』など所収)。この時期の西尾は、「自由」ということへの深刻な問題認識を前提にして、楽天的なグローバリズムや単純な西側優位論を排する論陣を張っていた[6][15]。

また後述のように、ドイツと日本の戦後責任論が安易に比較されているとして、「ドイツは謝罪したが日本は謝罪していない」という進歩派文化人の戦争責任論に対しては、「ドイツは自国民に謝罪しているが交戦国には謝罪していない」「ドイツはナチスという危険団体を選んだことに謝罪しているだけである」「ナチスの戦争犯罪のスケールは国家そのものが犯罪集団と化した桁違いのものであって、戦時下の日本との比較はそもそも不可能である」等の反論を行い、ナチスの戦争犯罪を「人類そのものへの犯罪」としたドイツの哲学者ヤスパースの分類を紹介しこれを支持している(後述)

さらにこれらの問題論争と前後して外国人労働者受け入れ問題での受け入れ懐疑派の急先鋒として、受け入れ賛成派の石川好などとテレビ番組などで激しい論戦を展開、外国人労働者の受け入れによって日本文化に試練を与えるべきだとする石川の見解を、「安易なセンチメンタリズム」と批判、西ヨーロッパの例をひいて外国人労働者の大量受け入れは国民文化の根幹を瓦解させる危険性があることを指摘した(『労働鎖国のすすめ』など所収)また中教審委員として教育問題にも積極的にコミットし、メディア全体によく知られるようになった(『教育と自由』など所収)。

このような言論活動から政治図式的には保守派論客として取り上げられることが多いが、党派的な保守主義やナショナリズムに対しては警戒心を絶えずもっており、『保守の怒り』などの近著において硬直化した保守派やナショナリストの一部に対し、「カルト右翼」や「神社右翼」などと厳しく罵倒している。一例として、台湾独立運動について保守派の多数が唱えている一面的な台湾賛美とは一線を画す議論を展開している。「台湾も所詮は中国と同根の反日集団の面をもっており、かならずしも擁護に値しない」と雑誌『正論』などで主張し、親台湾派の金美齢や小林よしのりらから非難された。特に小林は、「まるで、後ろから斬りつけるような卑怯な姿勢だ」と西尾を強く非難した。しかし小林はその後まもなくして、著書『台湾論』を台湾内の反日勢力によって問題にされ、台湾政府から一時的に入国禁止になった。

協調・賛同できる面では一般的な保守主義陣営と共同行動している。2007年には南京大虐殺虚構論を唱える映画「南京の真実」に西部邁たち多くの右派・保守系知識人と共に賛同、西尾は製作記者会見に出席し、東京裁判の不当性を訴えた。これはNHK批判運動や人権擁護法批判運動に関しても同様である。


つくる会での活動

新しい歴史教科書をつくる会の設立人の一人である。1996年(平成8年)8月、西尾と藤岡信勝が出会い、各界有志に呼びかけを行ったことで、「つくる会」が発足した。翌1997年(平成9年)1月30日、「つくる会」の初代会長に就任、大著『国民の歴史』を執筆、つくる会運動のオピニオンリーダーの地位を得て教科書運動の前面で活躍した。2001年(平成13年)に会長の座を田中英道に譲り、名誉会長となった後も「つくる会」の中心人物であった。その後2006年(平成18年)1月17日に、「その精神活動をよく知らない新しい理事が多数入ってこられて、立派な方も勿論おられるが、私とは話があわなくなってきた人が増えてもいる。言葉が通じなくなってきた」という言葉を残し「つくる会」を離脱、教科書運動の第一線から退いた。


小泉政権時代の自民党への評価

小泉内閣に関しては、政権中期までは好意的で、2003年(平成15年)9月に小泉が自民党総裁に再選された際には、北朝鮮に対する融和姿勢への懸念を除けば評価していた。1990年代の自民党の左傾化に終止符を打ち派閥政治の象徴だった竹下派支配と派閥順送り人事を小泉が徹底的に破壊しつくし、その直後に安倍晋三を幹事長に据え自身の後継候補として育て上げたと礼賛していた。西尾の小泉への評価は第二次訪朝あたりから批判的なものに転じた。

西尾は自著、雑誌論文、ブログなどを通じ、小泉という人間は首相になる以前は実は、靖国神社公式参拝に何の関心も払っておらず、「面倒くさいのでいかない」という理由で参拝していなかったのに、首相就任後に、中国・韓国に批判を受けたことで意固地になって参拝問題に固執して公式参拝しただけであるという事実を指摘し、小泉の立場は政治的保守主義と何の関係もない小泉の個人的感情の反映だと主張した。また自著『<狂気の首相>で日本は大丈夫か』で、小泉の大学時代の同輩親友で、国会議員時代も一時期交友のあった栗本慎一郎の証言を引用し、小泉自身の信じがたいほどの人間的・知的無能ぶりを暴露指摘している。郵政民営化問題についても批判し、小泉のやっていることは、「民営化」ではなく、「公営のおろかしい強化」であって、郵貯貯金を財務省が悪用することに、小泉自身がよくわからないまま乗っかっているだけだとした。小泉の親米的安全保障政策についても、小泉自身が自分が何をやっているのか認識できていないままアメリカに乗せられているだけだとし、小泉のことを「狂人宰相」、小泉の政策を「国家犯罪」とまで形容するに至った[16]。2005年(平成17年)9月の総選挙では、保守系内の郵政民営化反対派である城内実、衛藤晟一、古川禎久などへの応援演説にて小泉を批判した(「西尾幹二のインターネット日録」参照)。

この一連の小泉批判に関しては自身も反論を受けるが(→小泉訪朝における空白の10分間事件を参照)これについて本人は「小泉政権の陰謀」だと再批判している。安倍晋三については、第一次内閣で真正保守主義的政策を期待されながら、反対勢力に妥協した甘さ、弱さを非難し、以来、安倍の政治的手腕に関しては懐疑的立場を堅持している。


皇室に関する発言

皇室の現状を憂慮しており、皇太子徳仁親王に対して月刊誌『WiLL』2008年5月号から「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」と題して連続的に執筆をおこなった。これらの論考は実質的に皇太子徳仁親王妃雅子についての問題を扱ったものであった。「雅子妃は健康であり、公務を欠席しているのは仮病である」と『WiLL』 (「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」)で主張、さらにこの雅子妃の問題は、皇室の日本的伝統に、安易に欧米的価値観を侵入させてしまうことの是非の問題でもあるとも論じた。

これら一連の論考以外に、「朝まで生テレビ!」(2008年8月30日) 「たかじんのそこまで言って委員会」(2008年8月17日)などのテレビメディアでも繰り返し同様の主張を展開した。西尾のこの雅子妃への批判的な主張に対しては、『WiLL』(久保紘之など)や『正論』に批判的な論考掲載され[いつ?]、またこれが遠因となって(教科書運動・憲法論議で共同活動した)日本会議や日本青年協議会らの国民運動団体とも袂を分かつことになった。なお、女系天皇の是非の問題に関しては、男系天皇論を一貫して強力に主張している。皇室論では、橋本明(明仁上皇同級生)とも対談している。

皇室論をタブー視していた言論界で西尾があえてそれに踏み切った意志の背景には、かつて西尾が私淑していた三島由紀夫が皇室論のタブーに少しも怯まなかったことへの深い敬意が影響している[6][11]。それは三島の提唱していたある意味、天皇にとって最も過酷で徹底していた皇室論のことを指しているもので[11]、三島は、天皇が近代的な快適で便利な生活(電話やテレビを部屋に設置すること)をするのも好ましくないと主張し[17]、一般のセレブのように扱われる皇室(三島曰く“週刊誌天皇制”)を否定していたこと[17][18]に関連するものである[11]。三島は、「天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない」「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ」「天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ」[17] と述べ、天皇にとって最も重要なのは、新嘗祭などの古来からの宗教性や神聖であり[17][18]、日本の「西欧化の宿命」「世俗化の宿命」と闘う最後の悲劇意志の象徴としての皇室(最後のトリデ)というものを理想にしていた皇室論で[17][18]、明治維新や二・二六事件の時のような革命の象徴にもなりえる天皇というものを想定していたものである[18][11]。

なお『WiLL』2008年8月号で「これが最後の皇太子さまへの御忠言」にて、会田雄次が1968年に語った「いまの皇太子(上皇明仁)は、あんな不自由な寒くてしょうがないところはいやだといって、都ホテルへ泊まられるのですよ。この点は、訓練の相違もあるんでしょう。これは大きな問題だと思うのです」を引用しているが、宮内庁報道室から当時の資料からはそのような事実はないとの注意を受けて訂正を求められ[19]、著書「皇太子さまへのご忠言」(84ページ)でその旨を記している。


その他の主張

ドイツ思想・ドイツ哲学の専門家として、同国の文化、社会の現状や言論事情などにも精通しているが、ドイツに対しては批判的な発言もある。『異なる悲劇・日本とドイツ』(文藝春秋)をはじめとする著作や寄稿[要出典]において、ナチス・ドイツへの批判とあわせて、「戦後ドイツが戦後日本よりも大戦を反省している」と言った戦後ドイツの政治的狡猾さを批判している。このことに関して「想像を絶するジェノサイド国家だったナチス・ドイツと、通常の戦争遂行国家であった日本を同一の次元で論じることがそもそも間違いであること」「戦後ドイツ人は、ナチスという団体をドイツ人が選んだことの反省を表明しているだけであって、実は自分たち自身の反省を表明しているのではないこと」などの批判をおこなっている。1995年に起きたマルコポーロ事件においても「ナチスのすさまじい極悪さを少しも理解していない」と言う理由で、旧知の間柄である文藝春秋を批判した[20]。

慰安婦問題に対しては「性奴隷説」に異議を唱える立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求める日本文化チャンネル桜主導の抗議書[21]にも賛同者として名を連ねている[22]。

現代中国に対しては一貫して批判的立場をとっており、とりわけ2010年に起きた中国漁船の尖閣諸島近海での日本領海侵犯事件後、『尖閣戦争・米中挟み撃ちにあった日本』(青木直人との共著)などの著作で中国の対日侵略計画、対世界侵略計画に注意すべきと主張している。

アメリカの覇権に対しても批判的であり、米中両国の世界戦略の狭間で日本が独立的な政治路線を採れていない現状に対して警鐘を鳴らしている。また、GHQが終戦後の日本占領に際して、緻密かつ広範囲に当時の日本の文献を焚書していたという言論統制の事実があったと主張している[23]。さらに、日米戦争がアメリカ側から仕掛けられたある種の「宗教戦争」であるというという歴史論を著書『天皇と原爆』(新潮社、2012年1月)で展開している。

核武装の推進論者である。一方原子力発電に対しては、かつては肯定派的立場であった[要出典]が、福島原発事故を受けて、段階的に縮小し最終的には全廃するという否定的立場に転じた[24]。原発推進を事故後も唱える保守派言論界を「思慮の欠如、ないし思考の空想性を覚えるだけでなく、ある種の「怪しさ」や「まがまがしさ」を感じている」と批判している。竹田恒泰との近著『女系天皇問題と脱原発』では、原発推進派に潜在している体質的な問題構造を多面にわたり指摘している。例えば「安全保障の面から見ても、原発というのは非常にやっかいな存在なんですよ。単純に言うと原発があるだけでもって、そこに核地雷があるようなものですから。上空からバンカーバスター(地中貫通爆弾)を直撃させれば、そこが核爆発するということです」「日本の原発は、いわゆる海上から迫ってくるテロに対して、まったく無力、無防備なんですな。なんと驚くべきことに、日本は原発の防衛について、民間の警備会社に依存しているんですよ。考えられない話です」「再稼働に関して地震と津波への対策のことは盛んに言われているんだけれども、テロ対策については一言も触れられないんですよ」と述べ、とりわけ国土に原発を置くことに対する国防・安全保障上のリスクに警鐘を鳴らしている[25]。この件について中川八洋から著書など[26]で中傷されたとして、中川本人、当該書籍の出版元である日新報道、文章を『撃論』に載せたオークラ出版を名誉毀損で提訴した[27]。
生前の三島由紀夫は、西尾の才覚に早くから注目し高く評価していた。西尾の処女作である『ヨーロッパ像の転換』について「この書は日本人によってはじめて書かれた「ペルシア人の手紙」である」と帯文で絶賛している。西尾もまた、三島の文学と思想に強く惹かれ、両者には交流があった。交友期間は三島の自決事件により短期間で終わったが、三島の親友であった澁澤龍彦は、三島の死後さまざまな論者によって書かれた三島論の中で、本質を把握した三島への考察は西尾の三島論だけであったと評し、この澁澤の評価がきっかけで西尾と澁澤の間にも、澁澤の死に至るまでの交友が続いた。一方、三島について、侮蔑に近い軽視を三島事件前後に言っていた江藤淳に対しては、西尾は相当な違和感を江藤の死に至るまでもっていたと『三島由紀夫の死と私』で表明している[7]。

2011年より、全22巻・数年にわたる計画で、「西尾幹二全集」の刊行が国書刊行会より開始された。

インターネットの力を高く評価している[28]。自身のブログの執筆に力を入れており、またインターネットで秀逸な論考を発見すると自身のブログで紹介することもある。21世紀は現実的出版とインターネット世界の相互協力、棲み分けの時代になると主張している[29]。


著書


単著

『ヨーロッパ像の転換』新潮選書, 1969
『ヨーロッパの個人主義 人は自由という思想に耐えられるか』講談社現代新書, 1969 増補改題 『個人主義とは何か』 PHP新書, 2007

『悲劇人の姿勢』新潮社, 1971
『情熱を喪った光景』河出書房新社, 1972
『懐疑の精神』中央公論社, 1974
『地図のない時代 反時流的考察』読売新聞社〈読売選書〉, 1976
『ニーチェ』(第1・2部)中央公論社 1977年5月・6月 『ニーチェ』 筑摩書房 全2巻, 2001年4月・5月-初版書評を巻末解説とした。

『ニーチェとの対話 ツァラトゥストラ私評』講談社現代新書 1978
『新開国のすすめ 日本文化再生の条件』日本経済新聞社 1979
『ヨーロッパの閉鎖性』三修社 1981
『ソ連知識人との対話』文藝春秋 1979、中公文庫, 1986
『鎖国の跫音 現代日本の精神的諸相』PHP研究所 1981
『西欧の無知 日本の怠惰』文藝春秋 1982、PHP文庫, 1990
『日本の教育 ドイツの教育』新潮選書 1982
『日本の教育−智恵と矛盾』中央公論社, 1985
『行為する思索』中央公論社 1987
『戦略的「鎖国」論』講談社 1988、講談社文庫, 1992 増補改題 『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』 飛鳥新社, 2013

『「労働鎖国」のすすめ 外国人労働者が日本を滅ぼす』光文社, 1989、『労働鎖国のすすめ』 PHP文庫, 1992
『智恵の凋落』福武書店 1989
『日本の不安 世界史の転機に考えること』PHP研究所 1990、PHP文庫, 1993
『自由の悲劇 未来に何があるか』講談社現代新書 1990
『日本の孤独 誇りある国家であるために』PHP研究所 1991
『教育と自由 中教審報告から大学改革へ』新潮選書 1992
『全体主義の呪い 東西ヨーロッパの最前線に見る』新潮選書 1993 増補改題 『壁の向うの狂気 東ヨーロッパから北朝鮮へ』 恒文社21, 2003

『確信の喪失』学習研究社 1993 改題 『あなたは何を信じて生きるのか』 PHP文庫, 1996

『立ちすくむ日本』PHP研究所 1994
『異なる悲劇 日本とドイツ』文藝春秋 1994、文春文庫, 1997 改題 『日本はナチスと同罪か 異なる悲劇』 ワック, 2005 ISBN 4898315399

『教育を掴む 論争的討議の中から』洋泉社 1995-対談も含む
『自由の恐怖 宗教から全体主義へ』文藝春秋 1995
『人生の価値について』新潮選書 1996/ワック, 2006
『歴史を裁く愚かさ 新しい歴史教科書のために』PHP研究所 1997、PHP文庫, 2000
『現代について』徳間文庫「教養シリーズ」 1998
『沈黙する歴史』徳間書店 1998、徳間文庫, 2001 改題 『日本人はアメリカを許していない』 ワック, 2007

『わたしの昭和史 少年篇』(1・2)新潮選書 1998
『国民の歴史』(新しい教科書をつくる会編)、産経新聞ニュースサービス 1999 『決定版 国民の歴史』 文春文庫(上・下), 2009

『超然たる人生』PHP研究所 2001 (一章ごとの形式の選文集)
『歴史と科学−日本史を歩く』PHP新書 2001
『国を潰してなるものか−憲法・台湾・教科書問題』徳間書店 2001
『歴史と常識 ものの見方の一元化を排す』扶桑社 2002
『日本の根本問題』新潮社 2003
『私は毎日こんな事を考えている−西尾幹二の公開日誌』徳間書店 2003-ブログ日誌が元
『男子、一生の問題』三笠書房 2004
『日本がアメリカから見捨てられる日』徳間書店 2004
『日本人は何に躓いていたのか 勝つ国家に変わる7つの提言』青春出版社 2004
『人生の深淵について』洋泉社 2005/改題 『人生について』新潮文庫 2015
『で日本は大丈夫か』PHPソフトウェア・グループ 2005
『民族への責任 皇室・領土・企業買収・歴史教科書』徳間書店 2005
『江戸のダイナミズム-古代と近代の架け橋』文藝春秋 2007 ISBN 4163688307
『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』徳間書店 2007-ブログ記事を含む
『GHQ焚書図書開封 米占領軍に消された戦前の日本』徳間書店 2008、徳間文庫 2014
『皇太子さまへのご忠言』ワック 2008 / 同・選書判(改訂版) 2012 ISBN 489831659X
『真贋の洞察 保守・思想・情報・経済・政治』文藝春秋 2008 ISBN 4163703705
『三島由紀夫の死と私』PHP研究所 2008
『GHQ焚書図書開封2』徳間書店 2008、徳間文庫 2014。文庫判は副題に「バターン、蘭印・仏印、米本土空襲計画」
『GHQ焚書図書開封3』徳間書店 2009、徳間文庫 2014。文庫判は副題に「戦場の生死と「銃後」の心」
『「権力の不在」は国を滅ぼす 日本の分水嶺』ワック 2009 ISBN 4898311342
『日本をここまで壊したのは誰か』草思社 2010 ISBN 4794217609
『GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代』徳間書店 2010、徳間文庫 2015
『西尾幹二のブログ論壇』総和社 2010−ブログ記事に上記の著作書評などを含む。
『GHQ焚書図書開封5 ハワイ、満洲、支那の排日』徳間書店 2011、徳間文庫 2015
『GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜』徳間書店 2011、徳間文庫 2016
『平和主義ではない「脱原発」』文藝春秋 2011
『天皇と原爆』新潮社 2012、新潮文庫 2014
『GHQ焚書図書開封7 戦前の日本人が見抜いた中国の本質』徳間書店 2012
『憂国のリアリズム 感傷を排して世界を見よ』ビジネス社 2013 ISBN 4828417168
『GHQ焚書図書開封8 日米100年戦争〜ペリー来航からワシントン会議〜』徳間書店 2013
『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説く時がきた』ビジネス社 2013
『GHQ焚書図書開封9 アメリカからの「宣戦布告」』徳間書店 2014
『アメリカと中国はどう日本を「侵略」するのか 「第二次大戦」前夜にだんだん似てきている、今』ベストセラーズ 2014
『GHQ焚書図書開封10 地球侵略の主役 イギリス』徳間書店 2014
『GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学』徳間書店 2015
『日本、この決然たる孤独 国際社会を動かす「平和」という名の脅迫』徳間書店 2016.6
『GHQ焚書図書開封12 日本人の生と死』徳間書店 2016.8
『保守の真贋 保守の立場から安倍政権を批判する』徳間書店 2017.9
『あなたは自由か』ちくま新書 2018.10


著作集

『西尾幹二の思想と行動』(全3冊)、扶桑社、2000年 著作選集、1.ヨーロッパとの対話、2.日本人の自画像、3.論争の精神

『西尾幹二全集』[30] 国書刊行会、2011年10月 - (約10年予定) (全22巻予定)、函入で約数ヶ月ごとに刊行予定、一部論考は初書籍化。

翻訳[編集]
『悲劇の誕生』 ニーチェ、初版「世界の名著46」中央公論社, 1966年(第1回配本) / 中公文庫, 1974年 / 中公クラシックス, 2004年
『意志と表象としての世界』 ショーペンハウエル、初版「続 世界の名著10」中央公論社, 1975年 / 中公クラシックス(I・II・III), 2004年 - 鎌田康男解説
『ブルクハルト−歴史の中に立つ人間』 カール・レーヴィット、瀧内槙雄共訳 TBSブリタニカ, 1977年/ちくま学芸文庫, 1994年。※第一部「ブルクハルトとニーチェ」を担当
『ニーチェ全集 1巻(第1期) われわれの教育施設の将来について』(6回の公開講演)、白水社, 1979年 - ※各全集の担当訳・解説は一部
『ニーチェ全集 2巻(第1期) ギリシア人の悲劇時代における哲学』(他に4篇を担当)、 白水社, 1980年
『ニーチェ全集 4巻(第2期) 遺された著作 1888 − 89年』 白水社, 1987年 - 下記の元版 『この人を見よ』 新潮文庫, 1990年、改版2015年
『偶像の黄昏 アンチクリスト』 白水社〈イデー選書〉, 1991年。解説吉本隆明


共著

(宮下啓三)『ドイツの言語文化――思想と文学を中心に』(旺文社, 1980年)
『思想の出現 西尾幹二対談集』 (東洋経済新報社, 1994年)
(藤岡信勝)『国民の油断――歴史教科書が危ない!』(PHP研究所, 1996年)
(小室直樹・市川宏)『韓非子の帝王学』(プレジデント社, 1998年)
(中西輝政)『日本文明の主張――『国民の歴史』の衝撃』(PHP研究所, 2000年)
(長谷川三千子)『あなたも今日から日本人―『国民の歴史』をめぐって』(致知出版社, 2000年)
(池田俊二)『自由と宿命――西尾幹二との対話』(洋泉社新書, 2001年)
(三浦朱門)『犯したアメリカ愛した日本――いまなお敗戦後遺症』(ベストセラーズ, 2002年)
(金完燮)『日韓大討論』(扶桑社, 2003年)
(石破茂)『坐シテ死セズ』(恒文社21, 2003年)
(八木秀次)『新・国民の油断――「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす』(PHP研究所, 2005年)
(平田文昭)『保守の怒り 天皇、戦争、国家の行方』(草思社, 2009年)
(青木直人)『尖閣戦争 米中はさみ撃ちにあった日本』(祥伝社新書, 2010年)
(青木直人)『第二次尖閣戦争』(祥伝社新書, 2012年11月)
(竹田恒泰)『皇室問題と脱原発』(飛鳥新社, 2012年12月)
(福井雄三・福地惇・柏原竜一)『自ら歴史を貶める日本人』(徳間書店〈徳間ポケット〉, 2012年12月)
(川口マーン惠美)『膨張するドイツの衝撃 日本は「ドイツ帝国」と中国で対決する』(ビジネス社, 2015年8月)
(呉善花)『日韓 悲劇の深層』(祥伝社新書, 2015年10月)
(中西輝政・柏原竜一)『日本の「世界史的立場」を取り戻す』(祥伝社, 2017年11月)
(渡部昇一)『対話 日本および日本の課題』(ビジネス社, 2018年10月)


編著

『ドイツ文化の基底――思弁と心情のおりなす世界』(有斐閣, 1982年)
『ドイツ語シンフォニー――初級読本』(朝日出版社, 1990年)
『地球日本史』(産経新聞ニュースサービス, 1998年-2005年) 地球日本史〈1〉日本とヨーロッパの同時勃興 産経新聞ニュースサービス、のち扶桑社文庫
地球日本史〈2〉鎖国は本当にあったのか 産業新聞ニュースサービス、のち扶桑社文庫
地球日本史〈3〉江戸時代が可能にした明治維新 産経新聞ニュースサービス、のち扶桑社文庫
新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次大戦まで 産経新聞ニュースサービス
新・地球日本史〈2〉明治中期から第二次大戦まで 産経新聞ニュースサービス

『新しい歴史教科書――「つくる会」の主張』(徳間書店, 2001年)
『すべての18歳に「奉仕義務」を――「教育基本法見直し会議」緊急報告』(小学館文庫, 2000年)
『迫りくる「全体主義」の跫音――歴史教科書「12の新提案」』(小学館文庫, 2001年)
『新しい歴史教科書 次なる戦い』(小学館文庫, 2002年)


共編著

(渡邊二郎)『ニーチェ物語――その深淵と多面的世界』(有斐閣, 1980年) 改題 『ニーチェを知る事典』(ちくま学芸文庫, 2013年)

(高松敏男)『ニーチェ全集 別巻(第1期) 日本人のニーチェ研究譜』(白水社, 1982年)−資料文献篇を担当
(藤岡信勝・小林よしのり・高橋史朗) 『歴史教科書との15年戦争―「侵略・進出」から「慰安婦」問題まで』(PHP研究所, 1997年)
(渡部昇一・竹村健一・岡崎久彦・西部邁・堺屋太一・田久保忠衛・石原慎太郎ほか) 『日本の正論―21世紀日本人への伝言』(産経新聞ニュースサービス, 2001年)
(路の会編)『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか』(徳間書店, 2002年)
(青木直人責任編集・佐藤優ほか) 『中国の黒いワナ』(別冊宝島・宝島社, 2007年/宝島社文庫, 2009年)
(大原康男・小林よしのり・小堀桂一郎・高森明勅・中西輝政・長谷川三千子・百地章) 『日本人なら知っておきたい靖國問題』(青林堂, 2007年)
(西村幸祐責任編集)『ぼくらの核武装論』(オークラ出版, 2007年)
(責任編集)『中国人国家、日本 日本人排除の移民政策』(ビジネス社, 2014年)

テレビ
GHQ焚書図書開封(2007年2月5日 - 、日本文化チャンネル桜)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B9%B9%E4%BA%8C

2. 中川隆[-8622] koaQ7Jey 2019年8月28日 14:54:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4130] 報告

西尾幹二のインターネット日録
https://ssl.nishiokanji.jp/blog/
3. 中川隆[-8621] koaQ7Jey 2019年8月28日 14:57:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4131] 報告

“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(T)a
2014年02月07日 | 歴史資料
https://blog.goo.ne.jp/maryrose3/e/2ce5edfd159288d8f2931eb1d7423c4f

中川八洋掲示板 @中川八洋
http://yatsuhironakagawa.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

のサイトに中川八洋氏の論考が投稿されていました。西尾幹二氏に対する批判ですが、現在の保守論壇で西尾幹二氏の果たされている大きな功績はもちろん否定されるものではありません。が、しかし、この中川八洋氏の批判も全く無意味であるとはいえません。西尾幹二氏といえども、もちろん完全無欠ではないからです。とくに西尾幹二氏の最近の論考に戦前の「国家社会主義」の評価に弱点がないか、検討の余地があるとも考えられるからです。いずれにしても、西尾幹二氏や中川八洋氏らの優れた論考を、個人的な参考資料として引用させていただくものです。著作権上に問題があれば削除いたします。

“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(T)   
――「東京裁判史観」より百万倍有害な「西尾史観」

筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
 
西 尾幹二氏(以下、敬称略)と言えば、「新しい教科書をつくる会」の会長として、その勇名をとどろかせた老耄評論家である。しかし西尾幹二とは、高校生の時 に生涯の職業として小説家を目指そうとしたように、肩書きだけは「学者」になったが、本人の告白どおり、「世間に目立つことが第一」の売文業者として、そ の生涯を終えようとしている。
 中学生用の西尾版『新しい歴史教科書』(扶桑社刊)を、二〇〇一年、西尾幹二から贈呈されて一読した時、その余りのひどさ、つまり洪水のような歴史事実の歪曲と改竄、そして共産党と変らぬ極左一色の立ち位置に、思わず絶句した。
この西尾版『新しい歴史教科書』は、西尾幹二が“歴史音痴”であるのを広く世間に知らしめるものとなった。西尾幹二とは、ニーチェ哲学が全く理解できないように、典型的な“哲学音痴”だから、歴史と併せると“ダブル音痴”ということになる。
歴史と哲学の知見がかくもハチャメチャだから、「知識人」の範疇に入れることはできない。客観的な評価において、「売文業者」に分類するしかない。
本 稿では、西尾幹二の“歴史音痴”を論う積もりはまったく無い。「西尾幹二の歴史関連の大量の雑文が、一言で表現すれば<西尾史観>が、日本国にとっていか に害毒はなはだしいか」を剔抉して、読者・国民の前に提示したいだけである。西尾の歴史にかかわる記述には、歴史破壊の衝動に生きたニーチェと同様に、日 本人から歴史を剥奪する“歴史の脱構築”が基底に潜んでいる。“紛い物のポスト・モダン”であり、「反人間」「反国家」が、無意識だろうが、西尾史観の核 を形成している。
歴史とは、民族の魂を世代を超えて紡いでいくものである。これなくしては、人間は文明の人間ではありえず、その人格に高貴な倫理 道徳は形成されえない。だが、西尾幹二は、この歴史の本義を根底から破壊して、日本国を腐蝕的に溶解・亡国させようとの強い潜在意識が、その走るような速 筆のエネルギー源となっているようである。

第一節 スターリンの世界共産化を擁護する、西尾流詭弁
                ――西尾幹二の“狂妄”大東亜戦争論T 

西尾幹二と同じく、(人間の動物化・野蛮化につながる)歴史を人間から剥奪することに全力をあげたのは、誰でもが知っているように、まずは「ルソー→マルク ス/エンゲルス→レーニン→スターリン」の系譜上の哲人群。このほかでは、フランスのポスト・モダン思想系のフーコー/デリダ/ドウルーズらの系譜が重要 だろう。
後者のポスト・モダン系の現代思想家(哲学者)に決定的な影響を与えた一人が、(ルソーやハイデッカーとともに)ニーチェである。ニー チェの『善悪の彼岸(=道徳を廃滅する)』や『道徳の系譜』を読むと、人間をボルトナットか何かの金属にでも改造したいのか、「反人間」「反文明」のニー チェの狂気の情念が迸っていて戦慄する。これと同種の怖さを(中学校用)『新しい歴史教科書』と、その主著者である西尾幹二に感じたのは私だけではあるま い。
現に西尾幹二は、ニーチェと同じく、倫理道徳を憎悪する。日本民族から歴史を剥奪したい西尾は、さらに日本人の人格から倫理道徳も剥奪したいと、彼の極限の異常へと繋がっていく。

スターリンの世界征服・共産化戦略を擁護する西尾幹二 

ほんの少しだが、具体的な例を挙げる。西尾の『新しい歴史教科書』の二八六頁に、次のようなデッチアゲ、つまり“偽造の嘘歴史”が記述されている。

「ルーズヴェルトは、ドイツとの戦争が終わってから三ヶ月以内に、ソ連が対日参戦することをスターリンに求めた」
「このような対日戦争の擬制の一部をソ連に負担させる代償として、ルーズヴェルトは、太平洋憲章の領土不拡大方針に違反して、ソ連に日本領の南樺太と千島列島を与え、」(注1)。

(ス ターリンとルーズヴェルトの私的な合意書である)ヤルタ秘密協定(注2)のことを指しているようだが、日本と満洲の「戦争後」にかかわるヤルタ秘密協定に ついては、一九四五年二月四〜十一日の「ヤルタ会談」八日間のうち、二月八日に行なわれ、わずか三十分間で済んだ(午後三時半〜四時)。通訳の時間を除け ば、実質的には数分間であった。
つまり、クリミア半島の保養地ヤルタでの米英ソ三巨頭会談は、その一週間のほとんどを、ヤルタ協定(注3)として 発表される、ポーランドなど東ヨーロッパ問題に費やした。実は、ヤルタ秘密協定の内容は、すでに一九四四年十二月十四日、(対日参戦の代償という名目で) スターリンがハリマン米国大使とのモスクワでの協議で、ルーズヴェルトに公式に要求していた(注4)。ヤルタでは、ルーズヴェルトが、このスターリンの要 求(十二月十四日)に「了解する」の旨を発言しただけと解するのが事実に即している。
しかも、ヤルタ秘密協定の内容は、「(ソ連の植民地になって いた)モンゴルは現状維持」の一項目を除き、実は、すべてテヘラン会談(一九四三年十一月)で、スターリンからルーズベルトに提案されていた。それ以前に 米国がソ連に対日参戦を求めていたのは事実だが、その時期を米国の方が「ドイツ降伏後三ヶ月以内」としたり、米国の方が「南樺太やクリル諸島の割譲」を提 案したなどは、余りにひどい創り話である。それらはすべて、スターリンの口から発せられた。いわんや、この捏造内容を前提としての「米国は太平洋憲章に違 反」に至っては、悪質な米国誹謗のための創り話。まるで共産党が書いたもののようである。
日本の領土を不当かつ不法に奪取したヤルタ秘密協定の罪 のすべてが、“悪のソ連(ロシア)とスターリン”にあるのは、疑問の余地なき事実である。スターリンが、このような要求を(脳腫瘍で歩くこともままならず 痴呆症状すら見せる)ルーズベルトに突きつけなければ、南樺太もクリル諸島も日本領土であり続けており、日本が非難すべき対象はスターリンとソ連のみなの は自明すぎる。
また、ヤルタ密約の主犯がソ連・スターリンである事実を転倒してまで擁護する西尾幹二は、日ソ中立条約を侵犯して、満洲や朝鮮北部 そして南樺太から国後・択捉島にまで侵略してきたソ連を非難することが決してない。マルクス・レーニン主義者でない西尾幹二の、この異様なスターリン擁護 /ソ連一辺倒の思考は、どこから形成されたのか。分裂症的思考の問題はいったん脇におき、もう少し西尾幹二の頭の中を覗き込むことにしよう。

ロシアの樺太侵略を正当化する、“ロシアの犬”西尾幹二 

西 尾幹二は、共産党や土居たか子/福島瑞穂の社会党と同じで、心底に、日本を“ロシアの属国”にしたい熱情を強度に秘めている。そうでなければ、次のような 荒唐無稽な嘘歴史/創り話をデッチアゲルことなどしない。なぜなら、この捏造歴史は、ロシアの樺太侵略を何としてでも無実で無関係な英米に転嫁して、侵略 国ロシアの犯罪を隠蔽し無罪放免しようとの意図なしにはできないからだ。『新しい歴史教科書』で、西尾は、こう嘘記述した。

「アメリカやイギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと明治政府に警告してきた。…明治新政府はロシアとの衝突を避けるため、一八七五年、ロシアと樺太・千島交換条約を結んだ」(注1)。

このようなデタラメ歴史は、目を疑う。(基本的にはクリミヤ戦争以来、直接的には一八六一年から、一九〇五年の日露戦争の日本勝利までの)十九世紀後半の英国は、アフガニスタンやチベット防衛と同様、“日本国をロシアから防衛すること”が至上の国策だった。
だから、一八六一年に対馬がロシアに占領された時、英国は支那艦隊(のち東洋艦隊/極東艦隊と名称変更)の軍艦を出動させ、無償でその奪還をしてくれた。
香 港を母港とする英国の支那艦隊。それは、日本にとっての“救国艦隊”で、真正の「第二の神風」だった(注5)。ロシアがウラジヲストック(露語発音は「ウ ラジヴォストーク」で、「日本征服」という意味、注6)を太平洋進出の軍港としたのは、一八六〇年十一月に北京条約で沿海州を獲得したのと同時だった。翌 六一年三月、ロシアは直ちに南下策を決行。対馬(芋崎浦)に侵攻し(上陸し)、この地の割譲を要求した。
一九六二年六月、英国公使オールコックは支那艦隊司令官・ホープ提督に諮り、ホープは軍艦二隻(エンカウンター号とリングダブ号)を対馬に派遣し、ロシア軍艦ポサドニック号の対馬退去強制に成功した(同年九月)。
また、日露戦争にあたり、英国は、日本の戦費の工面に全面協力し、日本が新造軍艦を入手できるよう智慧と情報と援護を無償で提供し(注7)、さらにはバルチック艦隊の戦場(東シナ海&日本海)到達を遅らせるべくスウェーズ運河の利用を拒絶した。
日英同盟なくして、日本の対露勝利はなかった。
こ のような英国が、「ロシアに与して、日本に樺太放棄」など万が一にも進言するはずもなかろう。ただ、英国公使パークスが、樺太や北海道の対露防衛に対する 日本の熱意の低さに唖然として、歯がゆさ故に、一八六九年、「せめて北海道の防衛に日本の国力を集中せよ」と助言したことは事実である(注8)。つまり、 パークスの真意は、“樺太も北海道も全力挙げて守れ”というものだった。
“日本一の国賊”川路聖謨が、日本の固有の領土である樺太をロシアの言いなりに下田条約を締結したばかりに、樺太はロシアに半分貢納された。「日露雑居の地」、すなわち「日露共同主権の地」とすることに川路が合意したからである。
下田条約締結の一八五五年二月時点、樺太の居住者は、アイヌ原住民を除けば、“日本人四千名、ロシア人ゼロ名”であった。ロシア人の初の入植は一八五七年の、下田条約の二年後で、しかも、たったの一家族六名だった。
勘定奉行で次席全権(形式上、実際上は首席全権)の川路聖謨は、プチャーチンとの下田交渉で、樺太の実態も情況などもいっさい調べない、(勝海舟や小栗上野介などの本物の大秀才とは異次元の)“学校秀才型の無能な馬鹿”だった。
で きたてホヤホヤの明治新政府が、間宮林蔵や最上徳内などの働きに代表される十九世紀前半の江戸幕府並みに、樺太防衛を再び真剣に考え出すのは、パークス助 言の翌年一八七〇年からである。だが、ロシアは、国内の政治体制づくりで多忙な新政府の弱みにつけこんで樺太を日本に放棄させるべく、囚人や軍隊を投入し て、樺太居住の日本人へのレイプ/掠奪/放火などの暴虐を計画的に繰り返した。新政府の基盤が確立するまで十年ほどはそのままほっとけばよいものを、日本 側は、次第に、樺太を南北で日露二分割できまいかと思案するに至る。“外交音痴”黒田清隆らであった。
日本が米国と接触したのは、この樺太を南北 二分割する外交仲裁を依頼するためだった。だが、米国公使デロングは、樺太について、川路聖謨と同じくチンプンカンプン。そればかりか、太平洋に海軍力も ない(英国のような大国ではない、新興の)まだ準中級国家の米国に、日露仲介力など存在しないのは初めからわかっていたはずだ。
デロングは、意味 不明な回答をして、この仲裁を断った。パナマ運河の開通は一九一四年、米国が初めて太平洋に海軍基地をハワイ(パール・ハーバー)に造ったのが一九一九 年。それより五十年も昔の一八七〇年とはアメリカが、マゼラン海峡の向こう側の国で“非太平洋国家”だった時代。南北戦争が一八六五年に終わったばかり で、国内の再統一がアメリカ政治のすべてであった時代。そんなアメリカに日露仲介を依頼した、その自体、明治新政府の国際感覚が幼児並みの論外だったこと になる。

ところが、西尾幹二は、小説家クズレの面目躍如と、「日本がロシアと戦争すれば…」の嘘話を創作する。日ロ間の外交交渉で樺太を主権分割することが、どうして樺太争奪をめぐる日ロ間の戦争なのか。
歴 史事実をすべて無視してかかる虚言癖が強く、その上デッチアゲを常習とする“歴史の偽造家”西尾幹二は、『偶像の黄昏(=死滅する真理)』のニーチェと同 じく、真実への憎悪が強度である。真実のない世界を夢遊的に彷徨している西尾幹二は、歴史という学問分野には最も不適合な人物である。
上記の教科書記述は、次に続く。

「樺太在住の日本人とロシア人の間では、紛争がたびたびおこった」(注1)。

  ロシアが背後に軍隊を配置した「ロシア暴民による計画的な日本人襲撃」が、どうして「紛争」なのか。西尾は、殺人をした加害者の犯罪行為とそれに抵抗しな がら殺された被害者のこの抵抗を同列・同等なものに扱う。善悪の区別を破壊し、正義・不正義の区別を破壊する狂人ニーチェと同じである。だから西尾は、糾 弾され加罰されるべき加害者(ロシア人)と同情されるべき被害者(日本人)とを差別ができず、それをルソー的な「平等」に扱い、その闘いを「紛争」だと歪 曲する。狂人的に善悪を区別できない者の日本歴史は、必ず「反日」性が濃縮されている。

初期明治日本の迷走外交が屈した、ロシアの樺太侵略 

話が脱線するが、一八七五年の樺太・千島交換条約にいたる、日本国内の対露政策の大混乱の情況と主因とを少し触れて
おこう。樺太に渡航した日本人の最初は、松前藩の藩士、佐藤加茂左衛門と蠣崎蔵人で、一六三五年である。松前藩の樺太統治は、クシュンコタン(大泊)に陣屋を設けた一六七九年が最初である(注9)。
日 本人の(ロシアに対する)樺太防衛論は早く、工藤平助『赤蝦夷(=ロシア)風説考』(一七八三年刊)、林子平『三国通覧図説』(一七八五年刊)、林子平 『海国兵談』(一七九一年刊)、松前平角ほか『蝦夷唐太(=樺太)島之記』(1791年刊)などは、日本の中学生全員が知っておくべきである。日本人作成 の地図が書かれており、日本で樺太防衛意識が高まったかの時期がよくわかる。
もう一つ、日本国民すべてが未来永劫に知っておくべきは、間宮海峡を発見して(一八〇八年)樺太が島であるのを世界初に確定した間宮林蔵の功績や、樺太探検だけではなく樺太防衛で六百名の会津藩兵クシュンコタン駐兵監察になった
(一八〇八年)、最上徳内の功績も忘れてはなるまい。

さ て、話を川路聖謨が締結した(不平等どころではない)“反日の極み”下田条約によって、その後、ロシア兵が大挙して樺太に進駐するばかりか、同条約の 「(北半分がロシア、南半分が日本という)従来のしきたり遵守」条項に反して、次第に樺太南部に公然と出没し日本人を執拗に襲うようになった。さらには日 本側が被護的に統治していたから、従来どおりの生活と慣習堅持の自由が完全に保障されていたアイヌ原住民に対して、ロシア側は“ロシア人の奴隷”として扱 う暴力が日常となった。日本側に助けを求めるアイヌ原住民の事件数は、年々急増した。
これらロシア側の暴力に対して小競り合い対抗を、あと十年ほ どし続けていれば、「樺太の日本単独領有」で完全解決したものを、逆さにも、交渉すれば平和的な共存ができるとの日本国内の紛争解決の日本人感覚で、江戸 幕府は幕府倒壊前夜の一八六七年三月、二名の全権大使(小出大和守/石川駿河守)をもって、わざわざロシアの首都ペテルブルグまで派遣した。
その 結果、なんと逆にロシアに言いなりの、もっとひどい「樺太の潜在主権はロシア、ただし日本側が認めない場合は、日露の雑居の地」という暫定協定「樺太島仮 規則」に調印する破目になった(注10)。日本は“ロシアの属国です”を合意しに行ったも同然のアホバカ外交の典型。この江戸幕府の不要・不急の逆走外交 は、江戸城の明治新政府への明け渡しが一八六八年四月だったから、その一年前だった。

明治新政府は、日本の国益を破壊した「下田条約→樺 太島仮規則」の延長上に、実効支配を目指すロシアの樺太侵略に直面した。が、樺太・択捉・国後島の実態的な防衛参謀本部の任にあった会津藩が鶴ヶ城の落城 (維新政府への開城、一八六八年九月)とともに消滅した日本では、対露防衛・外交の専門家はゼロとなっていた。
しかも明治新政府は、樺太や国後・ 択捉・得撫島などに関心のない薩摩と長州が牛耳っていた。彼らは、コメ生産のための台湾攻略やトロツキー的な朝鮮への革命輸出などマイナーな問題や転倒外 交と、ロシア侵略に対する国土防衛としての樺太防衛という最重要な国防とを天秤にかける、国策の軽重がわからぬお粗末な連中がほとんどだった。
と りわけ、西郷隆盛は、征台論と征韓論を優先すべく、次元が異なる樺太防衛を「せずに放棄せよ」と、反日の暴論をぶつ狂気を一段と濃くしていた。一八七四年 五月の台湾征伐は、翌一八七五年の日本の樺太放棄とコインの裏表の関係にあるのは、いずれも西郷が推進したからだ。西郷の樺太放棄論は、韓国併合をした山 縣有朋とともに、日本の安全毀損では群を抜いて最凶である。
黒田清隆もまた、西郷隆盛と同罪だろう。薩摩藩出身で樺太に無知・無関心でありなが ら、黒田が開拓次官となったそのこと自体、明治新政府の人事の腐敗がかなりのものだったことを示している。黒田清隆は、早々と樺太放棄論の意見書を政府に 出した(一九七一年二月)。明治天皇への上奏文も提出した(一八七三年二月)。
ロシア駐箚公使の榎本武揚による樺太・千島交換条約の締結は、黒田 の樺太放棄論の延長のものであった。ロシアの罠に落ちた川路聖漠の下田条約が、その二十年後、一直線に樺太喪失へとつながっていったことになる。明治新政 府の中で、樺太死守論を主張し続けた“愛国者”丸山作楽(外務大丞)こそ、われわれ日本人が二十一世紀においても学ぶべき対露外交の鑑である。
明治新政府が、「下田条約」と「樺太島仮規則」を、江戸幕府が調印したものだからを理由に全面破棄してさえいれば、いや、それらをそのまましてただ「樺太は日本の固有の領土であるので、ロシアは一兵残らず撤退せよ」と宣言さえしていれば、すべてが解決していた。
なぜならロシアは、クリミヤ戦争の敗北を取り戻すべく、露土戦争(第二次クリミヤ戦争、一八七七〜八年)の準備に全ての国力を集中させており、(シベリア鉄道がまだないことからも当たり前すぎるが)樺太での紛争(日本人への暴虐な犯罪行為)を戦争にエスカレートする余裕など全くなかった。アラスカを米国に売却せざるを得なかったのも(一八六七年、七百二十万j)、露土戦争のために軍備調達・整備のためだった。
露土戦争の勃発と同時に、樺太からのロシア兵はことごとく消えた。この機を捉えて、(弱小国の米国ではなく、大国の)英仏と共同さえすれば、樺太の日本単独領有を定める新・日露条約なんか容易に締結できた。日英仏の対ロ「逆・三国干渉」である。
し かし、初期明治政府には、一九五六年の鳩山一郎・河野一郎の対ソ叩頭外交を肇とする戦後日本と酷似して、国際情勢やロシア情況を機敏に活用してダイナミッ クに国益擁護する、外交の根幹を堅持できる人材が、政府中枢には不在だった。陸奥宗光や小村寿太郎らは際立つ外交逸材だが、明治中期以降に登場した。
明治維新政府において薩長が要職を独占した弊害が、会津藩の消滅とともに樺太防衛参謀本部も消滅した事態と一緒になって、日本が樺太を喪失していく主因となった。

第二節 「個人の蔵書/図書館の蔵書は、没収してはいけない」が、どうして“焚書”になるのか 

『GHQ焚書』を七巻も出したことにおいて、狂妄の嘘で固める西尾幹二の歴史偽造の「業績」は、他の追随を許さない。歴史偽造では日本最大最凶の量を誇る共産党に対してすら、西尾幹二だけは例外的に優劣を争っている。
まず、本のタイトル『GHQ焚書』からして、極端にキワモノの歴史偽造がわかる。西尾幹二の歴史偽造癖は、確信犯の犯罪のレベルで、万引き犯や放火犯の常習者などに見られる精神医学上の病気と同じだと診てよい。
七年間占領行政を行ったGHQにかかわる歴史において、真実は、GHQは日本において“焚書”など全くしてない。“焚書”を断じてしなかったGHQを虚構「焚書犯」に仕立て上げて執拗な糾弾をするとは、冤罪をでっち上げようとの悪意の“犯意”なしにはできない。
事実や真実を憎悪する西尾幹二はまた、無実の他人や他国を中傷誹謗する病的な常習者であって、その中傷誹謗のレベルは、ならず者ですら足元に及ばない。

「焚書となる爆撃は絶対に禁止する」ーー米軍の東京空襲B29部隊への命令

個人蔵書や教育機関などの蔵書を人類の中でもっとも重視し尊重するアングロサクソンの書籍文化の系譜にある米国は、洋食が日常の食事の過半を占めてもなお日本人が箸でご飯を食べ続ける文化が強固であるように、書籍の焚書など決してできない。
だ から、大東亜戦争の戦争中、東京を焼け野原にするのだから必ず焚書に至るはずの東京空襲において、米軍は、神田の古本街や日比谷図書館など、本があるとい う理由で、それらのある地域を「B29の空襲(ナパーム弾による焼却)の対象から外せ、との爆撃命令」を出した。これは(風向きによっては爆撃しなくとも 延焼が起きるので)爆撃射手としては極めて難しい技術だが、全機・全パイロット全員が、この命令を忠実に履行した。だから、神田の古本屋街は無傷・無焼 だった。高度一万bからの爆撃能力も高いのにも驚くが、「本を焼くな!」のアングロサクソンの書籍文化/米国の書籍文化にも敬意の念をもって驚かざるを得 ない。
だから、GHQが叛乱防止を主眼としての“占領行政として図書没収”という占領検閲行政において、「個人蔵書は対象外」「教育機関・公共図書館の蔵書も対象外」とした。個人と図書館からは、一冊も図書没収をしなかった。占領期の日本人で、戦前・戦時中のいかなる図書であれ読みたくて読めなかった者は、七千万人の中、ゼロであった。

だが、生来の虚言癖がひどい上に、何らかの精神上の錯乱症状が顕著な西尾幹二は、市販本のみを対象としてGHQ(軍事諜報部参謀部民間検閲支隊)が“秘密裏の没収”を命じた、いわゆる「市販本に限る没収指定図書」について、「焚書だ!」「焚書だ!」と大騒ぎをする。「流通機構に乗せてはならない」「販売してはならない」「読みたいならば、日本人は図書館などから借りて読め」との命令が、どうして“焚書”なのか。
粗にして雑もここまで書けないレベルで、この(真赤な嘘ばかり以上に)歴史の巨大偽造を意図した、非学問の低級な嘘宣伝本七冊が、“日本人の恥さらし”西尾幹二著『GHQ焚書図書開封』である。

GHQの市販禁止通達は秘密――「市販禁止」など知らない国民は誰でも、学校の図書館で該当本を読んでいた 

GHQからこの「指定図書の没収」を担当させられた文部省は、一九四八年、「文部次官通達」を各県知事に出した。次のように書かれている。

 「没収は書店、発行所、印刷所等の販売および輸送経路上にあるものについて行なうのであって、個人や図書館のもの(蔵書)は除外されるのは今まで通り」(注1)。

つ まり、戦前・戦中に発行された本のうち数千冊が、この通達によって、“市中の書店での販売が禁止された”。が、もともと一九四五年八月の玉音放送を境に、 これらの本の多くは全く売れないので書店ではすでに販売していなかった。いや、都市や街が空襲のナパーム弾で焼けた以上、本屋の多くは他の商店や住宅とと もに焼けて存在していなかった。
だから、GHQの「市販禁止」で特段困った書店がそもそも存在しなかった。また、日本人は食うことと瓦礫の片付け や復興に忙しく、本を買ってまで読書する、そんな余裕はなかった。この市販禁止で不自由したものは、焼け残った倉庫に在庫を保管していた出版社を除いて、 実は日本中一人もいなかった。

GHQは何という無意味・無駄きわまる占領政策をしたものかと首を傾げざるを得ない。また、上記の「文部次 官通達」を知る国民など、各都道府県の警察幹部と業務命令を受けた県庁・市町村役場の職員から選ばれた「没収官」を除き、誰もいなかった。なぜなら、この 「市販本没収」そのものが、一般国民には知らせてはならない「秘密」に指定されていたからだ。
そもそも、戦前・戦中の八千冊ほどの本を読む/ チェックするものは、現代史を職業とする私のような大学人に限られている。おそらく、全国で、これらの「市販禁止図書」を次から次に読み漁る必要があった (私と同等・同様な研究者の)日本人は、戦後約七十年間を通じて、百名もいまい。
なお私は、これらのGHQ市販禁止図書の多く(ほとんどは荒読み で二千点近く)を読破・チェックした。これら二千点は、三つ四つの図書館と古本屋からすべてを手にすることができ、手にすることのできない本など一冊とし てなかった。日本中の現代史の研究者で不自由したものも一人もいない。
「焚書だ!」と叫ぶ西尾幹二自身、それが真赤な嘘で事実無根の妄想なのは、とくと自覚している。歴史の真実は守られなければならず、焚書でないのに「焚書だ!」との嘘を意識して流言した罪で、西尾幹二の方を焚刑に処す方を検討すべきある。
GHQ による秘密(非公然、covert)の“市販本に限る没収”措置によって、日本人が特定の知見を奪われたなどという事態は、万が一にも発生しなかった。福 島セシウムでだれ一人として発癌しない科学的真理と同じく、これらの本はすべて図書館にあるから、日本人の誰も不都合がなかった。これが現実だったし、歴 史の真実である。
だが、西尾幹二は、次のような、あからさまな嘘と創り話を吼える。

a「図書館でも没収が行なわれていた」「図書館からも消された」「公の場から突如いっせいに消えた」
b「たまに見つかっても、この本は読んではいけない禁書だとお達しによって、厭戦感情と食糧難にあえぐ国民の心に縛りがかけられてしまった」(注2、五四頁)。

aが嘘なのは、図書館の蔵書は容認だから、言わずとも明白。bが創り話なのも、「この本は読んでいけないお達し」そのものを国民全員がいっさい知らないのだから、言わずとも明白。“狂気の売文業者”西尾幹二の狂史は、妄言・暴言の何物でもない。
「市販してはいけない」は、「読んでもよいが売ってはいけない」の意味であるように、「読んではいけないお達し」など、GHQ七年史に存在しない。西尾の創り話は、狂犬の襲われた時の戦慄ほどに怖い。

図書館の没収はゼローー西尾が在籍した東京大学総合図書館は、その好例 

aについて西尾がどんなハチャメチャな大嘘をつくか、西尾幹二が通学していた東京大学を例にとって証明しておこう。
彼 が在学した時期の図書目録をつぶさに調査すると、東京大学総合図書館において、西尾幹二が「焚書!」と叫ぶ本で、廃棄されたり処分されたりした本は一冊も ない。当時の東大の学長も図書館長も、「市販禁止本の没収」というGHQ指令それ自体をおよそ知らなかったし、知ればそれは「図書館の蔵書はいっさい従来 のままでよし」だから、それらを廃棄や書棚から外したりをするわけがない。
だが、事実や真実を憎悪し破壊し尽したい、この世はオレ様の嘘だけが存在すればよいのだの狂気に生きる西尾幹二の創り話は、さらに荒唐無稽な妄想へと膨らむ。こうだ。

「東京大学の総合図書館や文学部の図書館は、一九四五年以来、瓦礫に埋まっていた。が、エジプトの王家のミイラの発掘と同じく、ついに二〇〇五年、オレ様によって<発掘された>」(五五頁をわかり易く再記述)、と。

(僕 が人類で初めて月を発見したよと叫ぶ)「月の発見」と同じ、三歳の童子のはしゃぎである。いや、上記の妄想が三歳の童子の言なら、確かにはしゃぎや興奮だ からでことは済む。だが “民族系の知識人”を自認する七十歳を越えた老耄評論家の言説を、はしゃぎとみなすことはできない。狂人による狂気の創り話だと冷静に正しく判定を下す必 要がある。
そもそも、西尾幹二とは、“学術的な本をいっさい読まない/史料をいっさい研究しない”ナラズモノ評論家。学者などとはほど遠い野卑な人種。西尾のような跳びぬけて愚劣・低級な売文業者がどう形成されたかは、かなり永年の疑問だった。
が、東大文学部在学中に、GHQ指定の市販禁止本が東大の図書館に所狭しと並んでいるのを知らない、西尾が典型的な超劣等生であることがかくも鮮やかに照明されて、なんとはなく氷解した。
二〇〇五年の『正論』誌上で西尾が、「オレ様が、二〇〇五年に発掘した」と豪語して列挙した十五冊のうち、次の十二冊は、西尾が在学中の一九五四〜六一年でも、それ以降の現在にいたるまで、東大総合図書館に書棚に陳列してあった。

・大東亜戦争調査会『米英挑戦の真相』、毎日新聞社、一九四三年。
・岩田省二『アメリカの反撃と戦略』、三協社、一九四二年。
・大川周明『米英東亜侵略史』、第一書房、一九四二年。
・大東亜戦争調査会『米英の東亜撹乱』、毎日新聞社、一九四三年。
・B・クラーク『真珠湾』、鱒書房、一九四三年。
・加藤長雄『印度民族運動史』、東亜研究所、一九四二年。
・櫻井匡『大東亜回教発展史』、三省堂、一九四三年。
・楊井克巳『蒙古資源経済論』、三笠書房、一九四一年。
・清澤洌『第二時欧洲大戦の研究』、東洋経済出版、一九四〇年。
・朝日時局読本『戦時体制下のソ連』、朝日新聞社、一九三七年。
・ペエツ『対英封鎖論』、中央公論社、一九四一年。
・白柳秀湖『日本民族論』、千倉書房、一九三四年。

東大総合図書館になかったのは、次の三冊のみだが、他の図書館に存在していた。

・神田孝一『思想戦と宣伝』、橘書房、一九三七年。国会図書館にもあった。
・一宮房治郎『大東亜海戦論』、昭和刊行会、一九四三年。国会図書館にもあった。
・棟田博『分隊長の手記』、新小説社、一九三九年。国会図書館に、『続・分隊長の手記』(一九四〇年)『続々・分隊長の手記』(一九四二年)とともにあった。
 
西尾幹二が七年間在籍した東大の図書館でこれらを一冊も手にしなかった事実は、次の西尾の述懐が、心にもない真っ赤な嘘なのを暴露する。

「戦時中の数千点の本がそのまま流通に乗っていたら、やっと開かれた本屋の店頭でわれわれはやはりそれを買って読んだだろう」(五四頁)。

超 劣等生だった西尾は、七年間も東大キャンパスをブラブラしていながら、図書館に行かず、行ってもこれらの本を一冊も読まなかった。とすれば、仮に市販され ていても、西尾幹二がそれをわざわざ買ってまで読むことなど万が一にもありえまい。それなのに、「それを買って読んだはずだ」とは、うすら寒い虚言も度が すぎている。

戦時中からの図書館蔵書本は、「西尾幹二が、二〇〇五年に発掘した」???

歴 史破壊の衝動に生きる西尾幹二は、歴史に関心がない。一九九七年の「新しい歴史教科書をつくる会」の立ち上げの時、本人が私(中川八洋)に明瞭な言葉で傲 然と語ったことだが、「教科書の偏向是正が目的ではない。自分の定年後の評論活動の新しいテーマとして選んだ。僕は何かをいつも書いていないと落ち着かな い」であった。
西尾はまた、二〇〇〇年、私にこう語った。「(自分が作った教科書について)採択など僕はまったく関心はないよ!」と。西尾がつ くった扶桑社版教科書が、五万冊ではなく、たった五二一冊(〇・〇三九%、二〇〇一年九月文部省発表)しか採択されなかった。教科書づくりにおける大敗 北、しかし西尾はしらっとして落ち込まなかった。採択などどうでもいいという、西尾の真意・深層意向とは矛盾していなかったからだ。
それはともか く、まったく「焚書」されなかったが故に、戦後日本に捨てるほどの数で今に至るも手にすることのできる書籍群を、「オレが発見した」「オレ様が発掘者だ」 と狂言する西尾幹二の「俄か考古学者」ぶりには、ほとほと絶句する。次の大言壮語の虚偽宣言には、絶句どころか、誰でも嘔吐を催すだろう。

「今回はじめて世に問う七千七百余点の焚書ほど、<閉ざされた言語空間>をはずした外の広さと底深さをありありと示すものはない」(五八頁)。

私 事だが、私が大東亜戦争に本格的に関心をもったのは一九六五年(大学三年生、二十歳)。それ以来、読み慣れてきた数千点の書籍群が、西尾幹二によって「二 〇〇五年、初めて世に問う」書籍だと言われると、私はなんと形容すればよいのか。一九六五年から二〇〇五年までの四十年間に私が手にした約二千冊の 「GHQの市販禁止本」は、幽霊や蜃気楼だと、西尾は主張しているからである。
「オレ様が灰の中から発掘した数千冊の本を初めて世に問う」など、 狂人・西尾幹二の狂言だから、我慢して目を瞑り無視ればよいのだろうか。いや、それでは虚偽歴史が後世に伝染するから、「西尾幹二とは発狂状態の狂言癖者 であって、とてつもなく有害な歴史の偽造に邁進している」との恐ろしい事実を、世間に正しく警告しておくのが、知識人としての私の果たすべき義務であるよ うにも思う。

「GHQが日本人を戦前・戦中の<閉ざされた言語空間>から解放した」
――これが、正しい歴史の真実ではないのか

一 九三二年の五・一五事件以降、日本人の頭は、『朝日新聞』や『改造』『中央公論』その他無数の赤い出版物による洗脳によって「閉ざされた言語空間」(一九 六〇年まで党籍をもつ日本共産党員・江藤淳の「反米」運動スローガン)に監禁されていた。日本人が、それから解放されたのは、一九四五年夏のポツダム宣言 受諾とその後七年間のGHQの占領行政によってであった。これが、歴史の真実で歴史事実であろう。
それなのに西尾は、この歴史事実を逆立ちさせ る。西尾は、マルクス・レーニン主義とスターリン崇拝の「閉ざされた言語空間」に日本人を閉じ込めていた一九三二〜四五年の極左思想全盛時代を「正常」だ と考えている。だから、そこから解放されない方が、「外界の世界の広さと底深さを知ることになる」と、“刑務所に収監されている方が、自由の謳歌である” との、ニーチェ的狂気の倒転した言説を嘯ける。
GHQが市販禁止処分に附した七千七百余点の書籍は、すべてではないが、その多くは、日本の国益を 害する“悪魔の書籍”群である。日本人を外の世界と隔絶させて視野狭窄的にマルクス・レーニン主義に洗脳し、スターリンを崇拝させ、東アジア全体を共産化 して、日本国を領土と国民とともにソ連に貢がんとする、怖ろしい“悪の反日カルト宗教”の教宣本。
惜しむらくは、GHQが、このようなスタンスに 立って、「市販禁止命令」を出さなかったことだ。GHQの「市販禁止本の没収」の目的は、占領行政への何らかの暴力を伴う叛乱防止のためだったが、そのよ うな懸念は一九四八年にはすでに必要がなかった。とりわけ西尾幹二によって、かくも怖ろしい歴史偽造に悪用されるのだから、GHQは、杞憂に過ぎない「市 販禁止本の没収」などすべきでなかった。
GHQの目的がかくもお門違いだったことが、戦後日本で、逆に「市販禁止本」をイデオロギー的に継承する岩波書店ほか無数の極左出版社による洪水のような大量の共産主義系の書籍が出版されるのを放任する状況をつくった。すでに三世代を経た今も日本人が「市販禁止没収本の呪縛」 から洗浄されず、二十一世紀に入ってなお国防を忘れ、日本国の未来への永続と繁栄への努力を弊履のごとく捨て、亡国への道である放蕩的な堕落を享楽し続け ているのは、「市販禁止本」とされた悪書の赤化思想を継承した、その二代目三代目の“悪魔の書籍”群の成果ではないか。
この意味で、GHQが去っ た後、直ちに日本国としては、これら「市販禁止本」の約半分ぐらいは異論なく該当するが、「市販禁止本」の対象とならなかったほぼ同数の「反日」極左本を 新たに追加して、それらの著者と出版社を「国家反逆罪」に類する法律で処罰する法令を立法して断罪しておくべきだった。

•2014-01-31

続く

※ 出典

中川八洋掲示板  @中川八洋

http://yatsuhironakagawa.blog.fc2.com/blog-entry-6.html


https://blog.goo.ne.jp/maryrose3/e/2ce5edfd159288d8f2931eb1d7423c4f

4. 中川隆[-8620] koaQ7Jey 2019年8月28日 14:59:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4132] 報告

“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(T)b
2014年02月07日
https://blog.goo.ne.jp/maryrose3/e/35d349bcd305e3566635322f5da4294d


第三節 民族系論客はなぜ、スターリン史観の狂信者なのか
――西尾幹二の“狂妄”大東亜戦争論U

二 〇〇五年の『正論』誌発表のエセーにもとづき、その三年後から西尾が出版したのが、シリーズ本『GHQ焚書図書開封』である。『GHQ焚書図書開封』と は、かいつまんで言えば、二十一世紀の日本人にマルクス・レーニン主義への回帰を説き、時代錯誤の「社会主義万歳!」「共産主義万歳!」「東アジア全体を 共産化しよう!」に傾倒する極左イデオロギーの復活への雄たけびである。
西尾幹二は、日本を今でも骨の髄まで汚染しているマルクス・レーニン主義が、まったく理解できない。むろん、それらの本を、識別・判別するのができない。西尾幹二の知性レベルは、自動車と飛行機の識別ができず、「動くもの」として一緒にする野蛮人並みである。
だ から西尾幹二は、GHQが「市販を禁止し市場から没収させた本」の多くが、教条的なマルクス・レーニン主義の書籍群なのが、とんと理解できない。マルク ス・レーニン主義が瞬時に識別できない“哲学超音痴”の西尾は、それなのに感性でマルクス・レーニン主義に傾倒する。小学校の時に共産主義にかぶれた赤い 教師に洗脳されたのだろうか。

反学問・反歴史の“世紀の有害図書”『GHQ焚書図書開封』をどう焚書するか

それはともあれ、西尾幹二の『GHQ焚書図書開封』は、“世紀の歴史捏造書”。なぜなら、次のような真赤な嘘を絶対前提に論を立てているからである。
 
「(大東亜戦争の)戦意形成の背後を知るに値する昭和史の文書類は根こそぎアメリカに運び込まれたままになっているのが事実のようです」
「<焚書>されて本がなくなってしまったために、戦後を『自分でなくて』生きている事実にすら気がつかなくなっている」(注1、三八頁、四三頁)。

いかなる本も、数千部が印刷される。そのうち、「市販禁止本」に限り、おそらく五冊づつほどが米国に送付されたようだから、九十九%は日本国内にそのままある。それがどうして「根こそぎアメリカに運び込まれた」となるのか。嘘としても限度を超えていよう。

ま た、日本人の人格を形成する書籍は、万葉集や平安文学や江戸文学あるいは過去千五百年間に出版された無数の古典的な歴史関連書である。一九二八〜四五年間 のわずか十七年間の出版物を読まずとも、日本人の人格形成にはなんら問題はない。しかも、この十七年間ぶんの本は、読もうと思えば、複数の図書館を利用す れば、一冊残らずすべてが読める。それがどうして、「焚書されて本がなくなってしまった」になるのか。事実を愚弄する真赤な嘘話も、ここまでの嘘は聞いた ことがない。
さて、西尾幹二の七冊にもなる『GHQ焚書図書開封』シリーズは、大東亜戦争とその前夜の歴史をあらん限りに歪曲し恣意的に改竄するのが目的。だが、こんな荒唐無稽な嘘の大掛かりな舞台までつくってまで、なぜ歴史の捏造をする必要があるのだろうか。
答 えの一つとして、人格が分裂的に浮遊する西尾幹二が、七十歳になった二〇〇五年を契機に、自分を大東亜戦争とその前夜の「ゼロ歳から小学校児童」であった 時代に仮構的に回帰し、対英米戦争をパソコン・ゲーム(蜃気楼)で楽しむ妄想に耽ることにした、と考えれば、西尾の真黒い思考の深層とその著の真相を抉る ことができるのではないか。
つまり、大東亜戦争そのものを歴史学的・学問的に考察するのではなく、「読者よ!二〇〇五〜一三年の今も、日本は七十 年前の大東亜戦争をやっているのだ。帝国陸軍・帝国海軍の対英米戦争を、もっと大声でフレー/フレーと応援したらどうだ!」と檄を飛ばしている狂書、それ が“世紀の有害図書”『GHQ焚書図書開封』である。
紙幅が足りなくなったので、『GHQ焚書図書開封』全七巻の具体的な解剖は、次回に省察する。ここでは、これらがなぜ、『GHQ焚書図書開封』が、反学問で反歴史の有害図書なのかを、少し説明しておきたい。

大衆への教宣本を分別せず読む西尾型の雑想では、歴史は全くの暗闇のまま

大東亜戦争の真相に迫るには、陸海軍を含めた時の政府の意志決定を詳査して正確に再現する作業をすることであり、当然、最低限、内閣/外務省/陸軍省/海軍省の部内資料を渉猟するほかない。だが、驚くことに、西尾幹二は、これら政府部内資料の引用が全くのゼロ。
つまり、西尾は、大東亜戦争を意志決定していった政府の、その史料を一点として読んでいない。西尾幹二とは、歴史に関して“超ズブの素人”であるだけでなく、自分なりに歴史を明らかにしようとする最小限の意思もない。
次 に、渉猟すべきは、これらの政府の意志決定に少なからず影響を与えた、当時の三大メディア媒体の『朝日新聞』『中央公論』『改造』は、一九三二年以降、手 抜きすることなく読破され研究しつくされねばならない。大東亜戦争を決定し推進した、当時の日本の政治家・官僚・軍人は、これら三大紙・誌を欠かさず読ん でいた。
だが、『GHQ焚書図書開封』がとりあげている、一般庶民を洗脳・煽動するための大衆駄本などは、日本国の戦争決定を左右するものではな い。それらは、国益に反する「反日」戦争だった大東亜戦争の政府・軍部の決定に対して、良識ある国民が批判や非難をする思考を麻痺させるプロパガンダ本が 過半である。
つまり西尾幹二は、政府の戦争決定の影響を与えた書籍と戦争遂行への批判封じ込めの洗脳書籍との峻別作業をいっさいしない。そのような学問的な発想が、学者ではない“売文業者”で大衆煽動家の西尾幹二には、欠けて存在しないからだ。
学 問は、方法論で、その成否が決まる。歴史学は、体系的・分類的な史料分析が生命である。私事を明かすのは趣味ではないが、大東亜戦争の考察・分析にあたっ て、徹底的に研究したのは、(対英米戦争を御前会議で最初に決定した総理)近衛文麿の側近であった尾崎秀実の検事・予審判事の尋問調書であった。これを踏 まえて、尾崎秀実の発表した雑誌論考をすべて読破して、この訊問調書との比較検討をおこなった。ついで、尾崎以外の近衛周辺のかなりの数の知識人(学者・ ジャーナリスト)の著作を雑誌論文はもとより(経済学を含めた)学術書にいたるまで、広く深く渉猟した。
これらの作業を通じて、当時の言語「東亜 秩序」とか「大東亜共栄圏」とかの正確な意味を把握した。言葉の意味は、時代、時代で大きく変遷する。だから、大東亜戦争前夜の一九三二〜四一年の時代を 理解するには、自分の頭を“一九三二〜四一年の日本人”に改造するしかない、と考えた。むろん、大衆の日本人ではなく、総理官邸のエリート政治家の頭への 転換、陸軍・海軍の中枢で政策を立案するエリート軍人の頭への転換である。後者のためには、『戦史叢書』全百巻を丸暗記しておくぐらいは最低条件である。
ところが『GHQ焚書図書開封』の西尾幹二ときたら、大東亜戦争の意志決定過程について何ら関心がない。当時の国際政治や国際情勢がどうあったかについても関心がない。日本を地獄へと導いた日ソ中立条約や日独伊三国同盟への批判はおろか言及そのものがない。
この事実は、ソ連(ロシア)やドイツが日本の国防や国益とどう関係していたかなど不在だったとする虚構が、西尾幹二の前提になっているのを示す。すなわち、西尾幹二は、初めから嘘歴史を捏造することを企図し、その手段として『GHQ焚書図書開封』を書いたのである。
つまり、『GHQ焚書図書開封』は、西尾が表向きにいう「一九二八〜四五年の、日本人の歴史再発見」のためではない。意識して「一九二八〜四五年の歴史を日本人から剥奪・抹殺するための偽情報・洗脳工作本」として、“ニーチェ的狂気の人”西尾はそれを書いた。
GHQの「市販本禁止」などより数千倍も数万倍も過激また濃密に、日本人を歴史の真実から隔離・監禁し、日本人から正しい歴史知見を剥奪するためである。西尾幹二著『GHQ焚書図書開封』は、日本人にとって最凶の危険本である。
 

第一節
1、西尾幹二責任編集『新しい歴史教科書』、扶桑社、二八六頁、二〇〇頁。
2、 ルーズヴェルトの署名には米国大統領という「肩書き」がない。また「米国政府を代表して」の語句もない。また、発表されず、秘密だった、副大統領トルーマ ンすら一九四五年四月下旬、ルーズベルトの死去に伴い大統領に昇格し、ルーズヴェルトの個人金庫を開け初めて知った。卒倒するほどの衝撃を受けたという。
3、ステチニアス/モロトフ/イーデンの米英ソの三外相が、その公的立場で署名した協定。調印後、公表。
4、藤村信『ヤルター戦後史の起点』、岩波書店、一八二〜四頁。
5、 支那艦隊の後継である英国の極東艦隊(東洋艦隊)は、一九七一年十月三十一日、母港のシンガポールを去り、その歴史に幕を閉じた。私(中川)は、このと き、日本政府がこの式典に特使を派遣しなかったこと、(東京か対馬かでの)英国極東艦隊への感謝と惜別の式典を日本政府が主催しなかったことに、英国への 非礼を怒るとともに、自国国防を忘失した日本の病のひどさに愕然とした。「日本は、滅ぶ」、と。
6、日露戦争の直前(一九〇二年)、これを意識し て対抗したわけのではないが、胃腸薬「(忠勇)征露丸」が発売され、当時もその後も、「これでやっとウラジヲストック(日本征服)とバランスした」と日本 人は喜んだ。一九四六年に敗戦で、この薬品メーカーは、「正露丸」に商標名を変更した。が、「正しいロシア」など存在しない。「正露丸」の商標はやめても らいたい。
7、アルゼンチンがイタリアに発注し完成したばかりの二隻の新鋭軍艦「日進」「春日」を日本に斡旋したのは英国だった。しかも、回航に あたってロシア海軍に撃沈されないよう、両艦とも艦長を英国海軍大佐にし、かつ英国海軍の一万四千dの当時世界トップの巨大な装甲巡洋艦をセイロン島のコ ロンボまで護衛した。事実上、英国海軍による日本への回航だった。また、ロシアがチリから購入しようとした軍艦二隻は、英国が急いで高額で落札して、ロシ アに売却されるのを寸前に防いだ。
  そればかりか、戦争遂行の財政力がない日本は、日露戦争の戦費の四割を英米二ヶ国での外債によってまかなったが、このとき英国国王はイギリスの資産家を国王晩餐会に招待しては、日本公債の購入を勧誘する営業マンに徹したのである。
8、『日本外交史』第三巻、鹿島研究所出版会、二四九〜五〇頁。
9、西鶴定嘉『樺太史の栞』、樺太庁「樺太叢書」第六巻、二四〜八頁。
10、秋月俊幸『日ロ関係とサハリン島』、筑摩書房、一七三〜八一頁。全国樺太連盟『樺太沿革・行政史』、一四二〜五六頁。 
第二節
1、文部省社会教育局『没収指定図書総目録』、今日の話題社、六頁。
2、西尾幹二「知られざるGHQの焚書と現代の焚書」『正論』、二〇〇五年九月号、引用頁は本文。
第三節
 1、西尾幹二『GHQ焚書図書開封1』、徳間書店、二〇〇八年、頁数は本文。
                                           (つづく)
正誤表

△ 民族の魂を世代を超えて紡いでいくものである
○ 民族の魂を、世代を超えて紡いでいくものである

△ さらに日本人の人格から倫理道徳も剥奪したいと、
○ さらに日本人の人格から倫理道徳も剥奪したいとの、

× 「このような対日戦争の擬制の一部をソ連に負担させる代償として
○ 「このような対日戦争の犠牲の一部をソ連に負担させる代償として

× 太平洋憲章の領土不拡大方針に違反して
○ 大西洋憲章の領土不拡大方針に違反して

△ ルーズベルト
○ ルーズヴェルト
注:他行の表記に統一した

× その時期を米国の方が「ドイツ降伏後三ヶ月以内」としたり、
△ その時期を米国の方が「ドイツ降伏後三ヶ月以内」とした、としたり、

× 米国の方が「南樺太やクリル諸島の割譲」を提案したなどは、
△ 米国の方が「南樺太やクリル諸島の割譲」を提案したなどというのは、

× 「米国は太平洋憲章に違反」に至っては、
○ 「米国は大西洋憲章に違反」に至っては、

× デッチアゲル
○ デッチアゲる

△ 日本の固有の領土である樺太をロシアの言いなりに下田条約を締結したばかりに、樺太はロシアに半分貢納された。
○ ロシアの言いなりに下田条約を締結したばかりに、日本の固有の領土である樺太はロシアに半分貢納された。
注:文意を損なわない程度に文を整えた

△ 米国が初めて太平洋に海軍基地をハワイ(パール・ハーバー)に造ったのが一九一九年。
○ 米国が初めて、太平洋のハワイ(パール・ハーバー)に海軍基地を造ったのが一九一九年。
注:文意を損なわない程度に文を整えた

△ それより五十年も昔の一八七〇年とはアメリカが、マゼラン海峡の向こう側の国で"非太平洋国家"だった時代。
○ それより五十年も昔の一八七〇年とは、アメリカがマゼラン海峡の向こう側の国で"非太平洋国家"だった時代。
注:文意を損なわない程度に文を整えた

× その自体、
○ それ自体、

△ 同情されるべき被害者(日本人)とを差別ができず、
○ 同情されるべき被害者(日本人)とを差別できず、
注:または「同情されるべき被害者(日本人)とを差別することができず、」

× 主因とを少し触れて
おこう。樺太に渡航した日本人の最初は、
○ 主因とを少し触れておこう。
樺太に渡航した日本人の最初は、
注:改行ミス。「樺太に渡航した日本人の最初は、」は文頭となる。

△ 工藤平助『赤蝦夷(=ロシア)風説考』(一七八三年刊)
○ 工藤平助『赤蝦夷風説考』(一七八三年刊、「赤蝦夷」とはロシアのこと)

△ 松前平角ほか『蝦夷唐太(=樺太)島之記』(1791年刊)
○ 松前平角ほか『蝦夷唐太島之記』(1791年刊、「蝦夷唐太」とは樺太のこと)

× クシュンコタン駐兵監察になった
(一八〇八年)、
○ クシュンコタン駐兵監察になった(一八〇八年)、
注:改行ミス

× さて、話を川路聖謨が締結した(不平等どころではない)"反日の極み"下田条約によって、
○ さて、川路聖謨が締結した(不平等どころではない)"反日の極み"下田条約によって、
注:「話を」を削除

× さらには日本側が被護的に統治していたから、
○ さらには日本側が庇護的に統治していたから、
注:“消極的な”統治、の意味に解した

× これらロシア側の暴力に対して小競り合い対抗を、
○ これらロシア側の暴力に対しての小競り合い対抗を、
注:または、
○ これらロシア側の暴力に対する小競り合い対抗を、

× 日本は"ロシアの属国です"を合意しに行ったも同然
○ 日本は"ロシアの属国です"と合意しに行ったも同然

× いや、それらをそのまましてただ
○ いや、それらをそのままにしてただ

× 対ソ叩頭外交を肇とする戦後日本と酷似して
○ 対ソ叩頭外交をはじめとする戦後日本と酷似して

× 『GHQ焚書』を七巻も出したことにおいて
○ 『GHQ焚書図書開封』シリーズを八巻も出したことにおいて
注:『GHQ焚書図書開封8』(徳間書店、2013年)

× まず、本のタイトル『GHQ焚書』からして、
○ まず、本のタイトルの“GHQ焚書”からして、
注:記事後半では、タイトルが正しく『GHQ焚書図書開封』となっている

× 非学問の低級な嘘宣伝本七冊が
○ 非学問の低級な嘘宣伝本八冊が
注:上掲の注を参照のこと

△ 西尾のような跳びぬけて愚劣
○ 西尾のように跳びぬけて愚劣

× 所狭しと並んでいるのを知らない、西尾が典型的な超劣等生であることがかくも鮮やかに照明されて、
○ 所狭しと並んでいるのを知らない西尾が、典型的な超劣等生であることがかくも鮮やかに照明されて、
注:「照明されて」は「証明されて」のあやまりか

△ 心にもない真っ赤な嘘なのを暴露する
○ 心にもない真赤な嘘なのを暴露する
注:「真っ赤」はあやまりではないが、他行の用例に統一した

× それらの本を、識別・判別するのができない。
○ それらの本を、識別・判別することができない。

× おそらく五冊づつほどが
○ おそらく五冊ずつほどが

× この十七年間ぶんの本は、
○ この十七年間分の本は、
注:変換ミスか

× さて、西尾幹二の七冊にもなる『GHQ焚書図書開封』シリーズ
○ さて、西尾幹二の八冊にもなる『GHQ焚書図書開封』シリーズ

× 『GHQ焚書図書開封』全七巻の具体的な解剖は
○ 『GHQ焚書図書開封』全八巻の具体的な解剖は


× 日露戦争の直前(一九〇二年)、これを意識して対抗したわけのではないが、
○ 日露戦争の直前(一九〇二年)、これを意識して対抗したわけではないが、


追記:
一部、正誤表というよりは校正/修正に該当する記載がございます。非礼の段、平にご容赦くださいますとさいわいです。

by 「中川八洋文献目録」管理人


[11]
正誤表のうち、一か所訂正いたします。

△ 松前平角ほか『蝦夷唐太(=樺太)島之記』(1791年刊)
○ 松前平角ほか『蝦夷唐太島之記』(1791年刊、「唐太」は樺太のこと)

「蝦夷唐太島」は「蝦夷」(北海道)と「唐太島」(樺太島)のことであり、「蝦夷唐太」を「樺太」とした正誤表の記載は誤りでした。おわびして訂正いたします。

by 「中川八洋文献目録」管理人
2014-01-31


※ 出典


中川八洋掲示板 @中川八洋
http://yatsuhironakagawa.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

※追記20140406

上記の

中川八洋掲示板 @中川八洋 は以下の「はてなブログ」に移行されたそうです。

http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/

https://blog.goo.ne.jp/maryrose3/e/35d349bcd305e3566635322f5da4294d

5. 中川隆[-8619] koaQ7Jey 2019年8月28日 15:01:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4133] 報告

“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(U)
2014年02月08日
https://blog.goo.ne.jp/maryrose3/e/aaa285fef1a5958f0a1d0c26f1dbf340


※先の投稿に引き続き、中川八洋氏の論考を記録しておきます。今更言うまでもないことですが、中川八洋氏の見解に同意するかどうかということとは無関係です。様々な観点から検証するための一つの参考意見です。

論考の中で中川氏は西尾幹二氏について、「ソ連は天使、米国は悪魔」として冤罪化を試みているかのように主張されていますが、中川八洋氏の断定は、逆にむしろ「ソ連は悪魔、米国は天使」と主張しているかのような神学論争に堕しかねない感想ももちます。そうであれば愚劣な議論でしょう。知者、知に溺れる。

いずれにしても歴史認識とは神ならぬ利害にとらわれる人間の行うことですから、一筋縄には行かないことはわかります。

「人は心で謀事をするが、物事を決めるのは神である。人の目には自分の行く道はすべて正しいかのように思うが、ただ神のみが真実を裁定される」(箴言16:1、2)

中川八洋掲示板
@中川八洋


“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(U)
――“冤罪捏造”の<西尾史観>と分裂症の妄想・幻覚
                    
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋 

西尾幹二の作品はことごとく、妄想性思考と論理障害が顕著である。特に、強度の妄想性思考(幻覚)において、西尾幹二の職業は、サイケデリック・アート(psychedelic art)の画家なら問題はなかっただろうが、史料に基づく歴史事実を積み重ねていく歴史学には最も不向きな人物である。歴史に係わる西尾の大量の雑文すべてが、歴史事実を歪曲した大捏造の噴飯物なのは、西尾の病的な妄想性思考の産物。余りに当然。
『GHQ焚書図書開封』全八巻の分析に入る前に、西尾が昵懇な北朝鮮工作員・金完燮との対談本『日韓大討論』(注1)に、少しばかり脱線する。この対談でデッチアゲに狂奔する西尾流妄想の偽造歴史が、西尾特有の病気である“冤罪づくりの犯罪”という悪意の意図(malicious intent)に発生しているのを端的に明らかにするからだ。
蛇足。一定以上の教養さえあれば、諜報情報など無くとも、誰でもこの対談をすれば「金完燮とは<親日>演技を通じて、日本人を“反・韓国”に誘導洗脳し日韓分断を工作する北朝鮮の対日工作員」だと見破れる。だが西尾は、国際政治や歴史を洞察する知見も能力も欠く、水準以下の低級な売文業者。この程度の判別すらできない。

「北海道を守る代償に、米国は日本男児のシベリア強制労働をスターリンに承認する協定に署名した」だって?????

『日韓大討論』で、西尾は、ここまで嘘だらけの創り話ができるものかと絶句するほど、真赤な嘘をでっち上げる。 

「米国大統領トルーマンが、それ(=ソ連の北海道南北分断と北側占領要求)をさせない交換条件として、シベリアにいた日本人を約八十万人を強制労働につかせることをソ連のスターリンに対して認めてサインをしたのです。日本人の頭越しで行われた協定で、日本には知らされませんでした」
「収容所に入れられ恐怖の強制労働に従事させられた日本人約八十万人のうち、約十万人が亡くなりました。それは北海道が守られた犠牲であるということを、戦後三十年ぐらい経って知らされました。歴史の非情です」(注2)。

スターリンがトルーマンに対し発した(留萌と釧路を結ぶ線で)北海道北半占領要求の通知は、一九四五年八月十六日。日本は前日十五日正午の停戦に合意したが、この時点、降伏はしていない。十六日は、日米はまだ相互に交戦状態の戦争相手国だった。日本の連合国への降伏は、九月二日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリー艦上。“戦闘停止”を指す「停戦」は、「降伏」(戦争終結、戦勝国の敗戦国の占領開始)ではない。
だから、九月二日以降の日本軍の降伏相手国&占領地域をめぐる一九四五年八月十六〜二十五日の米ソ間のやり取りを、米国は日本側に連絡する義務などない。それなのに西尾は、「一九四五年八月」時点で、米国は日本側への協議義務が発生する日米同盟を締結していたと主張する。
分裂症の狂気がひどい西尾幹二とは、時間軸が非在の、時間経過の識別ができない。だから、このように、「一九四五年八月」を、七年後の日米安保条約が発効した「一九五二年四月二十九日以降」だと“妄想”する。西尾における「一九四五年八月=一九五二年四月二十九日以降」のような症状を、分裂症患者に特有な“幻覚”ともいう。
産経新聞社やワック社は、西尾幹二が重度の分裂症罹患者だと知ったうえで付き合っているようだ。精神分裂症の文筆家の作品の方が、正常な論客や学者のより、よく売れて商売になるからだ。絵画と同じである。分裂症の画家ゴッホ、ムンク、ゴヤ、ボッシュなどを思い出せばわかるだろう。
画家に限らず文筆家(文学者、哲学者、思想家)もまた、分裂症患者の作品の方が、日本では高い評価を受け読者も多い。ルソー、ヘルダーリン、フーコー、ドウルーズ、コント、保田與重郎、サイード、ハイデカー、ヴィトゲンシュタインなど挙げるときりがない。なお、ニーチェの狂気は、分裂病と酷似した症状を示す脳梅毒であって、分裂病ではない。
話を戻す。トルーマンは、上記スターリン要求をにべもなく拒絶回答した。二日後の八月十八日だった。代りに、国後・択捉島およびその北に位置するクリル諸島へのソ連軍の進駐・占領を認めた。このとき米国は、択捉島に米国のB29爆撃機用の航空基地を設置させる条件を附けた。
八月二十二日、スーターリンは、択捉島のアメリカ軍航空基地建設を拒否した。これは、北海道北半占領を断念する旨の間接的な通知でもあった。二十五日、米国は米軍基地拒絶への抗議文をソ連に発信し、これをもって本件に絡む米ソ間交渉は終了した(注3)。
このソ連の北海道北半占領要求について、日本側(外務省)は、占領開始後の一九四五年九月にGHQ(米国)から詳細に聞かされており、西尾幹二の意味不明な「戦後三十年ぐらい経って」(一九七五年頃)は、妄想上に浮かんだ真赤な嘘話。医学的には“分裂病の幻覚”。西尾幹二のこのような狂気の妄想には、限度がない。
すなわち、「北海道北半のソ連軍への降伏・ソ連の占領地域」という純粋に戦勝国・米ソ間の問題は、日ソ間の問題でポツダム宣言違反のシベリアへの日本男児百五万人強制連行・強制労働事件(四十〜五十万人大量殺戮事件)とは、ひとかけらも関係しない。だのに、世界中でただ一人西尾幹二だけは、上記引用文のように、全く無関係な両問題が結びつき連結してしまう。西尾幹二が幻覚(妄想性思考)に浮遊する重度の分裂症患者でないとすれば、この異常な“連結”が発生する狂気の思考メカニズムを説明できない。
シベリア強制連行は、共産主義者(ソ連工作員)の牙城となっていた帝国陸軍参謀本部や近衛文麿らが、一九四五年四月頃から、ソ連大使館と打ち合わせていたもので、“半ばスターリンの対日要求、半ば日本側の同意”から生まれた世紀の蛮行である。
このことは、近衛の代理としてソ連大使館(の中の、ベリアが直轄するNKGB部局)との間を頻繁に行き来していた酒井鎬次(予備役陸軍中将)が近衛と二人で執筆したと詐称する「近衛文麿の対ソ仲介案」に明記されている(注4)。このところは、「近衛らが、ソ連大使館のNKGB将校と一緒に執筆した」と正しい歴史事実に修正されるべきだ。
また、在満州の関東軍(帝国陸軍の在満洲総軍)のソ連軍への降伏とシベリアへの連行が合意されたジャリコーワでの日ソ間の協議は、一九四五年八月十九日(注5)。
すなわち、北海道北半をめぐる米ソ間の応酬があった八月十六日〜十八日、日本陸軍(関東軍)とソ連軍は、まだ満洲の荒野で最後の戦闘中であった。日本の将兵は誰一人としてシベリアなどにはいない。しかし、西尾幹二は、「シベリアに八十万人いた」という。
重度の分裂症の西尾幹二にとって、「満洲」と「シベリア」が同一だし、「一九一八年のシベリア出兵」と「一九四五年のシベリアへの拉致連行」とが同一である。論理障害で妄想性思考の症状である。なお、引用文の「八十万人」とか「十万人」とかの数字ミスは、西尾が歴史音痴で文献を渉猟しないズブの素人だからであって、西尾の分裂症とは関係しない。

ついでにシベリア拉致強制連行・大量殺戮事件について、その基本概要を述べておこう。八月十九日から武装解除が始まった関東軍の将兵が、鉄格子つきの貨車に載せられシベリアへと北送されていく強制抑留は、九月二日の降伏の日から開始された。八月十八日に事実上終了した北海道北半占領問題から二週間たった後。シベリアへの強制連行の最盛期は一九四五年十月〜十一月で、翌年春まで続いた。
シベリアに拉致・強制連行された日本人男児はおよそ百五万人。帰還した数を差し引けば、四十〜五十万人が殺害された。死亡したのではなく、ホロコーストの大量殺戮である。これが、ほぼ正確な確定数字である。
これに関して多くの資料があるが、最も学術的に高い評価を得ているのは『シベリア強制抑留の実態』(注6)。この本への言及がないシベリア抑留問題の書物など、信用が措けない。
さて、上記の引用文には「トルーマンは、在シベリアの日本人八十万人を強制労働させることをスターリンに同意し協定に署名(サイン)した」との、西尾幹二の真赤な嘘創作がある。そのような「米ソ協定」など、幽霊ですら実態物に思えるほど、むろん存在しない。西尾幹二の分裂症の幻覚は、これほどひどいのである。
西尾幹二が、強度の幻覚症状の中で嘘歴史を綴っていく様は、チェーホフの小説『第六病棟』の主人公さながら。戦慄するほかない。
なお、米国こそは、ソ連に抑留された日本人男児の解放に全力あげてソ連に圧力をかけ続けた最高の偉大な友邦であった。米国の援護なしに、約半数の五十万人帰還は、ありえなかった。

西尾幹二を精神病院に入院させなくて、本当に大丈夫か

『日韓大討論』は、西尾幹二が重度の精神異常者であることを示す多くの嘘歴史の陳列館だが、事例をもう一つ。次の荒唐無稽な嘘話は、馬鹿馬鹿しくて読む気になれないだろうが、我慢して読んでいただきたい。
 
「(米国は、日本の)真珠湾攻撃より前に東京空襲が計画されていました。使用しようとしていた飛行機がドイツの方に必要になったので取りやめになったのですが、いきなり東京を攻撃する計画でした。ですからもし日本が真珠湾をやらなければ、アメリカが日本に先制攻撃していました」(注7)。

幻覚で歴史をデッチアゲル西尾幹二の、上記の嘘歴史は、私立中学を受験する東京の小学生五年生でもわかるもので、わざわざ解説するのは気が重い。が、以下の通り。
一九四一年末までの米国には、政府にも軍にも東京空襲などの計画は全く不在で煙ほどにも無い。そんな渡洋爆撃(空襲)ができる武器=航空機が存在せず、計画検討すら発想する以前だった。
どうやら西尾幹二は、一九四四年秋に実戦配備になったB29爆撃機が、一九四一年に米国に存在していたと“幻覚”している。そして、一九四一年の半ば、米国はB29爆撃機の大部隊で横須賀軍港を先制攻撃することができたと“妄想=幻覚”している。
だが、B29の初飛行は、一九四二年九月二十一日。運用開始は、一九四四年五月八日。シナの成都から九州への爆撃は、一九四四年六月十六日が最初。東京への最初の爆撃は、一九四四年十一月二十九日の二十九機。その発着基地はテニアン島。
要は、西尾幹二は、「一九四一年」と「一九四四年」の相違が、“分裂病の狂人”らしく、識別できない。だから、「一九四四年に初めて戦場に現れた米国のB29の爆撃機は、一九四一年に実戦配備されていた」と妄想し、「この対日用B29が、ドイツ空爆に転用され、一九四一年に使われた」とのもう一つの大妄想(幻覚)を重ねている。

西尾の“妄想”は、一九四二年四月十八日のドーリットル中佐が率いるB25爆撃機十六機と空母「ホーネット」による東京ほかへの対日空襲を、「米国は一九四一年に実行する予定だった」の“妄想”とも考えられるので、不必要かもしれないが、補足しておく。
ルーズベルト大統領は、真珠湾の奇襲攻撃で意気消沈する米軍の士気を昂揚させるべく、東京を含めた日本本土攻撃の研究を命じた。一九四二年一月十六日だった。だが、日本近海に米国の航空基地がなく、また艦載機の爆撃では効果が弱すぎるので、陸軍の双発爆撃機B25十六機を空母から離艦させ(帰還のための着艦はできないので、空襲終了後は)支那大陸に逃避してその沿岸にパラシュートで着地する(爆撃機は全機墜落自壊)というサーカスのような戦術を思いついた。
勇敢さで歴史に名を遺した「ドーリットル空襲」で日本側が蒙った被害は、横須賀の軍港が破壊されたわけではなく、若干の人命喪失と家屋被害が出たのみで、パールハーバーの被害とは比較にならない軽微なレベル。米国が喪失した爆撃機やシナ大陸に不時着した乗員の処刑等による犠牲に比すれば割りの合わない、軍事合理性のまったく無いもの。パールハーバー・ショックから米軍の士気を立ち直らせる目的がなければ考案されることはなかった。
それなのに西尾ときたら、「米国は一九四一年、パール・ハーバーより先に、先制的な横須賀奇襲攻撃/東京空襲をしたはず」と主張する。狂気の幻覚や妄想なくして、とても発想できるものではない。西尾幹二の偽造歴史は、“嘘づくり妄想の連鎖”ででっち上げられている。

日露間の明快な国境(ロシアが侵略している日本国領土)が、はっきりしない???
――「ロシアへの日本の北方領土返還要求の根拠は無い」と主張する西尾幹二 

西尾の歴史偽造には、一貫しているものがある。それは、真偽を越えて何事であれ、「米国が悪魔、ソ連が天使」という構図。これは、虚偽歴史を書きなぐる厖大な数の雑文すべての基本構造となっている。

「アメリカ政府は、ソ連と日本が永久に仲が悪くなるように、アメリカ政府は、サンフランシスコ講和条約において、北方領土の境界をはっきりさせず、あえて国境線を不明確にし、どこまでが日本領なのかをわからないようにしました。これは永遠の争いのタネにするためです」(注7)。
 
これを読んだ時、思わず、西尾幹二はロシアの情報工作員かと思ったが、たまたま彼をよく知るので、それはありえない。つまり、ロシア工作員でないが、西尾とは、過激な親ロ人士で、ロシア一辺倒の“反日の言論ボス”。
日本国にとって、日本固有の領土である樺太を奪い、ニコライエフスク港で日本の一般邦人七百名を虐殺し(一九二〇年三月)、満洲で(一九四五年八月〜四六年四月)日本人婦女子二十万人を殺害した“永遠の敵性国家”ロシアとは、日本は万が一にも仲良くなってはいけない。
ところが、日本の国益が転倒的に見える“狂気の非国民”西尾幹二は、逆さにも「日本はロシアと仲良くすべきだ」を強い信条とする。西尾幹二に“性悪の売国奴”を感じない日本人は、共産党員でないなら、自らが売国奴の資質濃厚だと猛省されたい。
上記の引用文は誤謬満載の放言暴言のたぐいともいえるが、それ以前に、このように、西尾幹二とは、シベリア追放処分が急がれる、祖国叛逆の犯罪者的な思考しかできない人物。
なぜなら、日露間の係争は、樺太や国後・択捉・千島列島の領土問題だけではない。ロシアによる残虐極める日本人大量殺戮問題がある以上、万が一にも、日本はロシアと友好関係をもつことはできない。もし仮に、日本がロシアと友好な関係をもつならば、それこそ人倫の道に違背し祖先を足蹴にする、祖国を冒涜する行為ではないか。日本国の存続のレーゾン・デートルすら瓦解する。

ロシアは、一九四五年八月、日ソ中立条約を蹂躙しての満洲侵略・朝鮮北部侵略・樺太侵略を今なお詫びてはいない。この時、日本人男児百五万をシベリアに拉致して極寒の中での強制労働で四〜五十万人を殺戮したことを今なお詫びてはいない。このとき、満洲や樺太で日本の婦女子に対して言語に絶する陵辱をなし殺戮を縦にしたが、これについてもロシアは一言も詫びてはいない。
満洲で十歳以上の日本人女性はほぼことごとくレイプされた。とりわけ、十代の日本女性に対するレイプは、阿鼻叫喚の地獄絵であった。例えば、一週間で百名から二百五十名のロシア兵に犯され、そのまま死亡した者は数知れず。また多くは、レイプされた後、自殺した。母親や祖母が発狂した日本人の女児・女子を殺してあげた。レイプ殺戮の日本女性の被害者数の総計は、一万人を超える。
ために、満洲から十代の女学生で生きて福岡県博多港に引き揚げてきた者はわずかであった。また、博多港の岸壁では、レイプされて妊娠した日本女性の掻爬が行われたが、この掻爬の順番待ちをして長々と並ぶ光景は、鬼気迫るものがあったという。

ロシアと仲良くするのが良いなどとは、西尾幹二が悪魔すらたじろぐ人間性皆無(ヒューマニズム欠如)の人格の持ち主だからである。西尾が、事の理非や善悪を弁えない無道徳・反倫理の人間以下の犯罪者精神の人格だからである。
米国は、日本の北方領土返還問題では、絶えず日本側を応援した。例えば、「ヤルタ秘密協定は、米国政府はいっさい関与していない、ルーズベルトが大統領ではなく個人としてスターリンと交わした私文書である」との国務省声明(一九五六年九月)まで発出したように、あらゆる手を尽くしてくれた。また、国後・択捉島は日本領土である旨の公文書をロシアに突きつけたり、その奪還にかける情熱は、日本人以上である(注8)。
サンフランシスコ講和会議において、ロシアは、「南樺太とクリル諸島(得撫島以北の千島列島)と国後・択捉・歯舞・色丹の領有を講和条約に明記しろ」「宗谷海峡/根室海峡などに面する北海道側を非武装化する旨を明記しろ」などを要求したが、これをすべて拒絶したのが米国政府であった。
ダレス全権は、サ講和条約をヤルタ秘密協定の無効宣言をかねるものとするぞと意気込んでいたが、日本国へのこの約束を完全に守りぬいた。怒ったソ連の全権グロムイコ外相は退場し、講和条約を調印しなかった。ために、南樺太とクリル諸島は日露間では今なお“日本領土”である。
上記の引用文での西尾幹二の主張は、“北方領土をロシアに譲渡し、海峡に面した北海道の一部の主権をロシアと共同主権とせよ”とのことだから、西尾幹二とは、まさに反日の非国民である。そればかりか「日ロ間の国境の境界は、はっきりしない」との西尾幹二の謂いは、「日本の対ロ北方領土返還要求には、正当な根拠が存在しない」との意味だから、「対ロ領土返還要求をするな!」との西尾の真意が言外に露である。
日本領土をすべてロシアに貢がんとした帝国陸軍参謀本部のコミュニスト種村佐孝大佐の継承者のような西尾幹二は、潜在意識では“スターリン万歳のロシア人”だと断定してよかろう。

「ソ連は天使、米国は悪魔」
――“西尾流偽造の嘘歴史”を貫く米国冤罪化

これまで『日韓大討論』の三ヶ所を引用したわけだが、一番目と三番目は、西尾のもう一つの異常な歴史観を暴いている。それは、ロシアがなした明々白々な対日領土侵略や日本人大量殺戮事件を「米国がなしたもの」と米国に転嫁する、米国に冤罪の濡れ衣を着せる歴史捏造がパターン化していること。換言すれば、「敵国ロシア、友邦アメリカ」を異論なく示す明らかな歴史事実を転倒して、日本人が「ソ連は天使、米国は悪魔」の構図に洗脳されるよう嘘歴史をデッチアゲルのが、西尾流歴史偽造の手口だということだ。
要は、米国を無実の罪で糾弾するための、嘘歴史への歴史事実の転倒である。このような悪意の冤罪づくりは、共産主義者なら当然の行為だろう。だが西尾は、マルクス・レーニン主義者ではない。とすれば、分裂症患者では常態の、善悪を転倒させて入れ替える思考だと考えざるを得ない。西尾幹二は、重度の精神分裂症の狂気によって、善者と悪者のすり替え妄想に遊んでいる。
 

1、『日韓大討論』で、西尾幹二は、私(中川八洋)の著『歴史を偽造する韓国』からかなりの量の知見を“盗用”している。学術論文または学術性のある著作の場合は、引用箇所を明記すれば済むが、一般向きの対談本などでは、他人の作品から一定以上の分量を利用する場合、法律も「許諾が必要」だと定めている。西尾幹二は、著作権法に明白に違反する「許諾なき無断利用」、つまり“盗用”事件を犯している犯罪者である。
また、歴史の偽造のトンデモ本を売りまくる卑しく下劣な売文業者・西尾幹二に、私は、学者としてまた平成日本を代表する知識人として、私の学術的な研究成果を“許諾する”ことは決してしない。そのようなことをすれば、日本国の国益一途の私の学問研究が冒涜的に穢れることになるし、何よりも私個人の名誉と信用が毀損される。すなわち、幻覚と嘘つき常習の“狂気の人”西尾幹二による拙著盗用事件は、私に対する名誉毀損事件でもある。
2、『日韓大討論』扶桑社、三四頁。
3、南方同胞援護会『北方領土の地位』、一三四〜六頁。この他にも多くの文献があるが、皆同じ。
4、江藤淳監修『終戦工作の記録 下』、講談社文庫、二三四〜九頁。近衛文麿がスターリンに提案する予定の『和平交渉にかかわる要綱案』には、「賠償として一部の労力を提供するころには同意す」との一文がある。
戦後、シベリア抑留問題で、“日本側の主犯”近衛文麿が糾弾されないのは、朝日新聞などソ連や共産党に支配された極左マスメディアの情報工作・洗脳工作の成果である。だが、忘れてはならないのは、これに加えて、西尾幹二のような“歴史の偽造家”のトンデモ著作を面白がって読む“民族系の売国奴集団”がソ連側・日本側の極左を支援し擁護するからである。
5、コワレンコ『対日工作の回想』、文藝春秋、三〇頁下段。
6、阿部軍治『シベリア強制抑留の実態』、彩流社、二〇〇五年刊。
7、上掲『日韓大討論』、一六二頁、一七七頁。
8、中川八洋『尖閣防衛戦争論』、PHP、二一〇〜三三頁を参照のこと。

※出典

中川八洋掲示板
@中川八洋

http://yatsuhironakagawa.blog.fc2.com/blog-entry-7.html


https://blog.goo.ne.jp/maryrose3/e/aaa285fef1a5958f0a1d0c26f1dbf340

6. 中川隆[-8618] koaQ7Jey 2019年8月28日 15:06:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4134] 報告

2019年7月30日 投稿者: 吉田寿太郎
ニーチェ系の狂気が一段と進む西尾幹二 ──“新皇后テロルの狂書”を未だ焚書しない西尾幹二とワック社
筑波大学名誉教授   中 川 八 洋
http://nakagawayatsuhiro.com/?p=813

【blog再掲の理由】

 本稿は、タイトルは若干変更したが、2017年1月25日に「掲示板」にupしたブログ「“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(35)」の再掲。再掲の理由を、以下に簡略に触れる。

 去る5月1日、新天皇陛下が践祚され、同時に、新皇后陛下も立后され、洵に慶賀に堪えず、私は余りの嬉しさに一日中、神棚に「二礼二拍一礼」を何度も繰り返していた。作業室の近辺に著名な神社があればそこに参拝したかったが、あいにくと心当たりが無く、結局、このような一日となった。一ヶ月ほど経って、「やはり5月1日の午後、新幹線に飛び乗り、5月2日早朝に伊勢神宮、その午後に熱田神宮に参詣し、新天皇・皇后両陛下に《神の特段のご加護》を祈るべきだった」と、悔やんだ。

 この5月1日から丸三ヶ月、今日の7月30日まで私はある動きを待っていた。が、未だにそれがない。よって、本稿を再掲することに決めた。何を待っていたか。ワック社が西尾幹二著『皇太子さまへの御忠言』を絶版にし、また古本屋や市中在庫から徹底的に残部を回収し焚書(裁断を含む)して、その後、ワック社が責任をとって閉店する措置(動き)のこと。

 なぜ、ワック社とその社長・鈴木隆一の動きを待ち、西尾幹二の動きには期待しなかったか。それは、このブログ論考を一読すれば氷解する。西尾幹二は、ニーチェと同じ精神分裂病の最終段階で、良心がカラカラに乾き空洞と化し、善悪の区別も混然・朦朧とできなくなり、新皇后陛下の立后に合わせ『皇太子さまへの御忠言』を絶版し、その後に自裁する判断力を既に持ち合わせていない。

 当然、日本史上、空前絶後の“不敬の狂書”『皇太子さまへの御忠言』の出版の責任は、ワック社社長の鈴木隆一がとるしかない。ついては本ブログ読者諸兄へのお願い。本稿を読破された後、ワック社社長・鈴木隆一に対し、@西尾幹二著『皇太子さまへの御忠言』を直ちに絶版にせよ、A古本屋や市中在庫から徹底的にその残部を回収し焚書(裁断を含む)せよ、とfaxして頂ければ、幸甚至極に存じ上げます。

(2019年7月30日記)

【以下は、2017年1月のblog論文】

 日本人が、断然トップで「世界一」を誇るようになったものがある。残念ながら、自慢する性格のものではなく、その逆。実に憂慮堪えない恥ずべき状態での「世界一」。それは、世界標準において“国民の非国民度”を示すバロメーターに基づく日本人の順位。

 今や日本には、「あるべき理想の国民」が評価基準なら、それとは最もかけ離れた「一億総“国賊”の日本人」「一億総“非国民”の日本人」しかいない。つまり、日本人とは一億総“国賊”/一億総“非国民”だから、二位を大きく引き離して、人類史上“最低・最悪の国民(民族)”に成り果てたのである。そのような国民からなる国家は、究極の腐敗がフル・スピードで進むから、春の残雪のごとくに、遠からず、日本という国家は不可避に地球上から溶けて消えてなくなる。

第一節 精神病院に入院した“末期ニーチェ”に酷似してきた西尾幹二

ルソー/マルクス/ニーチェ──日本国存続の生命源を腐蝕的に根絶する三大“悪魔の思想”

 具体的には、正常な国家なら断じて排除する、国家を溶解的に自壊させていく最強の疫病力をもつ“悪魔の思想”を最高の「知」として崇める、“思想における異常国家”は、世界190ヶ国のうち日本だけである。日本ほど自国損傷/破壊に狂騒乱舞する国家は、世界に他に例を見ない。

 この自国の溶解・崩壊を促す最凶イデオロギーと言えば、世界中、誰しもがルソーを挙げる。日本でも、拙著『正統の哲学 異端の思想』『保守主義の哲学』二冊によってやっと、世界標準の常識である、諸悪の根源ルソーについて理解が広がった。そして、「ルソー→マルクス→レーニン/スターリン」という基幹“悪魔思想の系譜”についても、ようやく常識となった。

 特に、バークやアクトン卿のみならず、ベルジャーエフ/ミーゼス/ハイエク/レプケ/ポパー等を読む、私に刺激されて日本でやっと萌芽した保守主義の傾向を持つごく少数者が、ルソーとマルクスを“悪魔の思想”の元祖だと、(日本国の救済にはむろん余りに遅きに失し、また微力であり過ぎるが)この排除を考えるようになったことは、大正時代にルソーやデューイなどが猖獗して、その後は極左思想のみが支配する日本を正常化するメルクマールとなった。

 だが、ルソー/マルクスに次ぐ、“悪魔の思想”銅メダル保持の狂人思想家は誰か、と問われて即座に「ニーチェ」だと回答できる者は、僅少しかいない保守主義の日本人のうちでも、まだ限りなくゼロに近い。「“悪魔の思想”銅メダル保持の狂人思想家」については、『正統の哲学 異端の思想』『保守主義の哲学』に続く、その三部作として出版した『福田和也と〈魔の思想〉』(注1)で、私は間接的にすでに指摘していた。

 『福田和也と〈魔の思想〉』は、フーコー/ドゥルーズ/デリダ/リオタール等のポスト・モダンを、ドゥルーズ系の福田和也に焦点を当てて外科解剖的に批判的批評をしたものだが、フーコー/ドゥルーズ/デリダ/リオタール等のポスト・モダンの主源流である「ニーチェ思想の解剖」の附章については、纏める時間がなく収録できなかった。いいわけになるが、上掲の拙著では、従的な「ヘルダーリン→ハイデカー→フーコー等のポスト・モダン思想」の系譜を研究し言及したが、それに時間を食ってしまい、主的な「ニーチェ→フーコー等のポスト・モダン思想」(注2)の附章の方を割愛した。ともあれ、「ルソー/マルクスに次ぐ、“悪魔の思想”銅メダル保持の狂人思想家“とはニーチェ」という常識が日本で共有されていない現況は、日本国の存続にとって由々しい事態といえる。

 なぜなら、日本人がもつべき正常な人間性を破壊し、日本という国家を溶解的に破滅させる、エイズ・ウィルスより猛毒のニーチェ思想の危険性を日本人が知らない無知は、日本国から未来を確実に剥奪するからである。なお、質問「マルクスとニーチェの思想は、何れが強い極左度を持つか」への学的回答は、「ニーチェの方が、マルクスより十倍は左の“スーパー極左思想”」となろう。

ニーチェ精神分裂病の「中度→重度→超重度」への進行こそ、ニーチェ哲学の精髄

 国籍を持たなかったニーチェの精神分裂病について、日本の共産革命家や北朝鮮人アナーキスト達は、ニーチェを美化するために、精神病院に入院した1889年1月(46歳)をもって発症したとする。だが、素人の目でも『ツァアラトゥストラはかく語りき』(1884年、40歳)の作品が正常でない(=狂気)のは明白にわかる。いや、それ以前の作品群の、「神は死んだ」で悪名高い『悦ばしき知識』(1882年)も、さらにその前の『曙光』(1881年)も、充分に正気でないのは明白。

 よって、ニーチェの分裂病の完全発症は『曙光』の執筆時から、と断定できる。だが、それ以前のニーチェが正常であったかといえば、そうではない。『人間的な、余りに人間的な』(1878年、増補1880年)なども、精神分裂病者でない限り書けない著作。とすれば、1881年の年頭に上梓した『曙光』以降は「重度の精神分裂病」で、それ以前が「中度の精神分裂病」だったと見做すほかない。1889年1月から死没(1900年8月)までの十一年間余は、無執筆の精神病院暮らしで“生きた屍”だったから、「超重度」ということ。

 これを、ニーチェと同じ重度の精神分裂病哲学者だったミシェル・フーコーと比較しておく。フーコーの場合は、青年期からエイズで死亡(1984年)するまで、一貫して「重度」で安定していて進行も変化もなかった。ニーチェの方は、「中度→重度→超重度」と進行・悪化し続けた。

36歳で完全発狂のニーチェ精神分裂病は、フーコー級から一気にヘルダーリン級へ

 ニーチェは、著作のほとんどを重度の精神分裂病者の状態で執筆している。万人がニーチェを狂人と見做すに至った1888年末〜1889年年頭に当たる、1889年1月3日付けヴァーグナーの「第二の妻」コージマ宛て手紙(A)と同種の、自分を神だと幻覚する妄想(次のBは、ほんの一例)は、それよりほぼ十年昔からずっと常態だったからだ。

A コージマ・ヴァーグナー宛て手紙(1889年1月、44歳)


「私が人間であるというのは、一つの偏見です(=私は神もしくは準・神です)。・・・私は、インド人の間では仏陀で、ギリシャでは(酒神の)ディオニソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身・・・。最後にはなお私は(無神論の巨魁)ヴォルテールであったし、ナポレオンであった・・・。・・・私はまた(キリストと同じくor新しいキリストだから)十字架にかかってしまった」(注3、丸カッコ内中川)。

B 『悦ばしき知識』(1882年脱稿、37歳)  


「おれたちが神を殺したのだ・・・おれたちはみな神の殺害者だ。・・・神を埋葬する墓掘人たちのざわめきがまだ何も聞こえてこないか・・・神の腐る臭いがまだ何もしてこないか。…神は死んだ!神は死んだままだ!おれたちが神を殺したのだ!・・・(神を殺害する資格があるとされるために)おれたち自身(=ニーチェ自身)が神々にならなければならない・・・」(注4、丸カッコ内中川)。  

 ニーチェの主著『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883年執筆、39歳)とは、ニーチェが自分自身をゾロアスター教の開祖ツァラトゥストラ(ザラスシュトラ)に擬え、準・神として人間たちに語りかける形式の書である。つまり、『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ゾロアスター教の根本経典『アヴェスター』に対応させている。このような形式の書は、ニーチェが自分を神だと考えていない限り発想されないから、『ツァラトゥストラはかく語りき』それこそが、ニーチェが重度の精神分裂病者であることの証左となっている。本稿では論及を割愛するが、『ツァラトゥストラはかく語りき』を細部にわたって分析すると、分裂病の幻覚と妄想ばかりで満載の“狂気の書”なのが明確に明白。ニーチェ自身が、『ツァラトゥストラはかく語りき』を、ニーチェ自身を神とする新しい宗教の聖典だと妄想しているのは、『この人を見よ』において、次のように書いているから、異論はあるまい。


「私は『ツァラトゥストラはかく語りき』で、(キリスト教の聖書やイスラム教のコーランを越える)これまで人類に贈られた最大の贈り物をした。(人類の新しい宗教の教典となって、これから)何千年の未来へ響く声を持つこの書は、およそこの世にある最高の書…であるばかりでなく、真理のもっとも内奥の豊かさから生まれた最深の書であり、つるべを降ろせば必ず黄金と善意とがいっぱいに汲みあげられてくる無尽蔵の泉である」(注5、丸カッコ内中川)。

「梅毒による進行性麻痺」と「遺伝性分裂病」の、“ダブル精神分裂病”だったニーチェ

 ニーチェの精神障害に関して、少し古い書籍だが、宮城音弥『天才』は、こう分析している。ニーチェの精神障害は、外因性の「梅毒による進行性麻痺」とともに、(精神分裂病とは言えない)遺伝性(内因性)の「分裂質を土台とした偏執質」がある(注6)。後者の「分裂質を土台とした偏執質」については、他の専門医の多くは、「分裂質」ではなく「分裂病質」としており、そう訂正されるべきだろう。ニーチェは、精神分裂病Schizophreniaの妄想型paranoid type だからである。

 序なので、ニーチェが交友関係をもっていた、同時代のもう一人の重度の精神分裂病で有名な、スウェーデンの作家ストリンドベリ(備考)について、宮城音弥は被害妄想型の精神分裂病だとしている(注6)。ニーチェのストリンドベリ宛て手紙の一部を、以下に紹介する。ニーチェが、被害妄想と誇大妄想の精神分裂病の二症状を炸裂させているのがはっきりわかる。

(備考) アウグスト・ストリンドベリ(1849〜1912年)の文學作品には、『父』『令嬢ジュリー』『死の舞踏会』などの戯曲や小説『痴人の告白』『チャンダラ』『ゴシックの朝』『黒い旗』など多数。


「私の著作『この人を見よ』は、世界を支配する者の言葉が語られています(=神である私の福音の書です)。この本はドイツを全滅に至らしめるほどの反ドイツ的です。・・・(ドイツがこの書を差し押さえることから)わが身を守るために、私は最初の数冊を、発行以前に、宣戦布告の書面を添えてビスマルク侯と幼帝に送ることでしょう。・・・私は人類の歴史を二分してしまうほども十分に強力なものですから(=私ニーチェを境に、人類は、「キリストを神とする過去の人類史」から「ニーチェを神とする未来の人類史」に転換される)」(1888年12月8日付け、注7)。

 余談だが、本稿を書くに当り、ニーチェのストリンドベリへの手紙を久しぶりに読み直した時、西尾幹二の『正論』連載「戦争史観の転換」をふと思い出した。杜撰と嘘八百と間違いだらけの、西尾幹二の荒唐無稽な“妄想”歴史評論「戦争史観の転換」の実態は、法螺話・つくり話のお粗末雑文に過ぎないものだが、西尾幹二が自らを“「神」級の世界的歴史家”だと自認する狂気がない限り書けないものでもある。すなわち、「戦争史観の転換」は、西尾幹二がニーチェ同様な誇大妄想の精神分裂病を発病している証拠だと鑑定できる。

 もっと正確に言えば、西尾幹二は、十歳の少年期より誇大妄想の精神分裂病を発症していたから、同類のニーチェの作品に共振し、その翻訳家になった。ニーチェがストリンドベリに親近感を懐いたように、精神分裂病は同病者同士が群れることもその顕著な症状の一つ。

保守主義思想と極左思想の対決は、医学的に正常な哲人と精神分裂病者の対決

 ニーチェに関して、日本は異常と非常識の国である。英国でも米国でも、ニーチェをまともな哲学者とはせず、または害虫思想家としてニーチェを排斥するのが一般的。この事実は、ハイエクが、ニーチェを批判の対象にすら値しないとすることで端的に明らか。

 たとえば、保守主義者チェスタトンは、ニーチェの精神分裂病とその作品を次のように評している。これが英米での常識。これとは逆に、極左思想しかない日本では、ニーチェをさも一流哲学者であるかに持て囃す。日本ではニーチェに関して、度の過ぎた非常識が罷り通っている。まず、チェスタトンのニーチェ精神分裂病については、次のごとし。


「ニーチェには生まれながらの嘲笑の才能があったらしい。哄笑することはできなくても、冷笑することはできたのだ。ニーチェは晩年 脳軟化症に憑りつかれた・・・孤立した傲慢な思考は白痴(=精神分裂病のこと)に終わる。柔らかい心を持とうとはせぬ者は、ついには柔らかい脳(=脳梅毒の症状)を持つことに到りつく」(注8、カッコ内中川)。

(備考) 精神分裂病は、昔は「早発性痴呆」が医学界の公式病名。チェスタトンの時代、現在では精神薄弱児などを指す語彙「白痴」には、「精神分裂病患者」の意味もあった。

 次は、チェスタトンのニーチェ思想批評。これが英米における、ごく普通のニーチェ評。


「ニーチェは、(怖れを知らぬアリストテレスやカルヴィンやマルクスとは対極的で)自分の主張の意味するところを比喩の衣をはぎ取った素裸の言葉で定着し直視することができない。いつでも物理的な比喩に頼って問題を避けて通る…この点では気楽な二流詩人と同じことである。…ニーチェは明確な観念を恐ろしくて用いることができず、代わりに『上の人間』『超えた人間』などという。軽業師が登山家から借りてきた物理的な比喩である。ニーチェの実際は極めて臆病な思想家」(注8)。

 英米系保守主義が断固として排斥・排撃するルソー/フランス革命/マルクス/レーニン/ヒトラーにおいて、このヒトラーと同類のニーチェが排斥・排撃されるのは自明だが、実態は、排斥排撃以前のレベルで、無視されるのが通常だった。

 広義の英米系保守主義とは、バークやハイエクをはじめとして、人間の設計主義的な理性を排徐して人間行為の自然的な積み重ねで形成発展してきた「自生的秩序」を政治経済社会の根幹に据えるイデオロギーである。が、英米系保守主義者の間では、マイナーだが、ある特性が共通している。「精神分裂病の思想家/哲学者を徹底排除する」のを無意識の暗黙指針としている特性のこと。

 確かに、バークやハミルトンなど保守主義者には、一人として医学的に分裂質/分裂病質の者がいない。一方、デカルト/ホッブス/ルソーに始まる、彼らを含めマルクス/レーニンなどの全体主義者の多くは分裂病罹患者。ニーチェやヒトラーなど廃墟主義アナーキストは全員がそうだ。保守主義者がなす極左思想家批判は、医学的正常者が精神分裂病の思想家を排撃する構図になっている。

 この事実は、バークの『フランス革命の省察』やハイエクの『自由の条件』『法と立法と自由』を読むだけで、一目瞭然に確認できる。本ブログの読者には、以上の医学的視点において、もう一度『フランス革命の省察』『法と立法と自由』を読んでみたらどうだろう。

第二節 ニーチェ「反・歴史/反・真理(真実)」宗教の狂信徒・西尾幹二

 ところで、日本では、ニーチェ翻訳家でドイツ語屋の西尾幹二について、「ニーチェの専門家」だとの先入観的な誤解が一般的である。西尾幹二の主著『ニーチェ』を読んでみるがいい。どこにもニーチェ哲学やその思想について語っていない。IQが度外れに低い“唯の売文専業評論家”西尾幹二が、哲学を論じることは、どだい無理な話。西尾の大著『ニーチェ』は、『評伝ニーチェ』と改題すべき“ニーチェ伝記”になり下がっている。

“歴史偽造の天才”フーコーも、“矮小な歴史偽造屋”西尾幹二も、ニーチェ教徒

 ニーチェ哲学について論文一つ書けない西尾幹二だが、ニーチェから絶大に影響を受けている。それ以上に西尾幹二は、ニーチェの狂気に深く共振している。「西尾幹二は、ニーチェ崇拝者だ」と見做してよかろう。そのニーチェ崇拝者ぶりは、嘘と歪曲と改竄ばかりの、西尾幹二のトンデモ歴史評論において顕著に表れている。

 ニーチェは“歴史をもたない人間”“真理・真実が一掃され不在となった国家社会”を夢想・妄想した狂人だったし、西尾幹二も同様で、『GHQ焚書図書開封』『戦争史観の転換』(『正論』連載中)ではニーチェ流に、意図的に歴史改竄を旨として執筆している。『国民の歴史』も、この範疇に入る。これらの作品群では、核心部分“歴史の真実”が欠如している。というより、それを剥奪・破壊している。

 歴史改竄を是認し奨励した哲学的思想家はルソーが嚆矢だが、歴史と真理・真実を徹底排撃したニーチェの作品群が、この歴史偽造や反・真実をドグマ化して、後世に決定的な影響を与えた。

 本ブログの読者もそろそろニーチェの言説引用には飽きてきた頃だろうから、具体的な引用はここでやめる。代わりに、「歴史と真理・真実を徹底排撃した」ニーチェ作品群──『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『偶像の黄昏』『権力への意思』の四著──を是非とも読んでほしい。このニーチェ四著に刺激されて、歴史学における“歴史”とは真逆と言える、歴史の真実を排除するに効果覿面の猥雑な歴史事実ばかりを矢鱈目鱈に集めて、近代以降の科学的知と学問一般を、爆撃機から投下する大量の焼夷弾の猛爆撃で焼き尽くしたのがフーコー。

 フーコーの『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史』は、歴史の真実の追求など、一切していない。むしろ、歴史の真実を遠ざけ隠蔽すべく、末梢的で信憑性ゼロの、史実とは言えない「歴史事実」を大量に蒐集して、核心をなす最重要な歴史真実を徹底的に排除し破壊する目的あらわに執筆したもの。“歴史を持たない人間”“真実を喪失した人間”“正常な知を剥奪された人間”(=非人間)に、人類を改造して、人類もろとも人類が構築してきた文明社会を消滅or廃滅するのが、人間死滅教/文明国家廃滅教の開祖ニーチェの嫡弟子フーコーが目指したものであった。フーコーの著作に代表される“新型の極左カルト宗教”思想を、一般に、「ポスト・モダン(反・近代)」思想という。

 ミシェル・フーコーに比すれば、歴史偽造においては同種の犯罪的著作を垂れ流す西尾幹二の作品の、何と哀れに矮小で貧弱すぎることか。ここでいう西尾作品とは、『GHQ焚書図書開封』『戦争史観の転換』『国民の歴史』のこと。ニーチェ哲学を自家薬籠中の物にしたIQ抜群の分裂病狂人フーコーと比較されては、感性でニーチェ思想に洗脳され共振するだけの“醜悪な猿レベルIQ”の分裂病狂人・西尾幹二だから、当然か。

 ところで今、歴史偽造における西尾幹二の精神分裂病を論じるに、紙幅が足りないことに気が付いた。恐縮だが本稿の方針を変更させて頂き、西尾幹二の最近の雑文を俎上に載せることにする。

脳から日本が消えたニーチェ的“無国家”西尾幹二は、地球放浪型?空中浮遊型?  

 そう思って探したら、近頃はめっきり寡作になった西尾幹二の雑文は、『月刊Hanada』に掲載された意味不明エセー「世界の《韓国化》とトランプの逆襲」(注9)と、『産経新聞』紙上の「世界に渦巻く《恨》の不気味さ」(注10)しかなかった。一読して、西尾幹二の脳内がいつの間にか干乾びて、ぼろぼろと崩れるスポンジになっていたのには、心底から驚愕した。 

(備考) 『産経新聞』紙上の短いエセーは、『月刊Hanada』論稿の要約版だから、ここでは敢えて論及しない。

 西尾の奇々怪々な詭言「世界は《韓国化》している」と聞いて、意味不明と感じたなら正常だが、「そうなのか」と思った者は、無学・無知・無慮ぶりにおける朝鮮人化していると猛省されたい。「ルサンチマン(怨恨)」は、18世紀後半以降に世界に広く拡散・蔓延した(ルソー/フランス革命発祥の)“新奇な創造イデオロギー”の土台となった「感情」のこととするのが思想史である。「朝鮮文化から伝播した」など、摩り替えのこじつけ。

 なぜなら、「ルサンチマン 怨恨」と「ジェラシー 嫉妬」は、ルソー『人間不平等起源論』とそれに基づくフランス革命が、それまで人類は“道徳に悖る”としてきた、そんな恥ずべき非道徳の感情を暴発しても「人間の権利」だと正当化し解放し、さらに、ナポレオンの欧州制覇戦争を通じて世界に伝播した。朝鮮文化から伝播したのではない。また、これら卑しい非道徳感情の、道徳律では否定されることからの解放は、十八世紀後半に起きたから、従軍慰安婦問題が日韓の棘となった「1992年以降」より二百年以上も昔のもの。

 要は、時間の経過や地理空間が認識できない精神分裂病が重い西尾幹二には、「1755〜1815年」が「1992〜2016年」となる。「フランス→ヨーロッパ→世界」が「韓国→世界」に置き換わる。

 序に、ルソー/フランス革命で「人間の権利」となった「王侯貴族に対する庶民のルサンチマン」を、マルクスは「ブルジョアジーに対するプロレタリアートのルサンチマン」に改変した。このマルクス主義の爆発的蔓延で、二十世紀の地球は労働運動や共産革命が席巻する血塗られたものとなった。

 河上肇の弟子で教条的コミュニスト近衛文麿がおっぱじめた大東亜戦争とは、マルクス主義を吸引した日本が、「持てる富裕の英米に対する、持たざる貧しき日本のルサンチマン」の暴発行動であった。西尾幹二とは、このアジア共産革命を目指した大東亜戦争の狂信的な崇拝者だから、対英米ルサンチマンを体現することに人生を賭けた“ルサンチマンのお化け”の何者でもない。

 そればかりか、“醜悪な猿め!”と、二年間の青年期ドイツ滞在中に罵られた復讐なのか、西尾幹二は強度な“白人へのルサンチマン”に生きる人種差別主義者である。“21世紀初頭日本におけるルサンチマン暴発常習の巨頭”西尾幹二が、ルサンチマンを批判するとは笑止も甚だしい。

 体全部がルサンチマンで出来上がっている西尾幹二のルサンチマン批判は、重症の麻薬中毒患者の麻薬批判のようなものだし、他者と自己の間に境界がなく自己が他者に憑りついて同一化する精神分裂病者特有の思考でもある。なお、ルサンチマン狂の西尾幹二が、朝日新聞を指して「ルサンチマンの塊」(60頁)とは、「眼糞、鼻糞を嗤う」の類で、呆れて物が言えない。

対英米ルサンチマンが日本の対外政策であるべきと、歴史を改竄しまくる西尾幹二

 上記の西尾幹二の雑誌論稿は、「ルサンチマン」をキーワードにして、韓国批判と米国批判とドイツ国批判をしている。だが、異様なことに、どこにも日本国への言及が一文字もない。日本擁護のリットン調査団を逆さに罵倒し“日英同盟の代替”国際連盟から脱退した1932〜33年以降、「ルサンチマン」で反英・反米闘争にのみ明け暮れた過去八十五年間にも及ぶ、日本人の対英米ルサンチマンを批判しないどころか言及すらしないのは、西尾幹二に、日本国が存在しないからである。

 西尾幹二の視点も思考も、日本国から浮遊して地球を放浪している。国籍がなかったニーチェの思考ではドイツ国が不在だったし、本人も自認しているように、ニーチェは過激な「反ドイツ」で自国憎悪主義が渦巻いていた。ニーチェは、生まれた祖国をヘイトする、地球放浪/空中遊泳型のアナーキストだった。西尾幹二もまた、ニーチェの忠実な信徒だから、日本をヘイトし、日本国がその脳裏に存在しないのである。  

 西尾幹二は、1960年の日本の安保騒動を思い出させてくれた、韓国の朴槿恵大統領を弾劾するソウルのデモを、次の様に「紅蓮の炎に包んだ」などと大仰しく酷評する。だが、首相の岸信介を退陣に追い込んだ1960年の日本のデモと比較をすれば、韓国の今般の2016年末デモは「大規模」とは程遠い。おとなしく可愛い感じが濃い「小〜中規模」デモだった。蝋燭の灯はあったが、紅蓮の炎などどこにもなかった。   


「朴槿恵を巡る国家と国民を紅蓮の炎に包んだ、2016年末の凄まじい政変は、この国の国民ひとりびとりがルサンチマンの虜になり、しかも韓国と言う国家も、国際世界の中でルサンチマンの自家中毒的情念を持て余し、それに振り回されている半近代国家である」

「自分の力で独立国家をかち得ていない韓国」(60〜1頁、ゴチックは誇大表現以上の事実捏造)。

 そもそも、朴大統領の金銭不正や国政情報の民間人への漏洩は、法治国家なら退陣が責任の取り方としては正しい。盗聴のウォーターゲート事件でニクソン米国大統領は辞任した。退陣しないから、それ相当のデモが起きただけ。法治主義の退陣要求が、どうして「ルサンチマン」なのか。「ルサンチマン」とは全く無関係な話。

 学問的知見が貧困と言うより限りなくゼロである西尾幹二は、朝鮮民族文化の「恨」を呉善花から聞き、翻訳で覚えたニーチェのキーワードの一つ「ルサンチマン」に短絡的に結び付け、さも何か高邁な学的化粧をした積りでいる。従軍慰安婦「少女像」問題には「ルサンチマン」が関係しているが、朴大統領退陣要求デモは、法的正義や政治家の道義的責任問題の追及が基幹になっており、「ルサンチマン」のふわふわ概念で論じてはならない。

朝鮮人以下に劣化した日本人、韓国以下の無能国家に成り下がった日本

 それ以上に西尾幹二には、病的な思考の空洞化(脳内スポンジ化)が進んでいる。自国である日本の外交能力が韓国の百分の一以下の小学生レベルとなった由々しい問題について、僅かにも脳裏をかすめないからだ。西尾幹二の分裂病と不可分の自国不在病は重篤になってきている。

 退陣を迫られる最低大統領・朴槿恵に比してすら、無能を極める日本国の首相・安倍晋三は外交交渉で全く歯が立たず完敗したほど、日本は“世界最低の国家”というより、ニーチェの言葉を借用すれば、“国家もどきの烏合の畜群”になっている。なのに、“無国籍人”だからだろう、西尾の思考には、自国のこの深刻な問題が全く存在しない。

 2015年12月28日、岸田文雄・外務大臣を通じ、安倍晋三が朴大統領に同意した「従軍慰安婦問題」の最終合意談話は、河野洋平・官房長官談話(1993年夏)をそのまま踏襲する、「反日」もここまでひどいものは滅多にない、真赤な嘘歴史(偽造歴史)を世界広くに頒布宣伝するものだった。しかも、A嘘歴史に加え、さらに韓国に、B無実の日本国に賠償させる冤罪捏造および、C現実遊離の妄想というボーナスまで差し出していた(注11)。

 “スーパーお馬鹿”の安倍晋三は、逆効果いちじるしい、韓国に少女像を世界中に建立してよい口実を与える、屈辱的な対韓全面降伏の“嘘歴史+10億円”を提供した。安倍晋三はIQが欠如するから、そうすれば「韓国のヒステリックな日本非難が消え、大使館前の少女像が撤去され、自分の政治家としての名声が残る」と考えたのである。これほど安倍晋三の知的能力は低く、「小学校三年レベル」が実態である。

 だが日本では、従軍慰安婦「嘘歴史」問題で逆走外交を行い日本国の名誉を永遠に毀損した安倍晋三に対する退陣要求のデモは起きていない。朴槿恵に対して退陣要求デモが起きる法治主義が活発な韓国と、安倍晋三に対して退陣要求運動すら起きない、法治主義も正義も逼塞した日本と、何れが健全な国家と言えるのか。

 日本人の質的劣化はひどく、朝鮮人より人材がはるかに劣等化し、世界に冠たる馬鹿民族に成り下がった。当然、そのような民族からなる日本国が、韓国以下の劣等国家になるのは必然。外交で、日本は韓国にすら太刀打ちできないのは、当然なこと。そんな日本だから、吉本興業の滑舌芸人レベルの“スーパーお馬鹿”が、四年以上も総理の座に居続けられる。日本人の頭がアヒルや豚並みの畜群になったから、安倍晋三の“スーパーお馬鹿”が気にならないし気付かない。  

 西尾幹二は、「自分の力で独立国家をかち得ていない韓国」(60〜1頁)と述べ、韓国に対し、もう一つの中傷誹謗をなしている。国防に関し米国に大きく依存する実態では、韓国より日本の方がはるかに度外れにひどい。韓国の対北朝鮮の軍事力と、日本の対ロシアの軍事力とを比較すれば、この事実は一目瞭然。西尾幹二は、他国や他人に罵詈讒謗を加えることの常習性で、ニーチェの生まれ代わり。自国不在や「自国がどうなろうと俺の知った事か」の、自国をヘイトする感情においても、西尾幹二はニーチェのクローンに他ならない。

西尾幹二を刑法・名誉棄損罪で懲役三年に処す法治主義を捨てた“腐敗国家”日本

 稿「“不敬の罪人”西尾幹二と加地伸行は《正論》メンバー」でも指摘したが、ニーチェ系アナーキスト西尾幹二は、クロポトキン系アナーキスト幸徳秋水と同じ天皇制廃止主義者で、北朝鮮人アナーキスト花田紀凱とともに現代日本の急先鋒の一人。彼の著書『皇太子さまへのご忠言』は、その他のエセーを含め、刑法の名誉毀損罪を犯したことは明らか。しかし安倍晋三を始め、日本の首相は西尾幹二を刑事告訴しない。日本は、法治主義の放棄において、韓国にも劣る低級国家である。韓国は、朴槿恵大統領の金権腐敗を、法律に従い粛々と裁いているからだ。

 また、不敬の狂書『皇太子さまへのご忠言』を放置する安倍晋三を糾弾する声がない現実もまた、日本国が国家として末期症状を呈していることの証左だろう。

北朝鮮人が編集長の、“日本憎悪”を日の丸で包み隠す北朝鮮系『月刊Hanada』

 日本人の質は、1972年に田中角栄が首相になった頃から、一気に劣化し始めた。この劣化はそれ以降、留まるところを知らない。日本人劣化は、極左支配のマスメディアと教育界の洗脳による制度悪化の成果だが、誤解しないでほしいことがある。前者の「極左支配のマスメディア」に、朝日新聞やNHK/TBSとともに、産経新聞や『月刊Hanada』が含まれているのであって、朝日新聞やNHK/TBSと対決的に存在する反・左翼の保守系メディア媒体などと誤解すべきではない。

 産経新聞や『月刊Hanada』は、共産党やコミュニストが編集に少ないことで、朝日新聞やNHKなどと多少の色違いをみせる。だが、つぶさに精査すると、後者の「真赤」に比して前者は「赤黒 アナボル」であるだけで、差異はほとんど存在しない。後者は日の丸を嫌悪するが、前者は日の丸を擬装に悪用する。だが、双方とも日の丸を冒涜することで一致している。

 前者は日本の国防力の強化や実体経済の発展の政策については決して報道しないよう/語らないよう自己検閲して、日本国の存続を憎悪し衰退させようとする。結果から見れば、国防反対を声高に叫ぶ後者と全く同一となる。

 なぜこうなるのか。理由は簡単。産経新聞も『月刊Hanada』も、その編集は、北朝鮮人が中核を成しているからだ。例えば、『月刊Hanada』は、表1から明白なように、北朝鮮人アナーキストが編集の全権を握っている。

表1;アナーキストの三類型(血統が北朝鮮人はゴチック)

備考;ヘルダーリン/ニーチェ/ヒトラー系を「プレ・ポストモダン・アナ―キスト」に、1968年以降のフーコー/ドゥルーズ/デリダ/リオタール/ボードリアール/ラカン系を「ポストモダン・アナーキスト」に分類する場合がある。 なお、「在日」北朝鮮人のほとんどは、アナーキストではなく、北朝鮮労働党(共産党)に所属するコミュニスト。その一部を注12に掲載。

 話を戻せば、産経新聞が民族系論客を活用・利用するのは、彼らを表向きラベルにしておけば、実際には『週刊金曜日』や朝鮮総連と通じ合っている、本当の産経新聞の正体がバレにくくなるからだ。産経新聞が民族系論客を擬装用の上着に活用しても決して保守主義者を利用しない理由は、二つ。

 第一は、保守主義者は、志操堅固な上に圧倒的に教養が高く、イデオロギー擬装を直ちに見破るからである。第二は、保守主義者は祖国日本の真正の愛国者だから、決して“「在日」北朝鮮人の走狗”にはならないからである。具体的な事例でいえば西尾幹二のように、北朝鮮人アナーキスト花田紀凱に媚びへつらう“準・北朝鮮人”になるようなことを、保守主義者は断固として拒絶するからである。 紙幅が限界。この問題、別の機会にじっくり論及することにしたい。  

(2017年1月25日記)

1、中川八洋『福田和也と魔の思想』、清流出版。

2、ポスト・モダン思想がニーチェを主源流とすることについては多くの論文がある。差し当たり、フーコー著「ニーチェ、フロイト、マルクス」「ニーチェ、系譜学、歴史」『第二次エピステーメー創刊0号』(朝日出版社、1984年)、ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(河出文庫)などを読んでみるとよい。  

3、『ニーチェ書簡集U』(ニーチェ全集 別巻2)、ちくま学芸文庫、282〜3頁。

4、『悦ばしき知識』(ニーチェ全集8)、ちくま学芸文庫、219〜221頁。  

5、ニーチェ『この人を見よ』、岩波文庫、11頁。  

6、宮城音弥『天才』、岩波新書、135〜8頁、146〜52頁。

7、上掲『ニーチェ書簡集U』、249〜50頁。  

8、『G.K.チェスタトン著作集』第一巻、春秋社、66頁、188頁。  

9、『月刊Hanada』2017年2月号(2016年11月26日発売)。引用頁は、本文に記載。

10、『産経新聞』2016年12月19日付け。  

11、 A嘘歴史;「慰安婦問題は当時の軍の関与の下に、多数の(コリアン)女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」、

B無実の日本国に賠償させる冤罪捏造;「かかる観点から、日本政府は責任を痛感している」「安倍内閣総理大臣は、慰安婦として幾多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負わされたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを表明する」、

C現実遊離の妄想;「今回の発表により、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認」。

12、略

http://nakagawayatsuhiro.com/?p=813

7. 中川隆[-8453] koaQ7Jey 2019年9月12日 02:16:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4331] 報告
34名無しさん@3周年2019/09/11(水) 20:57:30.25ID:PV6gsyw2

西尾幹二が「GHQ焚書」とかいうコーナーで戦争を記録した本の中から
日本軍の微笑ましい話とか、東南アジアの社会インフラを整備した話とか
そういう話のみを抜き出して紹介するということをやっていた
それを本にまとめることもしていたようだ
負の部分を消し去る非常に悪質な行為だ

そういうことをしていると国は良い方向には進まなくなる
ch桜は軍産の一部だから国の将来なんかどうでもいいということだ

https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/seiji/1568094961/l50

8. 中川隆[-11851] koaQ7Jey 2020年8月15日 09:26:10 : XAcXkcJt3k : TjQybE9UVUxDQy4=[11] 報告
2020年08月14日
高山正之は日本版朝鮮人 / 劣等感に苛まれた日本人
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68823847.html

悔しさが原動力となる反米感情
Dutch rule of Indonesia 1African pygmee 1

(左 : インドネシアを支配していたオランダ人 / 右 : アフリカのピグミー族を紹介する西歐白人)

日本人はカルト宗教の信者となっているのか、毎年毎年、飽きもせず八月になると「反戦・平和」の念仏を唱え、大東亜戦争でアジアに迷惑をかけたと反省している。しかし、保守派の一般人と評論家は左翼の自虐史観に反撥し、「そんなことはない ! 日本は侵掠国家でも犯罪国家でもないんだ ! 」と反論する。確かに、軍の上層部は愚かだったけど、末端の兵卒は愛国心に燃え、死に物狂いで戦っていたから、「戦争犯罪人」と言われれば腹が立つ。そこで、保守派の言論人は大東亜戦争の一面を評価し、「日本は対米戦争で負けたけど、我々が戦ったことでアジアの植民地は西歐列強の軛(くびき)から解放され、戦後、続々と独立できたのだ」と主張し始めた。

  こうした大東亜戦争肯定論は林房雄の著書で囁かれていたが、復活したのは渡部昇一先生の功績が大きい。昭和の末から平成にかけて、渡部先生の『日本史から見た日本人 / 昭和編』や『かくて昭和史は甦る』は大ヒット。左翼史観でガッカリしていた若い世代は、渡部先生の著作を貪るように読んでいた。獨協大学の故・中村粲先生と同じく、渡部先生が大東亜戦争の一面を評価したのは、それまでの歴史家があまりにも我が国の軍隊を侮辱していたからで、日本の敗戦を誤魔化すためではない。日本国民が大東亜戦争の本質を知る上で、我々の目を曇らせたのは、深田祐介が文藝春秋社から出した『黎明の世紀』(1991年)だ。深田氏はアジア諸国の指導者を東京に集めた昭和18年の「大東亜会議」を高く評価していた。しかし、この国際会議は対米戦争が始まってから招集されたもので、当初からある戦争目的ではない。むしろ、亡国政策を正当化するためのカモフラージュと考えた方が適切である。

  深田氏は大東亜会議は傀儡政権の代表を集めた茶番劇に非ず、と述べていたが、東條英機首相の本音を覗いてみると、言行不一致に思えてくる。例えば、東條は日本の影響下に入るアジア諸国を“内面指導”で発展させ、全体を“満洲化”しようと思っていたのだ。(『黎明の世紀』, p79-81.参照。) 昭和17年には「大東亜省」の設置を巡り、東條首相と東郷茂徳外相の間で大論争が起こり、東郷外相はこうした措置を日本からの内政干渉と見なし、相手国に不快感を与えかねないと危惧していた。なるほど、我が国はインドやタイ、ビルマ、フィリピンなどを西歐列強の植民地支配から解放しようと考えたのであろうが、その「善意」の下には陸軍による管理体制が潜んでいた。現在の高校生でも呆れてしまうが、小磯内閣は昭和20年3月になっても、まだ嘘くさい「悠久の大義」とやらを信じ、最高戦争指導会議で「第二回大東亜会議を四月中旬に行う」と考えていたのだ。昭和20年3月といえば、日本各地で庶民が空爆の被害に苦しみ、焼け野原で唖然としていた時期じゃないか。それなのに、「第二回の会議を開催」なんて、もうアホ丸出しである。

  それはともかく、役所が指導する行政と言えば、昭和時代、すなわち「護送船団方式」全盛時代を知っている世代なら、「厭だねぇ〜」と解るはずだ。特に、銀行員ならピンとくるんじゃないか。大蔵省は何の法的拘束力も無い「通達」を銀行に送って、“それとなく”各銀行を動かしていた。令和の大学生なら、「こんな紙切れ、ポイっと捨てちゃえば !」と言ってしまうが、お役人様の“さじ加減”怯えていた銀行員に、そんなマネは出来ない。天皇陛下からの「綸旨」みたいに、恭しく頂戴するのが普通だった。軍官僚の東條首相にしたら、日本は家父長で、アジア諸国は養子か後輩みたいなものだから、「内面指導」なんか当たり前。今だって財務官僚は、国税職員を引き連れて民間企業を脅しているんだから。

  まぁ、深田氏の肯定論などはまだ無邪気なもので、悪質なのは「保守派」を装う西尾幹二の方だ。『正論』や『諸君 !』、『Voice』で活躍していた頃から、西尾氏は歐米諸国の帝国主義を糾弾し、白人によるアジア支配を呪っていた。西尾氏はニーチェの研究家を気取っていたが、中央公論社から出した主著『ニーチェ』は哲学書ではなく、単なる評伝といった類いの代物で、本棚の奥に隠れている印刷物に過ぎない。筆者が前々から不思議だったのは、あれほど白人を非難する西尾氏が、一体どんな願望でドイツ留学を希望し、現地の教授や学生らと交流していたのか、である。というのも、筆者は学生時代、渡部昇一先生が出版した『ドイツ留学記』(上/下巻)を購入し、夢中になって読んだことがある。先生が経験したドイツでの生活や現地人との交流はとても魅力的だった。

Nishio Kanji 1(左 / 西尾幹二)

  ところが、西尾氏は自分のドイツ留学の体験をほとんど述べず、明かしたのは、せいぜいバイエルン州立図書館で古い書物や雑誌をコピーしたというエピソードくらい。約二年間ほど留学していたのに、この白人嫌いの大学教授は留学先の大学名も公表せず、友人や地元民との接触すら話したことは無かった。西尾氏はドイツの大学に留学してもゲルマン人とは交際せず、話し相手はもっぱらトルコ人やエジプト人の学生とか、ギリシア系やポーランド系の帰化人ばかりだったのか? ドイツの哲学を専攻し、ドイツ人教授のもとで勉強したのであれば、少しくらい当時の想い出とか、ハプニングや失敗談などをチャンネル桜で披露してもいいんじゃないか。渡部先生はテレビの対談番組や雑誌の座談会などでも、恩師との交流や貴族の館に招かれた話などを紹介していたぞ。西尾氏もチャンネル桜の対談番組に出演し、充分な時間があったはずだが、熱心に語るのは白人による虐待とか人種差別ばかりで、留学時代の楽しかったエピソードや、ドイツ人と交わした会話、食事や自宅に招かれた時の体験談などは皆無。まさか、「独り部屋に籠もって、ずっと勉強」という事はないだろう。

  今年、小池百合子は前々から疑われていたカイロ大学時代を暴露され、『女帝』を呼んだ日本人の多くが唖然とした。小池都知事とその父、勇二郎の面倒を見た朝堂院大覚(松浦良右)によれば、小池百合子のアラビア語は素人以下で、とても通訳になる程の腕じゃなかったそうだ。でも、竹村健一のアシスタントをしていた頃は、「カイロ大学を首席で卒業した才女」という触れ込みで、周りの関係者は語学の達人と思っていた。一応、小池百合子はアラビア語を話せるが、それは庶民のお喋り程度。とても学術論文を書ける能力じゃない。では、西尾幹二はどのくらいドイツ語が達者で、ゲルマン系のドイツ人と“どんな”交友関係を持っていたのか?

  語学能力はともかく、西尾氏は心の底から西歐の白人が嫌いなようだ。彼はアメリカ人の人種差別には殊のほか敏感で、人種差別と闘った日本を肯定し、大東亜戦争の大義は正しかったと思っている。ベストセラーになった『国民の歴史』でもアメリカ白人を非難し、日系移民に対する排日法を槍玉に挙げていたが、この吊し上げは一方的である。そもそも、なぜ日本人は「出稼ぎ先」としてアメリカを選んだのか? 明治の日本人だって、アメリカ合衆国が黒人奴隷を持ち、有色人種への差別に満ちていると知っていたはずだ。それなのに、自分から進んで渡米しようなんて馬鹿げている。でも、当時の日本人は精神異常者ではない。例えば、もし、家政婦として働く中年女性が、高い給料を貰えるからといって暴力団組長の自宅を選んだから、我々はどう思うのか? 一部の日本人は「愚かなバアさんだ」とせせら笑うが、別の人々は「きっと、その組長は筋道を通す昔気質の任侠なのかも・・・」と思うだろう。ただし、この家政婦が怖い組員と接触して怖い目に遭ったり、拳銃の流れ弾に当たっても、我々は「自業自得だ」と言い放ち、さほど同情することはない。世の中には高い給料だが危険な職業と安い給料だが安全な仕事がある。選ぶのは本人次第。米国の人種差別が厭なら、支那人が大勢いる満洲へ行けばいいじゃないか。

  西尾氏とは違い、出稼ぎ人となった日系1世は、アメリカを素晴らしい国と考え、希望を抱いていた。彼らの中には、日本での下らない仕事に愛想を尽かし、アメリカで一旗揚げようと考える者もいたらしい。西尾幹二や高山正之に扇動された日本人は、アメリカを差別大国と侮蔑し、白人天下の国と罵っていたが、アメリカへ渡って未来を開拓しようと考えていた日系1世は、彼らなりの夢や志(こころざし)を持っていた。例えば、「アイ・ミヤザキ」という女性は、女学校を卒業し、小学校の教師になったが、結婚相手には巡査のような下っ端じゃなく、軍の将校とか医者との結婚を望んでいたそうだ。彼女はこう述べていた。

  夫について私の理想は大変高かったので、日本では希望がかなえられず、アメリカに行くことを決心しました。自由で、大きな国に行き、私が助け、一緒に働くことのできる連れ合いを見つけたかったのです。(アイリーン・スナダ・サラソーン編 『The一世 パイオニアの肖像』 南条俊二 訳、読売新聞社、1991年p.48.)

  「タカエ(高枝)・ワシズ」という女性は、九人兄弟の貧しい農家に生まれ、畑で母や叔母の手伝いをしていたそうだ。彼女は渡米の理由をこう語っている。

  私の村からは、たくさんの人がアメリカに渡りました。私は村で粗末な扱いを受けたので、村が嫌いで、村を出たいと思っていました。(上掲書 p.51.)

  もし、アメリカが西尾氏の言う通り、差別と虐殺に満ちた国なら、どうして当時の日本人は、自前で、すなわち自分の貯金をはたいて、積極的に渡航したのか? 当時の日本人はいくら地元が嫌いでも、おぞましいアジア大陸に移住しようとは考えず、白人が主人となっているアメリカを選んだ。もちろん、アメリカが白人の国で、黒人とアジア人を侮蔑する差別社会であることは承知していた。が、そんなのは現状を見れば我慢できる些細な事だ。快適な教室で歴史の授業を受ける現代人には、身分格差が残り、貧乏な状態を耐え忍んでいた祖先を理解できない。高山氏のファンには納得できないだろうが、多くの出稼ぎ人は胸を弾ませる移民であった。西尾氏や高山氏の追随者は、米国の排日移民法を批判するが、元々は定住者に心変わりをした日本人の方が悪い。もし、帰国を念頭に置いた出稼ぎ人のままであったら、それほどの問題にはならなかったはずだ。確かに、戦争中は様々な嫌がらせを受けたけど、基本的に彼らはアメリカが大好きで、所帯を持って骨を埋める覚悟であった。実際、強制収容所から解放されても帰国せず、米国に留まった人も多いから、評論家の意見はともかく、アメリカ人は大したものだ。実際の生活を営む日系人は、悪い白人ばかりじゃなく「良い白人」もいると知っていたのだろう。一方、朝鮮半島に住んでいた内地人(日本人)は、敗戦後、自分の財産すら顧みず、さっさと日本に戻ってきた。やはり、肌で知る朝鮮人とは一緒に暮らしたくはない。

Takayama 001(左 / 高山正之 )
  西尾幹二と何となく似ているのは、「保守派」言論人の高山正之だ。筆者は高山氏のコラムに概ね賛成するが、彼の西歐批判には賛成できないところがある。なぜなら、彼は日本の国益よりも、個人的な感情を優先して歴史や政治を語っているからだ。高山氏は日本軍がインドシナやビルマに攻め込んだ日本軍を支持するようなコラムを書いているが、根本的に「南進論」は破滅への序曲であり、日本を敗戦革命に向かわせるための策略であった。ソ連を守りたい近衛文麿と昭和研究会の悪党は、心の祖国を攻撃する「北進論」を何としても阻止したく、必死で「南進論」を論じていた。もし、日本が北進を選択したら、ソ連はドイツ軍と日本軍との挟み撃ちになって敗北だ。モスクワのスターリンにしたら悪夢である。だから、日本の赤色分子を焚きつけるしかない。日本が英米仏蘭と激突すればシメたもの。石油資源を確保するためとか、アジア解放などは南方へ舵を切らせるための口実に過ぎない。

  八紘一宇とか五族協和などを叫びながら、西歐列強の植民地主義を批判するアジア主義者というのは、白人への嫉妬心や劣等感に苛まれる連中だから、どうしても国益主義者ではなく、怨念の塊になりやすい。共産主義にかぶれた日本人左翼は、ロシア人にとったら「便利な馬鹿」に他ならず、「南進論」の推進役には適任である。現在の日本人もそうだが、白人を批判する者ほど実は白人にベタ惚れで、片思いの白人からフラれると激怒し、ストーカーのように纏わりついたり、復讐心ゆえの放火魔になったりする。例えば、今でも我々はオーストラリアの白濠主義に目くじらを立てるが、あの大陸に住む国民が白人ばかりで何が悪いのか? 日本人は日本列島を大切にすべきで、日本を捨てて濠洲に移り住む奴の立場なんかはどうでもいい。皇室への忠誠心を棄てて外国に忠誠を尽くす日本人なんか不届き千万。何で庇う義理があるのか? それよりも、我々は不評の白濠主義を支持し、濠洲のイギリス人を味方につけた方がいい。そうすれば、ソ連と戦う時に背後が安心だし、英国との関係だって良くなる。

  だいたい、アジア人でもない日本人が、どうして有益な歐米人を敵に回し、情けないアジア人の“盟主”になろうとするのか? 個人の交友関係と同じで、親しくすべきは裕福で上品な人であり、アカンタレの下層民じゃない。歐米人と友好的な関係を築けば、最新の科学技術を見せてもらうことが出来るし、将来のどこかで役に立つ貴重な情報(intelligence)を手に入れる機会も増えてくる。もし、軍人や商人がヨーロッパ貴族と親しくなれば、様々な情報を集めることができるので、外政の裏取引や軍事バランスにおいて日本が有利な立場を占めることも出来る。日本の諜報員がもたらす些細な情報で、日本兵が救われることもあるし、敵国の裏をかくことさえ可能となるのだ。しかし、歐米諸国と対立すれば、日本へ入ってくる諜報は極端に少なくなり、それと比例して政府の判断にもミスが多くなる。保守派国民は、恨みを晴らす事と国益を優先する事のどちらを重要と思っているのか?

  高山氏は大東亜戦争中、日本軍が東南アジアで君臨していたフランス人やオランダ人、イギリス人を蹴散らした、と称讃しているが、こんなのは「強盗」を「正義」の名目で正当化する詭弁にすぎない。西歐人に恨みを抱く高山氏は、日本からの恩恵を受けながら日本人を恨む朝鮮人とソックリだ。この元産経記者はビルマやインドを支配するイギリス人を日本が成敗したと歓喜し、積年の怨みが晴れたように清々しく思っている。彼は『白い人が仕掛けた黒い罠』という著作の中で、ヤンゴン大学のタン・タット教授に言及し、「神のごとく振る舞った英国人が青ざめた」というタン教授の言葉を紹介していたが、日本の敵対行動は日本の国益になっていたのか?

  保守派の日本人は高山氏と同じく、「我が軍の将兵は、オランダ人やフランス人といった傲慢な白人を打ち破り、アジアの民をその鎖から解放したんだ !」と喜んでいる。しかし、アジア人というのは日本人が命を懸けて助けてやるような人間じゃない。日本人は“ちゃんとした”教育を与え、それなりに豊かになれば、日本のように繁栄し、独立国になれると思っていた。しかし、アジアの民は昔から隷属根性の持ち主で、強い者に巻かれる方を選ぶ。日本軍が騎虎の勢いならば尊敬するが、その形勢に翳りが見えると、掌を返すように元の「御主人様」に靡こうとする。

  高山氏は後にインドネシアの大統領となるスカルノを例に取り、彼の背信を挙げていた。インドネシアの独立記念塔には、地下ホールがあり、その中には歴史の展示場があったそうだが、オランダ人による強制栽培の話や残酷なオランダ人農園主の記述は無かったという。代わりに、恩人の日本軍に対する悪口があり、「オランダ軍が降伏すると、日本軍はインドネシアの資源や労働力を搾取した」と書いてあったそうだ。(高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』 ワック出版、2011年、p.30.) もっと情けないのは、日本人の悪口を言いふらして「良心派」を演じる反日分子がいた事だ。東アジア研究を専攻する早稲田大学の後藤乾一(ごとう・けんいち)教授は、ウンザリするほど酷かった。この早大教授によれば、「日本軍はスマトラのブキティンギで村人に防空壕を掘らせ、完成後に底なし穴へ三千人全員を生き埋めにした」らしい。(上掲書 p.28) 俄に信じられないが、実際にあった本当の話なのか?

  まぁ、左翼の巣窟になっている早稲田大学だから、こんな教授がいてもおかしくはない。ついでに言うと、昭和18年初頭、東條首相は「近くビルマとフィリピンに独立を与える」と表明したが、インドネシアは“除外”されていた。スカルノにとっては大きな衝撃であったらしく、「インドネシア民族の頭上に打ち下ろされた鉄槌である」と述べていた。彼の仲間であるモハマッド・ハッタも眉を顰め、「インドネシアに最も不愉快な侮辱と刺戟を与える」発言と憤慨していたそうだ。(『黎明の世紀』 p.178.) このハッタはスカルノと組んで独立運動に奔走した人物で、後にインドネシア国民教育協会の会長になっている。

  アジア大陸には様々な民族がモザイクのように暮らしているので、普通の日本人にはその複雑怪奇さが解らない。歐米人は日本人よりも頭がいいから、この対立構造をうまく利用していた。例えば、マレー人とかインド人を支配するときには、華僑を雇って間接統治を行い、直接の恨みを買わぬよう心掛けていた。土人の矛先は支那人に向くから好都合。また、インド人も英国の下僕となっていたので、御主人様に命じられれば、ビルマ人を虐(いじ)めることなんて朝飯前。彼らには「同じアジア人同士だから仲良くしよう」という気持ちは無いのだ。例えば、「サヤ・サンの叛乱」では、自由インド国民軍の中核となっていたパンジャブ・ライフル部隊がビルマ人を殺しまくったらしい。(『白い人が仕掛けた黒い罠』 p.46.)

  英国の「尖兵」となって活躍したグルカ人も同様で、ブリテン島からやって来た支配民族(master race)に忠実だった。例えば、日本の第15師団はインパール街道でブリテン軍の戦車部隊と遭遇したことがある。負傷者を抱えた日本軍は山へ逃げたそうだが、驚くような悲劇があった。高山氏が紹介した栃平主計曹長の記録は注目に値する。栃平氏は川沿いの道に輸送を待っていた重傷者30人の担架を目にしたらしい。そこへグルカ兵が現れ、容器に入っている液体を振りかけていたという。焼け付くような暑さだったので、曹長は負傷兵のために冷たい水を掛けてくれたのだろうと思っていた。ところが、このグルカ兵が撒いていたのはガソリンだった。次の瞬間、地獄の炎が担架を包み、日本兵の体からは黒煙が立ち上る。想像しただけでも恐ろしいが、辺り一面は火の海だ。(上掲書 p. 50.) ミッションヒルでブリテン軍の攻撃を受けた野戦病院でも、瀕死の日本兵は同様の地獄を見た。ブリテン軍の士官は捕虜にした傷病兵の検分を終えると、人々かをトラックに載せ、何処かへ輸送させたという。ところが、路上に残った傷病兵にはガソリンが掛けられ、地獄の炎で蠢くことに。この惨状を目撃した島田上等兵は、同胞の悲鳴を耳にしたそうだ。

  日本人は日本のために戦うべきで、アジア人の独立とか名誉のために命を懸けるべきではない。むしろ、英米仏蘭のアジア支配を支援すべきである。なぜなら、植民地経営は利益よりも負担の方が大きくなるからだ。例えば、イギリス人はインド人やビルマ人を傘下に収めていたが、時々起こる叛乱には手を焼いていたから、鎮圧となれば軍隊を派遣し、結構な費用と時間がかかる。しかも、人的被害が出れば、その後始末のコストも馬鹿にならない。となれば、日本は英国の負担が重くなるよう、その帝国主義を継続させ、現地のイギリス人官僚や軍人に「貸し」を作った方がいい。日本は「善意の第三者」としてイギリス人とインド人の仲介役となり、双方の面子を立ててやれば、頼もしい叔父貴(おじき)になれる。当時の日本は強力な海軍を有する大国だ。イギリス人でも日本人の言うことなら無視できないし、インド人も心の底でイギリス人に憧れているから、イギリス人と妥協する余地がある。日本は英国に「貸し」を作っても、それを「返せ」と要求せず、「何も無かった」かのように付き合うべきだ。そうすれば、イギリス人だって「いつか、この礼はするから」と考えるだろう。日本は本当に困った時だけ、昔の「借し」を仄めかし、本国のブリテン政府や植民地のイギリス人に動いてもらう方が得である。

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(左 : インド人の召使いを持つイギリス人 / 右 : 第二次世界大戦前のアフリカ人労働者)

  日本人は植民地の白人を“やっつけた”ことで気分爽快となるが、歐米諸国を敵に回すことは全般的に見て損である。例えば、日露戦争の時、日本は日英同盟があったお陰で本当に助かった。英国側からロシア軍の情報をもらえたし、英国の海底ケーブルを利用させてもらったことで、無線通信の欠点を補うこともできた。一方、インド人やビルマ人と仲良くなっても、戦艦の建造とか化学兵器の開発に役立つわけでもないし、日本の知的水準が向上するわけでもない。列強各国の内部情報すら入ってこないし、戦争になった時の仲介役にもならない。地下資源に恵まれていても、アジアの土民には画期的なた掘削技術とか輸送設備が無いから、宝の持ち腐れである。日本人が上等な知識を得るのは、いつも歐米諸国からで、東郷平八郎は若い頃、元の敵だった英国に留学したし、秋山真之はアメリカ、兄の秋山好古はフランス、乃木希典と川上操六はドイツへ留学した。戦前の優秀な大学生や青年士官は、科学や軍事を学ぶためにタイとかフィリピンに留学したのか?

  日本の保守派国民は歐米人への憧れと反感に苛まれているから、高山氏の白人批判に与することが多い。しかし、支那人やロシア人は日本を弱体化するために、この劣等感や怨念を巧みに利用する。狡猾な工作員は、バカどもを戦わせ、「漁夫の利」を得ようと考える。確かに、歐米と日本が正面衝突すれば、両者とも多大な損害を出し、勝者ですら国内がボロボロとなるから、毛沢東やスターリンのような極悪人は大喜びだ。実際、第二次世界大戦の勝者は支那とソ連の独裁者である。高山氏のようなジャーナリストは地政学や戦略論に弱いから、蛸壺史観に嵌まりやすい。すなわち、長期的、巨視的、世界史的な思考を持たず、日本国内だけで通用する感情論に夢中で、自分がどうなってしまうのか予想できないのだ。なるほど、日本の将兵が大量の血を流したお陰で、アジア人は独立できたんだろうが、肝心の日本が米国の属州じゃ、英霊は何のために戦ったのか判らない。

  高山氏は激怒するかも知れないが、彼のような日本人は我々に恨みを抱く在日朝鮮人とソックリだ。朝鮮人は日本人から多大な恩恵を受け、日韓併合で「国民」にもしてもらったのに、「搾取された」とか「差別された」「虐げられた」と言いたい放題。それなら、さっさと朝鮮半島に帰ればいいのに、子や孫、曾孫の世代になっても日本に居坐り、帰化申請で「日本国民」になろうとする。高山氏のような日本人は、奴隷制を持っていたアメリカ人やインドを植民地にしたイギリス人、インドネシアで暴君となっていたオランダ人を糾弾するが、一般国民は歐米の白人と絶交しようとは思わない。そもそも、ウイグル人やチベット人を虐殺する支那人と「友好関係」を築こうとする財界人があちこちにいるくらいだから、日本の民衆は外人の不幸に対して冷淡だ。

  筆者が「みっともない」と思うのは、日本人の二重思考である。高山氏の追随者は、日米同盟から恩恵を受けても、アメリカ白人の人種差別をあげつらい、日本人はパリの講和会議で人種差別撤廃を訴えた、と自己称讃。でも、実際の日本は違う。特に敗戦後の日本では、人種差別なんか普通だった。赤線の娼婦は黒人兵とも付き合い、中には黒人の子供を身籠もる女性がいたから大変だ。アフリカ人の顔つきで、縮れ毛の黒い子供なんて、実家の両親に会わせることはできない。たとえ、両親が受け容れても、近所の人々は噂話で持ちきりだ。都会のインテリだって本質的に変わりがない。彼らは大っぴらに声を上げないが、ひっそりと陰口を叩いて忌み嫌う。こんな塩梅だから、黒い赤ん坊を産んでしまったパンパンは、我が子を孤児院に預けるかドブに棄てるしかない。東南アジアに派遣された日本人も、人種平等の観念なんか無かった。高学歴で名門の紳士だと、現地のアジア人を見て、「こんな土人どもと一緒にされてたまるか !」と侮蔑していたそうだ。

  高山氏のような日本人は、個人的な体験から白人に恨みを持つ場合が多い。例えば、英国や米国に行ったとき、英語が上手く喋れず悔しい思いをしたとか、白人の同級生や同僚から小馬鹿にされ激怒したことがある、といったトラウマを抱えている。だいたい、白人が主体の国家に行って「白人の天下なんてけしからん !」と憤慨する方が間違っている。日本だって日本人が主体で、日本人が優先される国家じゃないか。ウガンダやナイジェリアに行った日本人で、「現地では黒人が威張っていて、日本人を支那人と間違え愚弄している。実にけしからん !」と怒る奴がいるのか? 昔、ガーナ人は日本人を「黄色いチビ」と馬鹿にしていたが、いきり立って街頭デモを起こす者はいなかった。厭な国には行かなければいいだけ。他人の心を強制的に変える事は出来ないので、日本人を嫌う白人に「差別はやめろ !」とか「日本人を好きになれ !」と言っても無駄である。我々は日本人を好きな歐米人とだけ付き合えばいい。

  一部の白人から馬鹿にされたから白人に反撥する高山氏を見ていると、「精神が弱いのかなぁ〜」と思ってしまう。劣等感に悩んでいる人やその劣等感を隠している人は、馬鹿にされることに敏感で、直ぐカッとなる。丁度、いじけた心を持つ在日鮮人が、「チョーセンジ」という言葉を聞いて激昂するのと同じだ。朝鮮人に生まれたことを恥じる在日鮮人は、ガラスの精神を持っており、ちょっとでも差別に遭うと狂ったように怒り出す。強い精神を持つ日本人は、外人の誹謗中傷に一々怒ることはない。日本人を侮蔑したり嫌ったりする白人がいてもいいじゃないか。日本人の素晴らしさを解らぬ白人の方が馬鹿なだけだ。知能が高く、国家や民族性を勉強した歐米人なら、日本人をアジア人と同じタイプとは思わないし、違った評価をして尊敬することさえある。

  たぶん、高山氏が出逢った白人というのは、教養や品性を持たぬジャーナリストなのかも知れないぞ。高山氏は新聞記者時代、ロサンジェルスに駐在したというが、どんな人物と交流し、如何なる種類の白人と付き合っていたのか? 上智大学の故・篠田雄次郎とか、同僚だった渡部昇一先生はドイツ人やイギリス人の友人を多く持っていたが、西尾幹二や高山氏が日本に友人を招いたという話は聞いたことがない。チャンネル桜がアメリカやドイツに取材班を派遣し、彼らの友人を訪ねたらいいのに、と思ってしまう。世界には差別と偏見が充満しており、こうした悪徳は何も歐米人に限ったことではない。支那や朝鮮、ロシアでは昔から庶民が奴隷だったし、インドはカースト制度で雁字搦めだ。イスラム教徒がアフリカ人を購入し、奴隷として売り飛ばすなんて当たり前。ユダヤ商人はローマ時代から奴隷を扱っており、米国のロードアイランドは奴隷貿易の中継地点として有名だ。まともな日本人は西歐以外の民族と国家について調べた方がいい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68823847.html  

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